生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

百人隊長の信仰(その2)

2009-02-26 13:19:26 | 聖書から

昨日は雨だったので祈祷会に出るため、歩いて教会に行きました。歩き始めてから足首が痛くなり、いつもの倍、時間かかってしまいました。ゆっくり歩くといいこともありました。鶯(たぶん…)に出会ったからです。とても寒かったけれど、春を感じて嬉しくなりました。これは雨の上がった帰り道で撮りました。


家庭集会の学びの続きです。

イエス様に「来てしもべを癒してください」と言わず「ただおことばをいただかせてください」と言った百人隊長の信仰はすごいですね。わたしだったらイエス様の手をつかんで、「早く、来て下さい」と言うでしょう。

目に見える形で癒しの業を見たいと思ってしまうのです。参加したひとりが「大切なものは目に見えないからね」と言っていましたが、その通りですね。

ヨハネ1:1には「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」と書かれています。つまり神様=ことば=イエス・キリストなのです。

創世記には神様が「光よあれ」と言って光ができたことが書かれています。
イエス様が天地万物を造られ、いっさいの権威を持っておられること。イエス様にはできないことはなく、癒すことも命を奪うことも命を与えることもお出来になるということを百人隊長は知っていたのですね。
わたしも、百人隊長のような信仰をもちたいです。


イエス様は人生の中で起こる出来事すべてを支配しておられます。いっさいのものの創造者であるイエス様は、わたしの細胞一つひとつも造って下さいました。わたしの髪の毛の数さえ知っておられるイエス様ですから、「それどころか、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。(マタイ12:7)」一つひとつの細胞の状態もご存じで、癌にすることも癒すこともお出来になります。
薬の副作用による痛みを起こすことも癒すこともお出来になります。

病気にならないこと、すべてが順調にいくことを願いますが。イエス様はわたしにとっていちばん良いことをしてくださいます。

病気になったり、思わぬ不幸が訪れると「神様、どうしてですか?」と心騒がせてしまいます。
でも、あとから考えると、それは不幸なできごとではなく、そのことが起きたから良い結果になったということに気づくことが多いのです。

今までにわたしの人生に起こった出来事はそうでした。乳がんになったことは、不幸なできごとではなかったのです。それどころか、たくさんの益をもたらしてくれました。

ですから、これからもきっとすべてが益となると信じます。全知全能のお方、イエス様に「ただ、おことばをください」と言えるようになりたいです。


「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益として下さることを、私たちは知っています。(ローマ8:28)」


                おわり

百人隊長の信仰(その1)

2009-02-23 13:44:20 | 聖書から

先日の家庭集会ではルカ7:1-10から学びました。イスラエルを支配していたローマ帝国の軍人、百人隊長の話です。


百人隊長のしもべが重い病気で死にかけたので、ユダヤの長老たちにたのんで、イエス様のもとへ行ってもらいました。イエス様が百人隊長のところへ向かうと、彼は使いを出して伝えました。

「主よ。わざわざおいでくださいませんように。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。(略)……ただおことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは必ずいやされます(ルカ7:6-7)」

イエス様はそんな百人隊長の信仰をほめ、しもべを癒してくださったという内容です。


イエス様がおられたころのイスラエルはローマ帝国に支配されていました。
当時のローマ帝国は、戦って負けた相手の国の宗教や生活習慣を尊重していたので、ユダヤの人たちは信仰を守ることができたそうです。

百人隊長はローマの軍人でしたが、イエス様を信じていました。
この人は、ユダヤ人の会堂を建てたり、ユダヤの長老と親しい関係にあったり、稀に見る人物だったようです。

彼はイエス様には実際に会ってないのですが、うわさで聞いていました。聞いただけでそれほど深く信頼し、救い主であるということを信じていたとは驚きです。
当時のローマの軍人は皇帝を神のような存在としてとらえており、支配している国の人たちが信じている宗教を信じることは、めったにないことだったそうです。

百人隊長は、おそらく会堂でユダヤ人たちが礼拝を守っている姿を見ていたのでしょう。旧約聖書の知識を持っていて、メシヤ(救い主)を待ち望んでいたのでしょう。

「安息日に礼拝をしているユダヤ人たちを見たとき、聖霊が彼の心に触れたので、イエス様がメシヤであることがわかったのでしょう。」
と牧師先生が言われたのを聞いて、礼拝を守る行為だけでもそれを見た人をキリストに導くことができるのだなあと思いました。
わたしがこの土浦の地でクリスチャンとして生かされていることの意義を問われた気がしました。
                 
つづく

よろしゅうおたの申します

2009-02-23 13:40:43 | 乳癌

乳がんの再発転移防止のためにフェマーラという薬を飲んで1か月たちました。これまではたいした副作用が出なくてほっとしていたのですが、21日以降あちこちの痛みが急にやってきました。指の関節は大丈夫ですが、両肩と左腕間接がとくに痛みます。買い物で荷物を持つ時は困ります。シルバーカーではなくてショッピングカーを買おうと思っています。

薬を飲み始めたとき覚悟はしていたので、悲愴な気持ちにはなっていません。ずっと痛みが続いているわけではないので、痛くないときは積極的に動かすようにしています。


ようこそ痛みさん、やっと来たのですね。耐えられるだけの痛みにしてくれてありがとう。これから仲良くおつきあいしていきましょう。よろしゅうおたの申します。

祝された家庭集会

2009-02-21 11:11:22 | 日記

昨日は久々に我が家での家庭集会でした。メンバー8人中3人の方の都合が悪くて残念だなあと思っていたら、神様は3人の若い人を送ってくださいました。

娘と娘の2人の友人です。
娘は日曜に仕事が入ることが多く、しばらく教会へ行っていませんでした。わたしはそのことで心を痛め、ずっと祈っていました。娘は4年前、高3のクリスマスに洗礼を受けています。

教会の青年会のメンバーであるAちゃんが娘を誘ってくれて、2人の仕事が休みの日に会うことになったそうです。その日が、はからずも我が家の家庭集会の日でした。

Aちゃんが家庭集会に出たいと言ったので、娘も参加することにしました。すると、学生で春休みに入っていた娘と同じ年のMちゃんも参加したいと言ってきて、3人が家庭集会に出席することになったのです。

もし、Aちゃんが誘ってくれなければ、娘は家にいても部屋にこもって学びの時間には出てこなかったでしょう。
AちゃんとMちゃんは娘と同じ教会付属のマナ愛児園の卒園生です。マナにいたころは、よく家に遊びに来てくれました。3人の子供のころを知っているOさんとFさんは「大きくなって……」と感慨深げでした。



学びでは問いを割り当てられ、ひとりずつ答えていったのですが、彼女たちのしっかりした答えに親の年代であるわたしたちは感心するやら圧倒されるやら……。

あとから彼女たちに感想を聞くと「経験値の高い方たちの話を聞いて勉強になった」と言っていました。

わたしたちは、経験を積んでいるということにおいては、確かに彼らよりすぐれていますからね……(笑)

わたしの所属する教会は教会員が400人もいて、青年会は30人ぐらいいます。婦人会だけでも年代別に4つに分かれています。ですから、教会では世代の違う人たちと一緒に聖書を学んだり、交流する機会が少ないのです。昨日は、世代の違う人たちと共に学べてお互いに貴重な経験をしました。

学びの内容は、後日書かせていただきます。

やさしさは尊い宝物

2009-02-19 17:29:06 | 

いのちのことば社から発行されている月刊誌いのちのことば2008年1月-12月号に斎藤登志子さんの「ウツと上手につきあうには」というエッセイが連載されました。

ホームページにも掲載されているので、記事を印刷して文通をしている鬱病の方に差し上げたら、その中に書かれている詩に感動され、書き写して精神科の先生に持っていたそうです。そうしたら、その先生(ノンクリスチャンです)はその詩をほかの患者さんにも見せると言われたそうです。

わたしは鬱病ではありませんが、鬱的傾向にあった時期がありました。なので、エッセイや引用されている詩がぴったりきます。詩のひとつを紹介します。



あなたはやさしい人だから

あなたはやさしい人だから
すぐ傷ついてしまうのです。
人の悪口を言ったり、意地悪になれないから
そんな仕打ちをうけると、傷ついてしまうのです。

あなたはやさしい人だから
すぐにつらくなるのです。
人の痛みや苦しみがすぐにわかってしまうから
自分までつらくなってしまうのです。

あなたはやさしい人だから
すぐに疲れてしまうのです。
人のことを心配して、気をつかってばかりいるから
すぐに疲れてしまうのです。

あなたはやさしい人だから
すぐに苦しくなるのです。
人の悪いところもいやなところも
だまって我慢しているから、すぐに苦しくなるのです。

あなたはやさしい人だから
うつになってしまったのです。
病気は治ってほしいけど
あなたのやさしさはとても尊い宝物です。

(『傷つきやすいあなたへ』木村藍 著、文芸社より)


わたしも傷つきやすい者です。やさしさが尊い宝物とは・・・嬉しいですね。

詩篇23篇(その3)

2009-02-16 07:56:20 | 聖書から
ヒックンがまた熱を出したので今日これから預かります。長期戦になるかもしれません。今のうちに記事をアップしておきます。


前回の続きで詩篇23編を読んで気づかされたことを書きます。


あなたのむちとあなたのつえ、
それがわたしのなぐさめです。



あなたのつえが慰めというならわかります。でも、懲らしめるために用いられるむちが慰めであるとはどういうことでしょう?

羊はときとして群れから離れ迷い出てしまうことがあるそうです。そんなとき羊飼いがむちを当て、正しい道に連れ戻します。軌道を修正してくれるのです。

自分勝手な思いで突っ走っているとき、突然思いもよらないつらい出来事が起こることがあります。神様からのむちを当てられたような感じです。
わたしの場合は、乳がんになったときがそうでした。あとから考えると、そのことによってわたしは軌道修正されたのだと気づきました。(詳しくは生かされて・・・土筆文香の先日アップした記事、乳癌その後3の「乳がんになって気づかされたこと」に書いています)


「わたしの敵の前で、あなたはわたしのために食事をととのえ、
わたしの頭に油をそそいでくださいます。
わたしのさかずきは、あふれています。」


敵対というわけではありませんが、わたしがイエス様を信じていることを快く思わない人たちがいました。どうしたらその人たちにわかってもらえるか、どうしたらキリストを信じてもらえるかと思い悩んでいました。

でも、神様がととのえてくださった食事をし(つまり、聖書のみ言葉を食するように味わい)油(聖霊)が注がれたとき、わたしの心のさかずきは神様への愛でいっぱいになり、入りきらなくなってあふれ出ました。
そうしたら、言葉で伝えたわけではないのに周りの人たちが信仰に対して好意的になってきました。主人もそのひとりです。


まことに、わたしのいのちの日のかぎり、いつくしみと
恵みとが、わたしを追って来るでしょう。
わたしは、いつまでも主の家に住まいましょう。


この詩編23編を読んでいるうちに主が共にいて下さることを実感しました。
主が共にいて下されば、たとえ死の陰の谷であっても、そこは安心できる場所です。主の家に住んでいるのですから何の心配もないのです。いつくしみと恵みが追いかけてきてくれるとは、なんてすばらしいことでしょうか! 地上にいながら天国の素晴らしさを味わっているような感じです。
昔から多くの人たちが詩篇23編を愛してきたわけがわかりました。

こんな素晴らしい詩を書いてくれたダビデさん、ありがとう。
わたしを主の家に住まわせて下さった神様、ありがとう。

おわり

詩篇23篇(その2)

2009-02-14 16:18:44 | 聖書から

我が家はマンションなので、加湿器を使わない日でも結露がひどいです。冬は窓の結露ふきから一日の家事が始まりますが、今日は結露がほとんどありませんでした。こんなことからも春を感じて嬉しくなります。そういえば、昨日すごい風がふいていましたが、春一番だったのですね。
プリムラメラコイデスのつぼみも次々開いてきています。


前回の続きで詩篇23編を読んで気づかされたことを書きます。

「羊飼いを信頼する勇気は、獣と闘うことよりより多く勇気を必要とする」と書かれたものを読みました。確かに獣が襲ってきたら、自分を守るために闘うことより、羊飼いを信頼して草を食べ続けることのほうが難しい気がします。
闘ったとしても、勝てないことは明らかなのに、自分の力でなんとかしようと思ってしまいます。


「たとい、死のかげの谷を歩くことがあっても、
わたしはわざわいを恐れません。」


なんという強い信仰でしょう。恐れませんと断言しているのです。

わたしにはそのような強さがありません。起こるかどうかわからないことであれこれ心配し、恐れを抱いてしまうことがあるのです。
3週間ほど前から関節痛などの副作用の危険がある薬を飲み始めました。同意書にサインまでしたので、どんな痛みがくるのだろうかと緊張していましたが、今のところたいしたことはありません。
3週間経ってもたいした副作用が出ないということは、ずうっと大丈夫なんだろうと思っていましたが、薬を飲んで3.4か月目に痛み止めを飲まなければ耐えられないほどになった人の話を聞いて、また恐れが出てきてしまいました。そんなにひどい痛みが出たら、薬をやめればいいのですが、やめたら再発転移が起こるのではないかと、そちらの方が怖いのです。

恐れを取り除くにはどうしたらよいのでしょう。

「あなたがわたしとともにおられますから。」

と詩篇23篇の作者(ダビデ)が言っています。

でも、神様がともにおられることが実感できなくなるときがあります。そんなとき、恐れに取りつかれます。

バンズバウナーは「神は恐れが存在するより前にここにおられた」と言ったそうです。その通りですね。
人が神の視点からものを見ることができたら、いかに恐れが根拠のないものだとわかるそうです。

でも、目の前で起こってくるものを見ているわたしたちが神様の視点からものを見るというのはとても難しいことです。
聖書には「恐れるな」という言葉が42箇所にも書かれています。

神様がわたしたちが恐れを抱く弱い者であることをご存知な証拠ですね。

「恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスのかぎをもっている。(黙示録1:17.18)」


最初であり最後であるお方を信頼し、恐れないで歩んでいきたいです。



*わたしのHP久々に更新しました。生かされて・・・土筆文香をご覧ください。

つづく

詩篇23篇(その1)

2009-02-12 12:22:47 | 聖書から

昨日はヒックンママの運転で、主人と娘、ヒックンとわたしの5人でつくばのショッピングセンターに行ってきました。お昼を食べてちょっと買い物をして帰るつもりだったのですが、レストランはどこもすごい行列でした。
待つのが大変なので、買い物を先にすることにしました。その間、主人がヒックンをプレイランドに連れて行きました。トーマスやアンパンマンを見てヒックンは大喜びです。一時間たってもレストランはあいかわらずの混みようなので、ショッピング街を出てファミリーレストランで食事をしました。食事が運ばれてきたときは2時半になっていました。よほどおなかがすいたのでしょう。ヒックンはお子様ランチのカレーをぺろりとたいらげました。


今月末に教会学校で暗唱聖句大会があります。暗唱するものの中に詩篇23編も入っているので、子供たちに意味を説明しようとしていろいろ調べていました。
調べているうちに素晴らしい発見がありました。
まず、詩篇23編をお読みください


主はわたしの羊飼い。
わたしは、とぼしいことがありません。
主はわたしを緑の牧場にふさせ、
いこいの水のほとりにともなわれます。
主はわたしのたましいを生き返らせ、
み名のために、わたしを義の道にみちびかれます。
たとい、死のかげの谷を歩くことがあっても、
わたしはわざわいを恐れません。
あなたがわたしとともにおられますから。
あなたのむちとあなたのつえ、
それがわたしのなぐさめです。
わたしの敵の前で、あなたはわたしのために食事をととのえ、
わたしの頭に油をそそいでくださいます。
わたしのさかずきは、あふれています。
まことに、わたしのいのちの日のかぎり、いつくしみと
恵みとが、わたしを追って来るでしょう。
わたしは、いつまでも主の家に住まいましょう。


主はわたしの羊飼い。という一節は、重要な意味を持っていると思います。
羊は家畜の中で最も弱い動物です。獣に襲われても戦う武器を持ちません。つのは丸まっていて突き刺すこともできません。目は弱く、かなり近視なのだそうです。足は遅く、獣に追いかけられたら逃げきることができません。

人間をこのような弱い羊にたとえており、神様を羊飼いにたとえています。
新約聖書では、イエス様は「わたしは、良い牧者です」といっておられます。

羊飼いは、弱い羊を敵から守ります。目の弱い羊を草原に導いて食事をさせ、敵が襲ってきたら、命がけで闘います。


「主はわたしの羊飼い」
というのは、
『神様は羊のように無力なわたしを守ってくださる羊飼いです。わたしはあなたに信頼し、どんな敵が襲ってきても恐れずに安心して草を食べることができます』という信仰告白なのですね。
                 
                      つづく

子ども家庭集会

2009-02-09 12:27:35 | CS(子供伝道)

一昨日、子ども家庭集会の「きらりんクラブ」がありました。1月は教会の都合でできなかったので、クリスマス会以来で2か月ぶりです。幼稚園生から3年生までの7人の子どもがY子ちゃんの家に集まりました。

クリスマス会のとき、みんなでケーキを作って好評だったので、今回もお菓子作りをしました。今回はプリンです。カラメル作りはちょっと心配でした。

フツフツと砂糖水が煮立って色づいてきたら熱湯を入れます。あっという間に茶色くなって、大成功です。

「すごい! 色が変わった」
「しょうゆみたい!」
「アメだよ」
といって味見する子どもたち。

次に牛乳と生クリームをあたためます。一方では卵に砂糖を入れて混ぜます。慣れない手つきでしたが、けっこう上手に卵を割っていました。全部合わせて裏ごしし、カラメルを入れたカップに注いで蒸し器に入れます。
プリンを蒸している間に、賛美と聖書のお話をしました。

S子先生が迷子の羊のお話をしました。100匹の羊を飼っていた羊飼いが、1匹の迷子になった羊をみつけるため一生懸命さがたというイエス様のたとえ話しです。


「羊飼いは99匹も羊がいるから、1匹ぐらい、いなくなったていいやとは思いませんでした。1匹の羊を大事にし、見つかるまで探し続けました。
神様は大勢人間がいても、ひとりひとりのことを見ておられ、大切にして下さいます」
と言うと、

「へーえっ! 神様って目がたくさんあるんだね。背中にも目がついているのかなあ…・・・。すごいね」
と率直な感想を言った子どもがいました。

お祈りのときに「アーメン」というと、「アーメンて何?」と尋ねた子どもがいました。
子どもたちの新鮮な感動、反応に心躍りました。

おやつにいただいたプリンは冷やす時間がなかったので、ホットプリンでしたが、とてもおいしかったです。


家に帰ると、ヒックンの元気な声がひびいていました。わたしが出かけている間、ひとりで子守りをしていた主人は、さすがに疲れた様子でした。1時間しか昼寝をしなかったので、そのあとが大変だったようでした。ごくろうさまでした。また明日と、明後日来ますが…


日本クリスチャン・ペンクラブhttp://jcp.daa.jp/のHP更新しました。ぜひご覧ください。

ヨナ書を読んで(その2)

2009-02-07 08:09:02 | 聖書から

祈祷会でヨナ書を学びました。ヨナ書の粗筋は前回(2/5)に書いていますので、ご存じない方はその箇所をご覧ください。


次に「神様がニネベの人々が悔い改めた様子をごらんになって、彼らに下そうとした禍を思い直されました。人の悔い改めによって思い直される神をあなたはどのように思いますか?」という質問がありました。

このことについても3.4人のグループに分かれて話し合いました。
『神が思い直される』とはどういうことなのか? と意見が飛び交いました。日本語に訳すと「思い直す」という言葉になるけれど、へブル語ではニュアンスが違うのではないか?
神様は人間の常識内にはまらない。神はそもそも最初からニネベの町を滅ぼすつもりはなかったのではないか? 神が思い直すなどということはありえないという意見が出ました。

わたしは、「『祈りが神の御手を動かす』ということがあるのだから、ニネベの人たちの悔い改めたようすをご覧になって、神様が思い直されたというのはあり得ることだと思う」と言いました。
話し合っているうちに「神が思い直す」というのは、「人間が思い直す」のとは少し違うかもしれないと考えるようになりました。どのように違うか説明できないのですが…・・・。

牧師先生は、「神が思い直す」というのは、「摂理」ということだと言われました。

『神はいっとき、いっときにわたしたちの思いにこたえて下さる方です。わたしたちが努力していることをご覧になるかたです』


最初から神のご計画があり、人の思いや祈り、努力などに関係なくその計画が遂行されるのならば、それは運命という考え方になります。
でも、神様はわたしたちの思いや努力していること(努力の結果ではなくてその過程)をご覧になって、応答してくださる方です。このことが節理なのです。


信仰をもってから、この世界が運命ではなく節理によっていることを初めて知ったとき、小躍りするほど嬉しかったのを覚えています。それまではずっと、自分はほど運が悪い人間はいないと思っていたからです。
ところが、運が良いとか悪いとか、そんなこと関係なかったのです。この世界を支配しておられる神様は、わたしたちと人格的にかかわってくださり、応答してくださる方だからです。


南ユダ王国の王、ヒゼキヤは重い病気にかかり、もうすぐ死ぬことを預言者イザヤから告げられました。ヒゼキヤは大声で泣いて神様に訴えます。すると神様はその祈りを聞いていやしてくださり、3日目には主の宮に上ることと15年の寿命を与えることを約束してくださいます。ヒゼキヤがその保証を求めると、「影が十度あとに戻る」と告げ、イザヤが祈るとそのとおりになりました。(Ⅱ列王記20:1~11、イザヤ38:1~8)

すごいことだと思います。神様が愛をもって応答して下さったのです。万物のものを支配し、この小さきものの思いにさえこたえて下さる神様を心からほめたたえます。


今日はこれからヒックンがきます。ママが研修会なので一日預かるのです。午後からわたしは子ども家庭集会で3時間ほど出かけます。その間、おじいちゃんと昼寝してくれたらいいのですが…・・・。

おわり

ヨナ書を読んで(その1)

2009-02-05 14:00:05 | 聖書から

祈祷会でヨナ書を学んでいます。ヨナ書は旧約聖書の小預言書のひとつで4章までしかない短い箇所です。

粗筋を紹介します。
*******************************************************************

 ある日、ヨナは神様から「ニネベの都に行って呼びかけなさい」という神の声を聞きます。ニネベは、イスラエルの侵略者であるアッシリア帝国の都です。どうして自分がそんな敵国まで行かなければならないのかと思い、ヨナはニネベとは逆方向のタルシュシュ行きの船に乗ります。

 しかし、海は荒れ、船は難破しそうになりました。人々が恐怖のあまり神に祈りましたが、ヨナは船底で寝込んでいました。
 船に乗っていた人々は、この嵐の原因が誰か、くじをひいて調べることにしました。くじは、ヨナに当たりました。

 ヨナは、神から逃げてきたことを白状し、自分を海に放り込めば嵐は静まる、と人々に語ります。人々がヨナを海に放り込むとたちまち海は静まりました。
 海に放り込まれたヨナは、大きな魚に飲み込まれ、三日三晩、魚の腹の中で過ごします。そのとき、ヨナは神様に悔い改めの祈りをします。

陸地にはき出されたヨナに再び「ニネベへ行け」と神様の語りかけがありました。ヨナは今度は従順にニネベに向かい「あと40日すれば、ニネベの都は滅びる」と言って回ります。

 それを聞いたニネベの人々は、ヨナの言葉を信じて悔い改めます。ニネベの王までもが、衣装を脱ぎ捨てて、荒布で身をまとったのです。荒布で身をまとうということは、これ以上ない悔い改めのしるしです。
 この様子を見た神は、ニネベの町を罰することをやめたのでした。

 ところがヨナはそのことに腹を立てて神に向かって抗議しますが、相手にされません。ふてくされたヨナは、ニネベの都を見下ろす場所に小屋を作って居座ります。

 厳しい日照りの中で座り込みを続けるヨナを、神は憐れに思い、トウゴマの木を生やして涼しい木陰を作ってやります。トウゴマはひまし油の原料となる植物で、楓のような形をした大きな葉っぱがつき、大きく成長します。日陰を作るには絶好の植物です。喜んだヨナでしたが、とうごまの木は一夜にして枯れてしまいます。

 神に向かって怒りをぶつけるヨナに、神はこう言ったのでした。

「あなたは、自分で骨折らず、育てもせず、一夜で生え、一夜で滅びたこのとうごまを惜しんでいる。ましてわたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには右も左もわきまえない12万以上の人間と数多くの家畜がいるではないか。」(ヨナ書4:10.11)
*******************************************************************

魚の腹の中で悔い改めたヨナを神様は助けます。ヨナは、今度は主の言葉通りニネベの町へ行くと3日間も歩きまわって熱心に叫びました。このときのヨナの気持ちはどのようだったでしょうか?


という質問があり、3.4人のグループに分かれて話し合いました。
ヨナは魚の腹の中で悔い改めているから、せいいっぱい神様の命令に従うという純粋な気持ちで叫んで歩いたという意見がありました。

わたしは、ヨナは複雑な気持ちだったのでは?と思います。もちろん、使命感と救われた喜びに満ちてはいたでしょう。けれども、ニネベの人々が自分の声を聞いてすぐに悔い改めるとは思っていなかったのではないでしょうか。
一方、神様はニネベの人々が悔い改めることを願っておられました。イスラエルの敵国の人たちではありますが、神様はその人たちも深く愛しておられました。
でも、そんな神様のみ心をヨナは知らずにただ40日後に滅びることを告げるという使命を果たすことに熱心だったのでは?と考えました。

敵を憎み、敵国の人々が滅びることを望むのは、人間の心理としては当然です。ヨナのことを非難することはできません。
でも、ヨナは知らなくともわたしたちが知っているお方、イエス・キリストのことを思うと、敵をも愛する愛を知らされるのです。
ニネベの人々をも愛する神様は、わたしに敵対する人々をも愛するように望んでおられるのですね。

                     つづく

教師研修会

2009-02-02 13:32:04 | CS(子供伝道)

今日は腕の痛みは和らいでいます。あちこちの関節が断続的に痛みますが、激痛というわけではなく、生活に支障のない程度なので感謝です。


31日~1日、教会学校小学科の教師研修会がありました。10数名が参加しました。膨大な資料を用いてキリスト教教育について学び、話し合い、実りある時間を過ごしました。

夕食はみんなで鍋を囲みました。わたしと同じ50代の主婦(泉会)が5人もいたので手際よく準備できました。

夕食の後のセッションも盛り上がって、夜を徹して語り合う勢いでした。


「子どもたちが、自分たちは神様によってすばらしく造られたこと、イエスキリストをとおして神様に無条件に愛されていることを知り、喜び、信頼することによって神様の栄光をあらわす。」

という理念に基づいて、実際に子どもたちをどのように教えたらよいのか考えました。

教育(education)とは、「能力を引き出す」という意味ですね。
子どもたちは生まれながらにして神様からあらゆる能力(タラント)をいただいています。教師は上から教えるのではなく、子どもたちに与えられている賜物を引き出し、開発していく使命が与えられていることを教えられました。

でも、週に1度、1時間という限られた時間でどれだけのことができるのでしょう…・・・。
それでも、貴重なその時間を用いて、できるかぎりのことをしたいです。

教師自身の信仰や生きざまが問われてくるので、ときには子どもたちの前に立つことが恐ろしくなることもあります。

主にある喜びをいつも感じていれば、それが子どもたちに伝わるのではないかと思います。
子どもたちひとりひとりが、{自分は神様に愛されている!}と実感できるように祈りました。


わたしは泊まるだけの体力がないので、10時に送ってもらって家に帰りました。泊まったら、翌日の分級まで体がもたないと思えたからです。

こんなとき、以前なら、体力のない自分を嘆いていました。元気な人たちを羨ましく思っていました。
でも、今はそうではなくて、ここまで参加できる体力の与えられていることを感謝しました。

同じ思い…児童伝道に熱き思いを抱く兄弟姉妹(教会ではクリスチャンの仲間を血縁がなくても兄弟姉妹といっています)が与えられていることが嬉しいです。



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