生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

一年を振り返って

2011-12-30 15:26:13 | 日記
この一年を振り返ってみると、色々なことがありました。
年の初めに義父が突然召されました。

義父は去年の12月にお風呂で火傷をして入院していました。
火傷は退院できるまでに回復したのですが、退院後自宅にもどすのは、義母の負担が大きすぎて無理なので、施設に入れるように病院のケースワーカーさんに勧められました。

勧められるまでもなく、自宅介護は無理だと皆の意見が一致したのですが、義父は「施設には入らない。家に帰りたい」と言い張り、「いつまでも入院させて!」と義母を責め続けました。
施設に入るには本人が納得しないとダメだと聞いて、どうしたらよいのか途方に暮れていました。

わたしは、義父に手紙を書きました。読んでくれるかどうかわかりませんでしたが、心をこめて書きました。怒りを抱いている義父が、施設で穏やかな心で過ごしてほしいという願いを込めて……。

その数日後、義父を見舞うと、顔つきが変わっていました。怒りが消え、穏やかな顔になっていたのです。そして、施設に入ることを承知してくれました。とても不思議なことでした。神さまの御手が義父の心に働きかけて下さったのだと思います。詳しくは1月4日のブログに書いています。

召されたのは、その6日後(1月2日)でした。夜、施設のベッドで苦しむことなく、静かに息を引き取ったのです。

その後、84歳の義母は元気で一人暮らしをしています。秋には我が家に招いて一緒に花火を見たり、温泉にも行くことができました。

3月の大震災には驚かされました。震災で失ったものはありませんでしたが、色々なことが影響として出てきています。とくに目に見えない放射能の恐怖があります。それは今でも続いており、孫が来た時には料理に水道水を使わないようにしています。

嬉しかったことは、4月からOBI(お茶の水聖書学院)本科(通信)の学生になったことです。今まで聴講生として学んできましたが、編入したいという思いが与えられました。

編入試験は震災の影響で2回も延期になりました。
一昨年は体調を崩して行けなかったOBIサマースクーリングに参加できたことは大きな恵みでした。

11月には結婚30周年記念として主人と九州旅行に行けました。
4月から主人が退職して、週3回は仕事に出かけていますが、家にいることが多くなりました。一緒にいる時間が長いと、考え方、感じ方の違いが大きいことを実感します。違いに気づくことが近づくことの第一歩だと思っていますが……。

一年間、礼拝出席できたことも感謝なことです。週の初めに礼拝に出て、その週の生きる力を戴く生活が何よりも嬉しく、主と共に歩むことができた一年でした。

最後に今年、心に留まった聖書の言葉を記します。

光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。(ヨハネ1:5)


震災のこと、病気で闘っておられる方のことを思って気落ちしていた時、この聖句に希望を見出しました。


私たちは愛しています。神がまず私たちを愛して下さったからです。(Ⅰヨハネ4:19)


神様の深い愛に気づいたとき、初めて他者を愛することができると実感しました。




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なぜ苦しまなくてはならないの?

2011-12-28 16:49:09 | 聖書から
今日は今年最後の水曜礼拝でした。毎年、年末の水曜礼拝では「今年の10大ニュースを書きましょう」と言って紙が配られます。

今年は少し違っていました。まず申命記8:2-6を読んで感じたことを書くように言われました。
申命記8:2-6にはモーセの言葉が書かれています。

モーセはイスラエルの民に『あなたがたは、エジプトの地から脱出して40年かかって約束の地に着いた。そのときのことを覚えているように。神様は40年の間に民を苦しめたが、それはあなたの心の内にあるものをあなた自身が知るためであった。
荒野ではマナを食べさせたが、人はパンだけで生きるのではなく、主の口から出るもので生きることを知らせるためだった。』
という意味のことを語り、最後に

「あなたの神、主の命令を守って、その道に歩み、主を恐れなさい。(申命記8:6)」

と結んでいます。
わたしは次のような文章を書きました。


わたしはイスラエル人の荒野の旅を自分の人生に重ね合わせて読みました。
子どものころから喘息で呼吸困難という苦しみに耐えてきました。その後、乳がんになって死の淵に立たされました。病気ばかりして精神的にもつらかったです。

なぜ苦しまなくてはならないのか? 長い間模索していましたが、これらすべては主の訓練だったのです。

私の心は、何を食べようか、何を着ようか、そして子育てのこと、健康になるにはどうしたらいいか……などでいっぱいでした。

乳がんになって自分が死ぬかもしれないと思った時、ようやく大切なことはこのようなことではない。主の道に歩むことだと気づかされました。

わたしが主の道に歩み、主を恐れて生きるようにさせるため苦しみが与えられたのです。

                                                   


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不安と恐れの反対をいただいて

2011-12-26 16:45:31 | 教会
祖母が89歳で死んだとき、深い悲しみと喪失感に襲われました。祖母とは生まれた時から一緒に暮らしていました。小学生になると祖母の部屋にわたしの机を置いて、夜も祖母と一緒に寝ていました。
母に叱られるといつも祖母のところへ助けを求めに行っていました。

祖母がわたしより先に死んでしまうことを頭では理解していたのに、亡くなってみるとなぜ死んでしまったか納得できないのでした。

どうして人間は老いて死んでいくのだろう……一日一日死に近づいていっているのになぜみんな平気な顔をして冗談言って笑ったりしているのだろう……と思いました。

あるとき、「どうして生きているものはみんな死んでしまうの?」父に聞いたことがありました。
すると、「縁起の悪い事を言うものではない」としかられてしまいました。

死を忌み嫌うものとして話題に出すことすら避けている文化の中で答えを求めるのは難しかったのだと思います。

昨日のクリスマス礼拝のメッセージの中で、子どもの頃のわたしが聞きたかったことの答えを聞くことができました。
(青字が牧師先生の語られたこと、茶色字がわたしの思ったこと、緑字が聖書の言葉です)


あるユダヤ人が幼少期に死んだ鳥を見た時の親子の会話です。
「なぜ鳥は死んだの?」
「生きている者はみんないつかは死ぬんだよ」
「パパもママも、ぼくも?」
「そうだよ。でも、長いこと生きて、いい人生を送ってから死ぬんだ」
「なぜ死ぬの?」
「世界の所有者がそのように造られ、死が定められたからだよ」
「なぜ死が定められたの?」
「いのちがかけがえのないものであるためにだよ」


この少年の親は死について隠すことなく真実を語っています。それでいて子どもが死の恐怖にとりつかれてしまわないように愛の配慮をしています。
世界の所有者というのは、造り主、創造者のことです。
いのちに終わりがあるからこそ、かけがえのないものであることを教えています。


いのちあるものは時間と共に変化します。時間と共に成長し、衰え、必ず終わりが来て死を迎えます。
二度と繰り返せない日。かけがえのない日々。いのちに期限があるからいとおしいのです。震災でいのちのはかなさを実感し、いのちの流転を悲しみました。


メッセージがここまでなら、悲しみは癒されません。でも、ここからが大切で、ユダヤ人の親子の会話には出てこなかったことです。


永遠なることば(神)が時間の制約の中に入ってこられました。

「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。(ヨハネ1:14)」


とこしえの神が流転の中に来て下さいました。もろさ、はかなさ、限界のある中に来て下さいました。恵みとまことを運ぶためにです。

恵みとは赦しのこと、まこととは神の誠実さです。それは不安と恐れの反対です。
神は人類を流転の世界からとこしえの世界へ招いて下さいます。流転の中で人生のはかなさを感じ、もがいている人のために来て下さいました。


「というのは、律法はモーセよって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。(ヨハネ1:17)」


恵みとまことを受け取った者は感謝にあふれ、感謝のゆえによいことをしようとします。


いつかは朽ち果てる者であることを知って虚しい日々を過ごしていたわたしです。
どうあがいても時間の制約からのがれられないわたしたちですが、永遠なる神が制約の中に入って来て下さり、死を滅ぼし、永遠のいのちを与えて下さいました。

イエス・キリストは滅んでいくしかないわたしたちを救うためにお生まれになったのです。
わたしはイエス様から恵みとまことを受け取りました。その喜びをひとりでも多くの人に伝えたいです。

メッセージの後、聖歌隊によるクリスマスオラトリオ「喜びの叫びをあげよ」の賛美がありました。ドイツ語での賛美でしたが、スクリーンに日本語訳が載っていたので意味が解ってよかったです。「叫べ」、「喜べ」と力強い賛美を聞いて喜びに満たされました。




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我が家のクリスマス

2011-12-25 21:18:08 | 日記
昨日は息子一家と共にクリスマスを祝いました。
我が家の定番となったローストチキン。今年は大きい(2㎏)ものが手に入ったので、オーブンで2時間近くかけて焼きました。その他のメニューはサーモンサラダ、パイシチュー、パンプキンスープ、フランスパンのカナッペです。

フランスパンのカナッペは好評で、クリスマスでなくてもよく食べます。フランスパンを薄く切ってトーストし、イカの塩辛、クリームチーズ、塩昆布を乗せていただきます。その組み合わせがなんともユニークでおいしいのです。フランスパンでなくてもクラッカーでもOKです。

今年はヒックンママから手袋のプレゼントをいただきました。わたしは絵本「ラブ・ユー・フォーエバー」をプレゼントしました。

4歳のヒックンには絵本とカルタをプレゼントしました。ヒックンはカルタを喜んでさっそく「やろうよ」と腕を引っ張られました。読みながらわたしも取ろうとすると、自分で全部取りたいと言って私の手を押さえます。

けっこう負けん気が強いのです。でも、友達とすることもあるだろうから、取られることも経験させなければと押さえる手を振り切って取ると、「ダメ―」と言って大騒ぎ。
次にカルタを使って坊主めくりのようなものができるのでそれをすると、カードを取られる度に大泣き……。賑やかなひとときでした。

今日のクリスマス礼拝のことは次回書きます。



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本当の自分に出会って

2011-12-23 11:45:39 | エッセイ
人の心は、意識している部分とそうでない部分があるといわれています。無意識の部分は深いところにあって、そこには真の姿の自分がいます。
心に悩みを抱えているとき、意識している部分を改善しようとしてもなかなかうまくいきません。意識下の深い部分の自分に出会わないと解決しないのです。

真の自分に出会うことは恐ろしいことです。なぜなら醜い姿や傷を直視することになるからです。できれば深い穴に放り込み、蓋をしてコンクリートで固めてしまいたいです。
自分は寛容で親切で思いやりがあり、愛に満ちた人間だと思っていたいのです。でも、実はどうしようもなくわがままで自己中心であることに気づいていました。

わたしの父は癇癪持ちでした。怒るとあばれ、ドシドシ足を踏み鳴らして怒鳴りまくるのです。その怒りも正当な怒りならがまんできますが、たいていはわがままからでした。たとえば日曜の朝早く隣の犬が鳴いたため目が覚めたということだけで怒り狂うのです。

わたしは、そんな父親が大嫌いでした。ところが、わたしも自分の思い通りにならないとき、ときどき癇癪を起してあばれます。何度父とぶつかったことでしょう。
外では絶対に見せない姿ですが、家の中ではとてもわがままでした。

20代で教会に行きはじめたとき、自分のあばれ方が父親そっくりなことに気づいて愕然としました。
こんな自己中心な姿がわたしの本当の姿なのかもしれないと思いました。

心の深いところに降りて行って、わたしは真の自分と対面しました。醜い自分を想像していましたが、これほどまでとは思いませんでした。わたしは、絶望して泣きました。
こんな姿をみたら、誰もが逃げて行ってしまうと思いました。でも、イエス様は離れませんでした。

イエス様は近づいてきて「醜いままでいいんだよ。そんなお前を愛している」と言って醜い部分に触れて下さったのです。
そのとき、真っ黒でどろどろしていた本当の自分が、イエス様に触れられた途端、真っ白に変わりました。
もう醜くありません。誰に見られても恥ずかしくない姿になっているのです。

わたしは、イエス様が生まれた場所を思い出してみました。世界で最も貧しい家畜小屋でした。そこは臭くて汚い場所です。まるで自分の心のようなところです。あえてそのようなところで生まれて下さったのは、どんな醜いものでも受け入れてくださるという意味だったのではないでしょうか……。

それから、イエス様がなさったことを思い出してみました。
罪がないのに十字架刑という最も重い刑罰を受けて死んでくださいました。わたしの罪を贖うためだったのではないでしょうか……。

本当の自分に出会うこと。それは、恐ろしいことではありません。なぜならイエス様が一緒だからです。醜さと向き合ってもだいじょうぶです。イエス様がそれをきれいにして下さるのですから。

イエス様が自分のために生まれて下さり、自分のために死んでくださったことがよくわかったとき、喜びが沸き上がってきました。

本当の自分がどんなに醜くてもだいじょうぶなんです。もう、隠したり、とり繕ったりする必要はないのです。そのままの自分で充分なんです。


聖書の言葉 

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。(Ⅰヨハネ4:9)



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お知らせ

2011-12-20 19:53:39 | その他

わたしのホームページ「生かされて・・・土筆文香」を久々に更新しました。

先月結婚30周年記念として主人と九州(熊本・鹿児島)へ旅行に行った記録を書きました。
ブログでも紹介させていただきましたが、ブログよりたくさんの写真を使っているので詳しい内容になっています。ぜひごらんください。

この画像をアップさせるのに四苦八苦しました。(寒い部屋で暖房をつけるのも忘れ没頭していたので風邪を悪化させてしまいました)

昨日になってHPのために使用できる容量(100M)を超えていたことがわかり、過去の記事でいらないものを削除しました。でも、それだけでは一部しかアップできず、試行錯誤を繰り返しました。
今日、娘にみてもらってようやく原因がわかりました。拡張子jpgの大文字、小文字の違いでした。

ついでながら、10日に更新した日本クリスチャン・ペンクラブのHPに三浦喜代子さんのクリスマス童話「ちこくチルル」を掲載しています。

パネルシアターにして、先日子ども家庭集会でお話ししました。パネルシアターの絵もぜひご覧ください。





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こんなに元気になってる!

2011-12-19 16:58:02 | 日記
風邪が悪化して13日から熱を出してダウンしていました。

15日は家庭集会クリスマス会でした。家庭集会は、ふだんは各家庭で行っていますが、クリスマスには8つの家庭集会が教会に集まって一同でクリスマスを祝います。
今年は、各家庭集会ごとにクリスマスの賛美と趣向を凝らした出し物を用意して発表することになっていました。

わたしたちの家庭集会では、朗読劇と賛美をすることにしました。皆で話し合う暇がなかったので、わたしが台本を用意し、配役も決めさせていただきました。
先月の家庭集会は20周年記念会だったのでレストランで行ったため、一度しか練習をすることができませんでした。

ところが、リーダーであるわたしが熱を出して欠席することになってしまいました。
「当日朝30分前に集まって練習しましょう」と、皆に連絡したときは元気で、まさか自分が行けなくなるとは思いませんでした。

自分の不注意で体調管理がうまくいかなかったことを思い、申し訳なさでいっぱいになりました。わたしは皆が発表していると思われる時間、祈り続けることしかできませんでした。

終わってから「文香さんがお休みでみんながっかりしたけれど、朗読劇を立派にやり通したよ」と言われて、わたしもその場にいたような気持ちになり、嬉しくなりました。


昨日の日曜は義父の一周忌の法要が実家で行われました。義父は今年のお正月に亡くなったのですが、12月にすることが決まったのです。法要は日曜の午前中なので、教会の礼拝には行けません。具合が悪くても良くなっても礼拝には出られないのだとあきらめていました。

熱が高かった木曜日の段階では、実家に行けないかもしれないと思っていました。金曜日に熱は下がりましたが、お腹の調子が悪くなりました。咳もひどく、買い物に出かける体力さえなくて、主人と娘に行ってもらいました。

土曜日は少し良くなって、近所に買い物に出ましたが、宙を歩いているようにフラフラでした。

土曜の夜、教会へ行く夢をたて続けに3回もみました。1回目は礼拝に行こうとして行けなかった夢。2回目は礼拝に出られた夢。3回目は教会に行こうとしている夢です。行けたか行けないかは不明のまま目覚めました。

感謝なことに体調はすっかり元に戻っています。
それにしてもこの夢はどういうことなんだろう……と考え込んでしまいました。

ペテロが、汚れた動物が入ったものが上から下りてきて、食べるように言われた幻を3回みた話が聖書(使徒の働き11章)に書かれています。神様はとても重要なことを伝えるとき、3回繰り返されると聞きました。


『法事のあとの会食が終わってすぐ帰れば、もしかしてオープン礼拝に間に合うかもしれない!』と思いました。主人は実家に一泊して帰るので、その日の夕飯の心配は不要です。

実家から土浦まで電車で3時間近くかかります(乗り換え2回)。しかも快速は1時間に1本。3時半の電車に乗っても、午後6時からのオープン礼拝に間に合うかどうか・・・・・・スーパーひたちに乗ってタクシーを使ったとしても遅れてしまうかもしれません。でも、あきらめないで希望を持つことにしました。

会食は2時過ぎには終わり、2時半の快速に乗ることができました。特急料金もタクシー代も使わずに駅からバスで教会へ向かい、オープン礼拝に間に合いました。

きらびやかなクリスマスイルミネーションを通り過ぎ、着いた場所はイエス様がお生まれになった馬小屋のように静かで落ち着いた場所でした。そこは本当のクリスマスの喜びがあふれていました。


帰りは、礼拝に出られた喜びにあふれ、嬉しくて、嬉しくて、とびはねるようにして帰宅しました。時計を見てびっくり。歩くといつも20分かかるのに15分で家に着いています。

『あれ? 昨日まで体調悪くてフラフラしていたわたしが、こんなに元気になってる!』

神様は必要な体力を備えて下さったのでした。



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闇を照らす光

2011-12-12 15:49:09 | 教会
先月から1か月の間に3回も風邪をひいてしまいました。幸い熱の出るような重い風邪ではありません。今回は声がかすれています。咳より楽です。わたしがあまりしゃべらないので、家の中は平和で静かです。


昨日の礼拝でI牧師先生から「クリスマスと言って思い浮かべる言葉は何でしょうか?」
と問いかけられたとき、瞬間的に『喜びあふれる』と心の中で言いました。

そうしたら「喜び」と先生が言われたので、その一致に嬉しくなりました。
今年のクリスマスは、イエス様がこの世界に生まれて下さったことの重みをことさら感じています。

あかし文章を書くのに、自分自身の暗い過去を思い返していました。すると、真っ暗な心の中にイエス様が来て下さったことの喜びでいっぱいになりました。イエス様が生まれて下さらなければ、わたしの心はまだ闇の中だったのです。

メッセージの一部を紹介させていただきます。


今年は大震災がありましたが、この日にもいのちの誕生がありました。東日本大震災だけでなく、これまでの人類の歴史の中でたくさんの悲惨な出来事がありましたが、クリスマスをやめようという声が世界を覆うことがありませんでした。
2000余年の間、クリスマスは世界中で祝われています。
イエス・キリストが生まれる700年も前にイザヤはキリストの誕生を預言しました。


やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。(イザヤ9:2)

ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。(イザヤ9:6)


人々は救い主誕生の約束を信じて何百年も待ち続けました。ところが、キリストが誕生したとき、喜びの知らせに気づいた人はわずかでした。なぜ多くの人々は気づかなかったのでしょうか?

①深い闇が人々の心を覆っていたから。②霊的心の目が閉ざされていたからです。
わたしたちは、クリスマスの喜びを人に伝えなければなりません。

キリストの誕生はわたしたちと無関係ではありません。
わたしたちの肉体は日々衰えますが、内側は新しく生まれます。新しい人がわたしたちの内に生まれて来ているのです。それを自覚するとき、喜びが与えられます。

いのちの誕生には必ず産みの苦しみが伴います。
わたしたちの内に与えられた新しいいのちの誕生にも苦しみが伴います。でも、わたしたちが苦しむのではなく、イエス・キリストが代わりに苦しんで下さいました。
キリストの死により、わたしたちのうちに新しいいのちが生まれたのです。


だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(Ⅱコリント5:17)

******************************************************


キリストが苦しんで下さったので、産みの苦しみをせずに新しいいのちをいただける、いや、すでに毎日いただいているのですね。このブログを読んでおられる方々も喜びあふれるクリスマスを迎えられますように。


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乳がんの手術後8年たって

2011-12-08 19:43:11 | 乳癌
今日は手術記念日です。
乳がんの手術を受けたのは、8年前の今日でした。

そのときは、がんに対する知識が乏しかったので、手術さえ成功すればそれで終わりだと思っていました。
でも、がんは、死亡原因の第一位になっているだけあって、手術して治療が終わりというわけにはいかない病気でした。

放射線治療を受け、副作用のある強い薬を何年も飲みました。いちばんつらいと言われる点滴の抗がん剤投与は受けなくていいと言われたので、わたしの場合はまだ楽な方だったと思います。

(術後治療の判断は医師によって違うようで、後に担当医が変わったとき、受けるべきだったのに……と言われました)

現在は薬から解放され、年に一度、検査を受けるだけでよくなっています。

乳がんの場合、20年再発転移がなければ完治といえないそうですから、8年経ってこれでもう安心とは言えません。

でも、以前より精神的に楽になったことは確かです。

いのちを与えて下さった神様にいっさいおまかせしていますが、やはり検査で異常が出たら動揺するでしょう。

でも、正直なところ、乳がんという病気を与えられて心から感謝しています。人の痛みやいのちの尊さを理解できず、自分本位で愛に欠けていたわたしです。もし、乳がんにならなければ人の心を思いやる者になれなかったでしょう。

がんになって、肉体的、また精神的つらさも味わってようやく人間になれたのです。

神様は不必要なものを与えはしません。わたしには乳がんが必要だったから、神様が与えて下さったのだなあと思って感謝しています。

河野進さんの詩を紹介します

    病まなければ

 病まなければ、捧げ得ない祈りがある
 病まなければ信じ得ない奇跡がある
 病まなければ、聴き得ない御言がある
 病まなければ近づき得ない聖所がある
 病まなければ、仰ぎ得ない聖顔がある
 おお 病まなければ私は
人間でさえもあり得なかった



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災いの日、悲しみの日に(その2)

2011-12-07 16:43:54 | 教会
震災のことを考えると、今度はもっと大きな地震が起こるのではないか……日本が壊滅するようなことになるのではないかと恐ろしくなります。

30年以内に巨大地震が起こる確率について新聞に書かれていましたが、確率というのがよくわかりませんし、30年という期間が長すぎるように思います。だいいち30年間も地震に脅えて生きるのは疲れますね。

それではメッセージの続きを……


今回の震災では多くの人が犠牲になりましたが、わたしたちも同じような悲嘆や困難に直面することがあります。

愛する人に死なれたり、事故に遭ったり、予期せぬ出来事が起こって計画が崩れ、失望したり……。
ニュースにならなくても、当人にとっては大きな出来事で、ショックを受けます。

そんなとき、心をどこへ向けたらいいのでしょう。

詩篇73:21-23には次のように書かれています。


「私の心が苦しみ、
私の内なる思いが突き刺されたとき、
私は、愚かで、わきまえもなく、
あなたの前で獣のようでした。
しかし私は絶えずあなたとともにいました。
あなたは私の右の手を
しっかりつかまえられました。」


神様に悲しみ、苦しみ、心の思いすべてを語り、心の乱れも正直に告白することが大切です。
神様はいたずらに私たちを苦しみに合わせるようなことはなさいません。神様の善意を信じましょう。信じれば希望がわいてきます。

全知全能の神様のなさることは、人の想像を超える意図があるかもしれません。神はその設計図を見せてくれません。でも、ご自身を顕して下さいます。


「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。(ヨハネ1:14)」


『ことば』とは、イエス・キリストのことです。ことばがめぐみとまことを運んでくれるのです。

山浦玄嗣のケセン語聖書(気仙地方の方言で書いた聖書)では、
「恐れ多くも、『神様が我らと共におわします』の意(こころ)でござる」
と書かれています。

悲しみの日、災いの日に神が共におられる。だから安心しなさい。

************************************************


悲しみの日、災いの日は突然やって来るので気が動転し、目の前が真っ暗になることがあります。でも、そのような日にも神様が共におられることを知っていれば、あわてることはありません。
ケセン語聖書で『神共』という言葉があることを知って、この言葉をマイブームにしようと思いました。

いつでもどんなときでも神共!
                  おわり


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災いの日、悲しみの日に(その1)

2011-12-05 16:58:32 | 教会
先週の日曜日からアドベント(待降節)に入っています。
今年は25日が日曜日なので、アドベントのろうそくは、例年より一本多く5本たてています。

一昨日は子ども家庭集会のクリスマス会でした。9人の子どもが集まりました。パネルシアターでクリスマスのお話しをしてから、みんなでケーキ作りをしました。クリームだらけ、チョコレートだらけになって大賑わいでした。


今年を振り返ると、大震災のことを考えずにはいられません。
神がいるのなら、なぜあのような大きな震災が起きたのですか?と問いかける人が多いです。

10月25日のブログにも「なぜ理不尽なことがあるのでしょう」という題で書きましたが、「聖書に『神は愛です』と書かれているのになぜあんなひどいことが起こるのですか?」
と問われると、何と返事をしたらよいかわからなくなります。

昨日の礼拝では「命が傷つくとき」という題でメッセージが語られました。一部を紹介させていただきます。


新約聖書の時代にも大きな災害が起こりました。シロアムの塔が倒れて、18人の人が下敷きになって亡くなったという事故です。当時も、災害にあった人は神様の罰が当たったと思っていた人がいたようです。

そのことについてイエス様はこのように言われました。
「また、シロアムの塔が倒れ落ちて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいるだれよりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。(ルカ13:4-5)」

不慮の事故で亡くなった方は、彼らの罪咎のせいでは決してありません。神様から罰を受けたのだと思って、罪責感にとらわれる人がいますが、神様は決して人の罪に対して罰を与えるお方ではありません。災いは罪咎とは関係ないのです。 


                      つづく


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眠れぬ夜を過ごしているあなたへ

2011-12-02 17:17:21 | お茶の水聖書学院
30日から泊まりに来た母は、今日帰って行きました。
ちょうどこの時期、クリスマスの準備でしなければならないことが山積みになっていました。それで母に手伝ってもらうことにしました。

CSの子どもたちが制作するクリスマスカードの用紙を切ったり、サンプルを作ったり。
下手なピアノを聴いてもらったり……。

子ども家庭集会クリスマスで行うパネルシアターは、母の前で予行演習をしました。
母には信仰の話をよくしていますが、これまでイエス様の話をダイレクトにすることは少なかったのです。今回子ども向けのクリスマス童話を通して、クリスマスの本当の意味を伝えることができました。
母は手伝いができたことを喜んでいました。

今日は、ヒックンがまた熱を出して早朝から連れてくるというハプニングがありましたが、今回は会えないと思っていたひ孫に会えて、母は嬉しそうでした。


先日ブログに248人もの方が訪れて下さったので驚きました。自分の存在について悩みを持っておられる方が多いのではないかと思いました。

年間の自殺者が3万人を超えている現実を考えると、眠れぬ夜を過ごしている方、耐えがたい思いに悶々としている方がおられることを思い、心が痛みます。

眠れない方のために祈った2人の祈りをOBI(お茶の水聖書学院)で教えていただきましたので、紹介させていただきます。


今宵、眠りにつけぬ者、まんじりともしない者、
一夜を泣き明かす者と
どうかともにいて下さい。
安眠する者を守るよう、天使に命じて下さい。
キリストよ、どうか、やめる者をみとり、
疲れた者に安らぎを与え、(中略)
苦しんでいる者の痛みを和らげ
いたずきある者を憐れんで下さい。
             アウグスチヌス

今宵、どうか、私たちそれぞれとともにいてください。
眠れずに目覚めている者があるなら、
暗黒の時を堪えやすくして下さい。(中略)
悲しみを迎えることがあっても、
それに堪える力をお与え下さいますよう。
        ロバート・ルイス・スチーブンソン
                「祈りの花束」(ヴェロニカ・ズンデル編)


眠れないで苦しんでいるあなた。ひとりではありません。このようにあなたのために祈っている人がいることを覚えて下さい。
わたしも眠りにつく前に眠れない人のために祈っています。


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