生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

なぜ病気はなくならないのでしょう(その2)

2018-07-24 17:10:35 | ティーンズ
昨日の続きです。

それから十年ほどして、47歳のとき乳がんになりました。乳がんになったときは、不思議に平安でした。神様はわたしに必要だと思ってがんを与えてくださったのだと思いました。また、初期だったので手術して取ってしまえば治ると、楽観的に考えていました。
でも手術後、医師からリンパに転移していると言われたとき、動揺しました。ネットで調べるとリンパ転移している人は10年生存確率4ーセントだと書かれていました。(ネットの記事は当てになりませんが……)

10年以内に死んでしまうのだと思うと胸が張り裂けそうになりました。死ぬことはちっとも怖くありません。イエス様と一緒だからです。でも、まだ地上でやり残したことがあります。子どもたちがせめて成人するまでは生かしてくださいと泣きながら訴えました。

それから14年たちましたが、元気で生きています。
乳がんの手術後の治療はつらくありませんでした。喘息よりずっと楽だと思えました。楽に呼吸ができるのですから。

喘息と乳がんになって学んだことは、生きていることは当たり前ではないということです。自分の力で生きていると思っていたのですが、神様によって生かされていたのでした。

人はどんなに生きたいと望んでもそのために全財産をささげても、神様が生かしてくださらなければ一日も生きられません。生かされている一日は、この上もなく尊いのです。無駄に時間を使ってはもったいないです。
わたしが病気になったのは、このことをわからせるためだったのかもしれません。

わたしは、イエス様を知らなかったとき、どうして喘息になったのだろうか、何か悪いことをした罰なのだろうかと思い悩みました。
また、喘息を恥ずかしい病気だと思い、病気のことを誰にも話せませんでした。でも、恥ずかしい病気などありません。

イエス様がおられた2千年前も病気の人がたくさんいました。医学が発達した今も病気はなくならないし、かえって増えているぐらいです。なぜ病気はなくならないのでしょう。神様は病気についてどのように考えておられるのでしょう。

質問をします

⓵病気は罪を犯したことの罰である。

⓶神様が意地悪をして人を病気にする。

③神様はすべての病気を治したいと思っておられるが、できない。

⓸神様は必要と思われる人に病を与えられる。


どれが正しいでしょうか?
⓵罪に対しては、イエス様の十字架で赦されてされているので罰が与えられることはありません。

⓶神様は善意のお方。わたしたちを愛しておられるので、意地悪するわけがない。

③神様は全知全能(すべてをご存じで、できないことはない)のお方。神様は一瞬ですべての人の病を癒すこともできる。でも、そうなさらないのは、病がその人にとって必要だから。(神様は、不必要なものを与えない)

④が正解です。(TEENS子どもたちは全員が④に手を上げました。)

パウロにも持病がありました。どんな病気か聖書には書かれていないのでわかりませんが、相当つらかったのだと思います。病を取り除いてくださいと3度主に願っています。
神様の答えは、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである、と言われたのです(Ⅱコリント12:7-8)」

わたしも喘息がつらくて3度どころか30回以上祈りました。でも、完全には治っていません。健康を求めてスイミング教室に通い、身体にいいと聞けばなんでも実行し、丈夫になるために最大限の努力をしましたが健康にはなりませんでした。健康第一で神様第一ではありませんでした。

「まず健康にしてください。元気になったら、教会でたくさん奉仕します。」
と祈りましたが、その祈りは間違っていました。むしろ神様はわたしを愛してくださっているので、病気という試練を与えて下さったのです。

病気だけではなく、怪我や事故、災難、辛いできごと、うまくいかない人間関係などすべての苦しみは神様の愛のあらわれです。

ニューヨーク大学リハビリテーション研究所の壁に書かれた作者不明の詩を紹介します。

「病者の祈り」

大事をなそうとして力を与えてほしいと神に求めたのに
慎み深く従順であるようにと、弱さを授かった

より偉大なことができるように健康を求めたのに
より良きことができるようにと、病弱を与えられた

幸せになろうとして富を求めたのに
賢明であるようにと、貧困を授かった
      
世の人々の賞賛を得ようとして権力を求めたのに
神の前にひざまずくようにと、弱さを授かった

人生を享楽しようとあらゆるものを求めたのに
あらゆることを喜べるようにと、命を授かった

求めたものは一つとして与えられなかったが
願いはすべて聞きとどけられた

神の意にそわぬ者であるにかかわらず
心の中の言い表せない祈りはすべてかなえられた
私はあらゆる人の中でも、最も豊かに祝福されたのだ

            
この詩を書いた人は、神様にたくさんのものを求めていましたが、それらは与えられず、逆に弱さ、病気、貧しさが与えられました。けれども、そのことを嘆いているのではなく、むしろ喜んでいます。自分のことを「あらゆる人の中でも最も祝福されたのだ」と言っています。わたしも、
病弱を与えられたことを以前は感謝できなかったのですが、今感謝しています。

聖書にイエスの弟子が盲人をみて、イエス様に質問したという箇所があります。
「先生、彼が盲目に生まれついたのはだれが罪を犯したからですか。この人ですか。この両親ですか?」イエスは答えられた。
「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。 神のわざがこの人に現れるためです。」(ヨハネ9:2-3)


神さまのわざが現れるためとはどういうことなのでしょう……。
この聖書の箇所では、イエスさまが生まれつき盲人の目を治し、そのことが神さまのわざの現れとなりました。それは神様の栄光の現われです。

病気が治ることだけが栄光の現われではありません。神様はそれぞれの人に最もよいことをなさってくださいます。
病気が治らなくても、体や心の弱さがあっても、それを受け入れて神様を喜びながら歩むことが神様の栄光を現すことになるのです。
                          おわり  

なぜ病気はなくならないのでしょう(その1)

2018-07-23 17:12:34 | ティーンズ
昨日はTEENS礼拝でお話をさせていただきました。
前半を紹介します。

おはようございます。ちょうど一年前に「私の人生劇場」というテーマお話ししましたが、今日のお話はそのとき話したことも一部含まれていますが、視点を変えて話しますので最後まで聞いてください。

身体が丈夫な人と弱い人がいます。病気になりやすい人とほとんど病気をしたことがない人がいます。疲れると病気になる人と、どんなに疲れても一晩寝れば元気になる人がいます。人それぞれ与えられた体力が違います。

わたしは疲れやすく、ちょっと無理をすると病気になります。
2歳のとき肺炎になって、熱が出なかったので病院へ行くのが遅れ、生死をさまよったそうです。命は助かりましたが、肺炎がきっかけで小児喘息になってしまいました。

わたしが子どものころは、予防薬がなく、発作が起きたら薬を飲み、その薬の副作用で喘息になりやすくなり、また発作が起きる……という、悪循環を繰り返していました。大きな発作が起きると薬が効かず、呼吸がしにくくなり、死ぬほどの苦しみをがまんしなければなりませんでした。水槽から出た金魚が苦しがっているのと同じようです。

今は予防薬があるので、喘息になっても病院に通って治療していれば、それほど苦しむことはありません。
わたしの喘息は、毎年秋になるとひどくなり、よく学校を休みました。

中学生の時、ちょうどテスト前に喘息で休んだら、「ずる休みしてテスト勉強やっていたんでしょう」と言われました。
傷つきましたが、気も弱いので何も答えられませんでした。

高校生になって初めての定期テストの時、頑張って試験勉強を夜中の12時までやりました。それは、わたしにとって体力の限界を超えていたことでした。
明け方から喘息が出て、学校を欠席するしかありませんでした。学校からは病院へ行って診断書を提出するように言われました。たいていの先生は期末テストの点だけで成績をつけてくれましたが、生物だけは、休んだ中間を0点とされたので、期末が半分の40点(赤点)になってしまい、補習を受けたのを覚えています。
頑張りたくても頑張れないこと。誰にも理解してもらえないことで心には怒りと悲しみでいっぱいでした。
また、ほかの人と比べて、自分だけ病気ばかりしていると思い、丈夫な人がうらやましく、悔しくてなりませんでした。

そのころ天地を造られた神様のこともイエス様のことも知りませんでした。
それでも漢方薬を飲んだらそれが効いて、高校を卒業するころには喘息の発作がほとんど起きなくなりました。

その後、幼稚園の先生の資格がとれる神戸の短大に入りました。その短大はキリスト教の学校で、教科書と一緒に聖書を買うように言われました。そのとき生まれて初めて聖書を手にしました。
学校の夏休みの宿題で教会の礼拝に出て週報をもらってくるというのがあり、しぶしぶ礼拝に出たのを覚えています。

幼稚園で働き始めると、『こんなはずじゃなかった』と思うようなことが続きました。行事の前は幼稚園に遅くまで残って準備をしたので、家に帰るとふらふらになっていました。
喘息は出ませんでしたが、倒れる一歩手前でした。

悩み傷ついて心も体もボロボロになっていたとき一冊の本「あさっての風」に出合いました。それはクリスチャン作家三浦綾子の書いたエッセーです。
その本を読んで、自分の罪が示され、教会に行かなければ……という気持ちになりました。短大の宿題で教会に行ったときのことを思い出して、神戸の教会に通い始めました。

教会を訪れて半年後に洗礼を受けました。何の学びもなく、あかしをすることもなかったのですが、知っていたことはイエス様の十字架で罪が赦されるということだけでした。
聖書をろくに読まなかったので、洗礼を受けたらもう罪を犯さなくなるのだと勘違いしていました。
ところが、洗礼を受けても人の悪口を言ったり、意地悪な気持ちになったりするので、苦しくなって2年で教会を離れてしまいました。
教会から離れて2年後、結婚して埼玉県に住みました。男の赤ちゃんが与えられ、喜んだのも束の間、出産後、治ったと思っていた喘息が再び出てきました。そのときはすぐ治ったのですが、毎年秋になると喘息の発作が起きるようになりまた。

長男が9か月のとき、住んでいた団地から歩いて15分のところに新しく教会が建ちました。 
新しい教会を見たとき、どうしても行かなくては……と思いました。自分が喘息で苦しむ意味がわかるかもしれないと思ったのです。
なかなか教会に入れなくて、自転車で教会の周りを三周もしてしまいました。
牧師先生が気づいて、中に入るように言われ、一番端の席にすわってうなだれていました。
こんなに罪だらけのわたしは、礼拝堂に入る資格がないんじゃないかなと思いました。
すると、「よくもどってきたね。ここにいていいんだよ」というイエス様の声が聞こえたように感じました。

教会に通うようになって、いままで誤解していたことが正されました。
聖書には「こういうわけで、今は、キリストイエスにあるものは、罪に定められることは決してありません。(ローマ8:1)」と書かれています。
洗礼を受けた後に犯した罪も、イエス様の十字架によってすでに赦されていたのです。聖書の学びを通して、神様がわたしをどれだけ愛しているかに気づき、感謝と感動の毎日でした。

その後、ふたり目の子どもが与えられました。無事生まれましたが、出産後また喘息の発作が起きました。それは初めての子の時よりひどく、赤ちゃんが生まれて10日目で入院してしまいました。
幸い父と母のいる実家に帰っていたので、赤ん坊は両親が世話をしてくれました。

子どもたちが小学生になっても喘息は治りませんでした。ある夜、大きな発作が起きました。どんな薬を飲んでも効かなくなっていました。
夫は仕事でまだ帰ってきていません。子どもたちに留守番させて、夜間診療所に這うようにして行き、注射を打ってもらいました。注射で発作がおさまったので、ゆっくり歩いて家に戻ると、しばらくしてまた発作が起きました。
もう診療所に行く力がありません。このまま一晩中呼吸困難と闘うなんて、もう耐えられないと思いました。
「神様、わたしの命を取ってください」と祈りました。夫とふたりの子どもたちがいるのにそんなふうに思ったのです。

そのとき十字架につけられたイエス様の姿が瞼の裏に映し出されました。イエス様は十字架にはりつけにされて苦しそうでした。
そのとき、思ったのです。(イエス様も一緒に苦しんでくださっている!) 手も足も釘で刺されてイエス様の方がずっと苦しいでしょうに……。

聖書の言葉が頭に浮かびました。
あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。(1コリント10:13)

                           
(神様は、耐えられない試練にはあわあせないんだ)と思うと、ふっと肩の力が抜けてふとんにもたれると、いつの間にか眠っていました。
それ以来ひどい発作は一度も起きていません。
                          つづく



にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村
↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。




祈っています

2018-07-20 16:23:23 | 教会
「祈っています。」「祈っているね。」「お祈りします。」

メールでよく書く言葉です。友人に悩み事や困ったことなどあると、「お祈りしています」と書きます。そして、メールを出した後すぐに祈ります。
何通もメールを出し、そのたびに携帯を持って祈っているので、クリスチャンでない人が見たら、携帯を拝んでいるように見えるかもしれません。

誤解のないように書きますが、携帯に向かって拝んでいるわけでも、友人を拝んでいるわけでもありません。天地を造られた神様に祈っているのです。
もちろんメールを受けたり出したりするときにだけ祈るのではありません。まずは朝のデボーション(聖書を読み、祈る時間)で祈ります。毎年祈る人が増えて50人ぐらいになりましたが、友人、知人、親戚の者などの名前を書いたカードを見て祈ります。祈られていることを知らない人も多いでしょう。

緊急の祈りが必要な人は、昼や夕方、寝る前に何度でも祈ります。ちょうど今、海外出張していた妹から無事帰国のメールが届きました。昨日から祈っていたので、無事着いたことを感謝しました。(妹は日本の暑さにびっくりしていました)

昨日家庭集会で「とりなしの祈りの祝福」と題して学びをしました。今回の家庭集会は、教会の和室で行ってから最高の人数(先生入れて12人)でした。

出エジプトをしたイスラエル人がアマレクと戦っているとき、モーセが手を挙げて祈っているときは優勢になり、疲れて手が下がると劣勢になりました。モーセの手が下がらないようにアロンとフルが支えて戦いに勝利しました。

手を支えるというのは、とりなしの祈りのことです。人のために祈るには、その人と話をし、その人のことをよく知り、その人に必要な祈りをするということを教えていただきました。祈りには力があります。

あまりにも抱えている問題が多すぎて、祈ることさえできないときは、友人に伝えて祈ってもらうのがいちばんです。


にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村
↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。


ファインディング・ドリーを観て

2018-07-17 16:45:49 | その他
この暑さ、いつまで続くのでしょう・・・・・・。異常気象とか温暖化の影響とか言われていますが、世界的に異常なのですね。

被災地もかんかん照りだと聞いて、これ以上熱中症で命を落とす人がないように祈りました。
三連休孫たちが来ていて、ディズニーの『ファインディング・ドリー』のDVDを一緒に観ました。わたしは、はまってしまい、ディズニー映画の中で一番好きな作品となりました。

『ファインディング・ドリー』は『ファインディング・ニモ』の続編です。
ドリーは、今あったこと、聞いたことをすぐ忘れてしまいます。認知症ではなく健忘症です。

けれども、自分とは種が違う人間の言葉やクジラ語を理解出来るほど知能が高かったことがわかります。

ドリーは子どものころ、母親が好きだった紫色の貝殻を拾おうとしてパイプに吸い込まれ、両親とはぐれてしまいました。そのことを思い出し、両親を探す旅に出ます。

旅の途中で、両親と別れてから何年も経っているから見つけるのは無理だと言われたり、ドリーのことを両親は忘れてしまったかもしれないと言われ動揺しますが、あきらめません。

ほとんどのことを忘れてしまったドリーでしたが、両親から愛されていたことと愛していたことを覚えていたのです。愛するお母さんの好きな色の貝を覚えていたので、貝をたどっていって両親と出会えたのです。

ドリーには二つのメッセージがあると思います。ひとつは、病や障がいを持っていても、それがマイナスとして働くのではなく、プラスとして働くということ。病や障がいは欠点ではなく、神様から与えられた特別の才能だということです。

もう一つのメッセージは愛です。この映画を観た人は親子の愛を感じるでしょうが、製作者はもっと大きな愛について描いているのではないでしょうか。
愛されたという経験が非常に大きな力になります。愛されたので、ほかの人を愛することができるのです。両親に愛されずに育った子どもは悲しむかもしれません。でも大丈夫。あなたを造られた神様がまずあなたを愛してくださったので、両親に愛されなかった子どもも人を愛することができるのです。


聖書の言葉

私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
                                            (Ⅰヨハネ4:10)



にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村
↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。



貪欲に気をつけて

2018-07-11 20:28:12 | ティーンズ
暑さで体調を崩してしまいました。暑さにもエアコンの冷気にも弱いので、どうしようもありません。
出かけるときは、長袖を持って行ってこまめに脱いだり着たりしていますが、温度差に体が追いつきません。慣れれば元気になるでしょう。

8日の日曜日TEENS礼拝のメッセージを受けて考えたことを書かせていただきます。

神様はモーセを通して人々に十戒を与えました。十戒とは「あなたの父と母を敬え」「殺してはならない」「盗んではならない」など10の戒めです。

10番目の戒めは、「あなたの隣人の家を欲しがってはならない」です。これは貪欲を戒めているものですが、ほかの戒めのように目に見えるものではなく、隣人のものを欲しがるという心の中の問題を扱っています。
貪欲(どんよく)とはとても欲が深いことを意味します。

貪欲はどんどん大きくなっていきます。貪欲が大きくなる4つの段階を教えていただきました。

まず最初は、あの人のものが欲しいなあと考えます。
次にもしあの人のものが自分のものになったら楽しいだろうなぁと想像します。
次の段階では、あの人が持っているより、自分が持っている方がいいんじゃないかと自分勝手に思います。
そして最後の段階では盗んで自分のものにしてしまいます。

恐ろしいですね。貪欲は小さな欲から始まるといわれています。確かに殺人という大きな罪も、ふと、「あの人がいなくなればいいのに・・・・・・」という小さな思いがふくらんで人を殺すに至ってしまうことがあるそうです。

刑務所に入っている人たちと自分との違いは、薄い塀一枚だと言った人がいますが、わたしもそうです。小さな貪欲に気をつけたいと思いました。



にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村
↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。


拍手ボタンです

web拍手