生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

いちばん早いクリスマス

2019-12-04 11:03:32 | 日本クリスチャン・ペンクラブ
体調を崩してから、何をするにも倍の時間がかかるようになりました。家事は休み休みやらないとできません。でも、元気で生きています。

30日は日本クリスチャン・ペンクラブ(JCP)の例会に御茶ノ水まで行ってきました。前日まで具合が悪かったのですが、当日は元気が与えられたので、思い切って出かけました。

電車は土浦から一時間以上乗るので、途中で腰痛に耐えられなくなり、北千住で降りました。その後乗りなおしたのですが、混んでいて座れませんでした。
座っていても痛み、立っていても痛むので、困ったものです。
帰宅してから以前TVで紹介されていた体をそらす腰痛体操をしたら、ずいぶん楽になりました。

JCPではY先生がメッセージをしてくださいました。
旧約聖書創世記32章:23-33からです。


ヤコブは父親から祝福を受けるため、父親をだましました。そのことを知った双子の兄のエサウはヤコブに殺意を抱きました。ヤコブは叔父の家に逃れますが、そこで苦労します。
何年も経ってヤコブは家族を連れて故郷に帰ります。ヤボクの渡しを渡るとき、ヤコブはひとりになりました。そのとき、ある者がやってきてヤコブと格闘をします。その者は、神様の使いでした。ヤコブはその者に祝福を求め、その者はヤコブを祝福してくださいます。
ヤコブは神のみつかいと闘って勝ちましたが、神様がヤコブの足のもものつがいを打ったので、それ以来、足を引きずって歩くようになりました。
神様は何故ヤコブに負けたのでしょう。何故もものつがいを打ったのでしょう……と問いかけられました。


神様はわざと負けたのですね。ヤコブに祝福を与えるためだったのかもしれません。
もものつがいとは、腰の近くでしょうか。腰の痛いわたしは自分のことのように思いました。
あまりにも能力があって身体も強いと、自分に力に頼ってしまいます。神様は人が誇らないため、弱さを与えてくださるのでしょう。
その弱さを持って兄エサウに謝るため、先頭に出て行ったヤコブ。エサウもすでに赦してくれていました。


神様は悔い改める者を赦してくださいます。『悔い改めと赦し』がクリスマスのテーマと一致しました。


今ブログを書いていたら地震が起きました。ちょうど東京パラレルの最中で、大地震になるのかと驚きました。いちばんに玄関に走ってドアを少し開けました。
揺れはしばらくしておさまったのでほっとしました。土浦は震度4だそうです。いつ地震がきてもいいように備えておくことが大切ですね。気持ちの備えはまだできていませんが……。



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中学生の私に伝えたかったこと

2019-07-29 15:29:42 | 日本クリスチャン・ペンクラブ
土曜日、日本クリスチャン・ペンクラブ(JCP)の例会に行ってきました。熱帯低気圧の影響で電車が止まったら困るなあ……と、やきもきしましたが、傘は日傘として使っただけでした。
例会では「あの日、あの時」というタイトルでエッセイを書いています。
何を書いてもいいのですが、400字(原稿用紙一枚分)で書くという決まりがあり、四苦八苦していました。どうしても数行多くなってしまうのです。削ると意味が通じなくなってしまいます。何を残して何を削るか……悩みました。
400字の場合は、書きたいこと、言いたいことがたくさんあっても、ひとつに絞って書いていけばなんとか書けることに気が付きました。
JCPでニュースレターを発行しました。その中で先日出版した自分史「百花繚乱」の余話を書きました。わたしは、中学生だった自分に当てて書きました。
      

中学生の私に伝えたかったこと

中学2年の時、私は自分の存在価値がわからず、死を願うほどでした。『自分史』ではそのことが大きな位置を占めています。
自分がどういう存在なのか教えてもらえたら、あれほど苦しむことはなかったのに……。そう思いながら、現在の自分が中学生の私に話したらどんな会話になるか想像して書いてみました。

「どうして泣いているの?」

「死にたい……。何をやってもダメなの。生きる資格がない」

「生きるのに資格なんかいらないわ」

「でも、みんな言うの。あの人、変わっているねって」

「みんなってだれ。家の人? クラスの人? 学校の人? 日本中、世界中の人? 」

「……」

「変わっているって言われたの? 変わっていていいのよ。それがあなたの個性だから」

「私には生きる価値がない……」

「そんなことないわ。あなたには大きな価値があり、あなたにしかできないことがあるの」

「私にしかできないことって?」

「今はわからなくても、将来必ず見つけられるわ」

「どうして私に価値があるってわかるの?」

「それは、あなたを造った方が『非常によかった』と言われたからよ」

「私を造った方?」

「神様はね、天と地とその中にあるすべてのものをお造りになったの。そして、造ったものに『よし』と言われたの。神様は人間……あなたのことも造って『よし』と言われ、『愛する子ども』とまで言ってくださったの。

「でも、私は愛される資格がない。罪があるから」

「あなたの罪は赦されているわ。聖書には『わたしはあなたのそむきの罪を雲のように、あなたに罪をかすみのようにぬぐい去った』と書かれているの。

神様は、あなたの罪を赦すために愛するひとり子イエスを十字架につけてくださったの。あなたの罪は赦されたのよ。もう泣かないで。あなたはひとりじゃないから」

 自分の存在価値がわからなくて悩んでいる今の青少年にも伝えたいです。

『わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。(イザヤ43:4)』



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中学生の私に伝えたいこと

2019-03-25 15:06:55 | 日本クリスチャン・ペンクラブ
23日は、日本クリスチャン・ペンクラブの例会がありました。例会は今年初めての参加です。1月の例会はインフルエンザだったので行けず、2月の小さな集いのときも具合が悪くて行けませんでした。
お茶の水がとてつもなく遠く感じられました。
具合悪いときは、もう二度と行けないのではないかと思いました。(ちょっと大げさですね)

お茶の水クリスチャンセンターに着いたときは、喜びが沸き上がってきました。元気にしてくださった主に感謝しました。

今回の課題は、自分史余話です。これまで長い時間をかけてペン仲間たちと自分史を書いてきました。5月には出版されます。
まだ書ききれてない部分やこれも書きたかったという余話を書いてくるという宿題が出たので、こま切れにしかない時間を利用して書きました。

中学生の時の辛かったことを自分史で書いたので、もし、今の自分が悩み苦しんでいる私に神様のこと、イエス様のことを伝えられたらと思って書きました。
紹介します。

              
           中学生の私に伝えたいこと
              

中学2年の時、私は自分の存在価値がわからず、死を願うほどでした。自分がどういう存在なのか教えてもらえたら、あれほど苦しむことはなかったのに…と思いました。現在の自分が中学生の私に話したらどんな会話になるか想像してみました。

「どうして泣いているの?」

「死にたい……。何をやってもダメなの。生きる資格がない」

「生きるのに資格なんかいらないわ」

「でも、みんな言うの。あの人、変わっているねって」

「みんなってだれ。家の人? クラスの人? 学校の人? 日本中、世界中の人? 」

「……」

「変わっているって言われたの? 変わっていていいのよ。それがあなたの個性だから」

「私には生きる価値がない……」

「そんなことないわ。あなたには大きな価値があり、あなたにしかできないことがあるの」

「私にしかできないことって?」

「今はわからなくても、将来必ず見つけられるわ」

「どうして価値があるってわかるの?」

「それは、あなたを造った方が『非常によかった』と言われたからよ」

「私を造った方?」

「神様はね、天と地とその中にあるすべてのものをお造りになったの。そして、造ったものに『よし』と言われたの。神様は人間……あなたのことも造って『よし』と言われ、『愛する子ども』とまで言っ
てくださったの。

「でも、私は愛される資格がない。罪があるから」

「あなたの罪は赦されているわ。聖書には『わたしはあなたのそむきの罪を雲のように、あなたに罪をかすみのようにぬぐい去った』と書かれているの。

神様は、あなたの罪を赦すために愛するひとり子イエスを十字架につけてくださったの。あなたの罪は赦されたのよ。

もう泣かないで。あなたはひとりじゃないから」


『わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。(イザヤ43:4)』



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自分史

2018-12-18 20:53:05 | 日本クリスチャン・ペンクラブ
来春、日本クリスチャン・ペンクラブから21人の方が書いた自分史の本が出版されます。本の題名は「百花繚乱」です。『それぞれのミニ自分史』という副題がついています。

これまで「花鳥風月」「喜怒哀楽」、「春夏秋冬」、「山川草木」をなど4字熟語のエッセーを書いて本にしていきましたが、4字熟語シリーズの5冊目として作っています。

ひとりひとりの人生を花にたとえると、どの花も精いっぱいの輝きを見せて咲き誇っているということから「百花繚乱」という題名になったようです。

その本の校正に携わっていますが、本一冊分をPC画面で読まなくてはならないと知ったとき、正直辛いと思いました。ブルーライトで目がチラチラしていたからです。

自分史なので、ひとり原稿用紙20枚以上書いています。全部で350ページ以上になります。読む量の多さに辟易していましたが、21人の人生の重みがずっしりと伝わってきて、どんな人生を歩んでも、イエス様との出会いですばらしい人生に導かれることを実感でき、生きて働かれる神様の力に圧倒されてしまいました。

3日間かけて読みましたが、校正はこれで終わりではありません。まだまだ続きますが、出版を楽しみに頑張ります。



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見たまま、聞いたまま、自分の言葉で

2018-05-29 16:48:36 | 日本クリスチャン・ペンクラブ
先週の金曜日は児童文学者協会茨城支部の例会でした。支部長が欠席だったので、久しぶりに司会をさせていただきました。
10人のメンバーのうち6名が参加。
このところ全員出席が多かったので少し寂しいかなと思っていましたが、しゃべりだしたら止まることを知らないわたしたち。昼休みを切り上げての合評となりました。

わたしのほかは詩の作品が多かったので、作詩の極意を詩人のFさんに尋ねると、
「見たまま、聞いたまま、自分のことばで書く」と教えていただきました。

このことは、簡単なようで難しいです。たとえば花を見て、きれいと思ったので『きれいな花』と書いても読者には伝わりません。どこがどのようにきれいなのか、花を見たとき自分はどう感じたかを自分だけしか書けない言葉で書くということです。
なかなか奥が深いですね。

翌日はお茶の水で行われた日本クリスチャン・ペンクラブの例会でした。例会の中でKさんのお祝いをしました。
米寿を迎えられたということと、国から叙勲されたので、皆で寄せ書きをして渡しました。Kさんは30年の間クリスチャン・ペンクラブの活動に参加し続け、皆勤賞だったというので驚きでした。

奥様を亡くされた後も毎日計画を立てて時間通りに聖書を読み、祈り、学び、研究し、家事もこなしておられます。
ときどきクリスチャン・ペンクラブのHPに掲載させてもらっているKさんの詩は、心の奥底に響いてきます。

翌日は日曜で、午後からは孫たちがきました。3日続きで忙しかったので、昨日は疲れ休みの日にしました。やっと充電されたようです。



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ペン仲間と共に

2018-04-26 15:56:13 | 日本クリスチャン・ペンクラブ
今日は美容院に予約を入れていたので、歩いて行ってきました。徒歩だと美容院までちょうど30分です。今日は、早く歩く自信がなかったので40分前に家を出ました。途中で小休止して水分補給し、着いたらちょうどの時間でした。
今までもっと速く歩けていたのに……。途中で休んだことなかったのに……。年のせいかなと思いましたが、病気のせいでしばらく運動していなかったことが原因で、慣れればまた速く歩けるようになると自分に言い聞かせています。

日本クリスチャン・ペンクラブで出しているニュースレター36号からわたしの書いたエッセーを紹介します。


ペン仲間と共に


私が初めて日本クリスチャン・ペンクラブ(JCP)に足を運んだのは50周年記念のときですから、ちょうど15年前になります。
以前から日本クリスチャン・ペンクラブの名前は知っていました。でも、子どもが小さかったので、御茶ノ水での例会は行けませんでした。
何年かたってJCP50周年であかし文章を募集していることを知り、それに応募しました。しばらくして入選の通知が届きました。  
50周年記念会で表彰式が行われると聞いて、御茶ノ水まで出向いたのでした。記念会で、神様のすばらしさを文章で伝えたいという同じ志を持つ方々に出会って、ふるさとに帰ったようになつかしさを感じました。その日のうちに入会を決意し、毎月通うようになりました。
奇数月に行われる例会では、まず礼拝があります。文章の学びをする前に神様に心を向けることが第一だと教えられました。礼拝の後、あかし文章についてのレクチャーを受けたり、文章の書き方について学びます。その後、4~5人のグループに分かれて作品の合評をします。

偶数月に行われている童話エッセーの集いにも参加しました。前理事長の池田勇人先生が「小さな群れよ。恐れることはありません。(ルカ12:32)」と言ってすすめてくださった少人数の会です。
童話エッセーの会では、「鍵、海、雨、声、靴、橋」などのテーマを決め、テーマに沿った作品を書き、互いに読みあって合評します。

自分が書いた文章を他の人に読んでいただき批評されることで、ひとりよがりだった文章がだんだんと変えられていきます。自分では十分わかっているので伝わったと思っていたら、全く伝わってなかったり……。ダイレクトに書きすぎて失敗したり……。テーマに沿って書けなくて、最後にとってつけたようにテーマの言葉を入れたり……。

作品を書くということは、産みの苦しみです。でも、苦しいからこそ、書き上げたときには感謝と喜びでいっぱいになります。神様が書かせてくださったのです。お仲間がいるから、ここまで書き続けてこられたのです。
童話エッセーの会で、私はほとんど毎回童話を書いて提出していました。なぜ童話かというと、子どもたちに神様の愛を伝えたいと思っているからです。

私は子どものころ、自己価値が分からなくて生きることが非常に辛い状態にありました。劣等感が強く、自分が欠陥人間のように思っていました。
何のとりえもない自分。いてもいなくてもいい存在。人間としての価値がないと、自己否定ばかりしていました。
自己を肯定できないと、他者のことを愛することができません。わたしは、自分自身を愛することさえできなかったのです。
そんな私が神様の存在を知って、変えられました。天地万物を造られた神様は、この世界を造られるとき、ひとつひとつに「よし」とされたと創世記に書かれています。神様は私のことも造られたとき、「よし」と言ってくださったに違いありません。自分は神様によって造られた価値ある存在なのです。

神様は、「何のとりえがなくてもいい。そのままでお前を愛する」と言ってくださっています。
罪のため滅んでいくしかない私の代わりに、ひとり子のイエス様のいのちを差し出すほど愛してくださる神様。私はこの神様の愛に圧倒され続けています。
『わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。(イザヤ43:4)』と言ってくださる神様のことを、自己肯定できない子どもたちに小説や童話を通して伝えたいと思っています。 



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二人称で書く

2017-09-19 16:09:52 | 日本クリスチャン・ペンクラブ
16日は日本クリスチャン・ペンクラブ(JCP)の65周年記念の集会でした。40人の方が参加して、祝福あふれる会になりました。

講師としてお迎えしたF先生の「書くこと、話すこと、伝えること」と題したメッセージの一部を紹介させていただきます。

(先生の言葉は、青字。わたしの感想は茶色。聖書の言葉は緑で書いています。)

マルティン・ブーバーは、その著『出会い』の中で、「問いと答え」と題する非常に印象的な文章を書いています。
1914年の5月、第一次世界大戦がまさに始まろうとしていた時、友人の老牧師ヘヒラーから、「愛する友よ、われわれはある重大な時代に生きています。どうか言って下さい。あなたは神を信じますか?」と、彼は尋ねられました。
駅に老牧師を送って行く途中、暗い路地の角でのことでした。ブーバーは、ヘヒラーを安心させようと思って、「このことについて、私のことを心配される必要はありません」と答えて、彼を駅に送り列車に乗せました。
ところが、帰りにその角まで来た時、ブーバーは正しい答えを見出すまでは一歩も進むまいと決心して、長いことそこに立ち止まっていた、と記しています。

そしてブーバーの到達した答えは、「もし、神を信ずるということが、第三人称で語ることを意味するならば、私は神を信じていない。もし、神を信ずるということが、彼に向かって語りうることを意味するならば、私は神を信じている。
すなわち信仰は、三人称ではなく、二人称……あなたとわたしの関係で向かい合う世界だと、ブーバーは語っています。


「Aさんは、敬虔なクリスチャンです。」
「Bさんは、すばらしい賜物を持っていてたくさん奉仕しています。」
「Cさんは心からイエス様を信じています」
と書いただけでは、人を感動させることができません。

「あなたはどうなのですか?」「あなたはどのようにイエス様を信じているのですか?」
と問われたように思いました。

聖書にはイエス様が弟子たちに「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか?」と問いかけ、ペテロは「あなたは、生ける神の御子キリストです。(マタイ16:16)」と答えてイエス様に褒められたということが書かれています。





最後にあかし文章を書く者たちへの勧めをしてくださいました。


何を書くか、何を伝えるかが大切です。あかしの文章を書き、それを人に伝えるには、自分の言葉でほんとうに信じていることを書くことです。真実を追求し、美しい日本語で書くことです。聖書の言葉を現代生きている人にわかるように書くことです。言葉は人を変えるのです。 

JCPのHP更新しました。ここをクリックしてご覧ください。


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新しく本が出版されました

2017-07-05 20:39:08 | 日本クリスチャン・ペンクラブ


日本クリスチャン・ペンクラブ(JCP)から『山川草木』という本が出版されました。4字熟語を題材にしたあかし集です。2010年にスタートして、これまで『花鳥風月』、『喜怒哀楽』、『春夏秋冬』が出版されました。これに続く、並列四字熟語シリーズの第4弾目です。

山川草木に加えて『信仰』、『希望』、『愛』をテーマにした作品も掲載しています。
作品は、御茶ノ水で隔月に行われる例会の中で合評を繰り返してきました。字数制限があるのでなかなか難しく、何度も何度も推敲して持っていき、また書き直すという作業は大変でしたが、楽しい時間でした。他の方の作品を読ませていただけるのも恵みです。

JCPで書く文章は、ふつうのエッセイではなく、あかし文章です。あかし文章とは神様がしてくださったことをあかしする文章のことで、自分が何かをしたというのではありません。

わたしのがどのようにして作品を書いていったのかを紹介させていただきます。

テーマが決まっているので、まず何を書こうかと思いめぐらします。
最初の「山」について思いめぐらしていたら、祖母の言葉を思い出しました。

「山はどこから登っても頂上に行けるのだから、どんな宗教を信じても最後は同じ所へ行くんだよ」
けれども、そうではありませんでした。永遠の命に至る山はひとつなのです。その山のふもとにたどり着けなくて苦しんでいた自分の姿が見えてきました。ああ、このことを書こうと思いました。

次に「川」について思い巡らしていると、なぜか関西にいたころ友人と保津川下りをしたことを思いだしました。
書いている時は、末期がんの母の容態が日々変わっていくので、急流下りをしているように感じました。どんなに怖いと感じても、イエス様が船に一緒に乗ってくださっているのだから、大丈夫と思えたことを書くことにしました。

「草」はいちばん難しかったです。母の看病で忙しく、原稿が書けず、心身ともに疲れを感じていました。必死な思いで聖書を読むと、

「あなたは、春の雨の時に、雨を主に請い求めよ。主はいなびかりを造り、大雨を人々に与え、野の青草をすべての人にくださる。(ゼカリヤ10:1)」
のみ言葉が目に飛び込んできました。
求めることを忘れていたことに気づき、「主よ、わたしに雨と青草をください」と祈り求めました。祈って間もなく原稿が書けたのでした。

「木」はちょうど子ども家庭集会のクリスマス会に「三本の木」という絵本を紙芝居にして演じようと準備していたので、三本目の木に心動かされたことを書きました。

お求めの方は、日本クリスチャン・ペンクラブHPからお申し込みください。
土浦めぐみ教会の書店グレイスにも置かせていただきました。



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本の出版予定

2017-04-15 10:58:19 | 日本クリスチャン・ペンクラブ
今年は日本クリスチャン・ペンクラブ(JCP)が65周年を迎えます。9月に記念会が行われますが、先だって本の出版があります。題は「山川草木」。これまで「花鳥風月」「春夏秋冬」「喜怒哀楽」などの四字熟語のひとつひとつの言葉をモチーフに証し文章を書いて本にしてきました。今回の新しい本は、山水草木の他に、信・望・愛についてのエッセーも掲載されています。

三校が送られてきて、昨日は校正に時間を費やしました。200ページもあるので何時間もかかりました。目が疲れて、そのあとPCを開いたらぼやけてほとんど見えませんでした。

20名ほどのお仲間たちの文章を改めて読ませていただいて、そこから勇気と力が与えられました。
この本が多くの人に読まれ、神様によって大いに用いられるように祈っています。

一昨日の家庭集会は、クリスチャンのご夫婦が経営しているレストランで行わせていただきました。
落ち着いた店で充実した学びができ、おいしいご馳走に舌鼓を打ち、いつもと違った贅沢をさせていただき、感謝、感激でした。
今日はこれからヒックン、ナルクンが来ます。



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愛の中にとどまって

2017-01-30 20:59:43 | 日本クリスチャン・ペンクラブ
土曜日は、日本クリスチャン・ペンクラブ(JCP)の例会でした。今年は自分史を書くことになったこともあり、たくさんの新しい方が来られました。

文章を書く訓練をするなら、文章教室に行ったり、文章の勉強をすればいいのですが、JCPでは、あかし文章を書くことを学びます。
あかし文章とは何でしょう。JCP理事であった満江巌先生は、「文は信なり」と言われ、あかし人として、よき文章を創作するように勧められました。あかし人とは、キリストをあかしする人のことです。

聖書には「あなたがたが私たちの奉仕によるキリストの手紙であり、墨によってではなく生ける神の御霊によって書かれ……(Ⅱコリント3:3)」と書かれています。

JCPの趣旨には、「わが生涯がキリストの作品として与えられていることを自覚し、信仰生活に励むこと」とあります。自分の生涯が、存在そのものが、キリストの作品なのだと思うと、襟が正されます。

JCP礼拝ではヨハネ15:4-5からメッセージを聞きました。

「わたしはぶどうの木であなたがたは枝です。(ヨハネ15:5)」

イエス様がこの言葉を語られたのは、生涯の最後の時期でした。最後の晩餐で、ユダが出て行ったあと、惜別説教として語られたのです。

とどまるとは、単にじっとしているというのではなく、強くとどまる。英語ではstayより強いremainという言葉が使われているそうです。

イエス様は「何があってもわたしにとどまっていなさい」と、十字架を前にして言われました。
この後、イエス様は捕らえられ、弟子たちは散り散りになってしまいます。

イエス様はどんなお気持ちだったでしょう。せつなる思いで弟子たちに「わたしにとどまっていなさい」と言われたのですね。
それは、弟子たちにだけ言われたのでなく、わたしに言われた言葉だと受け止めました。

イエス様にとどまるとき、実というプレゼントが用意されています。

聖書には次のように書かれています。
「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことはできません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。(ヨハネ15:4)」

「イエス様がいのちを捨ててまでわたしたちを愛してくださったことを思い、イエス様の愛の中にとどまりましょう。イエス様に堅くとどまり続け、活動しましょう」と勧めを受け心の中に灯がともされたような気持ちになりました。


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「あさっての風」に出会って

2016-05-11 16:22:58 | 日本クリスチャン・ペンクラブ
日本クリスチャン・ペンクラブ(JCP)では、年に2回ニュースレター「文は信なり」を発行しています。毎回テーマを決め、会員がそのテーマに沿って証し文章を書きます。

今回、34号が発行されました。テーマは読書。「心に残る一冊」です。
JCPのHPからも読めますが、PDFなので開けないという方がいらっしゃるので、わたしの作品を掲載させていただきます。

(3月15日のブログに書いた文章は、以下の文章を書くための準備をしていたときのものです。)



      「あさっての風」に出会って          土筆文香


三浦綾子のエッセー集「あさっての風」に出会ったのは21歳のときだった。この本を読んだことがきっかけでキリストを信じるようになった。

そのころ、わたしは幼稚園に勤めていた。子どもに押し付けるような保育のあり方に疑問を抱き、大きなストレスを抱えていた。

また、家庭では母との関係がよくなかった。母と顔を合わせる時間を短くするため、駅前で夕飯を食べて帰ったりした。それでいて寂しく、何でこんなところでひとりで食事しているのだろうと涙を流していた。

そんなとき立ち寄った本屋でみつけたのが「あさっての風」だった。坪井栄の童話「あしたの風」を思い出し、これも童話だと勘違いして買い求めた。子どもたちにお話をしようと思ったのだ。

童話ではなかったが、読んでいくうちに心が文章にぴったりと寄り添ってきた。作者の三浦綾子はクリスチャンらしいけれど、信仰を押し付けたりしないところが気に入った。

三浦綾子は戦前教師をされていたので、子どもの教育について関心をもっておられた。本の中には「教師にとって必要なものは権威以上のものである。権威以上のもの、それは愛である。愛こそが、相手の胸を打ち、人を育てる。(略)愛を学ぼうとするとき、必ず人間の愛の限界に突きあたるのではないだろうか」と記されており、はっとさせられた。人を愛すると言って、結局愛しているのは自分自身であることに気づかされたのだ。

「あさっての風」のあと、教育をテーマにした小説「積木の箱」を読み、自分の罪に気づいた。そして、苦しくなって教会を訪れたのだ。
そのころのわたしは、すごく高慢でいつも自分が正しいと思っていた。
社会の問題も、職場での問題もすべて人のせいにしていた。そんなわたしが自分の罪に気づいたことは、奇跡としかいいようがない。神様が本を通してわたしの心に触れてくださったのだ。あのとき三浦綾子の本に出会わなければ、わたしはどうなっていたのだろう……。 

三浦綾子が夫の光世氏と共に祈りながら書いたという本。神様は確かに祈りを聞いてくださった。わたしも今、祈りながら書いている。
(「あさっての風」は、現在単行本では発行されておらず、三浦綾子作品集17の中に収録されている)



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忍耐の孫

2016-03-23 16:21:31 | 日本クリスチャン・ペンクラブ
このところ毎日出かける用事があって、なかなか落ち着いてブログが書けませんでした。今週も春休みに入ったとたん、孫のヒックンが泊りがけで来るので大忙しです。

先週の土曜日は、日本クリスチャン・ペンクラブの例会でした。
今年は「信仰・希望・愛」のテーマでエッセーを書き始めています。今回は「わたしと信仰」というテーマで書いたエッセーを持って行き、グループに分かれて合評しました。

信仰・希望・愛というのは、「聖書のⅠコリント13:13に書かれている 「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」
という言葉からきています。

『希望』という言葉はとてもいい言葉ですね。でも、すぐ失望に変わったりします。
希望を持って進学したのに、学びたいことが学べなかった。希望を持って就職したのに上司に言われたことしかできない職場だった。などなど……

希望についてのメッセージで語られたことを一部紹介します。

一般の人の考えている希望は、あきらめが混じっています。希望がかなうと、大喜びし誇らしく話すのです。しかし、失望はごく近くにあります。

聖書ローマ人での手紙には「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。(ローマ5:3-5)」
と書かれています。

『希望は失望に終わらない』というのは大胆な逆説です。

『聖霊』というのは、現在大活躍している生きた神様のことです。

患難さえも喜んでいるとはどういうことでしょう。患難は、ふつうは避けたいと思います。でも、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出す。つまり、希望は忍耐の孫なのです。
イエス様の恵みにより、患難が希望になるのですから、患難から希望までの出来事……神のドラマを書いてみましょう。
と言われ、士気が高まりました。


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脳の奥底まで

2015-12-02 17:08:57 | 日本クリスチャン・ペンクラブ
先週の土曜日は、お茶の水で行われた日本クリスチャン・ペンクラブのクリスマス会に出席しました。
ずっと母のことで忙しくてお休みしていました。半年ぶりのペンクラブです。なつかしい皆様のお顔をみて、我が家に帰ったような気がしました。

いつもペンクラブの集まりに行くときは、三鷹の実家に一泊してから行っていました。
母は、わたしが行くのを楽しみにしていて、行くたびに「次のペンクラブはいつなの?」と聞いて、カレンダーに嬉しそうに印をつけていました。

あかし文章が書けると、ペンクラブに提出する前に母に読んでもらいました。母はいつも批評をしてくれました。ときには厳しく、ときには褒めてくれました。母のためにと張り切って書いていました。

御茶ノ水に行くのに東京駅から中央線に乗ったら、そのまま三鷹へ行ってみたいという衝動に駆られました。家はまだ取り壊されておらず、そのままになっていると近所の人から聞いていました。家に行けば、母がコーヒーを入れて待っていてくれるのではないか……と思いました。

でも、御茶ノ水で降りました。三鷹に行ったら辛くなることがわかっていたからです。
先日、実家の玄関と縁側が内側に動いて、家の中に入れなくなっている夢を見ました。

実家がなくなってしまうなど想像もしていませんでした。それより、母が地上にいなくなってしまうことはあり得ないような気がしていたのです。
でも、確かに母は天国にいて、必ず再会できるのです。

クリスチャン・ペンクラブでは「脳と言語」という題で興味深いお話を聞きました。脳の各部で働きが違うことは以前から知っていましたが、縁上回という部分が、書くことによって鍛えられて密度が高くなってくることは知りませんでした。それは科学的に証明されているのだそうです。

漢字と平仮名を記憶しておく場所が違うそうで、手で書かないと、どんどん漢字を忘れていくと聞いて、最近簡単な漢字さえ書けなくなっているのは手書きをしないからだ……と反省しました。

スマホやPCの画面で読むと情報は入ってきますが、感動が少ないと聞きました。紙の本で読むほうが感動して脳の奥が震えるのだそうです。
脳の奥は、心の領域です。

少なくとも聖書は紙の本で読みたいと思っています。

紙の本を手でめくって触感を確かめ、匂いを嗅ぎ、線を引いたりするほうが、み言葉が脳の奥にしみこんでいくのですね。
あかし文章を書いて、読んだ人の脳の奥底まで届かせることができたらどんなに嬉しいことでしょう。

聖書の言葉
みことばは、あなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。(ローマ10:8)


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うるわしき朝も

2015-07-12 15:37:56 | 日本クリスチャン・ペンクラブ
重い荷物を持ってホームと家を何往復もしていたら腰を痛め、疲れがピークに達しました。いくら近いといっても、歩いて8分かかります。自転車で往復するつもりでいたのですが、雨が続いたのでそういうわけにもいきません。4往復もすると1時間も歩くことになります。
家事は2倍になり、歩いて10分かかるスーパーに行って、自分の家の食材と母に頼まれたものを買って帰るとへとへとになっています。

わたしが倒れては大変と、主人と娘が協力してくれました。今は、ホームに泊まるのはやめて、訪れるのは一日一回にしています。

介護付き高齢者住宅なので、夜中のみ守りもしてくれます。

母は少しずつ生活に慣れてきました。まだ、食事は部屋に運んでもらっていますが、来週からは下の食堂で食べようかしらと言っています。

昨日は妹が車で母を我が家に連れてきてくれました。母が来るのは随分久しぶりです。前回は、ホームに入居申し込みに来た日だったので4月のはじめでした。

そのときは、元気でどんどん歩き、家具屋さんでソファーを頼み、ホームセンターでカーテンなど色々なものを買っていました。

それからたった3か月しかたっていないのに、我が家まではとうてい歩いて来れず、車椅子で来ました。2か月の入院ですっかり足が弱ってしまったのです。我が家のベッドが低いので泊まってもらうことができず、せめてお風呂に入ってもらうことにしました。我が家の浴槽は浅いのに足が上がらなくて、ひとりでは浴槽に入れませんでした。姪と娘が力を合わせて入れてくれました。

ホームや病院ではシャワーだけだったので、(ホームには介護風呂があるのですが、利用したくないと言っています)浴槽に入ったのも3か月ぶりです。母は満足しきった様子でした。

日本クリスチャン・ペンクラブ(JCP)のHP更新しました。わたしのエッセーも掲載しましたのでここをクリックしてください。

HPのどこに作品があるかわからないと言われた方がいましたので、↓に貼りつけます。


         うるわしき朝も

わたしは生まれてから18歳になるまでキリスト教に触れたことがないと思っていた。ところが、4歳から触れていたのだ。幼稚園で初めて覚えた歌が讃美歌だった。

うるわしき朝も/しずかなる夜も/食べ物着物を/くださる神様/(教会福音讃美歌500)。朝礼で毎日うたっていたその曲が讃美歌だと知ったのは、ずっと後になってからだ。幼稚園でお祈りした覚えも聖書の話を聞いた覚えもない。キリスト教の幼稚園ではなかったはずなのになぜ讃美歌をうたっていたのだろう……。

後に、園長先生のお母さまがクリスチャンだったことがわかった。お婆ちゃん先生と呼ばれていた小柄な着物姿の先生だ。姿勢を正し、大きな口を開けてきれいな声でうたっておられた。
うるわしき朝って、どんな朝なんだろう。食べ物や着るものをくださる神様って、どんな方なんだろうと、子ども心に思っていた。

『生れてからずっと食べ物、着物を与え続けてくださる神様がおられる』素直にそう思えたのは、この歌が心にしみ込んでいたからではないだろうか。天国でお婆ちゃん先生に会ったら、ありがとうと言いたい。

                                  


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心新たに

2015-01-27 12:35:58 | 日本クリスチャン・ペンクラブ
先週の金曜日は土浦で行われた児童文学者協会茨城支部の例会に出席しました。午後の合評中に中座して15時発の電車で実家の三鷹に向かいました。三鷹で一泊して翌日土曜日は日本クリスチャン・ペンクラブ(JCP)例会に出席して土浦に戻ってきました。
昨日は疲れが出て体調不良だったのですが、今日は快復しました。

JCPの礼拝で語られたことの一部を紹介させていただきます。

2015年、JCPの年間聖句はイザヤ40:8です。

「草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ」

永遠に立つとは、死なないこと、生き生きとしたいのちがあるということです。

神様はことばによって天地を創造されました。

わたしたち人間は、神にいのちをふきこまれて生かされています。人間は、受動的な存在で、神なくしては一日も生きられない存在です。

ヨハネ1:1には「初めに、ことばがあった」と書かれています。

また1:4には「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった」とあります。
ことばは神(イエス・キリスト)のことで、ことばにいのちがあり、ことばは人の光なのです。
わたしたちは、イエス様の十字架の贖罪により、永遠の命が与えられました。

神はわたしたちに人格を与え、自由に生きる特権をお与えになりました。
人生の山坂を苦闘しながら生み出されるのがあかし文章です。
主の恵み、キリストの光を信仰感性によって生み出していくのがあかし文章です。


>人間は、受動的な存在で、神なくしては一日も生きられない存在です。
ということばが心に留まりました。

かつてわたしは自分の力で生きていると思っていました。誰かに頼らなくたっていいと思い上がっていました。
でも、JCPの例会に参加することも条件が整わないと不可能になります。健康、安全、家族の健康、台風や大雪、大地震、事故などから守られて初めて参加が可能になるのですね。また、生きていることも多数の条件が整えられて、生きられるのです。まさに神様の手の中で生かされている存在です。

苦難の中で泣き叫び、のたうちまわりながら、その中で表された主の業(わざ)を書いていくことが使命のように思えました。
昨年は「春夏秋冬」というあかし新書がJCP関東で出版されましたが、ことしからは「山川草木」というテーマで書いていきます。
時間がないから書けないという言い訳はやめて、細切れの時間をつなぎあわせてでも書いていきたいと心を新たにしました。



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