昨日ヒックンがやってきました。息子の仕事が火曜日休みなので、わたしに用事が入らない限り、毎週火曜にやってきます。息子のアパートから我が家まで車で30分近くかかるので、たいてい車中で眠ってしまいます。なので、着いたときはねぼけていて機嫌があまりよくありません。
昨日はたっぷり昼寝してから来たので、ご機嫌でした。玄関のドアを開けてわたしの顔を見るなり、はじけるような笑顔をみせ、靴も脱がずに両手を広げて駆け寄ってきたのでおもわず抱きしめました。最高に幸せなときです。ママが残業で来ることができませんでした。夕方になると少し寂しくなったのか、わたしのことを「ママ」と呼んでいました。
帰った後は一抹の寂しさを感じます。置いて行った着替えを洗濯して、それが風に揺れているのを見ると悲しくなるのはなぜでしょう。またすぐ会えるのに……。
この間の日曜日、礼拝で詩篇84篇からメッセージを聞きました。
(1節~2節)
万軍の主。あなたのお住まいは
なんと、慕わしいことでしょう。
私のたましいは、主の大庭を恋い慕って
絶え入るばかりです。
私の心も、身も、生ける神に喜びの歌を歌います。
『主の大庭』というのはエルサレムの神殿のことだそうです。
筆者は何らかの事情があってエルサレムに巡礼に行くことができないので、エルサレムの神殿を恋い慕っています。
わたしはこの箇所を読んで、かつて主人に反対されて教会に行きたくても行けなかった時のことを思い出しました。クリスマスの夜、クリスマスカードを並べてキャンドルに灯をともし、ひとりで祈ったとき、涙があふれました。教会が慕わしくてたまりませんでした。
この詩を書いた人は、巡礼に行けないことを嘆くばかりではなく、心の中で巡礼を始めます。
(5節~7節)
なんと幸いなことでしょう。
その力が、あなたにあり、
その心の中にシオンへの大路がある人は。
彼らは涙の谷を過ぎるときも、
そこを泉のわく所とします。
初めの雨もまたそこを祝福でおおいます。
彼らは力から力へと進み、
シオンにおいて、神の御前に現れます。
「聖地エルサレムで礼拝することだけが礼拝なのではなく、そこにたどりつく道も礼拝になります」
「詩篇の作者は、問題をかかえながらも信仰を表明しています。信仰を表明し宣言することが彼に力を与えています。このあと、彼は巡礼の旅に出かけたのではないでしょうか」
と牧師先生が言われました。
涙の谷が泉のわく所になるのです。たったひとりで祝ったクリスマスの夜、そこは涙の谷でした。でも、教会へ行きたいという切なる思いを神様がおぼえてくださって、いつかきっと行ける日が来ると信じていました。すると、その翌年のクリスマス礼拝には出席できたのですから、何と幸いなことでしょう。涙の谷を通ったからこそ、いただいた祝福の大きさに感謝の気持ちでいっぱいになったのでした。
お知らせ
10月17日付で正式に(社団法人)日本児童文学者協会の会員になりました。3年も前からすすめられていたのですが、迷っていました。
先月の茨城児童文学の会の合宿で決心しました。2人の方の推薦をいただいて申込み、承諾していただきました。日本児童文学者協会員であることを告げれば、創作のための取材がしやすくなることを知って大いに喜んでいます。