生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

今、死にたいと思っている人へ

2017-08-30 15:39:12 | 
18歳以下の子どもの自殺者は、年間300人もいるそうです。
そして9月1日前後に自殺する人が多いのだそうです。
自殺のニュースを見るとわたしは胸が引き裂かれたように痛みます。
わたしも中学生の時、死にたいとずっと思っていたからです。

自殺の原因はひとつではないでしょう。いじめや大人に対する不信感、生きる目的や意味が分からなくて自殺する人もいるでしょう。こんなつらい思いをしてまで、どうして生きなくてはならないのですか? と疑問を抱いている人がいることでしょう。

自分のいのちなのだから自分で自由にしたってかまわないでしょうと思っているかもしれません。でも、死ぬのはちょっと待ってください。
あなたに命を与えた方がいるのです。お母さんのおなかの中にいたときのこと、生まれたときのことを覚えている人はいないと思いますが、胎児のあなたをじっと見て、骨組みを作り、内臓を作り、組み立ててくださった方がいるのです。それは神様です。

聖書には
「それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。(詩編139:13)」と書かれています。
偶然生まれたように思う人が多いことでしょう。でも、神様は、あなたという人間をデザインして、個性を持たせ、母親の胎の中で育み、生まれさせてくださったのです。目的を持って、造ってくださったのです。
だから、ひとりひとり顔も性格も違うのです。

人は個性があって当然なのですが、悲しいことに自分と違う性格の人を受け入れられない人がいて、その人がいじめをするのです。
人格を否定するようなひどい言葉を使ったり、暴力を振るったり、大切にしている物を壊したり……。
もし、クラスのみんなから「おまえなんか、いない方がいい」と存在を否定されても、世界中の人がそう思っているわけではありません。
「みんな言ってる」と言われても、みんなとは誰でしょう?
いないほうがいい人間なんていません。この世界に必要だからあなたが生まれたのです。あなたは、なくてはならない存在なのです。
何もできなくてもいい。あなたの存在そのものが尊いのです。だから、死なないでください。

聖書には「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。(イザヤ43:4)」と書かれています。わたしとは、神様、あなたとは、これを読んでいるあなたです。

最後に以前書いてブログにも掲載したことのある詩を紹介します。

死なないでください

死なないで下さい
あなたが生まれた時
小さくてたよりない
その体を
そっと包むように抱いてくれた人がいるから


死なないで下さい
あなたがお母さんの
おなかにいる時から
あなたを知り
かたち造ってくれた
お方がいるから


死なないで下さい
すべての道が閉ざされて
何の希望も持てなくても
じっと見ている
お方がいるから


死なないで下さい
心の傷をすべて
涙の数をすべて、
知っていて下さる
お方がいるから


死なないで下さい
いとしいひとり子の命を
あなたのために
ささげてくれた
お方がいるから



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喜び歌いながら

2017-08-29 16:58:09 | 教会
一昨日は年に一度の教会のお祭り、めぐみ祭りが行われました。去年は用事で行けなかったのですが、今年はヒックン、ナルクンとママも一緒に参加しました。ヒックンは何度も参加していますが、3歳のナルクンは初めてです。
色々な方に声をかけられて、恥ずかしそうにしていました。

めぐみ祭りは、礼拝から始まりました。神様を喜ぶ気持ちで賛美し、踊ることの大切さを教えていただきました。
聖書には、捕囚としてバビロンに連れて行かれたイスラエルの民が、シオンに帰ってくるとき、喜び歌ったと書かれています。

「彼らは喜び歌いながらシオンに入り、その頭にはとこしえの喜びをいただく。
楽しみと喜びがついて来、悲しみと嘆きとは逃げ去る。(イザヤ51:11)」


どんなに悲しいことがあっても、悲しみが喜びに変えられるときが必ずきます。


礼拝の後、やぐらの周りで皆でめぐみ音頭を踊りました。ナルクンは、あきっぽい性格で本を読んであげても最後まで聞かずに走り回るような落ち着きのない子どもです。

でも、めぐみ音頭が気に入ったようで、片方ずつママとわたしが手をつなぐと、うれしそうに踊っていました。
二回目の踊りのとき、牧師のS先生が走って来られ、ナルクンの手を取って踊りだしました。ナルクンは人見知りもせず、きげんよく踊り続け(10分ぐらいでしょうか)、最後まで踊ったのでびっくりしました。


わたしは夢中で写真を撮りました。写っていたのは後姿ばかりでしたが……。

その後、輪投げやヨーヨーつり、ペットボトルボーリングなどでヒックンとナルクンは楽しんでいました。
教会員の人たちが心を込めて用意してくださったたこ焼きやチジミ、おにぎり、フランクフルトなどいただいて帰りました。

今朝、ミサイル発射警報が携帯から鳴り響き、びっくり仰天しました。
ちょうど朝のデボーション(聖書を読み、祈る)をしようとしていたところだったので、
テレビをつけたい気持ちを押さえて、

「神様、ミサイルで亡くなる方や怪我をする人が出ませんように。このことがきっかけで戦争になりませんように。日本を憐れんでください。世界を憐れんでください。北朝鮮の人たちを憐れんでください。北朝鮮に拉致されている人たちを憐れんでください」と何度も繰り返して祈りました。

横田めぐみさんはじめ、拉致されている人が、喜び踊りながら帰国できる日が近づいている気がします。



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「もうダメだ」と言わないで

2017-08-22 16:54:35 | ティーンズ
先週、ソークンは一か月検診を無事クリアして、娘たちは横浜の自宅に帰っていきました。
6月から来ていたので3か月近くいたことになります。夜中に目が覚めると、ソウクンがまだいるような気がします。
疲れましたが、無事役目を果たせてほっとしています。

TEENS礼拝では、職業人シリーズとして、福祉関係で働いているクリスチャンの証しを聞いています。
先日は、ケアマネージャーとして働いておられるOさんのお話でした。一部紹介させていただきます。

風邪をひいて自宅で転倒し、ひとりでトイレに行けなくなってしまった高齢者のFさんの事例が挙げられました。Fさんは「こんな身体になってしまって、もうダメだ」と言ったそうです。
言葉がけ次第で、その後がずいぶん変わることがわかりました。

①「もうダメだなんて言わないでください。大丈夫ですよ」
②「頑張らなくていいのですよ。ゆっくりしてください。今までずっと頑張って来たではありませんか」
③「これまでのようにお仕事ができなくなって、つらいでしょう。それでも、以前のように何か役目を果たしたいとお考えなのでしょう」

①~③、どれもよい言葉がけですね。でも、意欲的になるのは、③のように言われたときだと教えていただいて、確かにそうだと思いました。
Fさんは、「もうダメだ」と絶望しています。①や②のように言われると、治る見込みがないかもしれないと思い、リハビリをしようという意欲がなくなってしまいます。
③のように言われると、ダメじゃないかもしれない。以前と同じようにはできなくても、何か役に立つことができるようになるかもしれないと思うのです。

ここで、ケアマネージャーは方向性を考え、ケアプランをたてたり、トイレに手すりをつけたりします。

新約聖書のエペソ2:10には「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。」と書かれています。

わたしもそのうち高齢者と呼ばれるようになります。最近、高齢者の心境がわかってきました。

昨日と今日は同じようですが、だんだんと体のあちこちが痛くなり、頭がぼんやりとし、今まで普通にできていたことができなくなってきます。
あせってもゆっくりとしか行動できず、物忘れをし、人の名前がわからず、言葉が出てこないこともあります。怪我や病気をするとたちまち弱ってしまい、回復が遅れ、自分は「もうダメだ」と思ってしまうことがあるでしょう。

そのような方たちに言いたいです。
あなたは、ダメなんかじゃありません。生きている限り使命があるのです。
60代には60代の、70代には70代の、80代には80代の、90代には90代の使命があるのです。

人は、良いことをするために神様によって造られた作品だからです。もし寝たきりになったとしても、「祈る」という仕事ができるので、使命を果たせます。


カテゴリーに『ティーンズ』を加えました。


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いのちがけの申告

2017-08-16 16:26:31 | 教会
一昨日、友人に暑中お見舞いを出してしまいました。とっくに立秋を過ぎているとも、涼しくなっているとも気づかずに、暑い日が続いていますが、お体に気を付けて……と書きました。

わたしにとっては、暑い夏がずっと続いているのです。毎日2回洗濯機を回し、2回買い物に行き、4~5人分の食事を作り、客人が来れば8人分作り、教会学校キャンプへ行く10歳の孫の送迎をし、赤ん坊をあやす毎日でした。

10歳のヒックンは昨日自宅に帰り、娘一家は娘婿の実家に出かけた(明日にはもどってきますが)ので、今日は初めて涼しさを感じたところです。

13日の敗戦記念礼拝は、ティーインズの子どもたちも大人の礼拝に与かりました。

戦後72年が経ち、戦争を知っている世代が高齢となっています。
学校では戦争について教えますが、どのようなことが行われたのか詳しくは教えません。
日本がインドネシアを支配していた時のこと、中国で大虐殺を行ったこと、韓国を30年以上も支配し、国土、名前、人権、いのちを奪ったことについて、学校ではどれだけ教えているのでしょうか。

礼拝では末永敏事(すえながびんじ)という長崎出身の医師のことが紹介されました。
末永敏事は、当時最先端の結核の研究をしていました。

国家総動員法によって国民徴用令が出されたとき
「反戦主義者であること申し上げます」と宣言して検挙され、行方知れずとなりました。

家族や親戚も末永敏事について知らされなかったのですが、最近調べてみると、地元の新聞に敏事が無教会主義のキリスト教伝道者、内村鑑三の薫陶を受けたこと、長崎医学専門学校(現長崎大医学部)を卒業後、米国に留学し、シカゴ大やシンシナティ大で研究していたことが書かれていたそうです。

敏事は内村鑑三に出会ってクリスチャンになっていたのです。
信仰に基づいて、いのちがけで申告したのですね。


聖書の言葉
「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。(マタイ5:9)」



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選択の自由

2017-08-08 16:05:23 | ティーンズ
暑さの中にあって、ソークン(娘の赤ちゃん)は元気です。大きすぎると思った産着が小さく感じられるほどになりました。まだ起きている時間より眠っている時間が長いですが、顔を見ていると、寝ていても起きていても、実に様々な表情をします。しかめつらもすれば、微笑んだり、口をすぼめたり、いきんで真っ赤になったり、くしゃみをしたり……。泣くときは全身で大声を上げます。生命力の強さに圧倒される毎日です。

日曜日にはソークンを見に妹と姪が都内からやってきました。息子一家も来て次々顔を見せたので、ソークンは興奮してその夜はなかなか寝付けなかったそうです。新生児でもわかるのですね。

今日は6日のTEENS(中高生)礼拝のメッセージから考えたことを書かせていただきます。

最初の人間は、アダムとエバです。アダムとエバはお母さんのおなかから生まれたのではなく、神様によって直接造られました。

ふたりは神様と共にエデンの園に住んでいました。神様は、アダムとエバに園の木に実っているどの果物でも食べてよいが、善悪の知識の木から取って食べてはならないと言われました。

アダムとエバがエデンの園で過ごしていた日々がどれくらいの期間だったのかわかりませんが、ありとあらゆる木の実を自由に食べられて、幸せだったのではないでしょうか。
ふたりはいつも神様と一緒で、隠しごともなく、どんな小さなことでも神様に話していたのだと思います。
「今日の夕食は何を食べたらよいでしょう。バナナですか? ブドウですか?」
と尋ねたかもしれません。

でも、神様はどの果物を食べたらよいか指定しませんでした。自分たちで選ぶようにされたのです。

神様のみこころに従って生きたいと願うとき、選択肢があるとどれを選んだらよいか迷います。神様がはっきり示してくださればよいのにと思います。
聖書を読んで、あるいは祈っていて示されることもありますが、わからないときの方が多いです。
そんなとき、神様が「何を食べてもよいのです。善悪の知識の木の実以外は」とアダムとエバに言ったことを思い出すようにと教えられました。

神様は人間をロボットのようになってほしいとは思っておられません。何から何まで命じてその通りにさせようとするのではなく、選択の自由を与えてくださっています。

自由があるからこそ、個性を生かすことができるのです。
神様が悲しまれるような道を選んでしまって、罪を犯してしまうこともあります。でも、罪を犯したからといってそれで終わりではありません。

エバは蛇にそそのかされて、唯一食べることを禁止されている木の実を食べてしまいます。そして、アダムにも食べるようにすすめ、アダムも食べてしまいます。その直後、ふたりは神様から身を隠します。

神様に見つけられたとき、ふたりは自分以外のもののせいにしてあやまりませんでした。それでエデンの園から追い出されてしまいました。神様はどれだけ心痛めたことでしょう。
神様はアダムとエバに皮の衣を作って着せてくれます。
それは、後にキリストによって人類を救うことを表しているのだそうです。
神様は罰を与えるとともに、人類の救済計画をこのときから考えてくださっていたのだと思うと、心が震えます。

人生は選択の連続だと言われているそうですが、選択をするとき迷います。間違ったらどうしよう。この道を進んだら大変なことになってしまうかもしれない。
決断力のないわたしは、どうしよう、どうしよう……と思ってばかりでした。

けれども、神様が禁止されている道でなければ、どれを選んでもよいのだと気づかされました。

聖書には次のように書かれています。
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(ローマ8:28)」

どの道を選んでも、神様は益としてくださいます。益となったことがずっと後になってわかることもあります。だから、恐れずに選んでいきたいです。



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へりくだるとは

2017-08-02 15:19:53 | 教会
先日の礼拝メッセージで「へりくだり」について語られました。

へりくだりの同義語で「謙遜」という言葉があります。

辞書には、『卑屈になる ・ 卑下する ・ 自己評価を低くする ・ 自分の価値を下げる ・ 自分を卑下する』などと書かれていますが、聖書に書かれている意味合いは、ちょっと違うようです。


へりくだりとは、『他者を顧みる』『他者を大切にする』ことだと、教えていただきました。

イエス・キリストこそ、へりくだりのモデルです。なぜなら、無限であるイエスが有限な者になってくださったからです。
「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。(ピリピ2:6-7)」

神が人間を救うために人間となって来てくださったのです。

キルケゴールはこのことを物語として書きました。

ある国の王子が地方へ旅をしました。旅の途中で馬車の窓から見かけたひとりの農家の娘に恋をしました。
王子はどうしてもその娘に会って恋を伝えたいのですが、王子の権威で会うことはしたくありませんでした。王子は一人の男性としてその娘を愛し、一緒になるために王子の身分も財産も捨てて、村人となってその娘と結婚しました。キルケゴールは、「これは、神が世に来られたことを表している」といいました。


森繁昇さんの『ゴキブリ』という歌が礼拝で流されました。
トイレに流されそうになって、もがいているゴキブリを素手ですくい取って助けてくれ、同じゴキブリになってくれたことへの感謝を歌っています。
何ともユーモラスで、最初は笑みがこぼれました。途中で自分こそおぼれかけたゴキブリのようだったと気づかされ、はっとしました。そして、救ってくださった神様に感謝しました。

祈り
わたしは、へりくだった者ではありません。もし、わたしのことをへりくだっていると誰かが言うなら、その人は、わたしの見せかけの姿を見ているのです。
謙遜のふりをするのはたやすいです。でも、本当に謙遜な人になるのは難しいのです。
わたしは、本当の意味でへりくだっていません。他者ではなく、まず自分のことをいちばんに考えてしまう冷たい心を持った者です。
でも、わたしの願いは謙遜な者になりたい。へりくだって相手を自分より優れた者だと心から思えるようになりたいと願っています。どうかそのようにわたしを変えてください。



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