生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

私は私らしく

2018-09-27 16:35:04 | 
前回、家庭集会で読んだ水野源三さんの詩の紹介させていただきましたが、レジュメにもうひとつ書かれていたのでそれも紹介いたします。

「生きる」 水野源三

神様の大きな御手の中で

かたつむりは かたつむりらしく歩み
蛍草は蛍草らしく咲き
雨蛙は雨蛙らしく鳴き

神様の大きな御手の中で
私は 私らしく 生きる


生を受けたものは、使命を持っています。この世界の生き物は、目的をもって神様によって造られたからです。

その目的がわからずに背伸びしたり、どうせ自分には才能がないからと卑屈になったり、人と比べて落ち込んだりします。

その人らしく生きるのがいちばんですが、自分らしく生きるとは、どういうことでしょう。

かたつむりが、かたつむりらしくなく歩んだらどうなるでしょう。そもそもかたつむりらしくとは、どういう意味でしょうか。逆立ちしても素早く歩けるとは思いません。かたつむりらしくは、『ゆっくりと』ということでしょう。

蛍草は小さな花です。ひまわりやバラのような派手さはなく、人に気づかれることなく庭の片隅にひっそりと咲いているというイメージの花を引用したのは、源三さんが、蛍草をご自分に重ね合わせたのかもしれません。

「雨蛙は雨蛙らしく鳴き」と、ここで聴覚に訴えるものを持ってきたのは、源三さんらしく思います。源三さんは声も出すことができなかったのですから、じっと蛙の声に耳を傾けていたのでしょう。

私は私らしく生きるとは、どういうことでしょう。体を動かすことができず、まばたきでしか意思を伝えられないのに「私らしく生きる」と書いて、自分の境遇を受け入れています。そこには不満や怒り、嘆きがありません。平安があるだけです。
そのような心境になれたのは何故でしょう? 一行上に「神様の大きな御手の中で」という一文がありますが、そこに秘密が隠されている気がします。

「すべてのことは、神様の御手の中にあるので、何が起きても動揺することはありません。神様が最善をなしてくださるので、ありのままで従っていくだけです。自分のできないことを嘆くのではなく、今与えられているものを用いて精いっぱい生きることが私らしく生きるということです」
源三さんはこのように思ってこの詩を書いたのではないかと想像しました。

最後にわたしの好きな賛美曲「このままの姿で」の歌詞を紹介します。
   
   このままの姿で 

ちいさな野の花でも
主の愛をうけて かがやく
あふれる主の恵みは
いついつまでも
バラはバラのように
すみれはすみれのように
わたしもこのままのすがたで
ついてゆきます

空をとぶ鳥たちは
主の愛をうたいつづける
あふれる感謝 よろこびは
いついつまでも
わしはわしのように
すずめはすずめのように
わたしも主のほめうたを
うたいつづける
   詩、曲ノア




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なぜ災害が起きるのでしょう

2018-09-21 16:38:55 | 聖書から
ごぶさたしています。
昨日の家庭集会で感じたことを書かせていただきます。

この夏は災害が続いて、まだ苦しみの中にある人たちが大勢おられます。なぜこのような災害が起きるのかと、問いただしたい気持ちになることでしょう。

旧約聖書の出エジプト記にはモーセがイスラエルの民を率いて荒野を旅するようすが書かれています。エジプトを出発してカナンの地に行くのです。まっすぐ行けば2-3か月で行けるそうですが、回り道をしたため40年もかかって到着しました。

回り道をさせられた理由はわからないのですが、イスラエルの民は、神様に導かれて苦難のある荒野を旅したのです。神様の側からみると、あえて民に苦難の旅をさせたということです。なぜでしょう。

水野源三さんの詩に「苦しまなかったら」という詩があります。

「苦しまなかったら」 水野源三

もしも私が苦しまなかったら
神様の愛を知らなかった

もしも多くの兄弟姉妹が苦しまなかったら
神の愛は伝えられなかった

もしも主なるイエス様が苦しまなかったら
神様の愛はあらわれなかった。


水野源三さんは子どものころ赤痢に罹って、命は助かりましたが、体が動かせなくなってしまいました。
まばたきで意思を伝えることしかできませんでしたが、たくさんの詩を作って、多くの人に感動と生きる力を与えました。

源三さんは、自分の病気を嘆くのではなく、苦しみにあったので神の愛を知ることができたと書いています。

詩篇には「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。(詩篇119:71)」と書かれています。

わたしの場合は、苦難の真っ最中にいるときは、神様がなぜわたしを苦しい目にあわせるのかわかりませんでした。でも、過ぎ去ってみると、心から「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした」と言うことができます。真っ最中にいるときにもそのように言えれば本物の信仰者です。水野源三さんのように。

また、出エジプト記19:5には「わたしの宝となる」と書かれています。
その言葉に感激しました。神様は何のとりえもないわたしを宝と言ってくださるのです。神様はわたしのことを造り、苦しみも与えてくださいましたが、多くの喜び、恵みを与えてくださいました。そして『お前はわたしの宝だよ』と言ってくださっています。なんとうれしいことでしょう!

最後になぜ災害が起きるのかについて。
なぜ災害が起きるのかわかりませんが、確かなことがあります。それはイエス様が災害にあわれた方のそばにおられるこということです。災害にあわなくても悲しみの中にいる人の傍らにイエス様がおられるのです。


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相手を変えようと思うのは……

2018-09-11 16:13:20 | ティーンズ
学生時代の友人のひとりが書いて送ってくれたハガキです。グリムというのは、わたしのニックネームです。
先月長野へ学生時代の友人9人で長野県へ旅行に出かけました。
旅行の後、ブログに旅行記を書きましたが、それを少し書き換えて、行けなかったひとりも含めて9人に便りを送りました。このハガキはそのお返事としてS子から送られてきたものです。おもて面には「グリムの生き方は素敵です」と書かれていました。うれしくて、S子の許可を得てからアップしました。

一昨日のTEENS礼拝は結婚についてのメッセージの第2弾。前の週に語ってくれたYさんの奥さんがメッセージしてくださいました。
その中で印象に残ったことを紹介します。

夫婦はお互い価値観が違うので、宇宙人のように全然理解できない者です。相手を変えようとしてはいけません。誰かを変えようとするのは、愛のない行為です。相手を受け入れて、自分を変える努力をしてくださいというメッセージでした。夫婦円満の秘訣ですね。

ニーバーの詩が紹介されました。

祈り

変えることのできないものに対しては、

それを受け入れるだけの冷静さを、

変えることのできるものに対しては、

それを変えるだけの勇気を、

そして、変えることのできないものと、

変えることのできるものとを見分ける知恵をわたしに与えて下さい


(この詩は、以前このブログで紹介しました)

日曜日の午後は、教会でH先生の歓迎会がありました。また、以前伝道師として教会におられたM先生と5年ぶりぐらいにお会いできて楽しい時間を過ごしました。

日本クリスチャン・ペンクラブのHP更新しました。ここをクリックしてごらんください。わたしのエッセイが掲載されています。



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誓うとは?

2018-09-03 16:42:17 | ティーンズ
9月に入った途端涼しくなって、ほっとしています。

男性が結婚の申し込みに相手の家に行くとき、「娘さんを幸せにすると誓います」と言う人が多いと思います。

でも、人が人を幸せにできるでしょうか。もちろん、その言葉は嘘偽りがなく、誠実な気持ちで言うのですが……。

結婚してから思わぬ出来事、たとえばどちらかが病気になる。会社が倒産して収入がなくなる。災害にあって財産、家を失うなど……その人の責任ではありませんが、妻を幸せにするという誓いが果たせないことがあります。

結婚式のとき、キリスト教では司式をされる牧師先生が『……その健やかなるときも、病めるときも、富めるときも、貧しきときも、死が二人を分かつときまで、命の灯の続く限り、あなたの妻(夫)に対して、堅く節操を守ることを約束しますか』
と、夫になる人と妻になる人、それぞれに尋ねます。牧師先生の言葉に続いて『はい。約束します』と答え、誓約が成立します。

ところが教会で結婚式を行う予定のふたりが、結婚カウンセリングを受けたとき、男性の方が「結婚の誓約はできない」と言ったそうです。
牧師先生は頭を抱え、女性は泣き出してしまったそうです。

この話を聞いて、彼がいかに誠実であるかわかりました。男性は、100%確信できないと誓えないと言いました。誓約を単なる儀式として考えるのではなく、神に対しての誓いなので、簡単に誓えないと思ったのでしょう。
誓うということに対して真剣に考えれば考える程、簡単には誓えなくなってしまいます。

先輩に「確かな思いじゃなくても、そう信じる心が大切」と言われたこと。また、彼女は確信できると言っているので、それにかけてみようと思って誓約する気持ちに変えられたそうです。

結婚しても最初は相手のことがよくわかっていません。生まれ育った家庭環境、考え方、感性などことごとく違っています。違って当たり前なのです。
結婚と洗礼は似ています。100%相手のことがわかって結婚するわけではありません。洗礼も神様のこと、聖書のことがよくわかってから受けるのではありません。
その人と共に生きることを決意したとき、結婚します。
神と共に生きる決意をしたとき洗礼を受けます。

TEENS礼拝で結婚についてのメッセージを聞いて考えたことを書きました。



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