生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

立ち返って静かにすれば……

2020-01-08 16:04:07 | エッセイ
新しい年が明けて、早8日もたってしまいました。
遅ればせながら新年のご挨拶を申し上げます。今年もよろしくお願いいたします。

わたしの今年の抱負は『ひとつでも多く聖書の言葉を暗唱する』です。
暗唱聖句は以前からもしていましたが、年末年始、子供や孫たちが来ていて忙しくてできませんでした。
皆が帰ってから聖句カードを見ると、半分以上忘れていることがわかってショックでした。

確実に記憶力が衰えています。記憶力だけでなく、体力筋力も……。

衰えていくのは、人によって程度が違うでしょうし、早さも違うでしょう。
つい、愚痴を言いたくなったとき、辛くて涙が出そうなとき、嘆きで心が塞がれてしまったとき
力づけてくれるのは、聖書の言葉です。

聖書の言葉には力があります。神様の言葉だからです。

「立ち返って静かにすればあなたがたは救われ、落ち着いて信頼すれば、あなたがたは力を得る。(イザヤ30:15)」


聖書を読んでいるときでさえ、心落ち着かなかったわたしに上記のみ言葉が立ち返らせてくれました。


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生きてていいんだよ

2019-04-03 16:35:06 | エッセイ
桜川の桜はもうすぐ満開になりそうです。お花見はまだ行っていません。寒くて行く気になれないのです。明後日は暖かくなると天気予報で言っているので、期待して待ちます。
娘は臨月を迎えました。孫のソークンはよく食べ、よく笑い、よく遊んでいます。

先日(3/25)の文章を書いた心境について少し書かせていただきます。

わたしは子どもの頃、非常に大きな劣等感を抱いていました。
それは、祖母や両親が厳しく、なかなか認めてもらえず、否定されることが多かったからだと思っていました。人のせいにしていましたが、今思うと、わたしは不器用で、自信がないために一歩ひいてしまうところがありました。

人との付き合いもへたで、学校ではほとんど話をしなかったので、友達が少なかったです。自分から声をかけることができませんでした。中二のときには友達が一人もいませんでした。同じクラスの人に「あの人変わっているね」などと陰口を言われて、心に深い傷を負っていました。

「何もできなくていい。あなたの存在そのものが価値あるのだから、そのままでいいんだよ」と言ってくれる人がいたら、どんなにうれしかったことでしょう。
中二のわたしは、孤独の中で自分の存在とは何か考えました。

わたしは、『どうせ偶然に生まれたのだから、死ぬ時ぐらい好きなようにさせて』と、自分のいのちを軽々しく考えていました。これまで自分一人で生きてきたような高慢な思いを抱いて、両親や周りの人の痛みを考えてもみませんでした。

それでも大いなる存在については何かを感じていました。このみじめな自分をあたたかな目で見つめ、見守ってくれる人がいるような気がしていました。でもそれは勝手な自分の思いに過ぎないのだと打ち消してしまいました。

けれどもわたしを造り、ずっと見守り、愛してくださった方がおられたのです。このことを知ったとき、涙が止まりませんでした。(それを知ったのは20歳を過ぎていましたが……)
「そのままでいいのだよ」と存在を認めてもらって、生きてていいんだ、生かされているんだと思いました。



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無理なく自然体で

2017-11-17 15:20:20 | エッセイ
昨日はレストランでの家庭集会でした。いつもは教会で行っていますが、年に2回ほどレストランでさせていただいています。オーナーのご夫妻が同じ教会員なので、家庭集会をしたいと言えば、お店を貸切にしてくださり、おいしいランチをごちそうしてくださいます。

一時間半ほど聖書の学びをしてからランチを戴き祝福された時間を過ごしました。
学びについて書きたいのですが、これから孫たちを迎えに行くので時間がありません。

教会の月報に掲載された家庭集会についてのエッセイを紹介します。

                  無理なく自然体で
                              
家庭庭集会は27年目になりました。土浦に引っ越してから半年後に始めましたが、市内で2回引っ越したので場所が変わり、メンバーも変化しました。

家庭集会を開きたいと思ったのは、同じマンションの人たちに福音を伝えたいと思ったからです。最初に住んでいたマンションは、新しくできたばかりでした。小学生のお子さんのいる家庭が多かったので、当時小学2年生だった長男を通してマンションの方々とおつきあいするようになりました。家庭集会にお誘いすると、初めは10人も集まって驚きましたが、長続きはしませんでした。

その後、クリスチャンの姉妹数名がメンバーになって下さいました。
数年して、隣に高齢のご夫婦が引っ越してこられました。家庭集会におさそいすると、ご夫妻は2年の間、毎回来て下さいました。でも、残念なことにご主人が召され、その後奥様も召されてしまいました。
文京町に引っ越してからは、Sさんが家庭を開放してくださり、新しいメンバーも与えられました。家庭集会のメンバーで2人の方が受洗の恵みにあずかりました。

その後、隣町に引っ越したのですが、数年たつと夫が退職して家にいるようになりました。最初は夫が出かける予定の日に家庭集会をしていましたが、夫の予定が急に変わることがあり、負担をかけてしまいました。これまで家庭を開放してくれていたメンバーも都合でできなくなって、これで文京家庭集会は終わりだと寂しい気持ちでいっぱいでした。

ところが、メンバーのひとりが「教会で家庭集会ができないかしら」と提案してくださいました。それで3年前から教会の和室で行うようになりました。和室の戸を閉めると、なんとそこは家庭の一室のようです。そこでは、聖書を学び、賛美をし、食事を共にし、おしゃべりを楽しみます。また、人にはなかなか言えないような悩みを打ち明け、祈りの場になることもあります。

食べ物のことで気を使わないようにお昼はイオンのお弁当です。年に2回ほどは、ちょっと贅沢してレストランで行っています。できない月はお休みして、無理なく自然体で続けていけたらなあと思っています。



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宇宙の果てにあるものは?

2016-04-05 16:19:11 | エッセイ
桜が満開になりました。土浦亀城公園の今日の桜です。お花見には寒い日です。

先日4年生のヒックンとつくばエキスポセンターに行ってプラネタリウムを見てきました。
「宇宙の果ての向こう側」というタイトルに惹かれました。
ところが始まった途端、睡魔が襲ってきてうとうと眠ってしまいました。「眠ったらお金がもったいないよ」というヒックンの声に起こされましたが、10分ぐらい眠ったようです。

いくら科学が発達しても、宇宙は謎だらけです。広大すぎて宇宙の全体を知ることはできません。ましてや果ての向こうがどうなっているか、想像するしかありません。果てがあるかどうかもわからないのです。

そもそも、宇宙はどうやってできたのでしょう。ビッグバン宇宙論を唱える人が多いですが、説明を聞いていると、偶然という言葉が何度も出てきます。
生命の芽生えた地球がどうしてできたのかも、偶然の仕業なのでしょうか……。

わたしは、偶然ということを考えません。
宇宙が、地球が、動植物が、人間ができたのが偶然であったとしたら、もしなにかがひとつ違ったら、自分はこの世界に存在しなかったことにもなります。
生命体のいる星が、地球ではなかったかもしれないということにもなります。

ここにいるのは偶然なのだから、わたしじゃなくてもよくなるわけです。それは悲しいですね。

わたしの存在が偶然でなく、必然だとしたらどうでしょう。誰かのために備えられていたとしたら。
いつか起こる出来事の中で、なくてはならない役目を担っているとしたら……。

神様は宇宙を創造し、地球を作り、人間を造ってくださいました。わたしやあなたのことも目的をもって造られたのです。偶然ではありません。この宇宙が偶然にできたというには、あまりにも不思議で満ちています。

あなたやわたしが今、生きているということは、ずっと前から神様によって計画されていたのです。

宇宙の果ての向こう側には何があるでしょう。わたしは、そこに神様がおられると思います。そして、あなたやわたしのすぐそばにも神様はおられるのです。

何のためにここに置かれているのか。神様はわたしに何を求めておられるのか……。広大な宇宙の中にいる小さなこの者にできることは何でしょう。




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恐れないで・・・

2014-10-24 21:03:21 | エッセイ

母は少しずつ快復し、一緒に散歩をしています。

土浦と三鷹の二重生活は、思ったより大変です。

実家では、訪れる人の対応にも追われ、土浦に戻ってくると、しなければならないことが山積になっています。
疲れたので昼間休もうと横になると、工事の音で眠れません。マンションは修繕工事をしているのです。耳にキリで差し込まれるような音がして、とび起きてしまいます。

この生活が永遠に続くように思えます。出口のないトンネルの中を歩いているようです。
でも、出口のないトンネルはないのです。行き詰ったら視点を変えてみようと思いました。

大変なのは、限られたこの時期だけ。このことがきっとよいことに変えられるでしょう。神様はどのような計画を立てておられるのか楽しみです。……すべてを期待します。
日本クリスチャン・ペンクラブ(JCP)でエッセイを書いたので、紹介します。
                 
            
              絶望と不安の中で   
                               土筆文香

なぜこんなことになったのだろう……。

私は点滴を受けながら、病院のベッドでずっと泣いていました。

十日前に二人目の子どもを無事出産したのですが、退院後喘息の発作が起きてどんどん悪化していきました。食事もとれなくなったので病院へ行くと、すぐ入院と言われました。いのちの危険があったのです。
                 

元気なら、翌日は主人の実家に預けている三歳の長男と会えるはずでした。生まれたばかりの長女は両親に預けたままです。子どもたちに会いたくて胸が張り裂けそうでした。

大発作は治まったものの発作がいつまでも続きました。このまま治らないのではと不安になり、涙が止まらなくなりました。
すがるような気持で聖書を読むと、み言葉が心にとびこんできました。

「恐れないで、ただ信じていなさい(マルコ5:36)」

初めて聖書の言葉が自分に向けて語られていると感じて『不信仰な私を赦して下さい。たとえ喘息が癒されなくても神様がよくしてくださると信じます。』と、心から祈りました。

不思議に翌日発作が治まり、数日後退院して子どもたちを抱きしめることができました。

読み返すと、今の私に一番必要なみことばでした。


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終わりのない冬はない

2014-02-04 20:51:38 | エッセイ
昨日はとても暖かだったのに、真冬の寒さに逆戻りです。朝から降っていた雨が、午後になって雪になりました。

今日は内科と婦人科通院の日だったので、病院まで歩いていきました。
いつもは自転車です。自転車で20分ぐらいかかるので歩いたら1時間ぐらいかなと思っていたら40分で着きました。早足でこれだけ歩くとホカホカ暖かくなります。ちょうどいい運動になりました。(元気な患者です)
 
日本クリスチャン・ペンクラブ(JCP)では、春・夏・秋・冬について400字エッセイを書いています。わたしが書いた「冬」のエッセイを紹介します。

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終わりのない冬はない

        
中2の毎日は終わりのない冬のようだった。 
いちばん辛かったのは、20分の昼休み。友達のいない私には居場所がなかった。ひとりでいるところを誰にも見られたくなかったので、図書室に行ったり、校舎の周りを歩いたりしてチャイムの鳴るのを待った。

3人連れのクラスメートに何度も行き会って恥ずかしくなり、トイレに籠った。
「長いな。誰が入ってるんやろ」
 
ふいに外から声がした。出るに出られない。どうしようと思ったとき、チャイムが鳴った。

その後、空想することで人目を気にせず時間を過ごせるようになった。ストーリーが生まれた。書き留めたら原稿用紙130枚にもなった。作家になろうと決心した。

このことが私に生きる意欲を与えた。作家になるために本嫌いだった私が片端から本を読み始めた。
その後、一冊の本をきっかけとしてキリストと出会った。本嫌いのままだったら出会えなかっただろう。終わりのない冬はない。


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人生の冬というと、老年期を思う人が多いかもしれません。でも、わたしにとって冬は中学2年のときです。関東から関西の学校へ転校して、なかなかなじめませんでした。精神的な苦しみに加えて喘息の苦しみがありました。
クラスでひとりも友達がいないということでつらい日々を過ごしていました。

担任の先生に呼び出されて「校舎の周りをひとりで歩いているんやて。友達作らなあかんで」としかられました。
引っ込み思案のわたしは、常に受け身で、自分から人に声をかけることがありませんでした。それまでは誰かが声をかけてくれて、少ないながらも友達がいたのです。ところが、中学2年になったとき、誰からも声をかけられず、かといって自分から声をかけることができず、孤立してしまいました。

どれだけ友達が欲しいと思ったことでしょう。それなのに先生から『作らなあかん』と言われるなんて……。
そのようなとき、空想するようになりました。現実逃避だったのかもしれません。空想の中ではたくさんの友達がいました。ストーリーが生まれ、おもしろくてたまらなくなり、書き留めることを思いつきました。

つらい冬の時期があったからこそ、発見できたのだと思います。

書くことで自分の存在を確かめることができ、書くことによって生きる喜びを見出していったのです。それは神様からのプレゼントです。
キリストと出会ったのは、それから8年も後のことです。きっかけになった本は、三浦綾子の「あさっての風」です。


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ほっとできる交わりの場に

2014-01-21 21:21:57 | エッセイ
児童文学者協会の集まりが金曜日にあるので、合評原稿を書いていました。ようやく書けたのでほっとしています。
クリスチャン・ペンクラブのエッセーは、まだ推敲が終わっていません。金曜日までに書き上げなければ……。
昨年、家庭集会について教会の月報に書いたエッセイを紹介します。


ほっとできる交わりの場所に         

我が家で家庭集会を始めてから23年になります。現在、メンバーは10名ほどで3軒の家を開放して順番に行っています。ときにはレストランで行うこともあります。最初のころから来ている方、10年前、数年前から参加されている方などさまざまです。

メンバーには男性が2人いらっしゃいます。思考回路の違う男性の意見が聞けることは大きな恵みです。
わたしたちは、とても熱心に学んでいます。先生のお話しをひとことも聞き漏らすまいと一生懸命メモをとりながら聞いている方もいます。
学びの最中は割合静かなのですが、意見を求められると、待っていましたとばかりにたくさん話します。先生を圧倒するほどの勢いです。

学びが終わって食事をしながら、またおしゃべりに花が咲きます。悩みや愚痴も出てきます。でも、この場所で聞いたことはほかの場所では言わないという暗黙の了解があるので、心置きなく何でも話せます。聞いている人は、ただうなずいて聞いています。解決法が見つからなくてもいいのです。話している人も、ただ聞いてもらいたい、共感してもらいたいと思っているだけです。同じような悩みを抱えている方がいると、共感しあえます。話しただけで、抱えていた重荷が随分軽くなった気がします。

「自分みたいな者は、参加しても迷惑がかかるだけだから」と言って遠慮していた方が参加してくださったときは、大きな喜びです。

文京家庭集会が自分の居場所なんだと思え、くつろげる場所になれるように。同じことを繰り返し言っても大丈夫な場所に。自分をよく見せようと飾る必要のない場所に。ほっとできる交わりの場所に。そして、お互いに祈り合う場所に。共に神様を心からほめたたえられる場所になれたらいいなあと祈っています。

来年から我が家では家庭を開放するのが大変になってきます。未信者の夫が仕事をやめ、毎日自宅にいるようになるからです。なんとか来年も続けられたらいいなあと願っています。



*家庭集会の名は文京です。(以前文京町に住んでいたので……)
*主人に週3日の仕事が与えられて、あと半年は家庭集会ができるようになりました。感謝!



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言葉で傷つけ、傷ついたとき

2013-12-06 20:30:17 | エッセイ
ようやく声がもとにもどり、元気快復してきました。
昨日は家庭集会のクリスマス会が教会で行われ、すばらしいオルガン演奏を聴いてきました。
今日は朝からカップケーキ作りです。30個焼きました。明日の子ども家庭集会クリスマス会で子どもたちがデコレーションをするのです。どんなふうにデコレーションされるのか楽しみです。
クリスチャン・ペンクラブのニュースレタークリスマス号に掲載されたクリスマスエッセイを紹介します。

神の作品


「あなたの言葉でひどく傷ついた!」
怒りを込めた友人の声が受話器から流れてきたとき、一瞬頭が真っ白になりました。
 
どのような言葉が彼女を傷つけたのかわかりませんでしたが、すぐあやまりました。あやまっても彼女の怒りはおさまりませんでした。
わたしはショックでほとんど食事がとれないほどに落ち込んでしまいました。 

どんな言葉であっても、わたしの口から出た言葉が人を傷つけてしまったのです。わたしは加害者です。これからも口を開けば誰かを傷つけてしまうかもしれません。家から出ず、誰とも話さない方がいいのでは……とまで思い詰めてしまいました。

それでも数日後、日曜日を迎えたのでわたしは重い心で教会へ行きました。その日の午後は、クリスマス会で教会学校の教師たちが演じるペープサートの指導をすることになっていました。

初めてわたしの書いた童話が教会で用いられ、嬉しくて練習も楽しみにしていたのですが、こんな精神状態でできるのだろうか……と案じ、必死に祈りながら指導をしました。
自分がどのように振る舞ったかわかりませんが、落ち込んでいることを誰にも悟られることなくできたのは、神様が力を与えてくださったからです。

その後、彼女が傷ついたのは、わたしの言葉を誤解して受け止めたからだということがわかりました。彼女とは和解しましたが、傷心のままクリスマスを迎えました。
今から考えると、なぜあんなに落ち込んでしまったのだろうと思います。わたしに責められるところがあったとしても、人格を否定されたわけではなかったのです。

わたしの中にアイデンティティーが確立されていなかったので、責められたとき、全人格を否定されたように思い、過剰に反応してしまったのです。
クリスマス会のペープサートは大成功でした。弱くて力がなくて、自分は誰の役にも立たないと思っていたロバのロム。それは自分自身がモデルでした。ロムは赤ちゃんイエス様に出会って力が与えられ、後にイエス様を抱いたマリヤを乗せて歩くようになるというストーリーです。
クリスマス会の本番、赤ちゃんイエス様がロムに語りかけるシーンで、イエス様がわたしにも語りかけてくださいました。

「もう、落ち込まなくていい。あなたはわたしが造った価値ある作品なのだよ」
 ああ、イエス様はこのことを知らせるために生まれてきてくださったのですね。
そのときから、このことを今を生きる子どもたちに伝えたいと切に願うようになりました。

「私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。」(エペソ2―10)



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ほんとうは人見知りなんです

2013-11-23 11:18:45 | エッセイ
わたしの通っている教会の婦人会は4つあります。20代、30代の婦人はルツの会。40代の婦人はユニケ会、50代は泉会、60代以上はナオミ会です。

泉会以外は皆、聖書にでてくる女性の名前です。泉会だけなぜ人の名前でないのかよくわかりませんが……。
泉という言葉はすてきですね。水がこんこんとわき出て、いつも新しくされているイメージです。もちろん、泉という言葉は聖書にたくさん出てきます。

泉会のメンバーは、40人ぐらいいます。人数が多いので、顔は知っていても名前がわからない方もいます。
泉会の11月の会報に原稿を頼まれたので自己紹介がてら書かせてもらいました。ここでも紹介させていただきますね。

       
ほんとうは人見知りなんです

わたしは子どものころ、内弁慶でした。家では大きな声でわがままを言ったりするのですが、一歩外に出ると人形のように無口でした。

ろくに挨拶もできませんでした。雨の日が好きだったのは、傘がさせるからでした。知り合いの人に出会っても、傘で顔を隠して知らんぷりしているような変わった子どもでした。

 人から見られること、注目されることがいやで、意識して目立たないようにしていました。必要なことの3割ぐらいしか言えず、いつもストレスを抱えていました。
 人前で話すときは緊張してかたまり、小さな声で話すので、「蚊の鳴く声より小さいね」と言われていました。

 そんなわたしが、「声がでかい」と子どもたちにしかられるようになり、人前で話すのにはそれほど緊張しなくなりました。言いたいことの9割は言えるようになっているので、子どものころ無口だったと言うと「嘘でしょ」と言われるほどです。

 それでも昔の性質が残っていて、ほんとうは人見知りなんです。一度親しくなってしまった人に対してはいいのですが、それほど親しくない人には、こちらから話しかけられず、話しかけられてもそっけない態度をとってしまうのです。

 教会内でも「文香さんに嫌われたみたい」と、言われたことがあります。ごめんなさい。違うんです。ほんとうは、人が好きで好きでたまらないのです。それなのに人見知りがまだ直らないのです。話しかけられると嬉しいので、泉会の皆さん、よろしくお願いします。

 最近気づいたことは、言いたいことの9割も話してはいけないということです。余計なひとことを言ったとき、相手を傷つけることが多いからです。8割ぐらいに留めておきたいのですが……。口での失敗は数限りなくあります。
「主よ、唇の扉に立ってこの口をもって罪を犯さないようにしてください」と祈っています。



日本クリスチャン・ペンクラブの理事、三浦喜代子さんがCGNTVの「本の旅」という番組に出演されました。ここをクリックして、番組を見る→「美しき姉妹たち」の右側300Kまたは56kをクリックしてご覧ください。

「本の旅」には2010年12月にわたしも「リピート・シンドローム」で出演させていただきました。
司会は、わたしのときと同じ久米小百合さんです。久米小百合さんは、かつて久保田早紀という名前で歌手として活躍されていた方です。



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名前をいただいて

2013-05-17 21:04:59 | エッセイ
今週は大忙しです。
月曜日はOBIの同窓会があったので都内へ出かけ、三鷹の実家に寄って泊まり、火曜日に帰ってきました。水曜日は児童文学者協会茨城支部の例会。今年度から支部長をさせていただくことになり、慣れない司会をして緊張しました。合評では6作品もの提出があり、すごく勉強になりました。

木曜日は、金曜にある我が家での家庭集会の準備で、大掃除と料理の下ごしらえと買い物で一日バタバタしていました。
家庭集会は8人の方が来てくださいました。家庭集会のメンバーのひとりが手塩にかけて育てた薔薇を持ってきてくださいました。(上の写真)

そして明日土曜日は子ども家庭集会の奉仕で出かけます。原稿用紙20枚ほどの創作童話を暗記してお話しするのですが、まだ全部覚えていません(^_^;)

わたしの体力、能力の限界を超えたことをしていますが、朝にはその日のことを祈り、夕には感謝と翌日のことを祈り、その次のことは考えないようにして、ひとつひとつのこと成し遂げる力を与えてくださいと祈っています。

先の先を考えると、あれこれ思い煩ったり、不安になってしまいますが、ひとつ先の事だけ考えて一歩一歩すすんでいけばいいのなあと思います。

日本クリスチャン・ペンクラブ(JCP)のHPにニュースレター28号をアップしました。理事長池田勇人先生の追悼号です。その中に掲載されているわたしの400字エッセイを紹介します。以前、ブログに池田先生を偲んで書いたものと重複する部分もありますが……。

                
名前をいただいて


十年前、JCPに入会したばかりのころです。乳がんの手術を受けることを池田先生に話すと、手を取って祈って下さいました。
まだ死にたくないと言うと、「わたしはいつ死が訪れてもいいように死の備えをしているのです」と言われました。そして星野富弘さんの詩「いのちが一番大切だと思っていたころ……」を書いた色紙を送って下さいました。

術後落ち込んだとき、この言葉で助けられたのでした。これは、後に先生ご自身が病の床で力を得た詩であるとお証しておられます。

また、先生のおかげで「リピート・シンドローム」が出版されました。リストカットやドラッグを取り上げているので、本名で出さない方がよいと言われ、厚かましくも先生にペンネームをつけてくださいとお願いしました。先生はいくつかの候補を挙げて下さいました。その中から土筆文香を選ばせていただきました。土筆文香の名に恥じない文章を書いていかなくてはと思っています。



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試練の学校(その5)

2013-05-07 15:49:36 | エッセイ
「百万人の福音」2012年4月号に掲載された喘息や乳がんなど病気のことを書いたエッセイを紹介しています。

今回は最終回です。今年の12月で乳がんの手術を受けてから10年になります。いま、わたしは生きています。いえ、生かされています。


(五)病気になったことの意味

以前わたしは誰からも愛されていないとひがんでいました。両親から愛され大切に育てられたのに、愛されていることがわからず、逆らってばかりいました。
夫からも愛されているという実感がなく、不満を抱いていました。
愛されている実感がないと、誰も愛することができないのかもしれません。わたしは夫も子どもたちも友人も本当の意味で愛することができませんでした。

いつも自分本位で、相手が自分の思い通りになって欲しいと思っているだけでした。相手の立場に立って、深く共感し、思いやりを示すことができない者でした。
何より、自分自身を愛することができませんでした。こんなわたしなんか……と自己卑下していました。

でも、喘息と乳がんという病気を通して神様がどれだけわたしのことを愛して下さっているのか気づかされました。
坂道で星を見上げて泣いたとき、その小さな声を聞いていた方がおられました。わたしを造り、いつくしんで下さる神様は、わたしの苦しむ姿をじっとご覧になっておられたのです。神様はそのあとすぐ喘息を一時的に治して下さいました。

再び喘息が出たときは、教会を離れていた時期でした。神様はわたしを教会に引き戻そうと病を下さったのだと思います。
乳がんになる前、わたしの最大の関心事は神様のことではなくて、健康のこと、子育てのことでした。日常生活に追われ、毎日忙しく過ごしており、神様の前に静かにすわることが少なかったのです。

乳がんになって、死んでしまうかもしれないと思ったとき、頭のてっぺんから足先に電気が走ったようにビリビリ緊張感が走りました。
天国に持って行くことができないものばかりに夢中になって、大切なことを第一にしていなかったことに気づきました。

神様から与えられている時間は限られているのに今まで何をしていたのでしょう……。

聖書には「神の国とその義をまず第一に求めなさい」と書かれています。
死と隣り合わせになって、癌でなくても人間は誰でもみな死ぬという当たり前のことを悟りました。
死ぬかもしれなかった病が与えられて、いま、生かされている現実を考えると、真剣に神様の義を求めて生きなくてはと思いました。

わたしは、話すより文章を書くほうが得意なので、あかし文章を書くことが使命だと示されていました。でも、書いてばかりいると枯渇してしまいます。

まず第一に神様と真剣に向き合って祈ろう。祈るといっても自分の願いや希望を言うのではなく、黙って神様のみこころを求めよう。それから聖書の勉強をしようと決心して、通信で聖書の学びを始めました。

(六)完治について
わたしの喘息は、完治することはないそうです。何年も発作がなくても予防の吸入は生涯続けなくてはなりません。
また、乳がんは、術後十年以上経って再発転移する人がいるそうです。術後二十年再発転移がなくてようやく完治したと言えるそうです。ほかの癌より長い期間注意していなければなりません。

現在、乳がんの手術を受けて八年経ちましたが、まだ安心できる状況ではないのです。でも、そのような緊張がわたしには必要なのです。
完治するかどうか、それは大きな問題ではありません。大切なことは、心がどこへ向いているかです。

今、わたしはとても充実した日々を過ごしています。
朝起きると、『神様、今日も生かしてくださってありがとうございます。神様から与えられた尊い一日が始まります。どうか、あなたから与えられている時間を大切に用い、あなたの栄光を現す生き方ができますように』と祈ります。
明日でいのちが終わっても悔いのないように生きようと思うのです。

もしわたしが喘息や乳がんにならなければ、どうでもいいことで頭を悩ませ、つぶやいてばかりいたでしょう。

試練の学校で、神様はわたしに喘息と乳がんという病気を与えて、いのちの尊さと、大切なことは何かを教えて下さいました。

愛に欠けていたこのわたしが愛することができるようにと下さった課題が痛みと呼吸困難と肉体的、精神的苦しみでした。この課題を心から感謝しています。

試練の学校では苦しみのあとには必ず、恵みとあわれみのプレゼントが用意されています。
試練の学校はまだ卒業にはなりません。地上で生かされている限り生徒です。

卒業のとき、先生のイエス様から「よくやった。よい忠実な生徒よ」と言われることを目指して学び続けていきたいです。


苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。(詩編119:71)



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試練の学校(その4)

2013-05-04 15:54:29 | エッセイ
「百万人の福音」2012年4月号に掲載された喘息や乳がんなど病気のことを書いたエッセイを紹介しています。
前回の続きです。


死んだら天国に行けると信じているので、死ぬことは少しも恐ろしくありません。でも、転移したときの苦しみがどれだけなんだろう……と想像したら恐ろしくなります。

それに、今死にたくないのです。わたしを必要としている家族がいるのに、それに人生が中途半端で終わるのもいやでした。
 中学生のころは死にたいと思っていたわたしですが、そのときは必死に生にしがみついていました。
(神様、このいのちを助けて下さい。まだ長女は高校生です。わたしが死んだら、夫や両親を悲しませることになります。どうかどうかもう少し、生かして下さい!)

わたしは泣きながら祈りました。祈っても平安は与えられず、すぐにでも癌が再発や転移するような気がして夜も眠れなくなってしまいました。

そんなとき、部屋の壁に貼ってあった星野富弘さんの詩が目にとまりました。

いのちが
一番大切だと思っていたころ
生きるのが苦しかった
いのちより
大切なものが
あると知った日
生きているのが
嬉しかった


事故で首から下を動かすことができない富弘さんが、いのちより大切なものがあると知ったとき、生きているのが嬉しくなったと言っておられます。いのちより大切なもの……それはイエス・キリストを信じる信仰だと思ったとき、はっとさせられました。

わたしはまだ死にたくないという自分の希望だけを神様に訴えていました。わたしのいのちは神様の手の中に握られているのに……。
自分が生きたいとどんなに望んでも、自分の意志ではたった一秒でも寿命を延ばすことができません。

これまでは自分の力で生きていると思っていましたが、そうではなくて、神様によって生かされていたのです。
『このいのちを神様にゆだねます。病気のこともいっさいおまかせします。』
そのように祈ったとき、ほっと楽になり、夜もよく眠れるようになりました。
 
(四)術後の苦しみ 

術後の治療は楽なものではありませんでした。でも、喘息の苦しみを経験しているわたしは、それほどつらいとは思いませんでした。

呼吸が楽にできるのなら、どんなことでも耐えられると思いました。点滴の抗がん剤治療は受けませんでしたが、一か月半の間、毎日放射線治療を受けに行きました。厳寒の時期、自転車で三十分かけて病院へ通う気力と体力が与えられていました。

術後数年して、腫瘍マーカー値が上がったことがありました。てっきり再発か転移だと思って、声を上げて泣きました。神さまにゆだねたつもりでも、気持ちが揺らぎます。弱いわたしです。幸い再発転移ではありませんでした。

また、検査結果を聞くために待合室にいると、緊張のせいで胃が痛くなってきます。名前が呼ばれ、診察室に入って画像をみつめながら医師の言葉を待つ間、この一瞬が何時間にも感じられます。心臓が飛び出すほどドキドキします。

「異状なしですね」という医師の言葉を聞いてほっと胸をなでおろします。
検査は三か月に一度、半年に一度、年に一度とだんだん間隔が伸びてきます。検査結果を聞くたびに感謝の祈りを捧げました。 
薬の副作用で関節が痛んだり、抵抗力が落ちて肺炎になったりもしました。
 
でも、喘息の苦しさに比べれば全然たいしたことありません。神様は、乳がんになる前に喘息の苦しみを体験させて、忍耐力を養って下さったのではないでしょうか。

肺炎になって高熱でうなされているとき、幻を見ました。眠っているのか起きているのかわらない状況でしたが、目はしっかり開いていて、色々な映像が浮かんでは消えていました。そのとき、多くの人の祈る手が見えました。

(あっ、今わたしのために大勢の人が祈ってくれている!)
その次に、何とイエス様が祈っている姿が見えたのです。

(イエス様もわたしのために祈っていて下さる!)
そう思ったとき、胸がいっぱいになりました。神様と人から愛されていると実感しました。


                                          つづく



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試練の学校(その3)

2013-05-01 16:58:13 | エッセイ
「百万人の福音」2012年4月号に掲載された喘息や乳がんなど病気のことを書いたエッセイを紹介しています。
前回の続きです。


(3)乳がんになって
乳がんの宣告を受けたのは、その十三年後です。喘息でさんざん苦しんだので、自分は癌にはならないと思っていました。
喘息は治っても、相変わらず体が弱かったので健康には人一倍気をつけていました。スイミング教室に通い、食べ物に気をつけ、体に良いと思われることは積極的に取り入れていました。それなのになぜ癌になってしまったのだろうと納得がいきませんでした。
でも、すべてのことをご存じの神様が、わたしに与えて下さった病気ですから、受け入れようと思いました。喘息のときにはなかなか受け入れられなかったのに、今回はすんなり受け入れられました。
喘息で苦しんでいたときは、神様を怨んだりしましたが、乳がんになったときは神様が何らかの意図があってこの病気を下さったのだと思うようになっていました。
 

神様はわたしのためにひとり子のいのちをくださったほどわたしを愛して下さっているのです。そのような神様がいたずらにわたしを苦しめるはずがありません。

礼拝で牧師先生がいつもおっしゃっていることー神さまの善意を信じましょうーを心に留めて、教会の人たちに「試練の学校に行ってきます」と言って入院しました。

「試練の学校」というのは、入院している間のことを意味していました。このときは、入院中はつらい試練があるけれど、退院するときに卒業できると思っていたのです。実際は、退院してからの方が大変でしたが……。
乳がんの大きさは一・五センチでしたので初期だと言われました。初期の乳がんは九十%大丈夫と聞いていたので、それほど心配しませんでした。

とはいえ、生まれて初めて全身麻酔を受けるので緊張しました。アレルギー体質なので、もし麻酔があわなかったら、そのまま天国行きになるかもしれないという心配がありました。

夫と子どもたちに見守られ、教会の先生や友人たちに祈られて手術室に入りました。
手術は予定していた時間をずいぶんオーバーしてしまいましたが、無事麻酔から覚めました。

術後の回復も順調で、もうすぐ退院というときに「リンパ節に四つのリンパ転移がみとめられました」と主治医に言われました。
リンパ節は手術時に切除しています。リンパに癌があったとしても大丈夫だろうと、そのときは思っていました。
でも、担当の看護師に話すと、さっと顔色が変わりました。看護師は何も言いませんでしたが、リンパ転移があることは、悪い状態なのかもしれないという不安がよぎりました。

退院してさっそくインターネットで調べました。
すると、【リンパ転移がある人は、癌の大きさが二センチ以下でも、十年生存確率四%】と書かれているではありませんか。真っ青になりました。リンパ転移は、今後遠隔転移(乳がんの場合は、肺、脳、肝臓、骨に転移しやすいそうです)が起こるかどうかの目安になるというのです。

(えっ、四%? 死亡確率がではなくて、生存確率が? それじゃ、もうすぐわたし死んじゃうんだ)
そのとき見たネットの記事は今ではなくなっており、現在はわたしの乳がんでは、十年生存確率が約五十%になっています(サイトによって数字に差があります)

                                              
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試練の学校(その2)

2013-04-29 15:41:11 | エッセイ
「百万人の福音」2012年4月号に掲載された喘息や乳がんなど病気のことを書いたエッセイを紹介しています。
前回の続きです。


2)再び喘息に

喘息は完治したのだと安心していましたが、結婚して長男を出産した後、再び発作が起きました。そのときは軽くすんだのですが、その後、毎年秋になると発作が起きるようになりました。しかも年々ひどくなっていきました。
わたしは二十二歳のときイエス・キリストを信じ、神戸の教会で洗礼を受けていましたが、二年後に東京へ引っ越してからは、教会へ行っていませんでした。

再び喘息発作が起きるようになって、自分の力、意志ではどうにもならないことを思い知らされ、近くの教会へ通いはじめました。
それから三年後、実家で第二子を出産した後、ひどい発作が起きてしまいました。発作を抑える吸入薬が全く効かなくなり、食事も会話もできなくなりました。

やっとの思いで病院へ行くと、そのまま入院することになってしまいました。
入院と聞いたとき、ほっとしました。生まれたばかりの長女と三歳の長男のことを考える余裕がありませんでした。とにかく呼吸困難という苦しみからのがれたいという一心でした。入院すれば呼吸が楽になるだろうと思ってほっとしたのです。

ところが、酸素吸入をしても注射を打っても少ししか楽にならず、発作がずうっと続いていました。点滴を受けながらボロボロ涙をこぼしました。

このときは、洗礼を受けて八年たっていましたが、あまりの苦しさに祈ることさえできませんでした。喘息を憎み、神様はなぜこんなに苦しい目にあわせるのだろうと、神様を怨んでしまいました。

あとから看護師の友人に入院したときのことを話すと、そこまでひどくなってから病院へ行くのは危険で、手遅れになる可能性があったと言われました。気管支が完全にふさがれてしまったら、死んでしまうのだと聞いて、ぞっとしました。わたしはその一歩手前だったのです。

あれだけひどい状態だったのに、十日間入院しただけで発作が治まり、退院できました。
その間、長男は夫の実家で、生まれたばかりの長女はわたしの実家で守られ、育まれていました。

それからも喘息と闘いながら育児をしていましたが、長女が四歳のとき、また大きな発作を起こしてしまいました。救急外来で注射を打ってもらったのに帰宅すると前よりひどい状態になっていました。

丸めた布団にもたれて、「神様、もう耐えられません。早く天国に連れていって息をしなくてもいい身体にしてください」と、幼い子どもたちがいるのに死を願ってしまいました。
そのとき、私の心に聖書の言葉が示されました。

「神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。(Ⅰコリント十:十三)」
(耐えられないはずはないんだ)と思ったとき、ふっと肩の力がぬけて平安が与えられました。イエス様がそばにいて、やさしい眼差しで見つめておられるのを感じました。

発作は続いていましたが、うつらうつら朝まで眠れました。
その後、病院で予防の治療をはじめたので、それ以来、ひどい発作を起こすことがなくなりました。
               
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試練の学校(その1)

2013-04-25 12:57:13 | エッセイ
昨年、いのちのことば社から出版されている月刊誌「百万人の福音」で募集していたペンライト賞の佳作になり、わたしの書いた文章が2012年4月号に掲載されました。
喘息や乳がんなど病気のことを書いたあかし文章です。数回に分けて紹介させていただきます。


(1)喘息で苦しんだ子ども時代
わたしは、子どものころから体が弱く、よく熱を出していました。二歳のときは肺炎で生死の境をさまよったそうです。肺炎は治りましたが、こんどは小児喘息になり、夜中によく発作を起こして、母に背負われて何度も病院へ連れて行ってもらいました。

中学生になれば治ると言われ、がまんしてきました。でも、中学一年の夏休みに神戸に引っ越すと、喘息がどんどん悪化していきました。
今は、喘息はきちっと予防すればひどくならずにすみ、がまんをしてはいけないそうですが、当時は予防薬がなく、ひたすら耐えるしかありませんでした。

 発作は深夜か明け方に起きることが多く、横になることもできず、まるめた布団にもたれて肩で息をしながら、朝になるのを待つのです。がまんしきれなくなると救急外来に駆けこんで注射を打ってもらいます。

(このままなら、一生治らないかもしれない。就職も結婚もできない)と、不安でたまらなくなりました。
発作は秋になると頻繁に起こり、冬になるとおさまってきます。発作が起きてないときは元気なので、喘息のことを考えないようにしていました。
秋になって胸がゼーゼー鳴りだすと、鳥肌がたちました。喘息という言葉を聞いただけで身震いするほど嫌な気持ちがしました。喘息は恥ずかしい病気だと思っていたので、喘息の持病があることを誰にも言いませんでした。
 
中学二年のとき、夜、病院の帰りに歩けなくなり、坂道でうずくまってしまったことがありました。付き添っていた母は中学生のわたしを背負うことができません。父を呼びに坂の上の家に走って行きました。真っ暗な中にぽつんととり残されたわたしは、恐ろしさに震えながら、坂道を四つん這いでのぼりました。
 
「こんなみじめで苦しい思いをしながら、どうして生きていかなくちゃならないの?」
泣きながら星を見上げてつぶやきました。

そのころ、学校では友達がひとりもいなくてつらい日々を過ごしていました。生きていても何のいいこともない。死んだら楽になれるのに……と思いました。まだ神様のこともイエス・キリストの存在も知らなかったときのことです。
でも、夜空を見上げたとき、気のせいか誰かに見守られているように感じました。気のせいではありません。絶望の最中に神様は助けを備えていて下さったのです。

その日、病院へ行くとき、父の会社の人の車に乗せてもらっていました。父が車で送ってもらって帰宅したことを知った母が、子どもが喘息で苦しんでいるので坂の下の病院まで乗せて下さいと会社の人に頼んだのです。
わたしは、発作で苦しむ姿を見られたくなかったので、いやだと言って柱にしがみついていました。そんなわたしを父が力づくで連れ出し、乗せてもらったのでした。

会社の人は、わたしが発作で苦しむ姿を見て、後日漢方薬をすすめてくださいました。その漢方薬がわたしの体質にあっていたようで、それを飲むうちに徐々に喘息がよくなってきました。一生治らないかもしれないと思っていた喘息でしたが、高校を卒業するころには発作が起きることはほとんどなくなっていました。


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