生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

骨折

2009-10-30 13:12:19 | 日記

心のフィルムの連載が終わりました。更新していて、あのときのことを思い出して涙が出てしまいました。同時に神様の臨在を感じて感謝しました。
最終回の昨日は訪問者数が183人でした。読んで下さった方、どうも有難うございました。


わたしは10日前、不注意から家の中で足の指をぶつけてしまいました。どこにぶつけたか覚えていないほどで、1、2日で痛みが和らいだので2日後には三鷹の実家へ行って泊り、翌日は御茶ノ水まで行って来ました。自分の靴はどれも痛くて履けなかったので、娘の靴を借りて出かけました。立ち仕事で疲れないように買い求めたという娘の靴は、軽くてやわらかく、足先がゆったりしています。この羽根のように軽い靴(写真)が気に行って娘に譲ってもらいました。

その後、足の痛みは治るどころかだんだんひどくなってきます。
病院嫌いなわたしですが、昨日内科に行く用事があったので、ついでに整形外科を受診しました。(内科では3時間待たされましたが、新型インフルエンザの優先接種証明書をいただきました。接種できるのは来月中旬以降だそうです)

整形外科でレントゲンをとってもらったら、足の真ん中の指(第三指)が斜めに骨折していました。素人目に見ても折れているのがはっきりわかりました。

「砕けてもないし、ねじれてもなくてよかったですね。10日もたっているから何もしなくていいですよ。3週間ぐらいで自然に治りますから」と言われて、湿布も包帯もなしでした。

「しめつけるような靴をはいてはいけません」と注意されただけでした。
先の細い靴をはくと、骨が砕けてしまうこともあるそうです。

第2指、第4指と3本まとめてテーピングしていたこと。やわらかく大きめな靴を履いていたことが幸いしたようでした。

骨折と聞いてショックでしたが、骨折の中でもいちばん軽い方だと思います。歩くのを控えるようにとは言われなくてよかったです。自転車に乗れる(病院へは自転車で行きました)ことも感謝です。

それにしても、ぶつけただけで骨折してしまうとは……。もしかしたら乳癌の再発転移予防に飲んでいるホルモン薬アロマシンの副作用で骨量が少なくなっているのかもしれません。

半年前に骨量を測ったときは「若い人並み」と言われて喜んでいたのですが、それはアロマシンを飲む前のことでした。

もし骨量が減っているのだったら、転ばないように、ぶつけないように細心の注意を払わなければなりません。あわて者のわたしです。自戒しなければ……。

聖書の箴言には

あすのことを誇るな
一日のうちに何が起こるか
あなたは知らないからだ。(27-1)


と書かれています。
わたしが誇ることのないように神様が与えて下さった怪我なのだと思いました。

心のフィルムに(その5)最終回

2009-10-29 17:09:38 | エッセイ

すぐに看護師さんがきて、その後ろから母、妹、娘がバタバタとかけつけました。

「たった今、呼吸が止まっちゃったの!」というと、母が「お父さん、お父さん、お父さん!」と3回大声で呼びました。
 
すると父は息を吹き返し、数回呼吸して再び止まりました。医師が来て脈をとりながら「8時17分です」と言いました。

「間に合ってよかった。わたしが声をかけたから息を吹き返したのね」
 母が泣きながら言いました。
「お父さんはお母さんを待っていたのよ……」
「そうね。神様、有り難う」

父の顔は穏やかで平安に満ちていました。悲しいのですが、感動で心が震えました。父は信仰を告白して洗礼を受けることはなかったのですが、キリストを信じて天国に行ったのだと確信しました。

3週間の入院生活でしたが、その間少ししか苦しまなかったことが慰めとなりました。末期癌の壮絶な苦しみを恐れていたわたしに神様が「何にも心配することはないのだよ」と言って下さった気がします。

聖書の言葉を聞きながら静かに息をひきとった父に神様は栄光を現して下さいました。

葬儀は仏式で行われましたが、病院でお別れ会をして下さいました。「いつくしみふかき」の讃美歌で病院の先生や看護師さんたちに見送られてホスピスを出ました。

父の棺に入れる物を探していて驚いたことがありました。
父の部屋に三浦綾子さんの本「永遠の言葉」から抜粋してワープロで打った物の綴りが3部置いてあったのです。渡されることはありませんでしたが、3部コピーしてあるということは母と妹とわたしの分なのでしょう。それはB5で7ページもありました。父がこの本からどれほど深く影響を受けていたかがわかりました。

『寝たきりの、何も自分の言葉でものの言えない人も、思っていることの心の中はすばらしいですね。(一方)口に出して言えるわたしたちが「ありがとう」という言葉を出さずに生きております。わたしたちはこの口で何かを言う義務があると思います。』

との一文を読んで、父が召される数か月前からよく「ありがとう」と言っていたことを思い出しました。

短気な父があまり怒らなくなり、末期癌だと知っても平安でいられたのは、この本の言葉を通して父の心に聖書の真理が流れていたのだと思います。

父の遺骨は秋田のお墓に納められましたが、分骨して土浦めぐみ教会の納骨堂に納めることができました。それはわたしが望んだこと以上のことでした。 

人の命ははかないものです。どんなに長生きしても、死を迎えるときは、あっという間の人生だったという人が多いと聞きます。83歳で召された父も母にそう言ったそうです。

人は死に向かってまっしぐらに進んでいるような気がします。もし死がすべての終わりならば、こんなに空しいことはないでしょう。でも、神様はキリストを信じるものには新しい体を与え、永遠の命を下さると約束して下さっているのです。

そのことを愛する両親に伝えることが何よりも大切なことなのに、これまでなかなかできませんでした。

父が末期癌になり、時間が限られたおかげで勇気をもって伝えることができました。癌にならなくても、いつかは召されるでしょう。今思い返すと、父が末期癌と宣告されたことが大きな神様の恵みだったのです。

地上で父ともう会えないことが寂しいのですが、心のフィルムに焼き付けた父との美しい記憶が宝物として輝いています。

                 おわり

心のフィルムに(その4)

2009-10-27 12:02:16 | エッセイ

「お父さんに会いたかったから」と照れながら言って、お昼を一緒に食べ、屋上庭園に車椅子を押していきました。わたしはそこで再び福音を語りました。

「わたしはイエスさまを信じているから、死んだら天国に行けるの。お父さんも信じれば天国に行けるから、そこでまた会えるよね。お父さんが信じたら、お母さんやY子(妹)も信じると思うよ。みんなで、また会おうね」

 うんと頷く父の目は、少年のようにすんでいました。そのあとまだ父と何度も話しができるだろうと思っていましたが、それが最期の会話になってしまいました。

1週間後、父の容態が急に悪くなったと母から電話があり、急いで病院にかけつけると、父の意識はありませんでした。声をかけても反応がなく、時々反射的に手足を動かすだけです。

「あと1日か2日です」と言われました。
その夜は、わたしがひとりで病院に泊まることにしました。前日泊まった母と妹はほとんど眠れなかったため、疲れがピークに達していました。とくに母は憔悴しきっていたので、今日も泊まったら倒れてしまうかもしれません。
 
夜9時頃は血圧の変化もなかったので、病院から車で30分の距離にある妹の家に母と娘が泊まり、わたしは病室のすぐそばの家族室で休みました。

夜中に血圧が少し下がったので点滴をしますと連絡がありました。わたしは、どうか朝まで父の命を取り上げないでくださいと祈り続けました。

明け方、看護師さんが来て「呼吸が浅くなってきました」と告げました。急いで父のところにいくと、手や足の先が冷たくなっていました。顎を上げ一生懸命呼吸をしています。 

父のそばで毎朝やっているようにデボーション(聖書を読み、祈る)をし、母に電話をしました。

意識がなくても耳は最後まで聞こえているのだということを思い出し、手元にある聖書を父の耳元で読み始めました。詩編のいくつかを読み、マタイの山上の垂訓を読み、次はどこを読もうかと思ったとき、ベッドのかたわらに立ててあるカードが目に留まりました。それは、父に贈った誕生カードでした。

カードには「神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐいとってくださる。(黙示録21:4)」と聖書の言葉が書かれ、わたしの一番好きなみ言葉です。と書き添えていました。

それで黙示録21章の半ばから読み始めました。最後のページになったとき、ひどく胸騒ぎがしましたが、父の喉仏が上下するのを目の端でとらえながら読み続けました。


「わたしはアルファでありオメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである」


この30分の間だれも病室に入って来ませんでした。読んでいると父の呼吸が段々弱くなっていくのがわかりました。


「これらのことをあかしする方がこう言われる。「しかり。わたしはすぐに来る」アーメン。主イエスよ、来て下さい。主イエスの恵みがすべての者とともにあるように。アーメン。」

これは、聖書の最後に書かれている文章です。
 
読み終えたとき、とうとう呼吸が止まってしまいました。

「お父さん、待って、お母さんもうすぐ来るのよ」と声をかけましたが、変化がありません。急いでナースコールを押しました。

                    つづく

心のフィルムに(その3)

2009-10-25 17:18:37 | エッセイ

次に実家に行ったときは「4つの法則」という冊子を見せながら、イエスさまのしてくださったこと、十字架の意味、天国について話しました。父は聞いてくれましたが、そのときは充分理解していないようでした。

9月始め、母が用事で3日間家を空けるので留守番を頼まれました。父と2人で過ごす貴重なときとなりました。父は幼少のころのことや学徒出陣でシベリアに抑留されていたことなど話し、話しながら涙を流しました。このようなことは今までなかったので、死が近いことを思い、動揺しながら聞いていました。

父は「ぼくがこれだけ頑張っていられるのは、お前のおかげなんだ」とも言いました。
「どうして?」と尋ねると、「お前がくれた本にどれだけ力づけられたことか……三浦綾子さんの本には感動したよ。もしあの本を読まなければ、こんな病気になったのだから、落ち込んでいただろうな……」と言ったので感激しました。神様は父の心に働きかけて下さっていたのです。

それから2週間後、父は呼吸困難で救急車で病院に運ばれました。酸素吸入でよくなり、1日で退院し、自宅に戻ったのですが、母の手を借りなければトイレにも行けなくなってしまいました。

「ホスピスに入院する」と父が決心したように言って、9月末に入院することになりました。10月5日が83歳の誕生日なので、10日ほど早めて、父の誕生会をしました。バースデーケーキーにろうそくを立てて祝いました。子どもや孫たちに囲まれて父はとても嬉しそうでした。

9月末に救世軍ブース記念病院に入院しました。そこにはチャプレンの先生がおられました。父は先生に「わたしはべつに仏教を信じているわけではないんですよ。キリスト教はいいなあと思っています。どうも、娘に感化されたようでね……。」と言いました。

入院当初、父は元気で「一時帰宅してもいいですよ」と医師に言われたほどでした。誕生日には病院で盛大に誕生会をしていただいて、とても喜んでいました。
父はチャプレンの先生と担当の医師にそれぞれ2時間もシベリア抑留の話しをしたそうです。忍耐して聞いていただけたことを感謝します。話した後、父は無口になりました。

ホスピスの礼拝に誘われると、父はわたしと一緒に行きたいと言いました。それで礼拝のある日、朝早くからホスピスに行き、父と共に礼拝に出ました。
父は一生懸命話を聞いていました。礼拝のあと、「講習会(礼拝のこと)はいいものだなあ……。意味がよくわからなかったから、あとで説明してくれないか」と言うので、屋上庭園に出てメッセージの解説をしました。屋上なら人目をはばかることなく大声で話せます。(父はかなり耳が遠いのです)

説明が終わると、父は「あ、そういうこと」とひとこと言いました。

翌日は土浦に帰る予定でしたが、何か忘れ物をしたように思い、もう1日実家に泊まって次の日も父のところに行きました。

几帳面な父は見舞いに来る人の名と予定日時を手帳に書いており、病室を出るときはいつもメガネと手帳を持って車椅子に乗っていました。  

わたしが予定外の時間に行ったので「どうして来たんだ?」と驚いたようすでしたが、ニコニコしてとても嬉しそうでした。

                  
つづく

心のフィルムに(その2)

2009-10-23 07:57:40 | エッセイ

お父さんは若いとき学徒出陣でシベリヤに行き捕虜になり、腸チフスで生死をさまよったんですよね。もし、そのとき死んでしまったらお母さんとも出会わず、わたしも生まれなかったわけです。考えてみると不思議ですね。帰国してからお母さんと結婚してわたしが生まれたわけで、もし他の人と結婚していたらわたしは生まれなかったんですよね。

わたしはこのようなことが偶然とは思わず、神様が計画されたことだと考えています。そしてお父さんもわたしも、(もちろんお母さんも)神様に守られ、愛されているのだなあと感じます。

わたしの願いは、お父さんの病気がすっかり良くなって元気になることです。でも、悲しいことにいつかはお別れするときがあるでしょう。人間はどんな人でも死ぬことが決まっていますからね。でも、イエスさまを信じると、肉体は死んでも魂は死なないのです。

天国で再会できるんですよ。お父さんにもイエスさまを信じてほしいなあと願っています。それでは、お身体くれぐれも大切に。夏にまた一緒に旅行にいきたいですね。』

手紙に書いたように、わたしは決していい娘ではありませんでした。厳格な父のことが嫌いで、ずうっと反抗していました。ところが、わたしが反抗していたことを父はすっかり忘れていました。手紙を読んだ父が「そんなことあったのかなあ?」と首を傾げました。父は赦してくれていたのです。

父は、半年近くなんとか家で日常生活を続けていました。家事のいっさいを母にさせてはいけないと、食器洗いを手伝ったりもしていました。調子のいいときは近くを散歩もできるほど元気でしたが、癌は確実に広がっていたのです。

進行癌はなんて残酷なのでしょう。このまま家で生活を続けていたいとどんなに願っても、それができなくなるのです。食事ができ、呼吸ができ、眠れるということは当たり前のように感じていましたが、神さまによって健康が支えられていたからできていたのです。生きたいとどんなに願っても、自分では一秒も寿命を延ばすことができません。命は神さまの手に握られているのです。

7月に帰省したおり、父が熱心にワープロで何か書いていました。書いていたのは「死亡連絡先リスト」でした。父は先が長くないことを知っていたのです。
「これを3部ずつコピーしてくれないか」と、わたしに言いました。
3部というのは、母と妹とわたしの手元に置いてほしいからだそうです。父とわたしはコピーをしに近くのスーパーに出かけました。

父と肩を並べて歩くことは、あと何回あるのでしょう……。どんどん時間が過ぎ去っていきます。川の流れのように留まることなく……。でも、一瞬は永遠につながるのだから、父と歩いている今を心のフィルムに焼きつけようと思いました。

後日、ファイルに綴られた死亡連絡先を渡されました。ファイルの一ページ目には次のように書かれていました。

『父がこのような状態になってしまって、お母さん、お2人(妹とわたし)に連日ご心配かけて申し訳なく、感謝しています。お2人はこれからの人生がありますので、元気で頑張ってください。父は20代から何回となく死に直面して我ながらよくここまで生きてこられたなあと驚いています。

これもみなお母さんやお2人のお陰と思っています。人には寿命があり、父はいつ皆さんとお別れしてもいいと覚悟はしています。ただお母さんの今後がいちばん気がかりでなりません。どうか宜しくお願いします。』

そして、延命治療はしないでほしいと言いました。

癌になる2年前、父は大動脈瘤で手術を受け、10日ほど入院しました。お見舞いに行ったとき、三浦綾子さんの本「永遠の言葉」を渡しました。それから実家に帰るたび聖書やキリスト教関連の本、自分が書いた証を父に渡していました。

でも、聖書に書いてあることを父に口で説明したことが一度もありませんでした。実家には仏壇と神棚があり、父は毎朝仏壇の水をとりかえて拝んでいます。そんな父に伝えて、受け入れてもらえるのだろうか? と思う気持ちが働きます。 

なかなか話し出す勇気がなくてためらっていると、父が突然「お祈りは、もうしたのか?」と聞きました。その前に父と会ったとき、初めて父の前で声に出して祈ったのです。父は、また祈ってほしいと思っているのかもしれません。

わたしは父の横に座ると、父は手を組んで目を閉じているではありませんか! 嬉しくなって父の病気のこと、母のことなど長い時間祈っていると、「はい、終わり」と父が言ったので、あわてて「イエスキリストのみ名によってお祈りします。アーメン」と早口で言い、祈りを終わらせました。

「仏教とかキリスト教とか関係なく、神さまというものがいると感じている」
お祈りの後、父が言いました。父は『大いなるものの存在』を感じ始めているようでした。

               つづく

*これから出かけ、東京の実家に一泊してきます。

心のフィルムに(その1)

2009-10-21 17:43:25 | エッセイ

今月18日は3年前に召された父の命日でした。父の召天のことを誰かにお伝えしたくて書いたものが、ペンライト賞佳作作品として2008年1月号の「百万人の福音」に掲載されたので、それを連載します。


心のフィルムに


82歳の父が末期癌で、あと数ヶ月の命だと告げられたのは2006年の2月でした。その前年の秋、前立腺肥大症で手術を受け、検査の結果、前立腺癌であることがわかりました。でも、その時は放射線を当てれば治るのだと楽観的に考えていました。

ところが膀胱癌から前立腺、肺へと転移していたことがわかり、放射線治療も打ち切られてしまいました。神さまはなぜ愛する父を末期癌の苦しみに合わせるのだろうと思いました。

その2年前にわたしは乳癌の手術を受けています。術後放射線治療を受け、その後順調に回復しましたが、再発転移をひそかに恐れていました。キリストを信じているので、死ぬことはちっとも恐ろしくありません。でも、末期癌になったらどれほど苦しむのだろうか……と考えると、恐ろしいのでした。

喘息のひどい発作で入院したことのあるわたしは、呼吸困難の壮絶な苦しみを味わいました。もし、癌が転移するのなら肺にだけは転移しないでと願っていたほどです。

ところが父の癌は肺に転移していて、抗ガン剤治療もできないというのです。目の前が真っ暗になりました。

「やがて呼吸困難になり、水槽から出された魚が口をパクパクさせるように苦しむことになります。もう治療の手だてがありません。緩和ケアーを行うホスピスを予約しておいた方がいいですよ」

医師の言葉を聞いて、母と妹とわたしは手をとりあって泣きました。
ようやく気を取り直してお祈りをしていると、「神様がいるのならどうしてお父さんがこんな病気になるの?」と言われ、何も言えなくなってしまいました。両親と妹は信仰をもっていないのです。

それから、父に内緒でホスピスを探すことにしました。自宅で看取ることができればいちばんいいのですが、母は体力的に無理だと言いました。父と母は都内に2人で暮らしており、わたしは実家まで電車で3時間近くかかる土浦に住んでいます。実家の近くに住む妹が頻繁に訪れていますが、仕事があるのでつききりで介護することはできません。

3月に妹とホスピスの見学に行き、キリスト教のホスピス2箇所に予約を入れました。ホスピスは想像していたより明るく、温かい雰囲気でした。
でも、ここでは緩和ケアーを行うだけで、治療はしないのです。そして、そのことを本人が納得していないと入院できないと聞いて不安になりました。果たして父は納得するでしょうか。説明すれば、助からないことを知って絶望してしまうのではないでしょうか。また、ホスピスに入るのをいやがるのでは……と危惧しながら日が過ぎていきました。

父は癌であることを医師から告げられていましたが、余命わずかだということは伝えられていません。
放射線治療をしているときは、副作用で腸の調子が悪くなり、食欲がなかったのですが、治療をやめると以前のように食欲が出てきました。病院からもらったモルヒネを飲んで痛みを調節しながら自宅で普段通りの生活を続けていました。

「お父さんといい思い出を作りたいから温泉旅行に行きましょう」という妹の提案で、4月の初めに両親と妹一家、娘の六人で箱根に行きました。そのとき父は体調がよく、旅館で出された食事を全部たいらげたので一同はびっくりしました。あと数か月の命とはとても思えません。癌が奇跡的に治ってしまったのではないかと期待しました。

箱根で生まれて初めて父から手紙をもらいました。この旅行の感謝と、母のことを頼むというようなことが書かれていました。

『今までにこれといったことは何もしてあげられなかったこと、申し訳なく思っています』というところを読んで涙をこらえるのに必死でした。

父に残された時間は限られています。その間になんとかキリストを伝えて父が洗礼を受けられたらどんなにいいだろうと思い、祈りました。

旅行から戻ってから、こんどはわたしが父に手紙を書きました。

『神戸に住んでいた頃、お父さんは毎日朝早くから夜遅くまで働いて、休みは週に一度しかなくて大変だったのですね。 

お父さんからは、部屋が汚いとよくしかられましたね。お父さんが「整理整頓」と書いた紙を壁にはってくれたのに、ちっとも片づけようとしなかったですね。
反抗期の長かったわたしは、よく逆らいました。お父さんにしかられて、くやしくて自分の足に爪をたてて傷跡が残るほど強くひっかいたことがありました。そのとき、お父さんは「根性がある」と誉めてくれましたね。誉められるようなことでは決してなかったのですが……。

 夜中に喘息の発作を起こして病院にいき、帰り道で坂が登れなくなってしまったときおんぶしてくれたお父さんの背中を今でも覚えています。いくら細身だといえ、中学生のわたしを背負って坂を登るのは大変だったでしょうね。有り難う。

                 
 つづく

やってしまいました

2009-10-21 17:39:21 | 日記

今日は毎週楽しみにしている輪読会と水曜礼拝に行くことができなくなってしまいました。
夕べ、足を怪我してしまったのです。怪我といってもたいしたことはありません。足の指をぶつけただけですから。

万歩計をつけたので、一万歩になるように家の中でもバタバタ歩き回っていました。もちろん外に出て散歩もしました。(30分歩いて約5千歩)

どこにぶつけたのか覚えていないのですが、とにかく紫色のあざになるほどぶつけ、一瞬骨折したかと思いました。でも、腫れてこないので大丈夫でしょう。

娘に「同情の余地なし。お母さんの悪い癖が出たね」と言われてしまいました。そうです。人からは落ちついているとよく言われますが、実はその逆で……。以前も同じようにぶつけて痛みが完全に治まるまで1か月もかかったことがありました。

家の中ではなんとか歩けますが、靴をはくと痛くてたまりません。湿布を貼って今日一日おとなしく家にいました。おかげで長編はかどりました。来年作品集に載せる予定の小説です。印刷屋さん送り、来月15日が締切なのに、もう少しというところで足踏みしていました。

明後日には東京の実家に行く予定なので、それまでには痛みが治まりますように。

写真は昨日の夕方撮った桜川。対岸に教会がみえます。夕焼けがきれいでした。


苦しみについて(その2)

2009-10-19 17:14:19 | 聖書から

次にイ・チソンさんのことを紹介していただきました。


チソンさんは大学4年生の時、交通事故にあい、車が炎上し大火傷を負いました。火傷の中でいちばん重い弟3度の火傷を体の55%に負ったのです。奇跡的に一命はとりとめたものの、激痛に苦しみ、親指以外の8本の指の先端を切断し、さらに顔の皮膚移植をしましたが、全く別人のようになってしまいました。

でも、その絶望の中から希望を見いだしていきました。ふつうだったら自殺してしまいたくなるような状況にありながら、神さまの愛と家族の愛に支えられて、変わり果ててしまった自分の姿を受け入れることができたのです。
2006年の家庭集会クリスマス会でチソンさんの講演ビデオを見たのを思い出しました。


今回、心に留まった3つのことがあります。

ひとつは、チソンさんが鏡を見て「こんにちは、イ・チソン。愛しているよ」と自分に語りかけ続け、以前とは変わってしまった自分の姿を受け入れたことでした。

わたしは、自分が喘息であることを受け入れるのに10年以上かかりました。受け入れられないときは、生きることが苦しくてたまりませんでした。受け入れられたとき、初めて平安が訪れたのでした。

もうひとつは、チソンさんのお母さんが必死に看病する中で、ひとことも愚痴を言わなかったことに驚きました。お母さんがスプーンをチソンさんの口に持っていくたび「わたしの可愛いいチソン」と言っていたそうです。

わたしの娘がこのようになったら、「せめて顔だけでも火傷しなければよかったのにね」と言ってしまうような気がします。

3つ目は、事故前の姿に戻れると言われたらどうする?」の質問に「戻りたくない」と答えたことです。

チソンさんがその理由をこう語りました。

「確かに私はこの苦難により、外から見える者は失われましたが、代わりに目に見えないまことの宝物を与えられたのです。元に戻ってしまうと、神様から頂いたこの宝も失ってしまうから戻りたくないのです。」


「私たちは目に見えるものにではなく、見えないものにこそ、目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。(2コリント 4:18)」


の聖書の言葉がチソンさんの中で息づいているのですね。

チソンさんは事故にあって、命はとりとめたものの、美しい顔と八本の指の指先を失ってしまいました。それでも、主イエスを信じる信仰によって心に幸せ、喜びを感じて生きています。

わたしも状況に左右されず、目には見えないけれど確かに存在しておられる神様に目を留めて生きていきたいと思いました。

最後にそれぞれが、経験した苦難について語りました。8人がそれぞれひどい苦しみの中を通らされ、そのことによって神様の存在を確かにされたという証ししました。涙、涙でした。でも、家庭集会が、このように心のうちすべてを語れる場であることが素晴らしいと思いました。


おわり

苦しみについて(その1)

2009-10-17 10:57:02 | 聖書から

今日は午後から子ども家庭集会の奉仕に出かけます。
明日は礼拝のあとCS父母懇談会と教師会。童話の推敲をしなくてはならなのに、書かずにはいられない思いがこみあげて、ブログを書いてしまいました。


昨日の家庭集会は、いつもと違う学びでした。
詩篇31篇を読んだあと、イ・チソンさんのことを聞きました。


私をあわれんでください。主よ。
私には苦しみがあるのです。
私にはいらだちで衰えてしまいました。(詩編31:9)



これは、ダビデが晩年息子に謀反を起こされ、家来にも裏切られ、人々から避けられたときの嘆きです。
ところが、19節には
「しかし、あなたのいつくしみはなんと大きいことでしょう」
と書かれています。
ダビデは絶望的な苦しみの中にあって、神様の備えて下さっているいつくしみに気づき、神様に告白しました。


ひどい苦難がやってくると、神様がおられるならなぜこんなことが起こるのだろうか? と考えてしまいます。愛の神様だというのになぜこんなひどいことが起こるのをゆるされたのかと…・・・。


「わたしたちが置かれている状況によって神様がおられるかどうか考える人がいますが、神様は状況に左右される方ではありません。むしろ状況によって左右されるのはわたしたちです。」


と聞いて、確かにそうだと思いました。


ダビデは、自分の置かれている状況にもかかわらず、
「あなたのいつくしみはなんと大きいことでしょう」
と告白しました。
神様は、そのような告白ができるようにわたしたちを導いて下さるのです。


苦難が来ないように。家族が守られ、何事もなく無事に過ごせるようにと日々願い、祈っています。
ところが、思いがけない災難がやってくることがあります。でも、それはわたしに本当の幸せを与えるため、ダビデのような告白ができるための神様の導きなのだなあと思いました。だからわたしは、すべてを導いてくださいと神様に祈ります。


今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。(Ⅱコリント 4:17)

        
               つづく

*わたしのHP「生かされて・・・土筆文香」の童話の部屋、「チャメとグレイ」更新しました。
「チャメとグレイ」は以前このブログに掲載しましたが、8枚の絵がつきましたのでぜひごらんください。(鮮明な画像ではありませんが・・・)

約束

2009-10-15 12:31:52 | 聖書から

OBIの学びで必要なので、「新聖書ハンドブック」(ヘンリー・H・ハーレイ著 いのちのことば社)を購入しました。今年の5月に出版された改定版です。
聖書の背景や注解、キリスト教史が書かれ、写真、地図も掲載されていて聖書の学びにとても役立ちます。聖書を通して神様が何を語ろうとしているかがまとめられているので、聖書と並行して時間をかけて読んでいきたいです。

今朝のOBIの学び(DVD)は、マタイの福音書の最終回でした。

「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)

これは、マタイの福音書の最後に書かれたイエスさまの語られた言葉です。

ひとりのお方がなぜ同時に何百万、何千万もの人と共にいることができるのでしょうかか? どう考えてもわかりません。イエス様が人間だとしたら、それは不可能なことです。

でも、イエス様はあなたがたとともにいると約束して下さいました。
イエス様は神様ですから、それが可能なのです。
「新聖書ハンドブック」には以下のように書かれています。


私たちは、理解力を越えたある現実的な意味で、神秘的であるが現実に、イエスがいつも私たち一人一人と共におられると信じるのである。
私たちがどんなに弱く、貧しく、つまらない者でも、イエスは友であり、伴侶である。目には見えなくても、今おられる。今夜の眠りにも、あすの仕事にも、来週も来年も、そばを歩き、人生の哀れな戦いの一つ一つの面を思いやり深く見守り、天の父の家にある永遠の幸福の場所へと忍耐強く導いて下さる。こういったことすべては美しい夢のように思える。しかし、私たちの存在を支える唯一の基本的事実なのである。


しゃべることができなくなってしまった舌癌の方が、臨終のとき
God、 you're with me.
と紙に書いて牧師先生に見せたそうです。壮絶な苦しみの中にあっても、「神様、あなたはわたしと共におられます」と言えるとは、何と幸いなことでしょう。
わたしも、臨終のときにはそのように言って召されたいと思いました。



祈り

神様、わたしがどんな場所に行っても、どんな苦しいところを通らされても,
あなたがいつもわたしと共にいてくださることを感謝します。

わたしが最期の時まで、あなたが共にいてくださることを覚え、喜びと平安に満たされた人生を歩むことができますように。

あなたと共に歩む人生がどんなに素晴らしいかを多くの人に証しすることができますように導いてください。

この祈りを尊き主イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン

新しいおうち

2009-10-13 08:20:48 | 日記
一昨日午後、息子一家の新居に招かれて行ってきました。家を新築したのです。場所は我が家から車で25分。以前住んでいたアパートからと距離はほとんど変わりません。

ソーラーシステムや備蓄暖房、玄関のオートロック機能など、ひと昔前では考えられないような最新の設備が備わった家を見て、驚くことばかりでした。

ヒックンは引っ越した当初は落ち着かず、ママにくっついて歩いていたそうですが、今ではすっかり慣れて、階段の上り下りもひとりでだいじょうぶです。2階の子ども部屋におもちゃを広げてみせてくれました。

夜は我が家に泊まるので、夕方車で移動しました。我が家に着いてひとしきり遊んだあと、熱が出ているのに気付きました。38.5℃です。

きげんはいいのですが、食欲がありません。一瞬新型インフルエンザを疑いましたが、風邪薬のシロップを飲ませると熱が下がってきました。

ヒックンは昨夜から平熱になりましたが、パパが休みなので、今日は保育園をお休みさせることにしてもう一晩我が家に泊まりました。

ママはもう出勤しました。ヒックンは、まだパパと寝ています。

PCで機関車トーマスのHPを見せてしまったので、ヒックンが起きているときはPC作業ができません。

何にでも興味を示し、大人のまねをしたくてたまらない「ひとまねこざる」のようなヒックンと、今日も一日よいおつきあいができますように。




パラグアイからの嬉しいメール

2009-10-10 09:39:18 | 日記
 
昨日は病院で予約していたのに3時間も待たされ、終わったのは5時過ぎでした。腹部注射リュープリンを打ってもらってきました。異常なしだったのでほっとしましたが、あとまだ4年も通院しなければなりません。長い道のりです。

でも、不思議なことに飲み薬(アロマシン)の副作用による関節痛がほとんど気にならなくなりました。痛みが少なくなったのか、慣れたのかわかりませんが、こうしてパソコンに向かっているときはほとんど痛みを感じません。
また、注射の副作用(肥満、鬱)が全くと言っていいほど出てないことに感謝しています。

病を抱える身だからこそ、神様から注がれるカリス(恵み)をより強く感じることができるのだと思って喜んでいます。

 
今朝、嬉しいことがありました。パラグアイのTさんからメールが届いたのです。
Tさんは、3年前に書いた詩「神様のカリス」を今年再び紹介するきっかけとなった方です。Tさんに4人目のお子さんが与えられ、名前をKarisとつけたそうです。
”カリス”でネット検索をしていたら、わたしの「神さまのカリス」にヒットしたそうです。読んで感動され、メールをくださったのです。
そのことを2009・1.10のブログに書き、再び「神さまのカリス」を掲載しました。その記事をチャキさんが読んで、歌いたいという気持ちが与えられ、8月に作曲してくださいました。

先月、曲ができたことをTさんにお知らせするメールを送っていたのですが、返事がありませんでした。
アドレスが変わったのかもしれないと思っていました。
そして今朝、Karisちゃんのことを祈るとき、Tさんと連絡がとれますようにと祈っていたのでした。

PCの調子が悪くてメールが使えなかったそうです。
メールには
『カリスの詩が曲になったと聞いて、驚きました。これは主の導き以外にないと確信できますね。』と書かれていました。

Karisちゃんはもう10か月になったそうです。可愛い盛りでしょう。ベッドの横に詩を貼ってくださっているとのこと。
今度は子守唄がわりに歌ってくださると嬉しいです。

最近念願のスキャナーを購入したので、楽譜をPCに取り込むことができました。
メールに添付してTさんにお送りしようと思っています。

楽譜が欲しい方でPCでadbe readerが開ける方はわたしのHPのメールフォームに記されているEメールアドレスにメールをください。楽譜ファイルをお送りします。

 
日本クリスチャン・ペンクラブの
HP更新しました。


語る者は聞く者でなければなりません

2009-10-07 16:51:10 | 聖書から
 
ときどき、聖書には誤解を招くような文章が書かれています。4日の礼拝では、初めて聖書を読んだ人がつまずいてしまいそうな箇所が取り上げられました。

 
「教会では妻たちは黙っていなさい。彼らは語ることを許されていません。(1コリント14:64)」


 
これはパウロがコリントの教会へ宛てて書いた手紙です。
いま、教会で「婦人は教会でしゃべってはいけません」などと言ったら、大変なことになります。女性蔑視だと言って猛烈に怒る人もいるでしょう。実際、黙っていることなどできませんね。

確かにこの一文だけ読むと、パウロは女性差別をしていたのでは?と思ってしまいます。

でも、別の箇所では 「しかし、女が祈りや預言をするとき・・・」と書かれています。女性が公の場で祈ったり、預言をすることを認めている証拠です。

当時のコリント教会が乱れていて、礼拝でメッセージが語られているとき反論してそれで論争になったり、異議を申し立てたりする婦人がいたようです。そういう人に対して、「黙っていなさい。疑問があったら家に帰って夫に尋ねなさい」とパウロが言ったのです。

救世軍の山室軍平は
 
「パウロのこの言葉はキリスト教本来の精神とおおいにかけ離れている。当時の混乱したコリント教会の婦人に対して言った言葉である」
と言ったそうです。当時、男尊女卑の社会にあって、山室軍平がこのように捉えたことは驚くべきことです。

キリスト教の精神は 「ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。(ガラテヤ 3:28)」の一語につきます。
他の聖書の箇所には婦人たちが活躍したことが書かれています。

ペンテコステには婦人たちの上にも聖霊が下ったのです。

女性であっても臆することなく語ってください。

神様が、わたしたちひとりひとりを大切に思っていること、愛していることを伝えるのです。
 
語る者は聞く者でなければなりません。謙虚さを持ち、服従する者でなければなりません。そして黙する者でなければなりせん。こんな自分を用いて下さいと祈るのです。


 
わたしはこのメッセージを聞いて、神様からの迫りを受けました。
メッセージが自分に向けられていると感じてなりませんでした。

というのは、来月友人(チャキさん)の教会に招かれてお証しさせていただくことになっているからです。
チャキさんがわたしの書いた詩(神さまのカリス)に曲をつけてくださったことがきっかけで、お招きいただいたのです。

自分の教会では、何年も前に礼拝と婦人集会で証しをさせていただいたことがありますが、他教会ではありませんでした。お引受けした後、このような者が他教会で、しかも礼拝の中で証しさせていただいていいのだろうか。そのような資格があるのだろうか・・・と恐れを抱いていたのです。

神様がそんなわたしに「恐れないで語りなさい」と背中を押してくださったように感じました。

(前回の記事で)ヒックンが打ち上げられる花火のすべてが自分に向かって来ていると思ったように、この言葉のひとことひとことがわたしに向けて語られていると思わずにはいられませんでした。

黙して、神様の言葉を聞いて、謙虚になって語れるように備えさせてくださいとお祈りします。


花火に「こんにちは!」

2009-10-05 12:50:58 | 日記
 
一昨日の午前中は大雨でした。雨でも花火大会はあるというので、買い出しに行き、準備をしていました。昼過ぎにヒックンとママがやってきました。パパは仕事で来れません。
昼ごろから明るくなってきて花火の始まるころには雨はすっかり上がっていました。

明るいうちから花火の上がる音がするのでヒックンは落ち着きません。
「暗くなったら花火が上がるからね」というと、楽しみにしているようすです。


午後6時。ドーンという音で夜空に花が咲きました。リビングからだと一方向からしか見えないので、急いで夕飯を済ませ、バルコニーに出ました。(おじいちゃんはビールを片手に)

出たとたんドーンと音がして、ヒックンはびっくりしてママにしがみつきました。窓一枚で、部屋の中と外とでは音がだいぶ違います。


我が家は打ち上げ場から歩いて20分ほどの場所です。花火の音は腹に響くほどですから、2歳のヒックンが驚くのは当たり前でしょう。


何発か上がって慣れてくると、拍手をしていました。大きい花火が次から次へと上がるので、「ヒックンのところに向かって来てるみたいね」と言うと、「こんにちは! ぼく、ヒックンです」と花火が上がるたびに言っていました。
 
事故もなく、今年も無事花火大会が終わったことを感謝しました。

Why(なぜ)?

2009-10-03 09:54:02 | 
 
Why(なぜ)?


河原にそよぐ 傷ついた葦
抜かれて 折られ
捨てられるのを
じっとうつむき 待っている

けれども それを折らないで
杖とされたのはなぜ?

大切 大切 大切だから
あなたは とても 大切だから


油の切れた 古いランプ
芯まで燃えて
燃え尽きるのを
くすぶりながら 待っている

けれどもそれを消さないで
輝かせたのはなぜ?

必要 必要 必要だから
わたしは あなたが 必要だから


力尽きはて 倒れたわたし
何もできない
自分に気づき
声を殺して泣いていた

そんなわたしの手をとって
立ち上がらせたのはなぜ?

愛してる  愛してる 愛してるから
いのちささげるほど 愛してるから

 

いたんだ葦、くすぶる燈心のメッセージを聞いて久々に詩が生まれました。
 

「彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく、まことをもって公義をもたらす。(イザヤ42:3)」

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