生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

受けるより与える方が…

2011-04-28 12:43:54 | その他
昨日の水曜礼拝はT先生の4回目のメッセージでした。
一部を紹介させていただきます。


「受けるより与える方が幸いです」とイエス様が言われました。
でも、この世ではその逆の流れがあります。
震災の後の買占めに走る人々の姿、風評被害などがその例です。

マタイ14章15~21節には、5つのパンと2匹の魚で5千人以上の人を満腹させたというイエス様の奇跡が書かれています。
イエス様は「受けるより与える方が幸いです」を弟子たちに実践させようとしました。
与えるものを十分持っているのなら問題ありませんが、そこには5つのパンと2匹の魚しかありませんでした。

そこには男だけで5千人いました。ということは女性と子ども合わせて1万5千人ぐらいの人がいたことになります。弟子たちはとても足りないと思いました。弟子たちの理性、常識は、イエス様のなさろうとしていることを阻むものとなりました。
弟子たちは、イエス様が人の心を満たすことはできても人の腹を満たすことはできないと思っていました。

ところが、イエス様は5つのパンと2匹の魚を配るように言われます。弟子たちは、主が命じられたので従うことにしました。
すると、パンと魚は配っても、配ってもなくなりません。それどころかパンきれの余りが12のかごにいっぱいになりました。12は完全数です。みんなが充分満たされたということです。

弟子たちは、信じることができないまま主に従うことを選んだのです。
これが弟子たちの信仰のターニングポイントです。

ペテロがイエス様に言われて網を降ろす場面もそうですが、信じることができなくても主が言われたからやってみる。このことが大切です。そうすると奇跡が起こります。

受けることにおいては、わたしたちは神さまから無尽蔵の恵みが与えられています。
与えることは、分かち合うことです。

試行錯誤の中から失敗を恐れずに分かち合うことです。
分かち合うと3つのことが起こります。

①必ずその行いが主の宣教のみ御業の中で用いられて行きます。
②必ずその人が恵まれ、その人の信仰がワンステップ上がります。
③個人的信仰から互いを必要とする信仰へ移行していきます。

学ぶ、信じる、分かち合う、の3つのことにより信仰が新しい段階に入ります。


「受けるより与える方が幸いです」を実行するには、わずかなものしか持っていないことを気にしていてはいけないのだと思いました。

わたしは、礼拝や聖書の学びの中で受けた恵みをブログに書くことによって、読んで下さるみなさまと分かち合えたらいいなあと思っています。

これでいいのかなあ……伝わったかなあ……と悩みながら、試行錯誤しながら……。



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イースターの意味

2011-04-26 12:40:23 | CS(子供伝道)
23日の土曜日、ヒックンとママが来ました。主人は、朝からはりきって掃除をし、わたしは夕食の下ごしらえと昼食の用意をしながら待っていました。

居間には主人が段ボールで手作りした高速道路をセットし、おもちゃを並べて、ヒックンが楽しそうにミニカーで遊ぶ姿を想像していました。

ところが、その日はヒックンの遊ぶ姿を見ることができませんでした。いつもは満面の笑みをみせてくれるヒックンですが、笑顔がなく、ママに抱かれて眠そうな顔でやってきました。
熱を測ると39.8℃もありました。午前中は元気だったのに……と、ママもびっくり。
何も食べられず、おもちゃにも興味示さず、ただぐったりと寝ているばかりです。
治るまで泊まってもらうことにしました。

ママが病院へ連れていくと、インフルエンザではなかったのでほっとしました。座薬を入れると熱が下がってきて、笑顔でおしゃべりをはじめました。ヒックンは月曜日には平熱になりましたが、一日我が家で過ごし、今日は保育園に行きました。


日曜はイースター礼拝でした。教会学校ではパネルシアターを使ってわたしがメッセージをさせていただきました。以下はメッセージのあらましです。(聖書箇所ルカ24:1-12)



イエス様が十字架につけられて死に、墓に葬られて後、3日目の朝のことです。
マグダラのマリヤ、ヤコブの母マリヤ、ヨハンナの3人は、イエス様の体に香油をぬろうと墓へ向かっていました。マリヤたちは、墓が大きな石でふさがれているのを知っていました。自分たちだけでは石を動かすことができないのですが、どうしてもイエス様に香油をぬってさしあげたいと思って出かけました。

ところが、墓の前に行くと、石はすでにころがしてありました。中をのぞくと墓は空っぽでした。マリヤたちがおろおろしていると、神様の御使いがやってききました。マリヤたちは驚いてひれ伏しました。

御使いが言いました。「あなたがたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたからです」

御使いは、イエス様がガリラヤにおられたころ、ご自分が十字架につけられ、3日目によみがえることを話していたと告げました。それを聞いて、マリヤたちは思い出しました。そして、御使いの言葉を信じて大喜びで他の弟子たちのところへいきました。

「墓はからっぽでした。主はよみがえられたのです!」
マリヤたちは伝えましたが、弟子たちは「そんなこと、あるはずがない」と、信じませんでした。
ペテロとヨセフだけは墓に確かめに行きました。墓はからっぽで、中にはイエス様の体を包んでいた亜麻布だけがありました。

どんな偉い人でも死んだら骨が残ります。でも、イエス様の骨は世界中どこを探しても見当たりません。それは、死んだままではなく、よみがえられたからです。
イエス様は今も生きておられ、わたしたちと一緒にいてくださいます。

イエス様がよみがえってくださったおかげで、イエス様を信じる人は罪が赦され、永遠の命が与えられるというすばらしい約束が実現しました。

イエス様の復活をお祝いする日がイースターです。イエス様がよみがえってくださったことを喜び、イースターの意味を知らない人に伝えましょう。



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喜びたい

2011-04-22 15:43:45 | 
田中好子さんが乳がんで亡くなったことを知ってショックを受けています。田中好子さんはわたしと同学年です。キャンデーィズ時代も素敵でしたが、女優としての活躍も素晴らしく、好きな女優さんのひとりでした。

彼女が乳がんだったとは知りませんでした。1992年に手術を受けたそうです。『19年間の闘病』とニュースの記事には書かれていましたが、19年間ずっと治療を受けていたわけではないと思います。術後には抗がん剤治療や放射線治療を受け、その後何年かは薬を飲んでいたでしょう。

でも、その後しばらくは定期的な検査と経過観察をされていたのだと思います。術後19年もたったから、もう再発転移の心配はないと思ったことでしょう。ところが、昨年の秋に再発し、多臓器転移もわかったそうです。その半年後、55歳で召されてしまうとは……身につまされます。
    
乳がんは完治ということがなかなかいえない病気らしいです。5年再発転移がなければ完治といえる癌が多いのに、乳がんだけは10年以上たっても再発転移することがあると聞いていました。
わたしはやっと7年半。他の人は「もう7年も経ったんだね」と言いますが、わたしとしては、やっとです。

術後10年まで飲み続けるようにと言われていた薬が今月で終わりになりました。注射も一応終了です。ほっとしますが、不安はぬぐえません。
もし、わたしが再発転移したら、そのときも喜べるのだろうか・・・と考えてしまいました。

自分ではなく、イエス様に視点を移すと見える景色が変わってきます。久々に詩を書きました。(昨日のブログ記事と関連しています。)



喜びたい

何もできなくて無力な自分を悲しむより、

どんなこともできるイエス様を喜びたい

乳がんになった自分を憐れむより

いのちを与えて下さったイエス様を喜びたい

悲しい事ばかりあると嘆くより

悲しみを越えさせてくだるイエス様を喜びたい

将来起こることの不安におびえるより

将来のこと、すべてを導いて下さるイエス様を喜びたい

過去に犯した罪の重さを嘆くより

その罪を消し去って下さったイエス様を喜びたい

わたしが死んだらどうしようと怯えるより

墓の中からよみがえり、死に打ち勝って下さったイエス様を喜びたい



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喜びなさいと言われても……

2011-04-21 17:10:49 | 教会
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。(Ⅱテサロニケ人への手紙5:16)」と聖書に書かれています。

わたしは、このみ言葉を読むと短大のときのF先生を思い出します。
卒業のとき、色紙にF先生が書いて下さったのがこのみ言葉でした。聖書の言葉ということはわかりましたが、なぜいつも喜ばなくてはならないんだろう。クリスチャンになると、親が死んだときも、受験に失敗した時も、災害に見舞われたときも、病気になったときも喜べるのだろうか……と思ったのでした。

後に洗礼を受けましたが、いつも喜ぶことはとてもできませんでした。洗礼を受けた当初は、聖書を読めば読むほど落ち込んでしまい、喜びなどどこにもありませんでした。

「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。(マタイ5:44)」
「あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。(マタイ5:39)」

などという聖書の教えはとても実行することができないと思って落ち込んでしまったのです。
確かに聖書の教えは倫理性が高く実現不可能なことです。どれひとつできないのにどうして喜ぶことができるのでしょう……。

昨日の水曜礼拝では喜びについて、T先生からメッセージを聞きました一部を紹介します。

イエス様は十字架につけられる前、ゲッセマネの園で弟子たちに「わたしは苦しみのあまり死ぬほどです(マタイ26:38)」と言われました。十字架を目前にして苦しみもだえています。

イエス様が死ぬほど悲しいと言われたのは、罪のない神の御子イエスが、全人類の罪を背負い、神から罰せられて死んでいかなければならないからです。
ご自分が犯した罪ではなくても、罪の故に罰せられる死を遂げなくてはならないことが辛いとイエス様はおっしゃっているのです。

ゲッセマネで苦しみの祈りをささげてから、イエス様は十字架の道を進んで行かれました。そして十字架で死に、葬られましたが、三日目に復活しました。

復活されたということは、イエス様が死ぬほどの苦しみや悲しみを克服されたということです。喜びとは、イエス様がこの苦しみ、悲しみを克服された喜びであり、このことが十字架の救いのメッセージです。

自分には聖書に書かれていることを実行することができませんが、イエス様が実行してくださったのですから、このことを喜ぶのです。そして、実行することができたイエス様をほめたたえ、愛し尊敬することによって新しい喜びが生まれてきます。

ピリピ人への手紙4:4には「いつも主にあって喜びなさい。もういちど言います。喜びなさい」と書かれています。
自分では喜ぶことができなくてもイエス様から喜びをいただけます。


主にあっていつも喜んでいたいと思いました。

 
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受難週

2011-04-18 17:07:00 | 教会
昨日は受難週礼拝でした。受難週というのは、エルサレム入城の日から復活の前日までの一週間のことで、キリストの十字架の苦しみを思って過ごします。

教会学校でもイエス様が十字架につけられたお話をしました。すると、ひとりの子どもが「来週は、よみがえったイエス様の話だよね」と言いました。その通りです!!

キリストが、ろばの子の背に乗ってエルサレムに入城されたときは、人々から「ホサナ、ホサナ!」と歓迎されました。それなのに、その週の金曜日には「十字架につけろ!」と人々からののしられました。

十字架は最も残酷な死刑の方法でした。イエス様は、十字架からのがれることもできたのにそうはなさいませんでした。子羊のように黙って十字架につけられ、死んでしまいます。それは、全人類の罪に対する罰を受けるためでした。

聖歌隊がマタイの受難曲をドイツ語で賛美しました。
スクリーンにはイエス様の苦しまれる姿が描かれた絵画が映し出されました。キリストが十字架をかついで歩いている横にあざけるような顔をした人の横顔をみてドキッとしました。自分の顔に見えたからです。そっくりだと思いました。

イエス・キリストのうちに何の罪も認められないと言う総督ピラトに向かって「十字架につけろ」「十字架につけろ」と群衆が叫びました。礼拝では実際に会堂の後方から3,4人の男性が叫びました。
わたしは、それを聞いて自分の声だと思いました。

ああ、何ということをしてしまったのでしょう。イエス様に対して背を向けたわたしは、あざける者、ののしる者の中にいたのです。

子どものころからひねくれた心を持っていて、いつも誰かをうらやみ、妬んでいました。
心に深い闇があって、その闇から抜け出せずにもがいていました。
表面上はおとなしくて素直ないい子でした。でも、心の中はとても醜かったのです。
イエス様のことを信じて洗礼を受けてからも、イエス様に背を向けてしまいました。
そんなことを考えていると悲しくて胸が潰れそうになりました。


「私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私は善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。(ローマ7:18)」
とパウロ先生も書いています。

そのとき、心にCSの子どもの声が響いてきました。
「来週は、よみがえったイエス様の話だよね」
イエス様は死んだままではありませんでした。よみがえられたのです。わたしの醜い罪は十字架によって消し去られたのです。

ハレルヤ! 来週はイースター(復活祭)です。


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寅さんから教えられたこと

2011-04-14 21:08:05 | 教会

昨日の水曜礼拝は、映画「男はつらいよ。寅次郎物語」よりメッセージがありました。
先週ハイジのお話をして下さったT先生です。ハイジと寅次郎・・・どういう共通性があるのかと思って、興味津津で聞きました。

まず、39話のDVDの一部を観せていただきました。
『般若の政』と呼ばれていた仕事仲間が死んで、寅さんがその息子秀吉を母親のところに連れて行くというストーリーです。


「人は何のために生きるのか」ということがテーマになっています。
極道の果てに死んだ般若の政の位牌に向かって寅さんは言います。「お前は何のために生きていたんだ!」
『人間は、どんな生涯でも誰かに惜しまれ、悲しまれるために生きる』というのが寅さんの人生観です。でも政が死んで悲しんだのは、サラ金の取立人だけだったそうです。

最後に満男から「人間は何のために生きているんだろう」と問われたとき、寅さんは「生まれてきてよかったと思うときがあるから、そのときのために生きているんだ」と答えます。

秀吉を母親に引き渡した寅さんは、すぐ立ち去ろうとします。寅さんにすっかりなついていた秀吉は泣き、まわりの人たちはせめて一晩泊まって行くように頼みます。でも、寅さんはそれを断って立ち去ります。

それは寅さんの渡世人としての見栄ではなく、彼の奥底にある倫理観からそういう行動をとったのだとT先生が言われました。
寅さんは、自分の置かれている立場を、人助けをした者の立場に置かず、ひどいことをして死んだ仕事仲間と同じ立場に置いています。それで立ち去ったのです。
居残れば、みんなに感謝され、賞賛を得ることでしょう。でも、自分を愚者として認識している寅さんは、それを拒みました。
それはパウロがⅠテモテ1:15で「私はその罪人のかしらです」と言っているのに通じます。

「仏様が寅の姿を借りて助けたんだ」というお坊さんのセリフは、愚者であるはずの寅さんが、賢者の衣をまとって愛の行為をしたことを意味します。

愚者が賢者の衣をまとうとは、罪人が救いの衣をまとうことにつながります。
聖書には「私たちはこの幕屋にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。(Ⅱコリント5:2)」と書かれています。


神様は、ぬぐおうと思ってもぬぐいきれない罪を持っている人間に賢者の衣を着せて下さいます。

わたしも神様から衣をいただきました。神様の与えて下さった衣は、カルバリの十字架の上で織られました。苦しんで血を流しながら織って下さった衣です。

この衣のおかげで罪ある者が、罪なき者とされました。このことを覚えて受難週に向かいたいと思います。


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震災から1か月

2011-04-11 16:38:19 | 教会
震災から1か月たちました。最初はこれほど大きな災害と思っていませんでした。ところが、日にちがたつほどにその大きさと深刻さが明らかにされ、ニュースを見たり、新聞を読むたびに気持ちが沈んでいきます。

幼い子供たちはどれだけ不安になっているのだろう……と案じていましたが、逆に励まされました。

昨日、教会学校で小学1年生の子どもたちに「お祈りしてほしいことがあったら言ってください」と言うと、「花粉症が治るように」とか「学校で友達ができるように」など次々声が上がりました。
「被災地にいる人たちのために」とひとりの女の子が言ったので、みんなで被災者のために心からお祈りしました。

午後は教会で行われた婦人会(泉会)に久々に参加しました。
泉会で教会付属幼稚園の先生が、話してくださったことに心打たれました。

地震が起きたとき、通園バスに乗っていたので揺れていることがわからなかったそうです。バスが止まったときはじめて地震に気づき、すぐに子どもたちと地震がおさまるようにお祈りをしたそうです。
お祈りが終わってもまだ揺れているので不安になって、「まだ揺れているね」と言うと、「だいじょうぶだよ。お祈りしたんだから」と園児が言ったそうで、その言葉に教師が励まされたと言っていました。
イエス様に心から信頼していると恐れがないのですね。


礼拝では「神への信頼が神の助けを呼ぶ」というメッセージが語られました。
詩篇22:4には「私たちの先祖は、あなたに信頼しました。彼らは信頼し、あなたは彼らを助け出されました。」と書かれています。

「信仰の先輩に習って神を信頼することが大切です。また、信頼は賛美する心を与えて下さいます」と牧師先生が言われました。

詩篇22:22には「私は御名を私の兄弟たちに語り告げ、会衆の中であなたを賛美しましょう。」とあります。
神様に助けを求めたとき、神様は聞いてくださいました。だから、賛美するのです。

問題の大きさに心を奪われていると不安が大きくなりますが、どんな問題よりも大きな神様の存在に気づくことが大切だと教えていただきました。


土浦の桜は満開です。


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創作の闘い

2011-04-09 09:03:22 | 日記
昨日は、土浦で年に4回ほど行っている児童文学の会の集まりでした。仲間たちと3か月ぶりの再会です。
このようなときですから、仲間と顔を合わせられる喜びはひとしおです。作品合評より、地震のことを話している時間が長かった気がします。
県北の方は欠席でしたが、メンバーの無事を確かめあってほっとしています。

人類の歴史の中で巨大地震と津波と原発事故という3つを同時に経験した人たちはいませんでした。被災県であり、原発事故の起きた福島の隣接県でもある茨城に住んでいるわたしたちは、稀な境遇だといえるでしょう。自分の立ち位置をはっきりさせて、時間をかけて執筆活動を続けていきましょうとの発言がありました。

早くも避難所のことを作品に書いた方もいましたが、わたしはまだ今回の災害を作品にすることはできません。
心の傷になっているからです。それに災害はまだ続いているからです。
一昨日の余震は、寝入ったばかりのときでしたが、飛び起きました。原発も終息していません。災害のことを書くとしたら、ずっと先になるでしょう。

子どもたちに神さまの愛を伝えるために童話や児童小説を書き始めて19年。
ほとんど途切れることなく継続して次々創作していましたが、昨年あたりから途切れがちです。闘いに疲れてきたせいかもしれません。

創作をするとき、ものすごい闘いがあるのです。『こんな作品書いたって何にもならない。どれだけ書いても上達しないし、本になる可能性は限りなくゼロに近い。忘れっぽくなり、体力も衰える一方なので、新しく長編を書くことはできない。』という内なる声が聞こえてくるのです。
そんな声に負けて何か月も創作しなかったことがありました。今回は、内なる声と闘いながら短編をようやく書きました。

全く自信がなくて、酷評されるかもしれないと覚悟して合評会に提出しました。
(ひどいときは、物語のつくりそのものがダメだと言われることもあるので……。)
褒められることはまずない厳しい合評会です。

ところが、「こんな災害のあった時に作品を書いてきて偉い」と褒められました。
内容について褒められたわけではないのですが……。

色々指摘されましたが、「物語のつくりはいい」といわれてほっとしました。
さっそく書き直そうと思っていますが、また闘いです。

罪や誘惑との闘いに勝つ秘訣は、真正面から闘うのでなく、さらりとかわすこと。み言葉(聖書の言葉)を思い出すことです。

書けなくなる誘惑との闘いに勝利するには、自分の力で頑張って書こうと思わずに、神様に書かせてもらうというへりくだった気持ちになることだと思います。

自分には書ないと思ったときは「私は私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。(ピリピ4:13)」というみ言葉を思い起こします。
書けないはずはないのです。イエス様が書かせて下さるのですから。


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「ハイジ」再び

2011-04-07 13:31:37 | 読書

昨日水曜礼拝でT先生からヨハンナ・シュピリ作「ハイジ」からメッセージを聞きました。
T先生は「ハイジは良質なキリスト教文学です」と言われたので、ハイジのファンであるわたしは嬉しくなりました。

わたしは数年前ハイジの原作を読んで、ハイジがキリスト教信仰に基づいて書かれた児童文学作品であることを発見しました。(2008年11月5日、7日のブログに記しています)
アニメではキリスト教に関することがカットされているので残念だということをブログに書きましたが、T先生は、アニメはキリスト教背景が退けられてはいるが、キリスト教に感化されたヒューマニズムが全編に繰り広げられていると言われ、アニメも高く評価されていました。

ハイジに挿入されている「お日さまの歌」(これもブログに記しています)は、創造主と救い主を一体として歌っており、荘厳で力強く、気高い信仰を表しているそうです。
神の本性を賛美し、やがて来る新しい世界に期待しています。どんなメロデイーがついているのか聴いてみたいです。

フランクフルトから帰ってきたハイジが放蕩息子の絵本をおじいさんに読んで聞かせます。おじいさんは、暗いい表情をしてじっと黙りこんでしまいます。
若い頃、おじいさんは放蕩息子そっくりだったからです。

小さな手を組んで安心してゆだねきった姿で眠るハイジをみて、おじいさんは「父よ、私は神とあなたに対して罪を犯しました。もはやあなたの息子と呼ばれる資格はございません・・・」と言って泣きながら祈りました。

翌日、おじいさんはハイジを連れて久しぶりに教会へ行きます。
牧師の言葉には、神をほめたたえるあたたかい感謝の気持ちがありました。
礼拝が終わったとき、おじいさんは牧師に会いに行きました。かつて牧師にひどいことを言ったことをあやまります。牧師はおじいさんの手を握って、「あなたは、わたしのところへ来る前に本当の教会へ行かれたのだ」と言います。

本当の教会に行くとはどういうことでしょう?
おじいさんは、自分は神に愛される資格のない者だと思っていましたが、自分に神の愛と赦しが注がれていることに気づきました。そのことが本当の教会へ行くという意味だと教えていただき、ジーンときました。

ハイジの原作のように信仰を明白に書くと、日本では受け入れてもらえません。でも、キリスト教信仰をベースに書くことはできます。

ハイジは創世記のヨセフ物語やNHKの「おしん」とも共通している。誰もが共感できる普遍性を持っていると聞いて、わたしもいつかハイジのような作品を書くことができたらいいのに……と思いました。



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メシヤの弟(その2)

2011-04-05 12:06:13 | 教会
余震が続いています。揺れなくても揺れているように感じたり、緊急地震速報が出てもたいしたことないと思って何もしなかったり……。感覚がおかしくなっています。

電車に乗っていて地震で止まってしまうことを恐れます。何時間も車内に閉じ込められたら、たちまち具合が悪くなりそうです。エレベーターは乗らないようにしています。つくづくマンションの2階でよかったと思います。
原発のことも不安です。福島県の方はどれだけ大変な思いをされていることでしょう……。

でも、聖書の約束を信じて平安をいただいています。

「たとい山々が移り、丘が動いても、わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない」とあなたをあわれむ主は仰せられる。イザヤ54:10


それでは昨日の続きを……


イエス様がガリラヤで宣教を開始したときは、迷惑だから他の場所でやってほしいと思っていた弟たちですが、その後イエス様を救い主として信じるようになります。
使徒の働きの1章にはイエス様が召天したのち、120名ほどの人たちが心を合わせて祈っていたことが書かれています。120名の中にイエスの兄弟たちが含まれていたことを使徒の働きの著者ルカがわざわざ書いています。

弟たちはいつ信じたのでしょう?
復活したイエス様に出会ったか、出会った弟子の言葉を聞いて信じたと推測できます。

ユダの手紙の冒頭には
「イエス・キリストのしもべであり、ヤコブの兄弟であるユダから、父なる神にあって愛され、イエス・キリストのために守られている、召された方々へ」
と書かれています。
しもべというのは直訳すると奴隷という意味で、全所有、いのち、すべてを捧げて主人に従うということです。

ユダが自己紹介をするのに「イエスキリストのしもべである」ことを真っ先に書いているのは、イエス様に変えられた尊い人生を何よりも大事だと思っているからです。
ユダは、自分の力で人生を切り開いていくという考えから、神の力で導かれる自分に変わりました。兄イエスから
『わたしの救い主イエス』に変わったのです。

「あなたは、イエスのしもべであることが最も重要なことになっていますか?」

と牧師先生が問いかけられました。

最後に新しく造り変えられた者の特色を語られました。


まず、人を見る目が変わります。
人を一人格として見るようになり、すべての人が神によって救われるべき魂だと思い、その人が救われるためにはどんなことでもしたいと思うようになります。
イエス・キリストだけが唯一の信ずべき神だと理解できます。
滅びから永遠の命へと導かれたことがありがたくてたまらなくなります。
イエス様が今も生きておられ、働いておられることを信じるようになります。


わたしも、イエス様を信じて180°変えられました。
嫌いな人がいても、キリストはこの人のためにも十字架にかかって死んでくださったのだと思うことによって愛せるようになりました。
罪を犯しているのにそれを罪であると自覚すらしていなかったわたしです。滅んでしまうしかない魂でした。イエス様はそんなわたしを救って下さり、永遠の命を約束して下さいました。
この喜びを多くの人に伝えたくてたまらないです。

わたしも自己紹介をするとき「イエス・キリストのしもべです」とまず第一に言いたいと思いました。



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メシヤの弟(その1)

2011-04-04 17:03:48 | 教会
3月で主人が定年退職しました。ほとんど無遅刻無欠勤でした。わたしの記憶では(結婚してからですが)病気で欠勤したことが一度もありませんでした。いちどだけ風邪で高熱を出して早退してきたことがありました。翌朝、熱が下がりきってないのにいつものように出勤しました。それで風邪が治ってしまったのですから、すごい回復力です。

37年間毎日、朝早くから夜遅くまで働いてくれたことを感謝し、「ご苦労様でした」と言いました。
今まで勤めていた会社で週3回仕事が与えられたので、お休みの日が土日以外に2日増えました。
わたしも生活のリズムが変わりました。落ち着くまでには少し時間がかかるでしょう。


昨日の礼拝メッセージではユダの手紙を書いたユダにスポットが当てられました。
ユダというとイエス様を裏切った弟子、イスカリオテのユダを思い起こしますが、このユダはイエス・キリストの兄弟のユダです。

(メッセージで語られたことは青字。聖書の言葉は緑字、わたしの感想は茶色字にしています。)


イエスキリストの兄弟は、年の順にヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダであるとマタイの福音書に書かれています。ユダは末っ子だったようです。
幼いころから一緒に暮らしていた兄が、自分こそ旧約聖書で預言されているメシヤ(救い主)であると言ってガリラヤで宣教をはじめました。

兄弟たちは戸惑ったことでしょう。兄は気が狂ったのだと思った者もいたでしょう。
ヨハネ7章には、迷惑だからガリラヤ地方で語るのはやめてほしい。どこか別の所で語って欲しいという弟たちの気持ちが表されています。

その理由として「兄弟たちもイエスを信じていなかったのである(ヨハネ7:5)」と書かれています。



弟たちの気持ちはわかります。兄として一緒に暮らしていたイエスがメシヤであるなんて、信じられなくて当然でしょう。
イエス様のことを知らなかった人たちの方が、すんなりとメシヤだと受け入れられたことでしょう。
メシヤと兄弟というのは嬉しいことですが、あまりにも身近な兄だからこそ信じられなかったのでしょう。

聖書にはイエス様が宣教活動を始められる前のようすが書かれていません。イエス様が12歳でエルサレム神殿に行ったときのエピソードがルカの福音書に書かれているだけです。

大工として父ヨセフから技術を学び、長男として家の仕事もしていたのでしょう。弟たちに対してはきっと優しい兄であったでしょう。
伝承によれば、大工であるイエス様はくびきを作りました。イエス様の作ったくびきをつけた牛や馬の首は傷つかなかったそうです。

                       つづく


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