生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

謙遜の極致

2010-10-30 16:58:00 | 聖書から
台風の影響で強い雨が降っています。

パソコンのスイッチを入れてIEを開くと色々な情報が入って来ます。急上昇ワードが現れたり、ニュースが流れたり……世界中の現在の情報が入って来るので便利ではありますが、気が散ります。

ブログのコメントやメールが来ていないか気になって、朝起きるとすぐPCのスイッチを入れたくなります。
でも、デボーションをしてからでないとPCを開いてはいけないというルールを自分で決めています。
デボーションとは聖書を読んで祈る時間です。朝起きたらまずそれをします。PCを使い始める前から行っていたことです。40~50分かかります。

デボーションが終わると主人を起こす時間になり、朝食の支度がすむとPCのスイッチを入れます。
メールやコメントを確認だけして電源を切ります。

次にPCのスイッチを入れるのは、何時間も後になります。出かける用事のない時は2回目のデボーションとOBIの学びをしてからPCを開くと決めているので、お昼近くになります。

創作をするときはワードだけ使えればいいので、ネット接続のできない古いPCで行います。ブログを書くときはネットにつながる新しいPCを用います。
ところが新しいPCのある部屋は北向きで寒いのです。暖房は小さな電気ストーブひとつなので、冬になったら対策をたてなくては……。


水曜礼拝ではキリストの謙遜について学びました。
「キリストの自己卑下こそが謙遜の極致であった」と聞いたとき、最初は意味がわかりませんでした。

自己卑下と言う言葉はあまりいいイメージがありません。へりくだっても自分を卑下してはいけないと思っていたからです。

卑下するとは、『自分を劣ったものとしていやしめること。へりくだること。』と広辞苑に書かれています。

卑下するとは、どうせわたしなんか・・・と卑屈になることではないかと思っていたのですが、そういう意味ではなかったのです。

キリストの卑下とは、卑しい者と同じようになられたということ。卑しい者というのは十字架刑になるほどの犯罪者を意味します。

キリストは何の罪も犯さなかったのに犯罪者として十字架につけられて処刑されました。のがれられないから仕方なくではなく、神さまのみ心に従ってすすんで十字架につけられたのです。
いと高き方であるお方、神の子であるキリストが卑しくなられた。そこまでしてわたしたちを救ってくださったと思うと心が震えます。


「キリストは、人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。(ピリピ2:8)」

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心の宝として

2010-10-29 12:19:55 | お茶の水聖書学院
急に寒くなったので、こたつを出しました。昨日は土浦の最高気温が11℃だったのです。
人一倍寒がりのわたしは何枚も重ね着をしています。週末には灯油を買ってファンヒーターを出さなければ・・・。

OBIの20周年記念誌に寄稿したわたしの文章を紹介させていただきます。
               
          心の宝として

わたしは、イエスさまを知らない子どもたちに神様の愛を伝えようと童話や児童小説を書いています。
 
志を抱いて書き始めてから十年以上になるのですが、文章は上達しないし、思いがなかなか伝えられなくて行き詰っていました。導きを求めて祈っていると、

「神の国とその義とをまず第一に求めなさい」のみ言葉が迫ってきました。
神様のことを第一に求めるには具体的にどうすればいいのだろう……と考えていたとき、OBIで通信の学びがあることを知りました。

とびつくように受講を申し込み、旧約聖書から学び始めました。これまで旧約聖書は難しいので敬遠しがちでした。また、旧約では神の愛より厳しさの方が印象づけられていました。
でも、DVD講義を受けて、印象が変わりました。『ねたむほどの愛』といわれた神の愛の深さと大きさを教えられたのです。

小預言書の学びでは目が開かれるような思いでした。ホセア書では、姦淫の妻ゴメルを受け入れるホセアの苦しみは、神様が背信の民、イスラエルを受け入れることを示していると教えていただき神の愛に心打たれました。

神様は、繰り返し主に立ち返るように訴えていますが、イスラエルの民は神様から離れてしまいます。まるでかつてのわたしのように思えました。
それでも契約のゆえ、神様は救い主をイスラエルから誕生させて下さいました。
また、ヨナ書では預言者として召されたのに神様に逆らってしまったヨナに対し、愛をもって取り扱って下さった神様の素晴らしさに感動しました。

ゼカリヤ書でメシヤ預言を読んだときは、心が震えました。
金太郎飴のように旧約聖書のどこを開いてもキリストが浮かび上がってくると聞いていましたが、その意味がようやくわかりました。

2年半旧約聖書を学び、2009年8月から新約聖書の学びに入りました。
福音書を学んで、今まで読み過ごしていた聖書の言葉がピックアップされ、感動に震えて思わず涙することもしばしばです。

マリヤが「心に留めておいた」という箇所を英語で「心の宝とした」訳されているものがあると教えていただき、なんと素晴らしい言葉なのだろうと思いました。

OBIの学びのたびに心の宝が増えていきます。そのことが大きな喜びになり、神様への想いが熱くなってきます。

子どもたちに神様の愛を伝える小説は未完成ですが、宝でいっぱいになった心で、あふれるような神様の愛を実感しながら書き続けていきたいです。
感謝をこめて……。


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感謝・感激・感動

2010-10-26 13:23:49 | お茶の水聖書学院
23日はJCP(日本クリスチャン・ペンクラブ)の童話エッセイの会へ行って実家に泊まりました。25日はOBI(お茶の水聖書学院)の20周年記念会に参加してきました。

23日と25日の開催場所がどちらもお茶の水クリスチャンセンターだったので、お茶の水から30分ほどの場所にある実家に泊まりました。

間に日曜がはさまれていたので、24日は吉祥寺の武蔵野福音自由教会で礼拝を受けました。土曜夜に実家に泊まることはめったにないので、武蔵野福音自由教会へ行ったのは5年ぶりでした。知り合いはひとりもなく、牧師も新しい先生だったので心細かったのですが、「インマヌエル~神が共に~」というメッセージに励まされました。

OBIの記念会は、案内が送られてきたとき、出席しようかどうか迷いました。通信で学んでいるので、自分が学院生であるという自覚が薄かったからです。
参加申し込みをしたあとも、出席者が140人と聞いて気後れしていました。
でも、出席してよかったです。たくさんの恵みをいただきました。

20周年を前にして9月に学院長の増田誉雄先生が天に召されました。わたしはDVDで増田先生の授業を受けているので、直接お目にかかったことがなくてもショックでした。

わたしでもショックを受けるのですから、直接授業を受けられた方、増田先生と共に20周年記念会の準備をしておられた理事の方々はどれだけ落胆されたことでしょう。
そんなできごとがあって、行われた記念会でした。

感謝礼拝に出て、OBIについて知らないことがたくさんあったことに気づきました。
OBIがOCC(お茶の水クリスチャンセンター)と深い関わりがあること。
OCCは宣教師のアイリーン・ウェブスター・スミス先生が学生伝道のために御茶ノ水の一等地に土地を購入して創立してくださったこと。
講師の先生の中に本田弘慈先生、羽鳥明先生がおられたこと。
OBIの目標。

OBIの目標については、OCCの理事長である村上宣道先生から教えていただきました。

村上先生のメッセージを紹介させていただきます。
OBIで聖書を学ぶことによってもたらすものは次の3つです。
①救いに関する知恵が与えられる。
②人間がどう生きたらよいか生活基準が明確にされる。
③よい働きのために十分整えられる。

OBIは、信徒であるレイマンを育成し、教会から世界に送り出すことを目標としています。
使徒の働き8:4には「他方、散らされた人たちは、みことばを宣べながら、巡り歩いた」と書かれています。迫害にあって散らされたクリスチャンたち(ディアスポラ)が、その地方でみことばを宣べ伝えたことが記されています。使徒ではなく、信徒たちが伝えたのです。

異邦人に最初に福音を伝えたのは、信徒のピリポでした。伝道者アポロに教えたのは信徒のプリスカとアクラでした。

レイマンの語源は「ラオス」で「神の民」という意味です。
平信徒にすぎないと言っていてはいけません、レイマンには神のみ言葉を述べ伝える使命があります。レイマンだからこそ社会の中であかしすることができます。


力強いメッセージを聞いて、熱いものが湧き上がってきました。

「OBIでは3K(感謝・感激・感動)の体験が生まれる」と聞きましたが、通信のわたしでもそれを体験しています。学ぶたびに感激し、感動し、そして感謝しているのです。

わたしにとってOBIは聖書の知識を学ぶだけでなく、講師の先生の生き方やおあかしを通して、神の臨在を感じ、生き生きとした信仰を持てるようになる場となっています。OBIを紹介してくださったM姉に感謝しつつ、これからも学び続けていきたいです。

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マザーテレサの祈り

2010-10-23 08:38:39 | 
昨日はヒックンが風邪をひいて熱を出したので、一日預かりました。お昼に38.8℃まで熱が上がったので心配でしたが、夕方には下がってきたのでほっとしました。熱があっても元気で遊んでいるヒックンです。そのエネルギーに驚いています。

友人のブログ(メメントドミニ)で紹介されていたマザーテレサの祈りを読んだとき、はっとさせられました。
ブログで迷ったときにもこの祈りを思い出したいです。


    マザーテレサの祈り

あなたの最良のものを世に与えなさい

人は不合理、非論理的、利己的です
気にすることなく、人を愛しなさい

あなたが善を行うと、利己的な目的でそれをしたと思われるでしょう
気にすることなく、善を行いなさい

目的を達成しようとするとき、邪魔立てする人に出会うでしょう
気にすることなく、やり遂げなさい

善い行いをしても、おそらく次の日には忘れられるでしょう
気にすることなく、しつづけなさい

あなたの正直さと誠実さとが、あなたを傷つけるでしょう
気にすることなく、正直で誠実であり続けなさい

あなたが作り上げたものが、壊されるでしょう
気にすることなく、作り続けなさい

助けた相手から、恩知らずの仕打ちを受けるでしょう
気にすることなく、助け続けなさい

あなたの最良のものを、世に与えなさい
けり返されるかもしれません
でも、気にすることなく、最良のものを与え続けなさい


この詩を読むと「すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行いなさい。(ピリピ2:14)」という聖書の言葉が浮かびあがってきます。

ブログを書くことだけではありません。あらゆることについて迷いが沸き上がってくることがあります。とくに、創作活動においては迷ってないときの方が少ないぐらいです。

立ち止まって振り返ることも必要だと思います。自分ではまっすぐのつもりで歩いていたのにいつの間にか脇道にそれてしまっていることもありますから。
神さまを目指して歩いているかどうか点検する必要はあります。もし、別の物に気を取られて間違った道を歩んでいることに気づいたら軌道修正しなければなりません。

動機を確かめて、自分自身の栄光を求めているのではなく、ただ神の栄光を求め、主にあってよいことを行っていると確信したときは、誰に何を言われても、また邪魔が入っても気にしないで進んでいくように示されました。

まわりからの批判的な声や否定的な内なる声が聞こえてきても(私の場合、内なる声の方が大きいのですが......)気にしないでし続けることですね。


帰ってきました。ブログコメント再開します。更新はあす以降にします。(10月25日 18時23分記)

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続・ブログ開設5周年

2010-10-21 21:56:09 | 日記
ブログを書いていて、迷いや戸惑いはありました。そもそもブログとは何なのでしょう? 何のために書くのでしょう?

伝えたいことがあるから書くのですが、こちらの意図することが伝わっていないこともあり、誤解して受け止められることもあります。
逆にわたしが発信するメッセージをしっかりと受け止められていたことを知ると、とび上がるほど嬉しくなります。
癌患者の方や心の病の方が「慰められた」と書いてくださったときは、ほんとうによかったなあと思います。

「自己満足のためにブログを書いているのでしょう」という声が聞こえたときは、やめた方がいいのかなあ……と思いました。

礼拝のメッセージや家庭集会で学んだことを書くときは、2時間もかかってしまいます。間違ったことを伝えてはならないと、メモを見て一生懸命思い出して、祈りながら何度も何度も聖書を確かめて書きます。疲れてフラフラになり、何でこんなにまでして書いているんだろう?と思ってしまうこともあります。

わたしの頭はザルのようで、数時間で聞いた話の半分は忘れてしまい、一週間前に聞いた話は9割を忘れているのです。それが、書くとけっこう覚えているんですね。
自分のためにはなっているようです。

ブログを書く時、いつも祈っていることは、「神さまの栄光をあらわすことができるように」です。バッハが作品にいつもSDG(ただ神の栄光のために)とサインしたようにわたしの文章もその気持ちで書いています。

心が神さまから離れてしまうとつぶやきや不満でいっぱいになり、書く文章にもそれが現れてしまいます。
だから、いつも神さまに心を向け、満たされていたいです。神さまからたくさんの恵みと祝福をいただいているのですから、それを溢れさせてブログを読んで下さる方に流していきたいです。

神さまが働いて下さるなら、文の拙さ、表現力の乏しさ、頭の悪さはカバーされるでしょう。

7月に微熱が続いてしばらく更新できなかったとき、たくさんの方が心配して下さり、祈ってくださいました。
このブログが多くの方たちの祈りによって支えられていることを改めて感じ、感謝の気持ちでいっぱいです。

これからも祈って支えて下さい。よろしくお願いいたします。

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ブログ開設5周年

2010-10-20 16:24:24 | 日記
「土筆文香(つくしふみか)です。友人から、ホームページの記事を携帯で見たいと言われたので、ブログを開設しました。」

2005年10月20日の「はじめに」に書いた一文です。

HP開設にあったっては何日も準備をして時間がかかりましたが、ブログは何の準備もなく始められたので、その手軽さがかえって恐ろしかったのを覚えています。

当時は乳がんの手術を受けてから2年弱でした。薬の副作用で体調が不安定で、再発転移の恐れも今より強かったです。
いつ死が訪れるかわからないと思っていました。だからこそ「こうしてはいられない」と、ブログをたちあげたのです。目的は、神さまの愛を伝えることです。

こんなに長く続けられるとは思いませんでした。5年の間には、やめようと思ったことが何度かありました。友人の励ましと祈りによって支えられ、続けられました。

ブログは世界に繋がっていること。だれが見ているか想像すらできないことを知らされた出来事がありました。

5年間でいちばん驚いたことですが、2007年1月にキリスト教のテレビ番組「ライフ・ライン」からの出演依頼が来ました。
太平洋放送協会のスタッフがわたしのHPとブログを見て番組を作りたいと言われたのです。まさに青天の霹靂です。そして、2007年2月に撮影。3月に放映されました。


2009年8月には、わたしがブログに書いた詩にゴスペルシンガーのチャキさんが曲をつけてくださいました。それが「神さまのカリス」です。

この出来事も、ネットならではのことです。この詩を最初に掲載したのは2006年でした。
2009年、パラグアイに住むTさんがお子さんに「カリス」という名前をつけ、インターネットで「カリス」を検索したらこの詩がヒットしたそうです。詩を喜んでいるというメールをいただきました。
Tさんのメールに感謝して再び「神さまのカリス」の詩をブログに載せたら、チャキさんが読んで心に留めてくれたのです。

また、ブログを通して多くの方々との出会いがありました。
「五つのパン」さんとはブログを通して出会いました。キーワードは「児童文化の会」でした。

JCPのHPに相互リンクをお願いしようと全く面識のない方にメールを出すと、その方はわたしのブログを「お気に入り」に入れて読んでくださっていたことがわかりました。

生きるのがつらくなって「助けて下さい」と書いて検索したら、2006.3.28に掲載した詩「だいじょうぶだよ」(わたしのHPの詩のページにもあります)にたどりついて命拾いしたというメールをいただいたときは、鳥肌がたちました。

同じ病気(乳がん)の方からメールやコメントをたくさんいただいています。
わたしの文章がクリスチャンでない方にも共感していただけて嬉しいです。

神さまがネットのうえにも働いておられることを実感しています。

                   つづく

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心の状態にあわせて

2010-10-18 12:48:45 | 教会

昨日はヒックンママの運転でヒックンと教会へ行きました。ヒックンママが用事で出かけたので、わたしはヒックンと母子室で礼拝を受けました。

母子室は3階にあり、ガラス張りになっていて礼拝堂が見下ろせます。音声はスピーカーから流れ、カメラで撮影した映像がテレビから見ることができます。聖書箇所も賛美の歌詞も全部テレビに写されるので助かります。


礼拝メッセージはルカの福音書7:36-50のところで、シモンという名のパリサイ人がイエスさまを食事に招待したときの出来事についてでした。(ここに登場するシモンはイエスさまの弟子のシモン・ペテロとは別人です。)

以前家庭集会で学んだことと重なった部分がありますので、その内容を書いたブログ記事からの引用を含め紹介させていただきます。

パリサイ人とは、新約時代のユダヤ教の一派で、厳格な律法主義者です。彼らは律法を守ることで救われると思っている倫理的な人たちです。

人を招待して食事を用意するのは、普通のこととして聖書に書かれていますが、ユダヤ人は宗教的意識が強いので罪深いとみなされた人や異邦人(外国人)とはつきあわないのは慣例でした。

パリサイ人、シモンはイエスさまが聖書知識に通じ、立派な教えをする教師(ラビ)と見ていたので家に招いたようです。

イエスさまが食卓についていたとき、ひとりの罪深い女が突然家の中に入ってきました。女は高価な香油の入った壺を持っており、泣きながら涙でイエスさまの足をぬらし、髪の毛でぬぐい、足に口づけをして香油をぬりました。

当時のユダヤ人は、客人に対するもてなしとして足を洗いました。足に口づけをするというのは最高の感謝と謙遜の表現だったそうです。香油は最高の化粧品で、客に対するもてなしのひとつです。

女のすることを見たシモンは「もし、イエスが預言者なら、この女が罪深い女だと知っているはずだ」と心の中で思っていました。イエスさまが女にどんな対応をするのか興味津々だったのでしょう。

罪深い女というのは「不道徳な女」ということです。シモンは、心の中で女のことをさげすんでいたのかもしれません。

そのとき、イエスさまはパリサイ人シモンに金貸しのたとえを話されました。

「ある金貸しから、ふたりの者が金を借りていた。ひとりは五百デナリ、ほかのひとりは五十デナリ借りていた。彼らは返すことができなかったので、金貸しはふたりとも赦してやった。では、ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか。」
シモンが「よけいに赦してもらったほうだと思います」と答えると、イエスは「あなたの判断は当たっています」と言われた。(ルカ7:41-43)


そしてイエスさまは、シモンは口づけし油をぬってくれなかったが、この女は足に口づけし、足に香油をぬってくれたと言い、「この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。(7:47)」と女のやった行為をほめ、女に罪の赦しを宣言します。

「イエス様はシモンの心の状態にあわせて語っておられます。イエス様はわたしたちの心の状態にあわせて働きかけて下さるのです」と牧師先生が言われました。

ほかの聖書箇所では、イエスさまは、パリサイ人のことを偽善者とまで言っており、パリサイ人やサドカイ人、律法学者などに対して厳しい態度をとられています。

イエスさまは、パリサイ人シモンのことも愛しておられました。だから、シモン自身が多くの罪を赦されている者なのだと気づかせようとされたのです。

シモンは、香油をぬった女を罪深い者としてさげすんでいました。そして自分は律法を守っているので神の前に正しい人間なのだと思っていました。

シモンは女のした行為が素晴らしいものだとは思いませんでした。自分よりこの女の行為をほめるイエスさまの心がわからなかったでしょう。女より優位にたって、女のことを裁いていたシモン。シモンこそ罪深い者であるということにイエスさまは気づかせたかったので、このように語られたのでした。


昨日のメッセージでは、
「イエス様はわたしたちの心の状態にあわせて働きかけて下さる」という言葉に心打たれました。
わたしの心の状態は、その時々によって違います。

過去の日記を読み返すと、劣等感にさいなまれていた時期、病を受け入れられずに葛藤していた時期、人の言葉に翻弄されていた時期など・・・今とは異なっています。

でも、神様は、そのときに必要なものを与えて下さり、心を養ってくださいました。必要なものというのは、出来事だったり、聖書の言葉だったり、人との出会いだったり、人の語る言葉だったり、本の一文などです。

喘息で入院していた時には「神様は不必要なものを与えない」という三浦綾子さんの小説の一文が与えられ、落ち込みから脱出できました。そしてそれが乳がんになったときにも適用できたのです。

イエスさまの愛に満ちた対応に深く感謝しました。


*写真は土曜日に行ったつくばエキスポセンター

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祈りがかなえられなくても

2010-10-14 20:50:04 | 聖書から
先日、『主の約束してくださったことは必ず遂げられる』ことを書きましたが、神様に祈ったことが必ずかなえられるとは限りません。
わたしたちは、自分や家族の幸せを祈ります。でも、病気することもあり、思いがけない悲しい出来事に見舞われることがあります。

イエス様が母マリヤとともにカナの婚宴に出たとき、ぶどう酒がなくなるという事件が起こりました。
マリヤは「ぶどう酒がなくなってしまいました」とイエス様に言います。それは、だれかに頼んで借りてきてもらえないかという意味で言ったようです。
ところが、イエス様は「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう(ヨハネ2:4)」と、一見冷たい態度をとられます。

その後、イエス様は、手伝いの人達に水がめに水を満たすように言って、その水をぶどう酒に変えるという最初の奇跡を起こされます。マリヤの求めを拒否されたのは、もっとすばらしいことをご計画されていたからだったのですね。

こんなふうにわたしたちも強い願望があって、一生懸命祈りますが、かなえらないことがあります。そんなとき、神様に拒否されたように思うことがありますが、そうではありません。神様はもっとすばらしいことを用意しておられるのです。

わたしは乳がんの検査を受けて結果を待っているとき、「がんではありませんように」と祈っていましたが、その祈りはかなえられませんでした。

けれども、乳がんになったことで、気づかされたことがたくさんありました。
それは、注がれていた神様の恵みです。いのちの重さ、尊さです。神様の栄光をあらわす生き方こそ本当の生きる道だということです。
わたしにとって、乳がんになったことは神さまのすばらしいご計画だったのです。

『どんなときにも、神の経綸(けいりん)の内にあり、神はすばらしい計画をしておられるということを信じるのがキリスト教である。信じるとは、またイエスを迎えるとは、イエスに従うことである。イエスは私たちより先に、私たちのところへ来て下さっており、迎えに行かなければ来て下さらないのではない。』
と新約聖書一日一章(榎本保郎著)155ページに書かれています。

「喜んで主に従うこと」がわたしの第一の願いになりました。


*久々にわたしのHP「生かされて・・・土筆文香」更新しました。
今年の8月に行った北海道旅行記です。ブログに載せられなかった写真も掲載していますのでぜひご覧ください。

マナラタ

2010-10-12 21:34:04 | 聖書から
旧約聖書を読んでいると、主の約束してくださったことは必ず成し遂げられることがわかります。でも、それは長い時間がかかることが多いです。

これまでどれだけ多くのクリスチャンたちが迫害にあって殉教したことでしょう……。
こんな話を聞きました。
ウクライナでは何百万人のクリスチャンが迫害を受けたそうです。

それから何十年もたって迫害は終わり、核弾道の倉庫に使われていたレンガが必要なくなったので、それで教会を建てることになりました。
運んできたレンガの間に紙がはさんでありました。それを開いてみると「神の栄光のために用いられますように」と祈りが書かれていたそうです。

核弾道の倉庫を作っているとき、『いつかこのレンガによって教会が建てられる日が来るように』と祈りつつレンガを運んでいたクリスチャンが書いたのでしょう。
書いた人はそのときはすでに召されていたかもしれません。でも、祈りはかなえられたのです。

先日の礼拝では「マナラタ」という言葉を教えていただきました。
「マナラタ」というのは、アラム語で「主よ、来てください」という意味です。迫害の中にあるクリスチャンたちがあいさつ代わり口にしていた言葉だそうです。

わたしたちは幸いなことに迫害にあうことはありませんが、迫害にあっているクリスチャンが「マナラタ」と叫ぶ気持ちがわかります。

不当な仕打ちを受けたり、冤罪にあったり、誤解されたり、理不尽な苦しみにあったりするとき、真実をご存じで正義を行う主が来て下さることを待ち望みます。

核弾道の倉庫を作るためレンガを運んでいたひとたちも、心の中で「マナラタ」と叫んでいたことでしょう。

聖書の言葉
「もしおそくなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることはない(ハバクク2:3)」

試みの中にあるあなたへ

2010-10-09 18:45:19 | 
今日は子ども家庭集会で雨の中出かけました。8人も子どもたちが集まって、にぎやかで楽しいひとときを過ごしました。

人は誰でも辛い目にあったり、苦しい目にあわないように願います。

「試みは人間の世界に必ずあるもので、それがなくなれば、人間は人間でなくなる」と書かれている一文(榎本保郎著「新約聖書一日一章」145ページ)を読んで、その通りだなあと思いました。

何もかも順調で小春日和のような日々もあります。ところがそれがずうっと続くわけではありません。人がうらやむほど順調に思える人でも、長い人生の中には辛い時期が訪れます。

なぜ人は苦しむのでしょう?  なぜこの世界は悲しみや苦しみで満ちているのでしょう?

わたしは喘息で苦しんでいた時、神様はなぜわたしをこんな苦しい目にあわせるの? と神様を恨んでいました。
長い年月がたってから振り返ると、その苦難はわたしにとって必要なことだったと気づきます。
でも、苦しみの真っ最中にいるときは、そこからのがれることしか考えていませんでした。

イエス様はペテロに「しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたために祈りました。(ルカ22:32)」と言われました。
イエス様が「試みにあわないように」ではなく、「信仰がなくならないように」祈っておられることは意味深いですね。

どんなに辛くても苦しみには終わりがあります。神さまがあなたを愛するあまりに与えて下さった試練です。
刃物は研がれて切れ味がよくなります。あなたがあなたらしくなるように神さまが試練を与えて下さるのです。

今日生まれた詩を紹介します。


             知らなかった

知らなかった
荒野を歩いているとき
その荒野に咲く花があり
沸き出る泉があることを

知らなかった
涙を流すとき、神さまも涙を流し
傷が痛むとき、神さまも痛んでおられたことを

知らなかった
愛の眼差しでわたしを見つめ、
「あなたの信仰がなくならないように」
と、神さまが祈っておられたことを


日本クリスチャン・ペンクラブのHP更新しました。

よろしく

2010-10-06 13:23:54 | 教会
先日の礼拝メッセージは1コリント人への手紙の最後のあいさつの部分でした。

「アジヤの諸教会がよろしくと言っています。アクラとプリスカ、また彼らの家の教会が主にあって心から、あなたがたによろしくと言っています。すべての兄弟たちが、あなたがたによろしくと言っています。」(Ⅰコリント16:19)」
コリント人への手紙は、エペソにいたパウロが遠く離れたコリントの教会に送った手紙です。

アクラとプリスカはクリスチャンの夫婦で「使徒の働き」にも出てきます。パウロを自宅に住まわせ、共に天幕作りの仕事をしながら福音を伝える働きをしました。そして、家の教会を作りました。家の教会というのは家庭集会のようなものだそうです。

「すべての兄弟達がよろしく」と言っていますが、すべてのというのは、会ったことのない人も含まれています。なぜ会ったこともない人に対してよろしくと言えるのでしょうか……それは神の家族だからです。

キリストを信じる者たちを「神の家族」といいます。肉親ではありませんが、キリストの血によって繋がっています。


メッセージを聞いて思い出したことがありました。
昨年の夏、めぐみ教会のS牧師が岐阜のキリスト教の集会でメッセージをされました。
岐阜に住むK・Kさんは、わたしの通う教会の牧師先生がメッセンジャーだと知って、ぜひ参加したいと仕事の休みをとって集会に参加されました。
K・Kさんは、キリスト教の月刊誌「百万人の福音」に掲載されたわたしの文章を読んで手紙を下さった方で、それまで文通をしていましたが、お目にかかったことはありませんでした。
集会の後、K・KさんはS先生に声をかけ、わたしと文通していることを話したそうです。
S先生は喜んでくださって、一緒に撮った写真をわたしに下さいました。
わたしとの繋がりで行動されたK・Kさんのことを嬉しく思いました。

また、ついひと月ほど前のことです。礼拝堂に入ろうとしたとき、友人に「文香さんを探している人が入口のところにいるよ」と言われました。
わたしが名乗ると「よかった、やっと会えた!」と満面の笑みを浮かべている婦人が立っていました。

「Yさんに『めぐみ教会には文香さんがいるからぜひ会ってください』と言われたんだけど、なかなか会えなくて……いろんな人に尋ねてやっとお目にかかれた」
と言われました。

Yさんはネット読書会のお仲間で、今まで2回ほどお目にかかって昼食を共にしています。また、同じOBI生でもあります。わたしは通信なのでOBIではお目にかかったことがないのですが……。

Yさんは、わたしが今年の7月にOBIサマースクーリングに申し込んで、体調不良のためキャンセルしたことを御存じで、心配してお祈りしてくださった方です。

そのYさんと知り合いであるKさんは、今年度、実習神学生であるご主人と共に一年間めぐみ教会の礼拝に出席されることになったのです。おそらく、ずいぶん前からわたしのことを捜しておられたのでしょう。

めぐみ教会で人捜しをするのは大変なことです。なんせ、礼拝出席者が600人もいるからです。午前中の礼拝が3回。そして夜のオープン礼拝もあるので、どの礼拝に出席しているかわからない場合は、捜すのが大変です。
わたしはたいてい第Ⅲ礼拝に出ているので、Kさんは第Ⅰからずっと捜し続けておられたようです。

声をかけていただいてとても嬉しかったです。Yさんという共通の友人がいるということも加わって、初対面なのにずっと前からの友人のような気がしました。


*写真は桜川の土手に咲く彼岸花。今日、教会の帰りに撮りました。
花火大会のときは、この場所と教会グラウンドで打ち上げられました。


母の祈り

2010-10-03 20:24:43 | 
昨日は、土浦の全国花火競技大会でした。午後6時から8時半まで次々に花火が打ち上げられました。
写真は我が家のバルコニーから写した写真です。
主人と、ヒックン、ヒックンママとわたしの4人で花火を楽しみました。息子と娘は仕事で見られませんでした。

ヒックンは、花火が上がるたびに両手を上げて跳び上がり、花火になりきっていました。
「たまやー」って言うんだよと教えると、「あまやー、あまやー」と叫んでいました。

半ばごろになると疲れたようで、花火はそっちのけで、おもちゃで遊びはじめました。
昨夜は家に泊まったので、今日はヒックンママの運転で教会に一緒に行きました。


最近、教会学校で若いお母さん達と接する機会が多く、子育てに悩んでいる方が多いことを知りました。

わたしも子育て真っ最中の時は色々なことで真剣に悩みました。子どもが問題を起こすと、育て方が悪いのだと自分を責め、育児の全責任を負っているような重圧を感じることもありました。

最近、すばらしい詩に出会いました。子育てしているときに出会えたらよかったのにと思える詩です。今日発行した教会学校便りにも紹介しましたので、掲載させていただきます。


母の祈り(作者不詳)


神様、あなたは完全な親であられます。
あなたは、私の子どもたちを私よりずっとよくご存じです。
あなたは、子どもたちの必要もご存じです。
あなたは、彼らをほんとうによく理解しておられ
その成長を守ってくださいます。
あなたは、彼らのことをよく見ておられ、
無条件に愛しておられます。
ですから私は、神様、あなたに子育てを助けていただきたいのです。
いや、それ以上のことをお願いします。
あなたに子どもたちをおゆだねします。
あなたが育てて下さい。
私があなたのじゃまをしないように導いてください。
そして、愛する神さま、
あなたが人の手を必要とされるときに
私の手を用いてください。
子どもたちが愛の言葉を聞く必要があるとき
私の口を用いて下さい。
子どもたちが慰めを必要とするとき
私の腕を用いて下さい。
子どもたちが勉強しなければならないとき
私の知恵と知識を用いて下さい。
子どもたちが人生を理解しなければならないとき
私の心を用いて下さい。
そして、子どもたちがあなたについて尋ねるとき
私の信仰を用いて下さい。
そのようにして子どもたちもまたあなたを
完全な親として知るように導いてください。
                     アーメン


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