生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

クオ・ワディスの感想

2010-01-29 09:16:07 | 読書

先月、読書会で読んだ「レ・ミゼラブル」の感想をブログに書きましたが、

その前に読んだシェンキェーヴィチの「クオ・ワディス」の感想文が出てきましたので紹介します。

この小説には、古代ローマの暴君・皇帝ネロに迫害されるキリスト教徒の姿が描かれています。
『クオ・ワディス』とは、ラテン語の『Quo Vadis domine?(主よ何処へ)』からきています。この小説のキーワードになります。
ストーリー性にすぐれ、読み始めたら夢中になります。まだお読みでない方はぜひお読みください。


感想
ネロや人々が、キリスト者惨殺の様子をみて饗宴を催すということが信じ難く、その神経はどうなっているのだろうと思いました。しかし、それは事実だったようですね。人間の中に潜む残虐性を見る思いです。
ネロに反逆することなくじっと耐え、天国への望みを抱きながら死んでいくキリスト者たちの姿には感動をおぼえます。人々を励ますパウロやペテロの言葉にも胸が震えました。

虐殺の場面を読んでいて、神様はなぜこれほどひどいことが起こるのを許したのだろうか? なぜ目を見張るような奇跡を起こしてキリスト者たちを助けなかったのだろうか? という疑問が沸いてきました。遠藤周作は、キリシタン弾圧のときに沈黙しておられる神を描いています。

しかしシェンキェーヴィチは、ふたつの奇跡的出来事を書くことによって、事実を超えた真実を描いています。それがシェンキェーヴィチの信仰なのだと感動を覚えずにはいられません。
奇跡的出来事とは、ローマを離れようとするペテロの前にキリストが現れる場面と、ウルススがリギアを救う場面です。

ウィニキウスの心の変化、信仰を持ち、ほんとうの愛を知るようになる過程。ペトロニウスのギリシャ・ローマ的考え方や生きざまなど興味深く読ませていただきました。


*ヒックンは熱が37度台に下がったそうです。お祈り感謝します。
 これから実家に行きます。



5年目になったカラマの会

2010-01-27 20:31:42 | 読書

2006年から始まった、読書会「カラマの会」に参加しています。最初にドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」を読んだので、カラマの会と名付けられました。(「カラマーゾフの兄弟」がブームになる少し前に読んでいたのです)
最初は読書ノートをワードで作り、添付で送り合っていましたが、2年目からMIXIコミュ(非公開)に感想を書き込んでいます。

読書会の主旨は、「ひとりで読むのが困難な本(主に長編)をメンバーたちで励まし合って読破する」です。

「カラマーゾフの兄弟」以降、ジョン・スタインベックの「エデンの東」、シェンキェーヴィチの「クオ・ワディス」、ユーゴーの「レ・ミゼラブル」を半年から8か月くらいかけて読みました。

「レ・ミゼラブル」は岩波文庫4巻で一冊が600ページ以上あります。全部で原稿用紙にすると4千枚くらいになるそうです。読んでいてもつまらない場面が延々と続き、途中でやめてしまおうと何度も思いました。「すっとばしてもいい。」と言われ、斜め読みしながら耐え、完読したときは、感慨深い思いに浸りました。(2009年12月10-12日に「レ・ミゼラブル」の感想を書いています。)

どの本も、一緒に読んでいる仲間がいるから最後まで読めたのです。ツアコンさんにもずいぶん励まされました。

わたしは、小学生のころはあまり本を読みませんでした。中学生になってから少しずつ読み始めましたが、読むのが遅く、読解力に欠けており、それがずっと続いていました。

ネット読書会に入り、4作品を読んで少しは成長したような気がします。初めは文庫本1ページ読むのに1分半はかかっていましたが、最近は1分で読めるようになりました。(もちろん遅読も必要ですが……)そして、読書は楽しいと心から思えるようになりました。

ネット読書会のメンバーは11名です。昨日は上野で久しぶりにメンバーと顔を合わせました。集まったのは6名でしたが、楽しく語らいながら食事をして、至福のときを過ごしました。

次の本はトルストイの「戦争と平和」に決まりました。これも「レ・ミゼラブル」ほどの長さ、難解さだそうです。
読書は登山のようです。仲間とご一緒に高い山に登る気持ちです。途中でリタイヤしないように山頂めざしてがんばります。

読書会に参加を希望される方は、メールでお知らせください。原則として存じ上げている方に限りますが……。

写真は上野 不忍池の水鳥



*ヒックンが昨夜から高熱を出しています。新型インフルエンザとのこと。数日前に2回目の予防注射を打ったところだったのですが……。今回は預からないので、わたしは祈ることしかできません。お祈りいただければ幸いです。

求めること

2010-01-25 12:37:37 | 聖書から

神様は私たちの必要をご存じであり、満たして下さるお方ですから、必要なものは求めなくても与えて下さいます。

それでは、何も求めなくてよいのでしょうか?
何年祈り求めていても、それがかなえられないとき、祈りをやめてしまうことがあります。最近のわたしは、少し消極的な思いになっていました。 


先日、Ⅱ列王記4章1-7節からメッセージを聞きました。
預言者エリシャが、子どもを奴隷として売られそうになっているやもめに「何をしてあげようか。あなたには、家にどんな物があるか、言いなさい(Ⅱ列王4:2)」と尋ねます。

やもめの家は貧しくて油のつぼひとつしかありませんでした。
エリシャは、からの器を近所から借りて来て、その器に油を注ぐように言います。やもめは子どもたちにたくさんの器を持って来させます。すべての器がいっぱいになるまで、つぼの油はなくなりませんでした。油を売って子どもたちは売られずにすんだのです。

もし、やもめと子どもたちが、少ししか器を持って来なければ、少しの恵みしかいただけなかったでしょう。でも、床いっぱいになるほどたくさんの器を持ってきて並べたので、たくさんの恵みが注がれました。

先週の家庭集会では、ふたりの盲人がイエスさまに目を治してもらおうと必死に求めていくところを学びました。(マタイ9:27-31)イエス様は「あなたがたの信仰のとおりになれ」と言われ、目が見えるようにしてくださいました。

「神様は、わたしたちが『求める』ことを求めておられる。」と牧師先生が言われました。

神様が、わたしたちが広げた分、与えて下さると言われるのなら、狭い範囲でとどまらずに両手を広げて恵みを求めていきたいです。

求めなさい。そうすれば与えられます。(マタイ7:7)

さまよえる たましい

2010-01-23 15:12:57 | 

前回の記事に続く内容です。

心が漂流していたわたしが、主(イエス・キリスト)に出会ったとき、本当の故郷に帰った気がして、なつかしい思いがました。それは、主がわたしの創造主(つくりぬし)だからです。
生きる価値もないと思っていた者でしたが、主は「生きよ」と言って下さいました。初めて居場所がみつかって、心から安堵しました。さまよっていた魂がしっかりとつかまえられたのです。その感動を詩にしてみました。

さまよえる たましい

どこへ行けばいいの?
どこへ向かえばいいの?
行き先が わからないのに
ひたすら歩き続けた
何かを求めて……
気がつくと さっきと同じところを
歩いていた

さまよえる わたし
さまよえる たましい

生きていてもいいの?
何をしたらいいの?
どうしてよいかわからずに
自分を痛めつけていた
答えを探して……
気がつくと 泥沼に落ちこんで
もがいていた

さまよえる わたし
さまよえる たましい

漂流をくりかえし
たどりついた場所は
初めてなのになつかしく
声を上げて泣きじゃくる
気がつくと 抱きあげられていた
主(しゅ)のふところに

愛される わたし
とらえられた 心


聖書の言葉
私は切なる思いで主を待ち望んだ。
主は、私のほうに身を傾け、私の叫びをお聞きになり、
私を滅びの穴から、泥沼から、引き上げてくださった。
そして私の足を巌(いわお)の上に置き、私の歩みを確かにされた。
主は、私の口に、新しい歌、われらの神への賛美を授けられた。
多くのものは見、そして恐れ、主に信頼しよう。
(詩編40:1-3)


心の漂流者

2010-01-21 16:35:31 | エッセイ

先日、「心が漂流している」という青年のことがTVで放映されていました。彼らは、自分の居場所がなくてむなしさを感じています。もし、自分が死んでも誰の人生も変わらないのだから死にたいと思い、リストカットを繰り返します。すべてがどうでもよくなってしまい、薬物にも手を出してしまいます。


「悲しいのに泣けない」
というのを聞いて、心が痛みました。

暴走族に入っていた女子が、あるとき取材を受け、大人の誰かが真剣に話を聞いてくれることで救われたと言っていました。そして、こんどは彼女が心の漂流者たちの話を聞いているそうです。

かつてのわたしも漂流者でした。どこへいくのか、どこへ向かって行ったらいいのかわからずに魂はさまよっていました。中学生のときは真面目で一生懸命努力する子どもでした。単語カードを持ち歩き、食事の間も覚えていて母親にしかられました。勉強に関しては努力すればするほど成績が上がり、目に見える結果が出ます。

でも、成績が上がって何になるんだろう? たとえいい大学に入っても生きる目的がないのだから仕方ないじゃないか・・・。と考え、たとえ社会に貢献する偉い人になったとしても、人間最後は死んでしまうのだというところへ考えが行きつくと、すべてがむなしくなってきました。

何のために生まれてきたのか? 何のために生きるのか? 人生は、苦しみに耐えてまで生きる価値があるのだろうか? と考えて、わたしの出した答えは、「そんなにまでして生きることはない」でした。

そのころの苦しみというのは、友だちがいなかったことと喘息の苦しみです。中学生になったら治るといわれていた喘息が治るどころかひどくなってきたこと。一生治らないかもしれないと思えたことです。
「生きることはない」と結論は出ても、自殺する勇気もなく、心は漂流を続けながら生きてきました。

そして、とうとう心の居場所をみつけました。
それは、イエス様の懐(ふところ)でした。イエス様は「そのままでいい」と言ってくれました。


「何もできなくていい。不器用な者でいい。お前はなくてはならない存在なのだ」
と言ってくれました。長い間の漂流生活は終わったのです。

今、どこへ向かって歩んでいけばいいかわからずにさまよっている方。心に冷たいすき間風がふいて、むなしさにため息をついている方。本当の愛なんか存在しないのだと思っている方。

わたしは、そんな方たちにキリストを伝えたいです。キリストこそ行きつくべき場所。
キリストこそ愛のお方だからです。

オンリーワンのピース

2010-01-19 12:42:12 | 教会

先日の礼拝で牧師先生が約5000ピースの大きなジグソーパズルを持って来て見せて下さいました。バベルの塔の絵でした。


ひとつひとつのピースを見ると、形や大きさはどれも似ています。でも、同じものはありません。ひとつひとつがユニークです。
ひとつのピースは決められた一か所にしか当てはまりません。ある部分を埋める唯一のピースです。ほかのピースで代用できません。


「わたしたちはこのパズルのひとつのピースのようなものです。」
と言われるのを聞いて、その通りだと思いました。


劣等感の強かったわたしは、人と比較して自分なんかダメだと思っていました。せめて人並みの能力がほしいと願っていました。・・・自分なんかいてもいなくてもいい存在だとふてくされていたのです。

神様はそんなわたしを選んで下さいました。神様がわたしを選んだ理由は、無価値で無力だけれどユニークな存在だからす。何もできなくて良い。そのままのわたしで良いと言って選んで下さった神様……。

神様の目的のために選んでいただいたことに感動し、感謝の気持ちでいっぱいになりました。

パズルのひとつのピースのように、神様の目からみたら、誰もがユニークで、なくてはならない存在なのです。

「神様はわたしたちをなくてはならない部分として取り上げ、選んで下さいました。わたしたちは神様の測り知れない巨大な完成品の一部分です。」
と聞いて胸が震えました。


私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。(エペソ2:10)



パズルのピースのたとえを聞いて、2008年にわたしが書いた童話「神様のアトリエ」を思い出しました。それはパズルではなく、点描写で描かれているような絵ですが、ひとつのドロップが欠けると神様の描かれる絵が完成しないというストーリーです。
メッセージを聞いて少し書き直しました。

HP「生かされて・・・土筆文香」の児童文学の部屋に掲載しています。よろしければご覧ください。

成長させてくれるのは?

2010-01-16 09:14:18 | 

26年前の育児日記にはさまっていた紙に詩が書かれていました。
長男が誕生したとき、友人にいただいた詩です。紹介します。
題名と作者はわかりません。


やわらかな
ひとかたまりの粘土を手にとって
わたしはある日 なにげなくいじっていた
わたしの指の押すままに
粘土はへこんで
わたしの思うままに伸びて曲がった

それから何日たったろう
わたしが かえってみたときに
粘土は固くなっていた
わたしがつけた形のまま
そしてもう 変えることはできなかった

わたしは ひとりの子どもを手にとった
神様がくださった生きた粘土だ
一日また一日
救い主の技巧をもって形をつけた
おさない子どものやわらかな
云うなりになる心を

あれから何年たったろう
わたしが かえってみると
彼はもう大人になっていた
はじめにつけたあの形が
まだはっきりと残っている
そして もう変えることはできない


わたしが子どもたちにつけた形とは、どんな形なのでしょう? 決してよい母親であったとはいえません。育児日記には、イライラして感情で子どもをしかってしまったことへの反省や祈りが書かれていました。

愚かな母でありましたが、確かなことは祈って育てたことです。
子どもたちを神様が成長させて下さったことです。


聖書の言葉
「私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。(Ⅰコリント 3:6)」

ユコちゃん保育園

2010-01-15 17:45:40 | 日記

13日、14日のまる2日間、孫のヒックン(2歳9か月)を預かりました。ヒックンは元気なのですが、下痢が続き、保育園で預かってもらえないのです。
ユコちゃん(わたしの呼び名)保育園では、工作をしたり、小麦粉粘土遊び、磁石を使った魚釣り、ペットボトルボーリング、カーレースごっこなどでよく遊びました。昨日はパパが仕事を早く終えて昼過ぎに来てくれたので助かりました。金曜日はママの仕事が休めるというので、夕べ帰って行きました。


「だれがこんなことしたの? こんなことしちゃだめでしょ」
これはヒックンではなく、長男(ヒックンパパ)の2歳のときの言葉です。ヒックンも同じようなことを言います。

お正月に実家に行くと、わたしがつけていた26年前の育児日記がみつかりました。長男が1歳から2歳までの日記で、食べた物や睡眠時間まで細かく記録していました。
ちょうど孫と同じぐらいのときなので、持って帰って微笑みながら読み返しています。

2歳のころは、意味がわからなくてもさかんに大人の口真似をします。口真似だけでなく、動作やちょっとした仕草まで真似します。
子どもは大人の真似をしながら成長していくのだなあと改めて感心しました。

ヒックンは物をもらったときだけでなく、人から何かしてもらったとき必ず「ありがとう」と言います。そして、にっこりとよく笑います。ママが笑顔を絶やさずに、いつも「ありがとう」と言っているからだなあと思いました。


今日はさすがに疲れて、今朝はめまいと頭痛で起き上がるのがやっとでした。
作品集の原稿の校正をして今日中に送らなければならないのにどうしよう・・・と思いました。原稿用紙200枚ほどの長編なので、校正にも時間がかかります。焦る気持ちをおさえて、まず聖書を読んで祈りました。
祈っているうちに体調が整えられて、原稿校正をする力が与えられました。3時間ほどで終わり、さきほど送ってきました。

今は作品集という形でしか発表できない小説ですが、神様が必要なところに届けて下さって用いて下さいますようにと祈りながら……。


予定外のこと

2010-01-12 20:58:04 | 日記

今年は、とくに抱負はないのですが、年の始めに思ったことがあります。それは、予定外のことがあったとき、主のみこころにかなっていることなら喜んで受け入れよう。自分の計画や思いと違うことを行うことになったとしても喜んで従おうと思ったのです。
不思議なことに、年明け早々いくつか予定外のことが起こりました。

今週の金曜に予定していた家庭集会が教会の葬儀のため、延期になりました。
明日は久しぶりに水曜礼拝に行こうと思っていたら、またヒックンの調子が悪くて一日預かることになりました。

児童文学の会作品集のための原稿校正を今週いっぱいに仕上げなくてはならないので、あせる気持ちもありますが、きっと神様はそれをする時間を与えて下さると信じて、明日は喜んで子守をしましょう。

平凡な家庭生活の場においても神様の栄光をあらわすことができますように。


昨日、日本クリスチャン・ペンクラブ(ブックマークにあります)のHP更新しました。「人は誰でも三匹のタイを飼っている」というユニークな題のエッセイがあります。

「認められタイ」「褒められタイ」「役に立ちタイ」とうタイですが、これまでわたしは「認められタイ」「褒められタイ」という感情を持ってはいけないのだという気がしていました。でも、エッセイには、「「これ(3つのタイ)がないと人は自信を失い、やる気をなくし、ひねくれたり自己嫌悪におちいったりします」と書かれています。

お母さんが子どもに対して、子どもの持っている「タイ」をポジティブに用いた例が書かれていて、素晴らしいと思いました。金子みすヾの詩の引用もされています。ぜひお読みください。

病んでいても幸せ

2010-01-10 21:28:43 | 乳癌

年明けから忙しい毎日です。外出しない日は来客ありで、落ち着いた時間が持てずにいます。

一昨日は児童文学の会があったので朝早くから出かけ、午後からは病院へ行きました。乳腺外来で3時間待たされ、注射を打ってもらい、終わったのは5時でした。

昨日からはヒックンが来ています。ヒックンがお腹をこわし、ママが日曜出勤なので今日は預かることになりました。主人が午前中は面倒をみてくれるというので、わたしは教会に行けました。

最近主人は孫の扱いに慣れてきて、わたしが12時過ぎに帰ると、昼食を食べさせていました。3時間も面倒を見たのでさすがに疲れたようで、ヒックンが昼寝をすると主人はソファーでいびきをかいて寝ていました。ヒックンは夕飯も食べて先ほど帰りました。


教会では成人祝福式が行われました。祝福式にあずかった新成人の中にかつての教会学校の教え子たちが4人いました。ずっと教会を離れずにいる彼(彼女)らを嬉しく思いました。

メッセージの中で
『ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。(Ⅰコリント15:10)』
という聖書のみ言葉が心に残りました。

これは、パウロが書いた言葉です。
クリスチャンを迫害していたパウロが、復活のイエス様に出会ってキリストを信じ、伝える者になりました。そのことを感慨深く思い起こして書いています。


わたしも過去を振り返ると、神様の恵みによって今のわたしになったのだとしみじみと思います。

キリストを信じる前のわたしは、ネガティブで心配症で、そんな自分のことが大嫌いでした。何か不都合なことがあると人のせいにして、心の中は、恨みや憎しみでいっぱいでした。

もし、クリスチャンでないわたしが乳がんになったら、心が嘆きや怒りでいっぱいになっていたでしょう。そして再発転移を恐れるあまり別の病気になっていたでしょう。

でも、今のわたしは、乳がんになったことを感謝できる者になっています。

病んでいても幸せだと思え、辛いことがあっても心のうちに平安があり、感謝にあふれた日々を歩んでいます。

そうなったのは、わたしの力とか努力ではなく、神様の恵みによってです。

死から生を

2010-01-06 14:26:00 | 日記

4日にわたしの実家に行き、母と妹一家と共に新年を祝いました。帰るとき、中2の姪を連れてきました。世田谷区に住んでいる姪は、上野で常磐線に乗るのに30分もホームで待たなければならなかったことに驚いていました。写真は上野駅のホームから写しました。


昨日は教会で葬儀がありました。T兄のお父様(83歳)が肺がんで召されたのです。数年前まで、アルツハイマーの奥さんを10年間も自宅で介護されていたと聞きました。脳梗塞になられてからは、介護ができなくなったので土浦に招いたそうです。老人ホームに入居していましたが、間もなく肺がんがみつかって、手術も抗がん剤治療もできず、あっという間に召されてしまいました。

T兄は呼吸器科の医師です。お父様は息子さんの勤務する病院に入院され、息子さんが担当医となられたと伺って、ほっとした気持ちになりました。T兄は、助からない病にかかっているお父様を看られたのですから、さぞかしお辛かったことでしょう。でも、お父様にとっては、どれだけ嬉しかったことでしょう。

お父様が他の癌ではなく、肺癌になったことも神様の愛の配慮だと思いました。

生前のT兄のお父様とは面識がなかったので、泣くことはないと思っていたのですが、お孫さんで小学1年生のAちゃんが声を殺してずっと泣いているのをみて、もらい泣きしてしまいました。

どうかご遺族の方々のうえに主の慰めがありますようにお祈りします。

「走るべき道のりを走り終え」という牧師先生のメッセージがありました。


「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。(Ⅱテモテ4:7-8)


走るべき道のりを走り終えたパウロが愛弟子テモテに書いた最後の手紙です。

走るべき道のりを走り終えた人に神様は義の冠を用意しておられることを改めて感謝しました。

お葬儀に参列すると、当たり前のことなのですが、人は必ず死ぬのだということを自覚します。死を意識し、死から生を考えていきたいと思います。いつ死が訪れても「走るべき道のりを走り終えた」と言える人生を送れるよう歩んでいきたいです。


希望へ向かっての一歩

2010-01-03 17:09:27 | 教会
今日も限られた時間に書いています。

今年最初の主日の礼拝を受けました。
年間テーマ聖句は
「たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。(Ⅱコリント4:16)」
です。

母が唯一興味を示してくれたみ言葉です。
年を重ねると言うことは、衰えを日々感じていくことです。母は実年齢より10歳ぐらい若く見えると周りの人から言われ、そのことが母の誇りでした。でも80歳になると、「いくら若く見えたっ70歳。もうお婆さんよ・・・」と嘆くようになりました。

加齢は、どんな人も避けようもない事実です。
芸能人でも金持ちでも年をとることにおいては公平ですね。女優さんで何十年も変わらず若く見える人がいても、体は確実に老化していると思います。
わたしは、もとから体力がないので、加齢によって体力が落ちたとは感じませんが、視力の衰えで老化を感じます。新聞の字も眼鏡なしでは読めなくなってしまいました。

どうして人は(人だけなく生物すべてですね)老化していくのでしょう?

世界には人が68億もいるのですから、全く老化しない人がひとりくらいどこかにいるのではないかと空想してしまいます。でも、現実にはそのような人は存在しませんね。

外なる人と内なる人に分けて考えると、聖書の言葉にあるように、外なる人(肉体)は衰えても内なる人(人格)は日々新たにされるということは本当だと思わずにはいられません。


内なる人が生き生きとしておられる人生の先輩を見ていると、魂はわたしより若いと思うことがあります。
新鮮な感動や驚き、新しいことに挑戦する心を100歳近くになっても失わない方を知っています。どうしてその方の内なる人が日々新たにされているのでしょう・・・。

「信仰によって神と交わることにより、内なる人が日々新たにされているのです。主イエスのように変えられていくのです」
と牧師先生が言われました。

聖書の言葉
私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じ形かたちに姿を変えられて行きます。(Ⅱコリント3:18)


「外なる人は衰えても」の『衰える』は『傷を受けても』、『ゆがむようなことがあっても』と言い換えられるそうです。
「過去の色々な出来事がら傷つき、人格がゆがんでしまうことがあります。でも、それを受け入れるように。その事実は神の恵みの素晴らしさをきわだたせてくれます。」

と聞いてほっとしました。


わたしの人格も傷つきゆがんだ部分があります。でも、傷ついていてもゆがんでいても、悲しむことはないのですね。わたしは土の器にすぎません。器がどんなにゆがんでいても、中に入っているものがすばらしい宝なのですから、卑下することはないのですね。弱くてだめな器である方が中に入っている神の恵みの素晴らしさがきわだつのですから、なんと嬉しいことでしょう。

外なる部分の衰えに目がいってしまいます。そして、人生の行きつく先は死だと思うと、絶望しかないと思ってしまいます。
でも、死さえ絶望ではないのです。死を超える希望があるのです。

「衰えさえ希望に向かっての一歩」と聞いたとき、心の中が晴れわたった青空のように明るくなりました。

明日への期待

2010-01-02 16:37:49 | 日記

あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

「あなたがたは、今までこの道を通ったことがないからだ。・・・あす、主が、あなたがたのうちで不思議を行われる。(ヨシュア記3:4.5)」

今年いただいた年賀状の一通に書かれていた聖書の言葉です。これを読んだときドキッとしました。なぜかわかりません。ただ、わたしの心にまっすぐ響いてきたのです。

この箇所は何年か前、わたしの通う土浦めぐみ教会の年間聖句にもなりました。その年は、わたしにとってたくさんの不思議があった年でした。

未知なる新しい年。誰も経験したことのない明日に不思議が行われる。主に期待します。

昨日は主人の実家に行ったため元旦礼拝は出られませんでした。明日の礼拝が楽しみです。どんなビジョンが語られるのでしょう。

ヒックンの昼寝の間に書いているので、今日は短く終わります。

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