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生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

涙の谷を過ぎるときも

2008-10-29 17:10:17 | 教会

昨日ヒックンがやってきました。息子の仕事が火曜日休みなので、わたしに用事が入らない限り、毎週火曜にやってきます。息子のアパートから我が家まで車で30分近くかかるので、たいてい車中で眠ってしまいます。なので、着いたときはねぼけていて機嫌があまりよくありません。

昨日はたっぷり昼寝してから来たので、ご機嫌でした。玄関のドアを開けてわたしの顔を見るなり、はじけるような笑顔をみせ、靴も脱がずに両手を広げて駆け寄ってきたのでおもわず抱きしめました。最高に幸せなときです。ママが残業で来ることができませんでした。夕方になると少し寂しくなったのか、わたしのことを「ママ」と呼んでいました。

帰った後は一抹の寂しさを感じます。置いて行った着替えを洗濯して、それが風に揺れているのを見ると悲しくなるのはなぜでしょう。またすぐ会えるのに……。


この間の日曜日、礼拝で詩篇84篇からメッセージを聞きました。

(1節~2節)
万軍の主。あなたのお住まいは
なんと、慕わしいことでしょう。
私のたましいは、主の大庭を恋い慕って
絶え入るばかりです。
私の心も、身も、生ける神に喜びの歌を歌います。

『主の大庭』というのはエルサレムの神殿のことだそうです。
筆者は何らかの事情があってエルサレムに巡礼に行くことができないので、エルサレムの神殿を恋い慕っています。


わたしはこの箇所を読んで、かつて主人に反対されて教会に行きたくても行けなかった時のことを思い出しました。クリスマスの夜、クリスマスカードを並べてキャンドルに灯をともし、ひとりで祈ったとき、涙があふれました。教会が慕わしくてたまりませんでした。


この詩を書いた人は、巡礼に行けないことを嘆くばかりではなく、心の中で巡礼を始めます。

(5節~7節)
なんと幸いなことでしょう。
その力が、あなたにあり、
その心の中にシオンへの大路がある人は。
彼らは涙の谷を過ぎるときも、
そこを泉のわく所とします。
初めの雨もまたそこを祝福でおおいます。
彼らは力から力へと進み、
シオンにおいて、神の御前に現れます。

「聖地エルサレムで礼拝することだけが礼拝なのではなく、そこにたどりつく道も礼拝になります」
「詩篇の作者は、問題をかかえながらも信仰を表明しています。信仰を表明し宣言することが彼に力を与えています。このあと、彼は巡礼の旅に出かけたのではないでしょうか」
と牧師先生が言われました。


涙の谷が泉のわく所になるのです。たったひとりで祝ったクリスマスの夜、そこは涙の谷でした。でも、教会へ行きたいという切なる思いを神様がおぼえてくださって、いつかきっと行ける日が来ると信じていました。すると、その翌年のクリスマス礼拝には出席できたのですから、何と幸いなことでしょう。涙の谷を通ったからこそ、いただいた祝福の大きさに感謝の気持ちでいっぱいになったのでした。


お知らせ
10月17日付で正式に(社団法人)日本児童文学者協会の会員になりました。3年も前からすすめられていたのですが、迷っていました。
先月の茨城児童文学の会の合宿で決心しました。2人の方の推薦をいただいて申込み、承諾していただきました。日本児童文学者協会員であることを告げれば、創作のための取材がしやすくなることを知って大いに喜んでいます。

実家に帰って

2008-10-27 12:18:36 | 日記

金曜土曜と実家に帰って掃除など、母の手伝いをしてきました。

母は庭の木の枝を切るのをわたしにしてほしかったようですが、天気予報で金曜から雨だと聞いて、わたしが行く前日に自分で椅子にのぼって切ったそうです。それを聞いてびっくりしました。母はとてもせっかちな性格なのです。

「つかまっていた枝がボキッと折れちゃったのよ」と母。
「危ない。バランス崩したら落ちちゃうじゃない」とわたし。
「大丈夫よ。気をつけてるから」
「今度からわたしがするから、絶対にひとりでやらないでね」
と頼むように言いました。

一人暮らしですから、転落して立てなくなったら、だれかが見つけてくれるまでそこに倒れたままでいることになります。それに、もう78歳になるのですから、足の骨を折ったら寝たきりになってしまうかもしれません。とにかく、守られたこと感謝です。

夜はたくさんおしゃべりしました。目覚ましをセットせずに寝たら、ふたりで寝過ごしてしまい、起きたら8時でした。朝はいつも母は5時に、わたしは6時過ぎに目が覚めるのに珍しいことでした。

わたしは実家に泊まった時も朝デボーション(聖書を読み、祈る)をしています。でも、朝寝坊したおかげでほんとうはその時間がとれないはずでしたが、母が「あんたのお祈りが終わるまでに朝ごはん用意しておくわね」と言ってくれたのでとても嬉しかったです。

土浦に来て泊まるように母に言うと、11月は旅行やら何やらで忙しいので、12月に行くよと答えました。喜楽希楽会(教会の高齢者の会)のクリスマス会に参加できればいいなあと思っています。

家庭集会

2008-10-24 12:08:17 | 聖書から

昨日はOさん宅での家庭集会でした。I先生から聖書の学びをしました。聖書箇所はマルコ1:40-45です。
以下は新改訳聖書第三版から書き写しました。


さて、ツァラアトに冒された人がイエスのみもとにお願いにきて、ひざまずいて言った。「お心一つで、私をきよくしていただけます。」
イエスは深くあわれみ、手を伸ばして彼にさわって言われた。「わたしの心だ。きよくなれ。」
すると、すぐに、そのツァラアトが消えて、その人はきよくなった。
そこでイエスは、彼をきびしく戒めて、すぐに彼を立ち去らせた。
そのとき彼にこう言われた「気をつけて、だれにも何も言わないようにしなさい。ただ行って、自分を祭司に見せなさい。そして、人々へのあかしのために、モーセが命じたものをもって、あなたのきよめの供え物をしなさい。」
ところが、彼は出て行って、この出来事をふれ回り、言い広め始めた。そのためイエスは表立って町の中に入ることができず、町はずれの寂しいところにおられた。しかし、人々は、あらゆる所からイエスのもとにやって来た。


新改訳聖書第二版以前はツァラアトがらい病となっています。ツァラアトとはへブル語ですが、聖書で言うツァラアトは、らい病(ハンセン氏病)とは全く異なる病気です。ツァラアトをLeprosy(らい病、ハンセン氏病)と英訳したのは誤訳で、日本語聖書も英訳聖書の過ちに従ってしまったため、らい病と書かれてしまったそうです。


この聖書箇所を読んで、ひとりひとりが心に残った箇所を述べたり、疑問点や感想など語り合いました。
わたしはこの箇所を読んでイエスさまが手を伸ばして彼にさわって癒されたところに感動しました。ツァラアトは伝染性の強い重い皮膚病です。イエス様はことばだけで病気を癒すこともできます。それなのに、さわって癒されたのです。

当時はツァラアトにかかると、社会から隔離され、「汚れている」と叫びながら歩かなければなりませんでした。かつて日本でもらい病のかたが差別を受けたように、しいたげられ、精神的にも非常につらい状況にあったと考えられます。
愛と憐れみに満ちたイエス様は、その人に手を触れて癒して下さったのです。

病人が「お心一つで私をきよくしていただけます」
と言ったのは、信仰深い人のように思いますが、口語訳聖書では「主よ、みこころでしたら、きよめていただけるのですが。」となっています。

はたして彼の信仰はどうだったのでしょう?イエス様がだれにも言わないようにと戒められているのにそれをやぶってふれ回ったことを考えると、信仰深い人だったと言い切れない気がします。でも、わたしがその病人だったら、癒されたことが嬉しくて、ふれ回ってしまうでしょう。

なぜイエス様は誰にも言わないでとくぎをさすように言われたのでしょう。そう言っておきながら、なぜ「ただ行って、自分を祭司に見せなさい。」と言われたのは矛盾しているのでは?という質問がありました。

癒されたことの証明として祭司に見せ、祭司がきよいと宣言しなければその人はいつまでもツァラアトに罹った人として社会から隔離されてしまうのです。祭司に見せ、きよめの供え物をするというのは、旧約時代に定められた規定(レビ記13:45-46)によります。

だれにも言わないようにというのは、祭司は別として、町の人たちにイエス様に癒してもらったということを言わないようにという意味です。話すとイエス様の癒しが強調されてしまうからです。

ところがツァラアトにかかって癒された人は、ふれ回ってしまいます。
そのため大勢の病人が押しかけるようになり、イエス様は町はずれのさみしいところに行くことになります。


「イエス様が地上に来られた目的は、病の癒しではなく、福音を伝えることです。その手段として癒しを行うこともありますが、あくまでも身体の癒しが目的ではありません。」
とI先生が言われました。

あらためてイエス様が地上に来られた目的を教えていただき、神の国のことを思わないで、現実に起きている問題の解決を求めてばかりいることを反省しました。


コメント受付再開しました。よろしくお願いします。


PCの限界と危険

2008-10-22 17:14:57 | 日記

以前より頻繁ではなくなりましたが、パソコンが突然フリーズし、強制終了しなければ回復しないことが月に3.4回起こります。富士通のサポートセンターに電話して、指示どおりに設定を変えて調べたのですが、原因がわからずじまいです。

次にフリーズしたら初期化して調べてみましょうと言われました。初期化したら設定に膨大な時間がかかるので、それ以後何回もフリーズしましたが、電話していません。電話しても通じるまでに15分~30分ぐらい受話器を持って待っていないといけないので、かなりの忍耐力が必要です。

先日NTTで電話のサポートサービスがあることを知りました。2か月間は無料だというので申し込みました。サポートを受けるためのインストールをしたら、ネットに接続できなくなってしまいました。

それでさっそくサポートセンターに電話したのですが(これはすぐつながりました)、なかなか原因がわからず、あれこれ指示どおりPC操作をし、1時間半もかかって再び接続できました。疲れてしまったのでフリーズのことは、後日尋ねることにしました。

毎日当たり前のようにPCを使っていましたが、つながることのありがたさを実感し、PCが動くことに感謝の気持ちを新たにしました。


インターネットは便利です。小説を書いていて、調べたいことが出てくると昔なら図書館に通っていました。今はネットである程度のことなら調べられます。時刻表も、地図も辞書も必要ありません。翻訳も聖書箇所検索もできます。買い物やお中元なども最近はネット注文しています。

CSで子供たちに見せる絵を描きたいと思えば、画像検索をしてお手本にする絵をみつけることができます。
最近は、写真画像を送ると、その人の似顔絵を描いてくれる機能があると知って驚いています。

こんなに便利になりましたが、危険が潜んでいることを感じます。ウイルスのことではありません。人間がPCに振り回されてしまうという危険です。近ごろ学校裏サイトの問題が話題になっていますが、自分の悪口を書かれているのではないかと心配のあまりPCから目が離せなくなったり、メールの返事が来ないと不安に襲われたり……。(携帯メールの方が依存症になりやすいそうですが……)

知りたいことはなんでも調べられると勘違いして、本当に知りたいこと、知らなければならないことがわからなくなってしまう危険です。
どのように生きたらいいか? 自分はどういう存在なのか? に対する答えはネットでは見つけることができないでしょう。

答えは聖書の中にあります。『聖書には人生に起こるすべての状況の中で、神のみこころを生きていくために必要なことがすべて記されています。』デボーションの冊子、デイリーブレッドに書かれていました。人生の問題はPCにではなく、聖書にその答えを求めたいですね。


聖書の言葉
「まことに、みことばは、あなたのごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行うことができる(申命記30:14)」

死なないでください

2008-10-20 13:27:58 | 日記

今日はブログ開設3周年記念日です。その1年半ほど前に乳がんの手術から無事生還したことがきっかけでHPをたちあげていました。
HPのことを友人に知らせると、「携帯で見ることができないの? PCはやらないから……」と言われたことがきっかけでブログを開設しました。
HPの記事を書くのにHTMLで悪戦苦闘していたのですが、ブログは何と簡単なことでしょう。書いた文字をそのまま更新できることが驚きでした。

そのころから、ブログは大はやりになりました。総務省の調査によると2008年1月現在の国内におけるブログの数は約1690万、記事総数は13億5000万件だそうです。
びっくりですね。

このように数あるブログの中からわたしのブログにアクセスして下さった方に心から感謝いたします。神様の導きを感じます。


先日自死について記事を書いたら、いつもの倍ほどのアクセスがありました。ブログ村からのアクセスが多いので、おそらくタイトルをみてアクセスして下さったのでしょう。

自死(自殺)を考えて悩んでいる人が多いのではないかと心配になってきました。
国内の年間自殺者は2007年で33000人だと聞きました。

わたしの持っているテーマのひとつは、自死してほしくないということです。わたしが書いた「死なないでください」の詩を読んで「命が救われました」と言って手紙をくださった方とは、1年以上文通が続いています。詩を読まれる方はhttp://www5f.biglobe.ne.jp/~tukushi/poem/ikasarete.htmlをクリックしてください。

前にも書きましたが、わたし自身中学生の時ずっと死にたいと思っていました。ほんの少しのきっかけがあれば、死んでいたでしょう。自分のことが大嫌いだったので、自分を抹殺したいと思っていたのです。
でも、今は自分のことが好きです。同じ失敗を繰り返すわたしです。優柔不断な性格も以前と変わりませんが、欠点を含めて好きになれたので、死を願わなくなりました。

追い詰められ、自己嫌悪に陥り、なぜ生きなくてはならないの? と思うこともあるでしょう。四方八方ふさがれているようなところに置かれ、絶望という言葉しか思い浮かばないときがあるかもしれません。
でも、四方八方ふさがれていても、いつでも上は開いているのだということを覚えて下さい。こちらからは見えません。でも、上からいつもあなたのことを見ているお方がいるのです。そのお方(神様)はあなたを造り、あなたを愛し、あなたのことを何よりも尊いと言って下さっています。

神様がいるなら、なぜわたしを苦しい目に合わせるの?と思った方がいるでしょうか。
神様は、あなたの魂を救うためにひとり子イエス・キリストの命を差し出して下さったのです。イエス様が十字架にかかって死なれたのは、あなたを救うためだったのです。あなたの魂が滅びてしまわないためにあなたの代わりに苦しみを受け、死んでくださったのです。

神様の愛を知ったので、わたしは自分が好きになれました。

わたしが「苦しい。もう耐えられない」と思うとき、イエス様の苦しみと比べてみます。イエス様は神の子だというのに人々からさげすまれ、侮辱され、鞭打たれ、十字架につけられたのです。イエス様の苦しみに比べたらわたしのは、苦しみなどといえる程のものではありません。神様は耐えられないような試練には合わせないと約束してくださっていますから。

あなたが苦しむ時、神様も苦しんでおられます。もしあなたが自ら命を絶ってしまったら、神様はどれだけ心を痛め、悲しまれるでしょう。もしかしたらあなたは、誰からも愛されていないと思っているかもしれません。でも、それは違います。あなたのことを神様は愛し、あなたの命を大切に大切に思っていて下さるのですよ。


聖書の言葉

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠の命を持つためである。(ヨハネ3:16)

あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えられないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えて下さいます。(Ⅰコリント人への手紙10:13)

わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。(イザヤ書43:4)


自死について

2008-10-18 12:04:07 | 日記

自殺は神様のご計画なのですか?と質問がありましたので、自殺についてわたしの考えていることを書きます。あくまでもわたし個人的な考えなので、すべてのクリスチャンが同じ考えとはかぎりません。


旧約聖書の出エジプト記20章に書かれている十戒の6番目には「殺してはならない。」と書いてあります。命はその人自身のものではなく、神様のものですから自分の命を自ら奪うことは殺人であり、罪を犯すことです。そのような理由で昔は多くのキリスト教会で自殺者は犯罪者として排除されてきました。

でも、自殺は殺人とはいえない場合が多いのではないでしょうか。
殺人とは、『不法的にあらかじめ計画を持って他人の命を奪うこと』です。そう考えると自殺という言葉自体が問題になってきますね。

自殺というと殺人と結びついて考えてしまうので、今は自殺という言葉より自死という言葉が多く使われています。わたしも自死という言葉を使いたいと思います。

自死は、精神的な病気や、追い詰められて正常な思考ができなくなってしまったとき、あるいは自分の存在を確かめたくてリストカットを繰り返している人が誤って深く切りすぎて死に至った場合などさまざまです。クリスチャンでも自死するかたは少なくありません。

今年の8月に行われた教会の修養会で自死について牧師先生は「自死をした人をキリスト者の交わりから排除しないように」と言われました。

それでは、自死は神様のご計画なのでしょうか? それは違うと思います。ひとりひとりを愛され、その命を大切にされている神様は、自死することを計画されるはずがありません。でも、すべての出来事が神様のみ手の中で起きていることを考えると、神様は心を痛めながらそのできごとが起きるのを許可されたのだと思います。


二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。(マタイ 10:29)


遺された者たちは、深く傷つき、何故あの人は死んだのだろう?と理由を求めます。
また、自死ではなく、事故や病で死んでしまった方のことを思うと、神様に何故あの方がこんなに早く召されなくてはいけないのですか?と問いかけたくなります。

ヨブは息子娘を失い、ひどい病気にかかってその苦難の意味を神様に問いかけます。でも神様はそれに対して理由を説明されません。「知識もなく言い分を述べて、摂理を暗くする者はだれか。(ヨブ38:2)」とヨブをたしなめてから、

「わたしが地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか。あなたに悟ることができるなら、告げてみよ。(38:4)」と言われ、ご自身が天地を造られた全知全能の神であることを示されます。ヨブは神様の語りかけを聞き、神様の偉大さに圧倒されて完敗するのです。

何故と問うのではなく、遺された者がこれからどう生きたらよいのか神様に問いかけることが大切なのだと思っています。



HP「生かされて…土筆文香」エッセイの部屋更新しました。

微笑みながら振り返りたい

2008-10-17 11:46:09 | エッセイ

先日、父の三回忌の折、親戚の人にお渡ししたエッセイを紹介します。 これは、教会の月報10月号に載せていただいたものです。

先月『心に残る説教』というテーマで原稿を依頼されたので書きました。聞いたことが右から左に抜けていく私の頭ですから、もしブログを書いていなければ提出できなかったでしょう。過去にメッセージを書いたブログ記事の中からいちばん心に残ったものを選び、少し書き変えて提出しました。

最初から三回忌で配ろうと思っていたわけではありません。月報が今月5日に発行され、自分の文章が載っているのをみて、「これを親戚の人たちにも読んでもらおう」と思いついたのです。


微笑みながら振り返りたい


昨年11月の召天者記念礼拝は忘れられないものになりました。父を天に送ってちょうど1年たっていましたが、まだ悲しみは癒されていませんでした。父の写真がスクリーンに映し出されると涙が止まらなくなりました。

 天国で再会できるという希望があるものの、地上では2度と会うことができません。声も聞けないのです。

 牧師先生は「神の約束を再確認して勇気を得ることが召天者記念礼拝の目的です」と言われました。

 パウロ先生は迫害され、自らの死が迫っていることを自覚しながら、テモテへ手紙を書き送っています。
『私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは義の栄冠が私のために用意されているのです。(Ⅱテモテ4:7.8)』

 この聖書の言葉を読んだとき、パウロ先生は自信に満ちた人なのだなあと思いました。わたしだったら死を前にしてこんなことは言えません。おそらく悔恨の気持ちでいっぱいになるでしょう。そして、自分はとても義の栄冠を神さまから戴くことができないと思っていました。

 ところが牧師先生は、「義の栄冠は、主を慕い信頼している者にはだれにでも与えられます」と言われました。それを聞いてわたしは嬉しくなりました。
 長寿をまっとうした人はいいとして、突然召されてしまった人、病と闘って若くして召された人、志半ばで亡くなった人……本人も、周囲の人も納得のいかない死だったとしても、『走るべき道のりを走り終えた』と言えるのだそうです。

 もっと生きたいとどんなに願っても、人は自分の命を一秒も延ばすことができません。命は神さまの御手に握られているのですから。死が訪れたとき、それが突然のように感じても神さまの側からすれば、ご計画であったわけです。

 牧師先生は、故人の写真を見て悲しみに浸っている人たちに向かって言われました。
「わたしたちは、今生きているという事実のゆえに感謝しましょう。走り続けられます。成長できます。赦すこと、愛することができます。わたしたちの前には走るべき道のりがあります。それは、たった一度だけの道のりです。人生の最後に振り返ったとき、どのような思いが沸いてくるでしょうか? 微笑みながら振り返れたら幸いです」

 父の死により、傷ついていた心が癒されていくのを感じました。人生の最後に微笑みながら振り返りたいと願いました。

父を偲んで

2008-10-14 15:36:33 | 日記

昨日は実家で父の三回忌が行われ、母と妹一家、親戚の方々合わせて15人が集まりました。法要が終わってから中華料理店で会食をしました。
ちょうど一年前に一周忌で集まりましたが、メンバーはそのときとほとんど同じです。

わたしの叔父、叔母の年代は亡くなった方もおられ、ご健在でも年をとって来ることができません。集まったのは、従兄妹とその伴侶、大叔父の子供に当たる方です。関東圏に住んでいる方たちばかりですが、めったに顔を合わせることがありません。

みなさん、父と深いかかわりがあった方たちばかりなので、会食時は父との思い出話に花が咲きました。

食後に挨拶がてら何か話すように母から言われていました。去年は何の準備もなく、突然挨拶をするように言われ、しどろもどろでしたから、今回は祈って備えていました。

集まった人たちの中でクリスチャンはわたしと娘だけですが、亡き大叔母や従兄の伴侶のお母様がクリスチャンです。
また、去年の暮れにわたしが父のことを書いたペンライト賞のあかし「心のフィルムに」が掲載された「百万人の福音」を皆さんに差し上げていたので、信仰の話をしてもある程度理解していただけるのでは?……と思いました。

今回は教会で発行している「月報めぐみ」に掲載された召天者記念礼拝のことを書いたわたしのエッセイをコピーして配りました。

わたしがご挨拶として語ったことを紹介します。(緊張していたので、この通りでなかったかもしれません)


皆さま、今日はお忙しいところ遠方からお越しいただきましてありがとうございました。

さきほどお配りしたものにも書いたのですが、わたしの通っている教会では毎年11月に召天者記念礼拝が行われています。教会員の家族で亡くなられたかたの写真をスクリーンで映し出し、故人をしのぶ時をもっています。去年の11月に初めて父の写真を映していただいたのですが、見るとやはり辛くて涙が止まらなくなりました。そのとき、牧師先生から慰めの言葉をいただいたのです。

父の遺骨は、秋田のお墓とめぐみ教会の納骨堂にありますが、魂は天国にあると信じています。天国は痛みや苦しみ、なげきや悲しみのないところです。父は、いま心安らかに天国でくつろいでいることでしょう。父の大好きだったこのお店にわたしたちがこうして集まって、にぎやかに話していることを父はきっと喜んでいるでしょう。

おかげさまで母は、この2年間守られて元気で一人暮らしをしています。これからも母をどうぞよろしくお願いいたします。


(親戚の何人かは実家から近いので、ときどき母を訪れてくださっています)


お寺の法要ではなく教会で記念会ができたらよかったのですが……。でも、伝道のよい機会となりました。参加されたおひとりおひとりの心に神様が働きかけて下さいますように。

月報に掲載されたエッセイは、後日紹介させていただきます。

何のために生きているの?

2008-10-12 17:29:11 | 教会

今日の礼拝ではⅠコリント10:31-11:1からメッセージをいただきました。
「こういうわけで、あなたがたは、食べるのにも、飲むのにも、何をするにも、ただ、神の栄光を現わすためにしなさい。(Ⅰコリント10:31)」と書かれています。

これは、飲み食いだけでなく生活の全領域において、何をするにも神の栄光を現わすためにしなさいという意味です。


次の3つのことにおいて神様の栄光を現わすようにと牧師先生が言われました。

①わたしたちに平等に与えられている時間の使い方について。

②全く不平等に与えられている富の使い方について。

③絶妙に与えられている才能を発揮することにおいて。

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わたしが考えるには、
①については、誰でも一日は24時間ですから確かに平等ですが、必要な睡眠時間が人によって違うので、一日に活動できる時間は人によって違います。だから与えられている時間は平等ではないと思うのです。わたしは体力がなく、たくさん睡眠をとらないといけないので与えられている活動時間が少ないのです。(そのおかげで時間の使い方に工夫を凝らしていますが……)

②については、確かに不平等です。でも、わたしはぎりぎりではありますが過不足なく与えられているので、使い方を誤る危険は少ないように思います。多く与えられている者はそれだけ使い方に気をつけないといけないといけませんね。

③については『絶妙に』という点がおもしろいですね。わたしは、これは平等だと思うのです。人には、本人も気づいてないあらゆる能力が与えられているのですから……。


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「何をするにもただ神様の栄光を現わすためにする」とは、自分の言葉で言い換えるとどういう言葉になるでしょう?
牧師先生は「『神が喜んでくれることを優先して行う』ことだと考えている」と言われました。

Ⅰコリント10:33には「自分の利益を求めず、多くの人の利益を求め」と書かれています。パウロ先生は自分のことより他者への配慮を大切にされています。

パウロ先生が語った2つの原則は、・神に喜んでいただくためと・他者の利益のためです。

主イエスさまも2つの大切な戒めを教えて下さいました。(マルコ12:30.31)

・心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。

・あなたの隣人(となりびと)を、あなた自身のように愛せよ。


パウロ先生は、人に語るとともに自分はどうしているか語っています。最終的には主イエス様だったらどうされるか考えています。

人生の中で問題に直面した時は、イエス様ならどうされるだろうか?と考えるようにすれば、迷うことなく歩み続けられます。問題をみつめるのではなく、何のために生きているかと考えることによって道を見つけることができます。


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教会学校3年生のMちゃんから聞いた話です。Mちゃんのことをいつもいじめていた隣の席のAちゃんが消しゴムを忘れて困っていました。 Aちゃんは貸してとも言えずに黙っていました。Mちゃんは「本当は貸したくなかったけど、イエス様だったら貸すだろうなと思って貸してあげたんだ。そしたらありがとうって言ってくれたよ」と言ってニコニコ笑いました。

どうしようかと迷うとき、Mちゃんのようにイエス様だったらどうするか?と考えて行動したとき、神様に喜ばれる生き方ができるのですね。Mちゃんに教えられました。

視力が落ちて・・・

2008-10-10 22:07:41 | 日記

風邪がよくなってくると食欲がでてきて、今日は食べ過ぎてしまいました。

メガネのつるがはずれ、レンズに傷もついているのでメガネ屋さんに持っていくと、傷は治らないといわれ、新しいメガネを作ることにしました。

最近非常に目が疲れるので度が合わなくなってきているのかもしれないと思い、検査を受けました。

2年前から(老眼が)2段階もすすんでいると言われ、ショックでした。このまま1年で1段階ずつ進んでいったらどうなるのでしょう。

最近はピアノを弾くのも楽譜が見えなくてメガネをかけています。
78歳の母の方がずっと視力がよくて、メガネなしで新聞を読んでいます。

長時間パソコンの画面を見るのもよくないのかもしれません。でも、原稿やリポート、手紙を書くのもすべてパソコン作業です。

今日はJCPのHPの更新をしましたが、これはいちばん目が疲れるので、1週間かけて毎日少しずつ作成しています。

パソコン作業量を減らさずに視力が悪くならない知恵はないでしょうか?

「まぼろしの小さい犬」を読んで

2008-10-09 12:45:24 | 読書

風邪をひいて熱を出し、昨日は一日伏せっていました。今日は熱が下がったので感謝です。まだ体が少しだるいですが、病院へ行くほどではありません。
土曜日は子供家庭集会。日曜日はCSメッセージなので、早く元気にならなくては……。 

昨日横になりながら児童書「まぼろしの小さい犬(フィリパ・ピアス作、猪熊葉子訳)岩波書店」を読みました。

久々に質の高い児童文学作品にめぐりあったという気がします。フィリパ・ピアスといえばイギリスのファンタジーの古典ともいわれている
「トムは真夜中の庭で」
を思い出しますが、この小説はリアリズム作品です。

犬を欲しがっている少年の心の動きがよく描かれています。大勢の兄弟姉妹の中で孤立している少年ベン。誕生日に犬をあげるといったおじいさんの言葉を信じて待つのですが、送られてきたのは犬の絵でした。ロンドンでは犬が飼えないこともわかり、あきらめるのですが、目を閉じると絵の中の小さな犬が見えるようになります。犬への渇望から想像の犬を作り出してしまうのです。ベンはその犬をチキチトと名づけました。

最終的にベンの家族は犬が飼える環境の郊外に引越し、ベンはおじいさんの家で飼っている犬の子を一匹もらってくるのですが、物語はそこで終っていません。
実際の犬は臆病で、想像の犬と反対の性格でした。ベンは犬が手に入ったのにあまりうれしくありません。公園に放した犬がどこかへ行ってしまおうとするとき、ベンがはっと気づいた場面を書き写してみました。


「ぼやけた風景のなかでそのときとつぜん、ベンは、はっきりとあることをさとった。それは、手に入れることのできないものは、どんなにほしがってもむりなのだ、ということだった。ましてや、手にとどくものを手にしないなら、それこそなにも手にいれることはできないということに。同時にベンは、チキチトとは大きさも色も、似ても似つかないこのおくびょう犬にだって、ほかの一面があるのだということを思いだした。抱いて運んでやったとき、自分の体にあずけられた犬の暖かさ、呼吸するときのからだの動き、くすぐったい巻き毛・・・・・・」


想像の犬を自分で捨てないかぎりベンは救われないことを悟るのです。現実の犬の名、「ブラウン」と言って犬を呼びもどすところで物語は終っています。
「フィリパ・ピアスは人間心理のすぐれた洞察者である」と訳者があとがきで書いています。

小学生が読んでも大人が読んでもおもしろく読み応えのある作品です。この小説の中で目の悪いおばあさんにベンが聖書を読み聞かせる場面があります。(ハイジにもありますね)

大嵐の日にノアの洪水のところを読ませたりして、聖書が生活に密着していることが示されています。ノアが600歳と聞いておばあさんが「じょうだんじゃないよ、まったく!」と怒るところを読んで笑みがこぼれました。

このような良い本が図書館では片隅においやられ、あまり読まれてない現実に心を痛めます。ぜひ今を生きる子供たちに読んで欲しい作品だと思いました。


花火から宇宙を

2008-10-05 16:57:05 | 日記


昨日は土浦の花火大会でした。全国花火競技会で、2時間半の間に2万発近くの花火が打ち上げられ、全国の花火師が競いました。


土浦の花火大会は1925年に始まり、今年は77回目です。 
花火大会の日は、大勢の人が集まってきます(去年は80万人の人出だったったそうです)他県から観光バスでやってくる人たちもいて、周辺の道路はごったがえします。



幸いなことにわたしの住むマンションは打ち上げ場の近くにあるので家にいながら花火見物ができます。


息子は仕事で来れませんでしたが、ヒックンとママが来てくれました。わたしは、花火よりヒックンを見ていたほうが幸せですが……
ヒックンは音にまずびっくりして少し怖がっていましたが、泣きもせずママに抱かれてバルコニーで花火見物しました。




いちばん上の写真は宇宙のように見えます。
8月にNHKの「地球ドラマチック 惑星への旅」という番組が放映されました。太陽系の惑星に移住はできるか?ということで水星~海王星ひとつひとつの星の環境を紹介していましたが、どの惑星も人間が住めるような環境ではありませんでした。

人や動物が生きるのに地球環境がどれだけ整えられているかと考えると驚きます。偶然とはとても思えません。火星では強い放射線が注ぐので人が住めませんが、地球には磁場があり、それで守られていると聞いて、イザヤ書40章22節の言葉「主は地をおおう天蓋の上に住まわれる」を思い出しました。

天蓋(てんがい)というのは地上を守り覆うふたのようなものです。神様はみ手を広げてわたしたちの住む地球をあらゆる危険や禍から守っておられること。その神様はいなごのようにちっぽけなわたしたちひとりひとりを愛し、大切に思って下さること。そして、人の中でも最も弱く小さなわたしの祈りにも耳を傾け、必要な物を備え、最善をなしてくださることを思って胸が熱くなりました。
花火から宇宙を連想し、宇宙を造られた神様に思いをはせました。

からっぽの手の中から

2008-10-02 13:47:42 | 

この写真はベンジャミンのジェミニです。我が家のバルコニーで暮らしています。
18年前、土浦に越してきた年に近所のスーパーの店頭にあったのを買ってきました。そのときは、背の高さが30センチくらいでした。今は120センチもあります。

ジェミニという名前がついたのはつい3か月ほど前です。
今年の春ごろから元気がなくなり、葉が散りはじめました。6月には1枚も葉がなくなってしまいました。葉が全部散ってしまうなんて18年間1度もなかったことです。

(寿命なのかな。木も枯れてしまうのかな)と思ってがっかりしていました。植物は人間の気持ちがわかるらしいので、「枯れないで。元気を出して」と毎日話しかけながら水やりをしました。

すると7月につやつやの黄緑色の小さい葉が生えてきたのです。ジェミニという名前をつけて「ジェミニちゃん。もっともっと葉を茂らせて」といいました。

葉はどんどん増えていきましたが、色つやが悪くなってきました。良くみると、小さな虫がびっしりついています。

酢を水で薄めたものを霧吹きでかけるとよいと聞いていたので酢水をコップに入れました。ところが霧吹きが見当たりません。仕方なく、口に含んでシューっと吹きかけました。(すっぱかったです)

翌日みると、虫はいなくなっています。
それから3か月たって、こんなに葉が茂りました。今日は快晴。日の光を受けてジェミニちゃんは嬉しそうです。

ジェミニちゃんに励まされて詩を書きました。


  からっぽの手の中から
 
頼りにしていたものがなくなり
自慢だったものを失い
 てのひらはからっぽになってしまった
 
何にもなくなって途方にくれ、
生きる意欲さえなくしたそのとき
声が聞こえた
 
生きて、生きて、生きるのよ
 
何もないのにどうやって生きるの?

 からっぽの手を広げると
目に見えない宝物がつまっていた
 
  
 ベンジャミンがすべての葉を落としたように、すべてを失ってしまうようなときがあります。でも、からっぽになることは、ときとして必要なのでは? からっぽの手を広げたとき、神様が満たして下さるからです。

聖書の言葉

私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。(2コリント 4:7)

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