生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

祈りについて

2007-09-08 17:46:35 | 過去の記事より

教会で子供集会「はこぶねクラブ」があり、紙芝居を持って出かけ、子供たちと楽しい時間を過ごしてきました。

写真は昨日の夕焼けです。あまりきれいなのでベランダから写しました。

今日は3年前にHPで祈りについて書いたものを掲載します。


友人になぜ祈るのかと聞かれました。それは確かに聴いて下さるお方がいると信じているからです。
もちろん、熱心に祈ったからといって天から声が聞こえてきたりするわけではありません。でも、祈りは神さまとの会話ともいいますから、祈りは聴かれていると信じています。

それなら、神さまがいるという証拠は?と尋ねられると困ってしまいます。神さまの存在を証明することはてできません。でも、神さまがいないという証明もできません。
存在するかしないかどちらかです。

洗礼を受けるとき、わたしは神さまが存在するという方に賭けるような気持ちでした。
それから26年たちますが、洗礼を受けたことをいちども後悔したことがありません。目にはみえないけれど、神さまは生きておられると毎日感じています。


わたしはミッションスクールの保育科の短大に通っていました。
学生時代、「保育園でどうしようもないような問題が起きたときは、……」と先生が言うのを聞いて、どんな解決策を教えて下さるのだろうと次の言葉を心待ちにしていました。
すると先生は言われました。
「祈るしかなかった」
まだ信仰を持っていなかったわたしは、それを聞いてがっかりしました。「なんと非科学的な!」と、思ってしまったのです。
卒業するときその先生から
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい(Ⅰテサロニケ人への手紙5-16.17)」
という聖書の言葉を色紙に書いていただきました。
それから2年後クリスチャンになって、それから後26年の間に祈りは確かにきかれるということを何度も体験しました。祈ることを教えて下さった先生に感謝しています。


*今、29年たっていますが、同じ思いです。

ヤベツの祈り

2006-11-30 11:53:44 | 過去の記事より
2年前にHPで書いた日記を掲載します。

数年前、「ヤベツの祈り」(ブルース・ウィルキンソン著*いのちのことば社)という本を読み、わたしもヤベツの祈りをするようになりました。
ヤベツというのは旧約聖書に出てくる目立たない人物です。ヤベツの母は「悲しみのうちにこの子を産んだ」といっています。
難産だったのか未熟児で生まれたのかわかりませんが、ヤベツが恵まれない人生のスタートをきったことは確かです。
そのヤベツが祈ったとき、神さまはその祈りをかなえられたそうです。

ヤベツはイスラエルの神に呼ばわっていった。
「私を大いに祝福し、私の地境を広げて下さいますように。御手が私と共にあり、わざわいから遠ざけてわたしが苦しむことのないようにしてくださいますように」
そこで神は彼の願ったことをかなえられた。(Ⅰ歴代史4:9-10)


神さまは、求める者に豊かに与えたいと思っておられるのですが、わたしたちは常識を働かせて限界を自分で決め、求めずにあきらめてしまうことが多いのではないのでしょうか。
わたしは、どう考えても不可能だと思えることについても大胆に祈り求めました。
すると生活の中でこれは神さまが働いたに違いない思えることがいくつも起きてきています。本の出版、HPの開設もそのひとつです。


そしていま、父のうえに起こったこと、また父の死後に起きたことを付け加えます。教会へ納骨することまでは、祈り求めてさえいなかったことでした。神さまは祈り求めること以上のことをして下さるお方なのですね。
これからもヤベツの祈りをしていきたいと思います。

変えられるものと変えられないもの

2006-11-07 08:53:44 | 過去の記事より
母に頼まれた用事をしにこれから実家に行きますので、今日は2年前のつれづれ日記からの文章を掲載します。


ラインホルト・ニーバーの書いた「祈り」という詩を紹介します。

変えることのできないものに対しては、
それを受け入れるだけの冷静さを、
変えることのできるものに対しては、
それを変えるだけの勇気を、
そして、変えることのできないものと、
変えることのできるものとを見分ける知恵をわたしに与えて下さい


変えられるものと変えられないものというのは、病気についてもいえることですね。喘息はアレルギー体質からくるものですが、その体質を変えることはむずかしいです。(体質改善の注射などありますが、わたしには効果が現れませんでした)


でも、喘息を予防することはできます。完全に治すことはむずかしいけれど、ひどい発作を起こさないようにすることは、限界はあるでしょうが、ある程度は努力によってできます。

癌の場合はどうでしょう?再発転移を予防するには、食べ物に気をつけたり、ストレスをためないようにすること……。
これらは効果はあるでしょうが、絶対に再発転移しない方法は現在みつかっていません。
わたしが癌患者であるということ。再発転移のリスクを抱えているという事実はどう努力しても変えられません。だから、受け入れられるようにと日々祈っています。

私は私らしく生きる

2006-09-19 12:23:44 | 過去の記事より
カラマーゾフの兄弟読書ツアー(その2)で今現在も劣等感があるということを書きました。
2年前の10月、わたしのHPのつれづれ日記(現在非公開)に劣等感についての記事がありましたので掲載させていただきます。


かつてわたしは、頭が良く何でもできる人、主婦業も仕事もこなしている人をみるとうらやましくなり、それに比べて自分は仕事もできず、何の才能もなく……とみじめな気持ちになっていました。
神さまとわたしではなくて、あの人とわたしの関係にとらわれていました。
水野源三さんの本(まばたきの天使 和田登作 日本基督教団出版局)を読んだとき、はっとしました。

水野源三さんは病気で体を動かすことができません。
しゃべることもできません。ただひとつ動かせるのは目でした。五十音表を使いまばたきで意志を伝え、お母さんが書きとめ、たくさんの詩を書かれました。
水野源三さんのところに病気で片目を失明した少年が訪れました。その少年に源三さんはまばたきでいいました。「ほかの人と比べないようにして生きていって下さい」

このことばは、源三さんが長い間考え抜いてきて出した結論でした。
人は、ひとりひとり違う個性を持っています。ダメな人間などひとりもいません。たとい障害があっても、不治の病にかかっていても、人間としての価値は変わらないのだから堂々としていればいいのです。
水野源三さんの「生きる」という詩を紹介します。


神さまの 大きな御手(みて)の中で
かたつむりは かたつむりらしく歩み
蛍草は 蛍草らしく咲き
雨蛙は 雨蛙らしく鳴き
神さまの 大きな 御手の中で
私は 私らしく 生きる


源三さんがもし人と比較していたら、重い障害を持った自分がみじめになり、嘆いてばかりいたでしょう。でも、源三さんは人と比べたりせず、いつも心を神さまにまっすぐ向けていました。
だから、すばらしい詩がたくさん書けたのだろうと思います。

わたしの夢(世界中の子供たちへ)

2006-06-30 12:09:39 | 過去の記事より
今日は、以前書いたエッセイを掲載します。これは2003年11月にクリスチャン・ペンクラブ関東ブロックで発行した「わたしの夢」という冊子に掲載されたものです。わたしのHPにも掲載していたことがあります。
このエッセイを書いてから、小説「リピート・シンドローム」を書き、それが本となって出版されました。神さまのなせる業です。

世界中の子供たちへ

「祈っています。リストカットを繰り返しているKちゃんのために書いて下さい。多くの苦しむ子供たちのためにもよろしくお願いします」

先日、友人から一通のメールが届きました。友人の知り合いの子供がリストカットを繰り返し、精神病院に入院したそうです。青少年のかかえている問題について小説を書いているけれど、なかなかうまくいかないと話した数週間後のことでした。
メールを読んで、なぜか体が震えました。

わたしの夢は日本中、いや世界中の子供たちに神さまの愛を伝えることです。いじめや不登校、摂食障害……。さまざまな問題をかかえている子供。
自分の存在価値がわからなくて死を願う子供たちに「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と言われる神さまを伝えたいです。
神さまの愛を示す小説が書けたらいいのに。多くの悩める子どもたちに届けられたらいいのに。イエスさまを指し示す、すてきなファンタジー童話が作れたらいいのに……。

アニメーション映画になって、多くの子供たちの心に届けられたらいいのにと、夢はとてつもなく大きくふくらみます。

作者の名前も題名も忘れ去られても、物語の一節が、セリフのひとつが読む人の心に留まって、イエス様を知るきっかけになればいいのにと思います。
でも、わたしには書く力がありません。気持ちだけは高ぶっていますが、自分の能力の限界を感じています。壁にぶつかって、もがき苦しんであきらめかけたとき、子供たちの声が聞こえてきました。
「なぜ生まれてきたの?」「なぜぼくは、ここにいるの?」
「何のとりえもない自分なんか、いない方がいいんでしょう?」
まわりにクリスチャンの人がいなかったら、誰がその問いに答えてくれるのでしょう。

創世記1:1の「はじめに神が天と地を創造した」を読んで泣いたといったSちゃんのように、子供は、本当の神さまのことを知りたいと願っています。

そんな子供たちの心に届く物語を、主よ、どうか書かせて下さい。わたしの内に書く力がありませんが、主よ、どうかその力を与えて下さい。

神戸道中記(その10)

2006-05-21 18:11:45 | 過去の記事より
神戸の旅の後、HPに道中記を書いて更新しましたが、インターネットができる人は10人中2人だけなので、道中記を印刷して手紙を添え、友人に送りました。
 その手紙文がどこかに残っていないかと探したのですが見つかりません。おおよそ下記のような内容だったと思います。

 今回の神戸の旅はとても楽しく、感動的でした。OMとK子とは、24年ぶりだったんだよね。ぜんぜんそんなふうに感じなかったね。やっぱり、学生時代の友達っていいね。途中から参加した人や、1日目だけしか参加できなかった人もいたので、神戸での3日間を「道中記」として書きました。HPにも載せたので、印刷して送りますね。

わたしは、せっかちであわて者のくせにのんびりしているので(どういう性格やねん?)住吉教会へ行くとき、電車に乗り遅れそうになったり、帰りの新幹線も間に合わなくなりそうになって、HKをはらはらさせてしまいました。そのたびにわたしが「大丈夫、大丈夫」と言うので、HKは「大丈夫っていうのは、グリムの口癖やねんな」と言って笑いました。

 実は「大丈夫」の前につく言葉があるのです。それは、「神さまがあんじょうしてくれはる」です。(注 あんじょうというのは、関西弁で、「うまく、具合良く」という意味)

たとえ電車に乗り遅れても「神さまがあんじょうしてくれはるから大丈夫」ということだったのです。

わたしは、今回は病気のことをあまり話しませんでしたが、みんな、心配してくれていることと思うので、少しだけこの手紙でお話しします。

 わたしの乳癌は初期だったので温存手術ですみましたが、術後の検査でリンパに転移していることがわかりました。リンパ転移のある人は今後、再発転移の可能性が高いといわれています。再発転移のことを考えると、とても恐ろしく、苦しいこともあります。また薬の副作用で体がしんどいときもあります。

 不安でたまらないときは、「神さまがあんじょうしてくれはるやろ。大丈夫や」と、心の中で言うと、不安の波がさーっとひいていきます。

わたしは、イエスさまがいつも共にいて守って下さることを本気で信じています。かつて共に学んだ頌栄短期大学では礼拝がありましたね。当時は礼拝をよくさぼっていたわたしでしたが、イエス・キリストを信じて生まれ変わりました。乳癌になっても「素晴らしい人生だ」といえるのは、キリストに救われたことの喜びでいっぱいだからです。

 次に会えるのは、いつになるかわらないけれど、また会いたいね。そして、みんながイエスさまを信じて天国でも再会できるといいなあと思っています。


(ろっちの仲間でクリスチャンは、Tちゃんと住吉教会へいっしょにいったS子とわたしの3人だけです)


 手紙をろっちの友人に出すと、HKは「グリムの手紙読んで号泣した」と返事をくれました。
Mちゃんは、ルミナリエが見たいと言ったわたしの言葉を覚えていてくれて、年が明けてから、ルミナリエの写真をたくさん送ってくれました。
 
 OMは道中記を何度も何度も読んだと書いてきました。そして近くの田圃の畦でみつけた(彼女は姫路在住)という四つ葉のクローバーを押し花にしてしおりを作り、同封してくれました。クローバーのしおりの裏に書いてある言葉を読んではっとしました。
 そこには「神さまがあんじょうしてくれはる」と書いてあったのです。彼女はクリスチャンではありません。でも、その言葉が気に入ってくれたようです。

 わたしは、不安なとき、そのしおりを見て何度も慰められました。自分の書いた言葉が友人によってこだまして、わたし自身を励ましてくれたのでした。 
                 
                 おわり

神戸道中記(その9)

2006-05-20 09:21:34 | 過去の記事より
 梅雨のような天気が続いています。今日は荒れ模様。風が強いです。明日から晴れるというので五月晴れを楽しみにしています。今日は、神戸の旅を終えて思ったことを書いた記事を載せます。


この神戸の旅は、単に昔をなつかしむためのものではありませんでした。
過去をふりかえることによっていまの自分をみつめようと思っています。
今まで生きてきた人生の中でいちばんつらかったのが中学生(神戸に住み始めたころ)で、いちばん楽しかったのが短大生のころでした。
でも、短大のころ自分が幸せだと感じていただろうか?と考えると、そうでないことに気づきました。

 心は空しい思いでいっぱいで、心のすき間から冷たい風がいつもふいていました。友だちと楽しい時を過ごしているときだけは忘れますが、どんなに楽しいことをしていても、すぐに空しくなるのでした。

 卒業してからは将来に対する不安が強くありました。友が婚約したと聞いたときは「おめでとう」と笑顔でいいながら、心では取り残されたような思いになって悲しみ、そんな自分に嫌気がさしたりしていました。
 そのころ、わたしはタロット占いにはまっていました。洗礼を受けてからも占いをしていました。

 聖書には占いは罪だと書いてありますが、ろくろく聖書も読まなかったわたしは知りませんでした。知らないとはいえ、占いで未来を知ろうとすることは、神さまに対して悪いことなのだと気づくはずなのに……気づきもしなかったのです。

 神さまがこの世界で起こることすべてを導いて下さるということ(摂理)がわかっていれば、占いなどしなかったでしょう。占いで良い結果が出たとしても当たるかどうかもわからないのにどうして夢中になってしまったのでしょう……。
色々な人をカードで占ってしまって、ごめんなさい。
占いにはまったのも心が空しさを覚え、また不安定だったからでしょう。

 青春だから不安定なのか、失恋をしたから空しいのかと思っていましたが、
後に自分の結婚が決まりいちばん幸せなはずのときにも空しさを感じていました。その空しさからの解放は、神戸から関東に移り住んでからになります。

(詳しくは05年12月に書いたエッセイ「心のすき間がうめられて」をご覧下さい)

神戸道中記(その8)

2006-05-19 12:28:59 | 過去の記事より

 帰りは行きとは別の坂道を降りていきました。そこは45度くらい傾斜のすごい坂で、わたしは「すごさか」という名前をつけていました。喘息の発作が起き、よく夜中に坂の下の病院へ母に連れていってもらいました。(当時家に車はありませんでした)
注射を打ってもらい、発作がおさまったので、家へ帰るときのことです。この坂を登っていて、途中で苦しくなって道に倒れてしまいました。母が父を呼びに家に戻ったとき、たったひとりになりました。

 いまは「すごさか」の横に小さな公園がありますが、かつてはそのあたりは藪のようになっており、夜は黒々としていて恐ろしい獣が潜んでいるようでした。
外灯もない暗い坂にひとりでいるのが恐ろしくて、はって歩いたことがよみがえります。あのとき、『こんなつらい思いをしてまでどうして生きていなくてはならないのだろう……に死んでしまいたい』と思っていました。

道路にあるすべり止めの丸いみぞが一部残っており、それを指でなぞりながら「生きていてほんとうによかったよ」とつぶやきました。

4/21の「父への手紙(その2)」に書きましたが、父に背負われて登ったのがこの写真の坂です。かつては、ガードレールの左には堰がありました。ガードレールの下の方に見える円形のみぞは、当時のものだと思われます。


 摂津本山と芦屋の間に甲南山手という新しい駅ができていたのには驚きました。帰りは甲南山手から電車に乗って新神戸に向かいました。
新神戸では、1日目しか参加できなかった友が見送りに来てくれました。

最後になるかもしれないと思って訪れた神戸でしたが、もういちど訪れたい……新空港ができるので、今度は飛行機で行きたいと願いました。

今回、ひとりが欠席で「ろっちの仲間」11人全員集まれませんでした。この次は11人そろうことを望んで帰途につきました。「さようなら、神戸。きっとまた行くからね」新幹線の窓にながれる神戸の景色を見ながら言いました。
この旅を計画し、ホテルやレストランの予約をとったり、みんなに連絡をとって、それぞれがばらばらなスケジュールを調節してくれたHkに心から感謝します。


「神戸道中記」今日で終わりではありません。(その10)まで続きます。次回は旅を終えてからのことを書きます。

神戸道中記(その7)

2006-05-18 09:13:44 | 過去の記事より
 2004年11月に約20年ぶりに神戸を訪れました。そこで学生時代の友人(人形劇部ろっちの仲間)と神戸で再会を果たしました。そのときのことを書いた神戸道中記を連載しています。これは、以前HPの日記に掲載していたものです。(青字は今回書き足したものです)

まだ数回続きます。今日は、以前住んでいた家を見に行ったときのことです。

 
 2日目の夜はひとりで三宮のホテルに泊まりました。ろっちの仲間との旅は1泊2日だったのですが、2日目船に乗ってから新幹線で帰ると、家に着くのは夜中になってしまいます。それで、もう1泊することにしたのです。
 
3日目は、以前住んでいたところへ行ってみることにしました。2人の「ろっち」の友人(HKとMちゃん)が、ひとりは仕事を休んでつきあってくれました。

神戸でエスカレーターに乗るとき、わたしは何度も友人に引っ張られました。関東では左寄りに立ちますが、関西は逆です。そうと気づいても、いつものくせで左に立ってしまいます。「グリムは関東人やねんな」と友人にいわれました。

わたしが住んでいたのは東灘区、摂津本山駅から東へ20分ほど歩いた高台の住宅地です。駅前がすっかり変わっていたのには驚きました。それでも昔あった店や教会をみつけて、なつかしくなりました。

なじみだったパン屋フロイン堂は昔のままでした。フロイン堂でパンを買って、かつて住んでいた家の方へ歩いていきました。
薬科大学へ向かう坂道は昔のままですが、道沿いに立ち並ぶ家々は新しくしゃれた家ばかりでした。

24年も経っているので、住んでいた家はとっくに建て替えられていると思ったのですが、そのまま残っていました。壁はところどころひびわれしてコンクリートがぬられていましたが、物置も、松の木も昔のままでした。(感激!!)
(写真の青い屋根の家)

かつて住んでいた家の前に立つと中学生のころの思い出がよみがえります。つらいとき、よく犬を連れてこのあたりを歩き回っていました。空き地に犬を放して海を眺めながら、もの思いにふけったものです。

 自分の部屋からも海が見えて、よく晴れた日は大阪湾まで見えました。
 家の前の坂道を登りつめると、六甲山系の山に入る山道につながっており、従兄が遊びに来たとき、ハイキングにいきました。その山にはイノシシが出るというので恐ろしくてびくびくしながらお弁当を食べて戻ってきました。
 ワラビ採りに行って、ワラビだと思ってシダを山ほど採ってきたこともありました。
 
今は山道に入れるようになっているのかわかりませんが、山と海に囲まれ、神さまの造られた素晴らしい自然の中で暮らしていたのだなあとあらためて思いました。


神戸道中記(その6)

2006-05-17 08:08:33 | 過去の記事より

住吉教会をあとにして、再び他の友人と合流し、遊覧船「パルデメール」に乗りました。船内で食べたケーキのおいしかったこと、景色が素晴らしかったこと。よい思い出となりました。

下船後、散策をして夕飯を食べに行ったときのことです。ハプニングが起こりました……。友人のひとり、OMの具合が悪くなってしまったのです。顔色が真っ青で頭痛と吐き気がするといいます。
仕事の疲れがたまっていたのでしょう。これから帰るのですが、途中からひとりになるので家まで帰り着けるか心配です。ひどく顔色が悪いので、倒れてしまうかもしれません。

気功の先生をしている友人HKが、彼女の隣の席に移って背中や首に指圧をはじめました。ほかの3人は「どないしよう」と、おろおろとただ見守っているだけです。
わたしは、心の中で祈っていました。

ところが指圧をはじめて10分もたたないうちに友人の顔色がみるみる元に戻っていき、「なおった」といってデザートのアイスを食べ、にこにこしています。
イエスさまの癒しの奇跡を見たようでした。
帰り道では歌までうたいだすほどの元気になって、一同はほっと胸をなでおろしました。

その1年後、OMから神奈川県で行われる研修に参加するため上京するので会いたいと連絡がありました。
神戸での集まりに参加できなかった横浜在住のMGと3人、東京で待ち合わせして、楽しいひとときを過ごしました。


神戸道中記(その5)

2006-05-16 11:19:47 | 過去の記事より

1日目は六甲アイランドのホテルで泊まりました。ホテルから見る夜景がきれいでした昔と比べると倍以上の灯りがともっているので、100万ドルではなく200万ドルの夜景です。

(写真は、舞子ビラから撮ったもので、あまりよく撮れていません。点灯しているは明石大橋です)


泊まったのは5人。ホテルでやったことは、ハンカチねずみの作り方講習(?)保育科出身のわたしたちの半数は、現役で保育の仕事をしています。
わたしたちは子どものようにハンカチねずみを作って動かし、楽しみました。

 翌日(21日)は、この旅行のもうひとつの目的、母教会を訪れました。母教会とは洗礼を受けた教会のことです。友人の1人、S子が一緒にいくといっていました。他の3人は美術館へいき、お昼に再び会うことを約束して……。

とても不思議なことがありました。旅行に出かける前々日、S子から「教会の正式な名前を教えて」というメールが届きました。

「日本基督住吉教会」と答えると電話がかかってきて、「その教会、兄の母教会やねん。小学生の頃わたしも兄に連れられてその教会へ行ったことがあるんや」というではありませんか。

 S子は姫路に住み、普段は姫路の教会に通っています。お兄さんは38年前、神戸大学在学中に住吉教会に通っていたそうで、いま奈良県に住んでおられます。
奥さんも住吉教会出身だそうです。神戸にはたくさん教会があるのにS子のお兄さんの母教会とわたしの母教会が同じだったとは……。今回、わたしが母教会を訪れるといわなければ、わからなかったことです。
「偶然ではなく、神さまの不思議な導きやね」とS子と話しました。

 住吉教会はわたしが通っていたところの会堂ではなく、移転してマンションの二階で礼拝がもたれていました。牧師先生は今年80歳になられるそうですが、24年前とちっともお変わりなく、力強いメッセージをされました。
 
 一字一句聞きのがすまいと一生懸命聞きました。昔、住吉教会に通っていたころは、心が落ち着かずときどき考え事をしたりしてこんなに熱心に聞いていませんでした。
 もし、あのときもっと真剣に神さまを求めていたら後に教会を離れることはなかったのに……という思いがわき上がりますが、今さら後悔してもしかたありません。

 牧師先生は次のように語られました。
「イスラエルの民をエジプトから導き出したモーセは、ねたみから兄のアロンや姉のミリヤムに非難されます。モーセは非難されても弁解せずに沈黙を守りました。
モーセは神様が弁護して下さることを知っていたからです。どんな人でも非難を受けることがあります。でも、そんなとき自分で弁護するのではなく、主が弁護して下さることを信じて平安を得るように」


 メッセージを聞いて、かつて人から誤解され非難されたとき、必死に自分で弁護しようとしていたことを思い出しました。
いくら自分で弁護しても相手には伝わらず、ずっと後になってわかってもらえたという経験をしましたが、神様が相手の心に働きかけて下さったのだなあと思いました。
「「神がわたしたちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。(ローマ人への手紙8-31)」

礼拝の後、「24年前に通っていたMさん(わたしの旧姓)が来ています」と紹介されるとどよめきが起こりました。

次に38年前に通っておられたIさんの妹さんも来ていますと言われるとまたどよめきが……。
知っている人はほとんどいないのではと思っていたのですが、5.6人の方が来て下さり、なつかしい再会を果たしました。

別れるとき、ひとりの兄弟が(教会では同じ主を信じる者を兄弟姉妹と呼び合っています)祈って下さいました。
「次に再会するときは天国でかもしれませんが……」と祈られましたが、本当にそうだと思いました。次にいつ神戸へ行けるかわかりません。地上では最後かもしれない。
でも、ここにいる兄弟姉妹たちとは天国で会える。そう思うと喜びに満たされました。

カメラを持っていったのに教会では写真とり忘れてしまいました。残念でしたが、心のフィルムにしっかり焼き付けました。

神戸道中記(その4)

2006-05-15 11:07:28 | 過去の記事より
2004年11月に訪れた神戸道中記4回目です。紫の字は以前書いたもので青字は、今回付け足したものです。


3日目には震災モニュメントを訪れました。(写真)地下の瞑想空間には震災で亡くなられた方の名前が刻まれていました。幸い「ろっち」の仲間の家族で亡くなった方はいませんが、わたしの高校時代のクラスメートは亡くなっています。
卒業以来年に2.3回ずうっと集まっていた「ろっち」の仲間ですが、震災後数年は集まらなかったと聞いて、震災のショックが大きかったことを知りました。

仲間のひとりMちゃんは、震災の日風邪をひいて、高熱を出していたそうです。明け方、熱で苦しんでいるMちゃんに薬を飲ませようと、やさしいご主人は、起きて水をくみに行ったそうです。そのとき、激しい揺れがきて、ご主人の寝ていた蒲団の上に箪笥が倒れてきたそうです。水をくみに立っていたので、ご主人は無事だったということを聞いて鳥肌がたちました。守られたのですね。良かった。本当に良かった。Mちゃんの熱はびっくりして一時的に下がったそうです。こんな恐ろしい思いをしのですね。


わたしたちは、明石大橋の見える舞子ビラで夕食を共にしました。
わたしが神戸に住んでいた頃はまだ明石大橋はできていませんでした。イルミネーションが美しく、色が変わるたびに感激しました。

みんなの話す言葉は生粋の関西弁。わたしは、関西が少し混ざった関東弁です。昔は関西弁を話さなければ関西の人と友達になれないと思っていました。
中学のとき関東弁を話していていじめられたこともあって、関西弁を一生懸命まねていました。語尾に「やで」とか「へん」をつけたり、「しんどい」、「ほかす」、「あかんで」など関東ではあまり使わない言葉を言うのは簡単でした。
でも、アクセントがむずかしいです。「カラス」、「橋」、「亀」などは関東と関西では全く違いますが、関西風にはなかなか言えません。
アクセントだけ違うので笑われて傷ついていました。でも、今は、関西弁であろうが関東弁であろうがそんなことは関係なくなり、心がつながっていればしゃべる言葉が違ったってかまわないと思い、意識せずに話しました。

関西弁でいちばん好きな言葉は「あんじょうしてくれはる」です。うまくやってくれるという意味ですが、わたしは色々なことが心配になってくると、「神さまがあんじょうしてくれはる」と心の中で言います。そうすると心からほっとするのです。

神戸道中記(その3)

2006-05-14 16:22:11 | 過去の記事より
2004年11月に訪れた神戸道中記3回目です。紫の字は以前書いたもので青字は、今回付け足したものです。

わたしは、子供の頃のことはよく覚えています。2歳のとき肺炎で入院した記憶もぼんやりとあります。中学生の頃の記憶はいちばん鮮明です。きっと、つらい時期だったからでしょう。

 短大時代の2年間は、12年神戸に住んでいた中でいちばん楽しい時期でした。だからなのか肝心なところの記憶がなくなっています。

 中華同文とは中国人の学校です。わたしが神戸に住んでいた頃から短大の近くにあったのにすっかり忘れていました。中華料理屋さんだと思ったと言ったら、友人たちは大笑い。(このことは後々まで笑い話になっています)

友達のことは、しっかり覚えています。今回、24年ぶりに会った友達が2人いました。16年ふりに会った友がひとり。5年前に京都の泊まり会に参加したメンバーは5年ぶりです。
でも、時間の空白は感じられませんでした。昨日まで語り合っていたようにすぐにうち解けてしゃべりました。みんな顔は少し変わったけれど、しゃべり方やくせなど学生時代のままでした。

お昼をすませると、わたしたちは短大のあったところを散策しました。教育館のあったところは別の建物が建っていました。道路をはさんでチャペルがあったのですが、その場所がはっきりわかりません。道も変わってしまった様子です。
それでも、学校帰りに電車の時間を気にしながら走った坂道はそのままで、重いカバンを抱えて走っていく自分たちの姿が見えるようでした。

元町まで歩いていくと、しゃれた新しい建物が目に入りました。街はすっかり変わっていました。震災の傷跡はみえませんでしたが、神戸に住む人たちの心にはまだ震災の傷跡が深く残っていることを感じました。

神戸道中記(その2)

2006-05-13 11:49:39 | 過去の記事より
昨日の続きです。この写真は中山手。かつて学んだ頌栄短期大学のあったところです。

グリムとあだ名がつけられたのは、中学1年のとき、神戸へ引っ越して間もないころでした。
わたしは、そのあだ名が嫌でした。それはグリム童話に出てくる意地悪な魔法使いのお婆さんと顔が似ているからということで、「グリム婆さん」と呼ばれていたからです。

「あだ名がつけられるのはいいことよ」と母にいわれましたが、後で考えると確かにそうでした。存在を認められているということですから。中2のときは、そのあだ名でさえ呼んでもらえず、寂しい思いをしました。
短大で人形劇部に入ったとき、本名で呼びあうのはやめようと決め、それぞれニックネームを考えました。

むかし呼ばれていたあだ名があればそれを……といわれたので、わたしは婆さんをつけずに、「グリム」というと、みんなが「ぴったりやー」と言って(なんでやろ?)
それ以来、ずうっと「ろっち」の仲間ではグリムと呼ばれています。



久しぶりに神戸を訪れたグリムは、着いた途端とまどってしまいました。短大のあった場所の近くの中華料理屋で待ち合わせしていたのですが…。
「新神戸駅からタクシーに乗ればすぐやで。中華同文の近くのSというお店やからね」と聞いていたので、さっそくタクシーに乗り店の名前をいうと、

「知らんで。どのへんや?」と運転手さん。
「中華同文の近くです」と答えると、
「中華同文て学校?」と聞かれました。
「いいえ。中華料理屋さんです」(注:これはわたしの勘違いです)
「ええっ! そんな中華料理屋知らんで」
「中山手なんですが」
「中山手言うたかて東西に広いんやで」
「電話してみます」
ケイタイで友人にかけるとつながりません。あせびっしょり。(そういえば、友達の送ってくれたFAXに店の電話番号が書いてあった)

店の電話番号がわかり、早速電話して場所を聞くと
「どこにいはるんですか?」
「えーっと、ここはどこでしょう?」
わたしがトンチンカンなことを言うのでイライラした運転手さんは、
「ちょっとケイタイ貸してんか」
と、わたしのケイタイを手に取り、運転しながら道を尋ねています。

(あっ、どないしよう。ケイタイ運転禁止やのに……大丈夫やろか?)いつの間にかわたしも関西弁モードになっています。ハラハラドキドキ。店の近くに友達のひとりが出てきてくれていて、とにかく無事着きました。


神戸道中記(その1)

2006-05-12 11:57:21 | 過去の記事より
2004年11月20日から22日に神戸へ行き、HPのつれづれ日記にもその道中記を掲載しましたが、そのときは写真を掲載しませんでした。写真を入れてもう一度編集し直しました。これから約一週間にわたって神戸道中記を掲載したいと思います。わたしの神戸への想いを感じていただければ幸いです。


わたしは東京都武蔵野市で生まれ、中1のとき父の転勤で神戸へ引っ越し、それから12年間神戸に住んでいました。つまり、青春時代のほとんどを神戸で過ごしたわけです。神戸はわたしの第2のふるさとです。

 神戸から関東に越したのが24年前。その間に2度ほど友人と従妹の結婚式に出るため神戸へ行きましたが、そのときは日帰りでした。
震災後の神戸に行くのは初めてで、街がすっかり変わっているのには驚きました。
街はきれいで、しゃれた店や背の高いビルが建ち並び、市役所も国際会館も新しくなっていました。ポートタワーだけは昔のままでした。

 今回の旅の目的のひとつは短大時代の友人と会うことでした。保育科の短大にいたとき、「ろっち」という人形劇部に入っていました。
人形をかかえて淡路島や鳥取までいったり、幼稚園や保育所、養護施設などをまわりました。女子校なので大道具の制作も女子だけでやり、夜遅くまで学校に残って、のこぎりをひいたりしていました。

 すでに20年くらい前に学校は元町から御影に移転してしまいましたが、わたしたちは学校のあった場所近くで待ち合わせをしました。
人形劇部「ろっち」のメンバーはわたしを入れて11人。そのうち関東に住んでいるのは2人。その他の人は西宮、神戸、姫路、相生……みんな関西です。
卒業してから関西のメンバーは年に3.4回集まっていいて、子育てが一段落した5年前からは泊まり会をするようになりました。関東に住むわたしは、ななかなか参加できませんが、5年前に京都の亀岡で泊まり会があったとき、参加して10数年ぶりに友人達と再会しました。

 そのときに参加できない人もいたので、その人とは今回24年ぶりの再会でした。でも、不思議に昨日まで語り合っていたようにすぐうちとけて話せました。わたしは自然に関西弁になりました。(友人にいわせれば、わたしのは関西弁と違うそうですが……)

 今回参加したのは11名中10名。残念ながら横浜に住む友人だけが都合で参加できませんでしたが、出席率は最高。みんな仕事をしていて忙しい中都合をつけて集まりました。
 途中から参加した人や、1日目だけで帰った人など入れ替わり立ち替わりでしたが、9人と話しができたので嬉しかったです。

 わたしたちは学生時代からみんなニックネームで呼び合います。ひっか、ありんこ、ちら、みやちゃん、ぐりむ……。名字(旧姓)からつけられたものが多いのですが、結婚して名前が変わってもニックネームはそのままなので、すぐに学生時代にタイムスリップできます。ちなみにわたしのニックネームはグリム。どうしてグリムなのか? それは次回のお楽しみ。


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