生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

児童文学の会

2009-01-30 16:47:14 | 日記

副作用の恐れのある薬を飲むことを書いたら、たくさんの方が心配してくださり、祈ってくださいました。心から感謝いたします。

『まったくと言っていいほど副作用が出ていません』と書くはずでしたが、夕べから左腕の付け根が痛んでいます。たいしたことはありません。副作用ではなく、雨のせいかもしれません。指の関節の痛みはないので感謝です。

左は手術した側なので、これまでも腋がひきつられたように感じたり、腕が重かったりすることがありました。弱いところから副作用があらわれてきているのかもしれません。
弱いところに神様の力があらわれるのですから、わたしの左腕は、神様の栄光のあらわされる場所なのですね。体の中でいちばん大事なところです。


今朝はちょっと気が重かったので、友人に教えてもらったチョコレートのお菓子を作ってみました。(写真)マシュマロとチョコレート、バターを溶かしてコーンフレークをまぜて固めたものです。甘いものを食べると幸せな気分になります。


一昨日、今年初めて茨城児童文学の会の集まりがありました。今回わたしは作品を提出しませんでした。去年9月の合宿で批評していただいた作品を書き直して合評していただくつもりでしたが、間にあいませんでした。とりかかれば、毎日少しずつでも継続して書けるのですが、なかなかとりかかれなくて、そのうち年が明けてしまいました。

同人のTさんから書き直した原稿が送られてきました。Tさんも合宿で長編の作品を提出して、わたしと同じようにしぼられていました。そのTさんが100枚以上ある小説を最初から書き直しているのです。彼女の努力に心打たれ、わたしもようやくおしりに火がつき、書き直しに入りましたが、仕上げるまでにまだまだ時間がかかりそうです。

同人誌「青い星」を出すのをやめて5年。もう二度と同人誌や作品集は無理だと思っていたのですが、合宿以来みんなの気持ちが上向きになっています。

「今年中に作品集を作りましょう」とKさんが提案すると、話が盛り上がりました。作品集に作品を載せられる人は?と問われたとき、わたしは反射的に手を挙げていました。

いつも深く考えないで決断し、そのあとで後悔したり、心配になったりするわたしです。今年は7月に合宿をすることになったので、6月半ばまでに作品集に載せられる作品を書き上げなければいけないのです。今書き直している小説は200枚ぐらいになりそうで長すぎます。6月までに別の作品を書くことができるのでしょうか。

手を挙げたのは10人中4人でした。わたしは全く自信がないのに手を挙げてしまいました。
でもそうやって期日が決められて、自分を追い込んでいくことも必要なのかもしれません。そうでないとなかなかペンがすすみません。
神様に『書き上げる力をください』と祈り求めました。

仲間の熱意に触れて創作意欲がかきたてられています。

詩の紹介

2009-01-27 12:04:40 | 

ペンの友に須藤あきこさんという方がおられます。「詩の友会」のHPに掲載された詩を読んで、心打たれました。須藤さんの了解を得て紹介させていただきます。この色の字はわたしのコメント。緑字は聖書の言葉です。

須藤さんの詩をもっと読んでみたい方は、詩の友会を開いて、投稿詩をクリックしてください。



もしも わたしが        須藤あきこ             
      ――苺ミルフィーユを食べながら
          
     もしも
     わたしが
     あなただったら
     と 考えると
     あなたに
     もっと 優しく
     なれるかもしれない

     そう思ったら
     今まで
     悩みあぐねていた心が
     氷のように
     溶け始めたような
     そんな
     気がする

今年の初めから、互いにいたわりあうにはどうしたらよいか考えてきました。
この詩のように「もしもわたしがあなただったら」と考えることによって、いたわりの心、愛する心が生まれてきますね。


「それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。(マタイ 7:12 )」


完全とは               須藤あきこ                     
     ――ある陶器師の作品から
      
     完全とは
     自らが
     不完全であることを
     認めること

     その中には
     寛容 親切 謙遜 赦し……
     愛のすべてが
     内包されているから



自分が完全だ、正しいのだと思った瞬間、完全ではなくなるのだと思います。
自分が不完全な者だと知っている人が御霊(みたま)の実をみのらせることができるような気がしました。


「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。(ガラテヤ 5:22)」



弱さ                  須藤あきこ

     弱い人は
     強い人の
     支えになることができるように
     神さまから
     弱さを
     与えられている

     そして
     弱い人は
     神さまの
     大いなる力によって
     支えられている


弱い人が強い人の支えになるというのは本当です。強いと思っている人でも、予期せぬ出来事が起きたとき、ひとりでは対処できなくて弱り果ててしまうことがあります。
そんなとき、弱い人の存在がその人を立ち上がらせてくれるのです。
神様の大いなる力で支えられるとき、弱い人は強い人より強くなります。


「わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。(Ⅱコリント12:9)」
「なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。(Ⅱコリント12:10)」


わたしが願う二つのこと

2009-01-25 22:09:35 | 乳癌

娘と一緒に実家に行き、一泊してきました。夜、掘り炬燵に入って久しぶりに親子三代でおしゃべりを楽しみました。娘が学生の時は、わたしが実家に行くのにあわせて娘もいき、よく三人でおしゃべりしていましたが、娘が家にもどってきてからは、わたしひとりで実家に行くことが多くなり、三人で話すのは久しぶりでした。

二人だと話が盛り上がらないのに、三人だと盛り上がるのは不思議です。何を話したか覚えていないほどたわいのない話ですが、楽しいひと時でした。


そして昨日は、日本クリスチャン・ペンクラブの定例会に出席しました。みなさんの抱負を聞いたのですが、熱い思いを抱いて証文章を書いておられる姿勢に心打たれました。

理事長のI牧師からは今のわたしの願う二つのことを祈り求め、考えてみるようにとの勧めがありました。

箴言 30:7-9には次のように書かれています。


二つのことをあなたにお願いします。私が死なないうちに、それをかなえてください。不真実と偽りとを私から遠ざけてください。貧しさも富も私に与えず、ただ私に定められた分の食物で私を養ってください。私が食べ飽きて、あなたを否み、「主とはだれだ。」と言わないために。また、私が貧しくて、盗みをし、神の御名を汚すことのないために。


「富も与えず」と願うことに感動します。富は多ければ多いほど嬉しいものですが、筆者は多く与えられすぎると食べ飽きて神様のことを忘れてしまう人間の弱さをよく知っているのですね。


19日に病院でノルバテックスの代わりに飲む薬、フェマーラを処方されました。ネットで調べると2006年に認証された新薬で、再発、進行性乳癌の治療薬と書かれていました。骨粗鬆症になったり、関節痛が起きる副作用が出る可能性のある薬です。

これまで飲んでいた薬、ノルバテックスがなくなってからでいいと言われたので、フェマーラはまだ飲んでいませんでした。残りの薬は5錠。24日の分までありました。

今日は教会学校で奏楽をする日です。飲み始めてすぐに副作用が出るわけではないでしょうけれど、奏楽を無事終えて帰宅してから飲みました。

奏楽奉仕は、もしかしたら今日で最後になるかもしれないと思いました。子どもたちが神様を心から賛美する助けができるように弾かせて下さいと祈り、歌詞を思い浮かべながら、わたし自身も神様を心からほめたたえて弾きました。胸がいっぱいになって、できればこれからも奏楽奉仕を続けさせて下さいと祈っていました。

副作用のことは同じ分級を担当しているおふたりにも祈ってもらいました。礼拝では、奇しくも友人のMさんが隣の席に座ったので、礼拝後祈って下さいました。本当にうれしかったです。

大丈夫とわかっていても、不安に襲われるときがあります。祈りによって支えられています。


わたしが願うふたつのこと
体調が悪くなりすぎて、苦痛のあまり祈ることもできなくならないようにしてください。
体が丈夫になりすぎて、自分の力で何でもできると、おごり高ぶることのないように、
へりくだる心を持ち続けるために適度な苦しみと、奉仕する元気を与えて下さい。

なくてはならない存在

2009-01-22 17:33:28 | 日記

祈りの友である「五つのパン」の岩永敏朗さんが、キリスト教番組「ライフ・ライン」(太平洋放送協会)に出演され、こちらでは17日に放送されました。

かつては商社マンだった岩永さんです。利潤追求の日々だったのですが、競争の中に生きる生き方に疑問を感じられ、退職されました。弱さを抱える人たちと共に働く場を作ろうと賛美の会社「五つのパン」を立ち上げました。

大変な決断だったと思います。独身なら、ためらいなくできたかもしれません。でも奥さんと子どもさんたちがおられます。収入の道が閉ざされてしまうのですから当然生活は苦しくなったでしょう。

ある晩、岩永さんが帰宅したとき電気が止められてしまい、家の中は真っ暗だったそうです。部屋には月明かりと懐中電灯で聖書を読む奥さんとお子さんたちの姿がありました。岩永さんは思わず奥さんと子どもたちに不自由かけていることをわびたそうです。すると奥さんは、「神様が最善をして下さるから」と微笑んでおられたというエピソードに心打たれました。

 番組では障がいをもつ方のホームヘルプの様子や心の病をかかえる青年が岩永さんと教会の助けで元気になられ、長野県で奥様と働いている様子などが紹介されました。


先日、新聞に乳がんになったら解雇されたという記事が載っていました。上司に「術後、月2回通院しなければならない」と言うと、「病気の人はいらない」と言われたそうです。

なんてひどい話でしょう。元気な人、能率よく働ける人が必要とされ、そうでない人は切り捨てられていく……。それが社会の現実なのかもしれませんが、それは神様が望んでおられることではありません。

障がいを持っておられる人、病気の人もみな神様によって造られたのです。神様は弱い人も、丈夫な人もひとつの体だから、互いにいたわりあい、助け合いなさいといわれました。


知り合いに年が3つずつ離れた3人兄弟がいます。3人は不思議なほど喧嘩をしません。母親が夜、パートに働きに出ているので、夕飯は3人でいただきます。後片付けは当番制にして3人が交代でしますが、当番でない子どもが手伝い、互いに助け合っています。仲睦ましい姿に心を打たれます。2番目の子どもに軽い障がいがあるので、その兄と妹が支えあっているのです。


人は、弱さを抱えている人と共に歩むことによって、人として本来の良さを発揮させることができるのではないでしょうか。そのために神様は弱い人を造られたように思います。弱い人こそなくてはならない存在で、社会の宝です。

しかし、現実は、障がいのある人がいじめられ、体の弱い人が社会から排除されている場合が多いのです。

そのような社会の中にあって、弱い者と共に歩む働きをされている岩永さんのことを神様は喜んでおられるでしょう。
弱い器官がかえってなくてはならないという聖書の言葉を語っておられましたが、わたしもそのみ言葉で力づけられ、こんなわたしのような弱いものでも生きていていいのだなと実感したのでした。


聖書の言葉

「それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。(1コリント 12:22 )」


来月(2月7日、8日)は、岩永さんの所属しておられる教会の牧師夫人が「ライフ・ライン」に出演されます。絵本の読み聞かせの会「二匹のさかな文庫」の様子などが放送されます。ぜひご覧ください。





走るべき道のりを走り終え…

2009-01-21 16:10:29 | 日記

昨日は教会のT長老の葬儀でした。肺炎で入院しておられたので祈っていましたが、それほど容態が悪いとは思いませんでした。16日に召されました。亡き父と同じ83歳でした。

T長老は2年前まではお元気で、勢力的にいろいろなことをされていました。勉強家で本をたくさん読んでおられました。わたしが忙しくて本を読む暇がないと言うと、「寝る時間を削れば読書ができる」と言われてしまいました。実際T長老は寝る時間を削って読書されていたのです。

夜読書をすると、すぐ眠りに引き込まれ睡眠時間が増えてしまうわたしとは大違いです。

T長老のことで、印象に残っていることは、葬儀の中で牧師先生も話されましたが、コイノニアのことです。コイノニアとは、土浦めぐみ教会と韓国大方(デバン)教会との交流のことをいいます。10年ぐらい前から交流が始まりましたが、最初のころは、かつての悲しい歴史のゆえに韓国の教会の方々はウエルカムという感じではなかったそうです。

大方教会の方が来日されたとき、T長老が歴史を調べ、戦争中日本が韓国にしてきたことを話し、心から謝罪したそうです。大方教会の方々は日本人からこのような謝罪の言葉を聞くのは初めてだと感動し、キリストの愛をもって赦してくださいました。

その後、大方教会で千人もの人たちの前でT長老が話をされ、平和が生まれたのです。

日本を恨み、日本人に敵意を抱いている人が大勢いる中で語るのには勇気が必要ですね。わたしだったら、恐ろしくてとても語れません。

神様だけを畏れ、人の評価を恐れないT長老だからこそできたことなのだと改めて尊敬しました。


I長老が故人の思い出を話されたあと、
Ⅱテモテ 4:7「 私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。」
のみことばを読みながら嗚咽していました。まさにT長老は 走るべき道のりを走り終えたのだと思いました。

T長老ともっとお話ししたかったのに・・・・・・と、寂しさを感じながらも、天国での再会を待ち望んでいます。

最後にT長老の好きだった聖書の言葉を紹介します。


もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちの住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。  ローマ人への手紙8:11


同意書

2009-01-19 17:04:04 | 乳癌

今日、病院へ行ってきました。乳がん手術後、5年間飲んでいたノルバテックスに代わって、フェマーラという薬が処方されました。これから5年間飲むのです。

この薬には、副作用が伴うことが多いので同意書にサインをするように言われました。どんな薬でも多少の副作用はあるものです。今まで、さまざまな薬を飲んできましたが、同意書を必要とする薬は初めてでしたので、副作用の説明を聞くときは、緊張しました。

骨粗鬆症になるおそれや手足の関節痛が起こるおそれがあるそうです。
「ピアノは弾けますか?」 と聞くと、「かえって動かした方がいいので弾いて構いませんが、痛みがひどいようなら弾かないように。また、バネ指になる人もいるので、そのときは手術をすることになります」との答えでした。

教会学校で奏楽をしているので、ピアノが弾けなくなるのはがっかりですが、もし、弾けなくなったらそのときはやめたらいいのだと思いました。(ほかにも弾ける人は数名おられるので……)

パソコンのキーボードを打つのにも大変になるのでしょうか? このことについては質問しませんでした。(打てなくなるはずはないと思って……)

副作用が出ないように友人に祈っていただこうと思ったのですが、医師に「副作用が出るということは薬が効いているということで、全く出なければ薬の効き目がなく、再発転移の可能性が大きくなるのです」と言われました。

早い人は2.3か月後に、遅い人は2.3年後に痛みのピークが来て、それからは少しずつ和らいでくるとのこと、たいしたことはないですね。

神様は、不必要なものをお与えにはなりません。これから痛みと闘うことになるかもしれませんが、それはわたしに必要なものなのでしょう。どんな痛みでも呼吸困難よりはありがたいです。

喘息の重い発作で壮絶な苦しみを体験したわたしは、どんな痛みでも恐ろしくありません。
神様は耐えられないような試練を与えることはありませんから、心配することは何もありませんね。

耐えることによってイエス様に少しでも近づけるなら痛みを歓迎します。



*追記:今日血液検査もしました。結果がすぐ出て、腫瘍マーカー値、異状なしでした。感謝!
                                 

今年最初の家庭集会

2009-01-17 16:29:42 | 聖書から

ヒックンは熱が下がり、すっかりよくなって木曜の夜、帰って行きました。昨日はパパが休みをとって一日面倒をみていたそうです。


昨日はSさん宅での家庭集会でした。

新約聖書ルカ6:6-11です。

別の安息日にイエスは会堂に入って教えておられた。そこに右手のなえた人がいた。
そこで律法学者、パリサイ人たちは、イエスが安息日に人を直すかどうか、じっと見ていた。彼を訴える口実をみつけるためであった。
イエスは彼らの考えをよく知っておられた。それで、手のなえた人に「立って真ん中に出なさい。」と言われた。その人は、起き上がって、そこに立った。
イエスは人々に言われた。「あなたがたに聞きますが、安息日にしてよいのは、善を行うことなのか、それとも悪を行うことなのか。命を救うことなのか、それとも失うことなのか。どうですか。」
そして、みなの者を見回してから、その人に「手を伸ばしなさい」と言われた。そのとおりにすると、彼の手は元どおりになった。
すると彼らはすっかり分別を失ってしまって、イエスをどうしてやろうかと話し合った。


イエス様が安息日に会堂で右手のなえた人を癒す場面について深く考える機会が与えられました。

イエス様は、神の国について語り、数々の奇跡をおこない、人々の病を癒していました。それで、大勢の人たちがイエス様のもとへ集まってきました。そのことで律法学者やパリサイ人たちはイエス様を憎み、妬んでいました。
律法学者やパリサイ人は、イエス様を訴える口実はないかと機会をねらっていました。

安息日にイエス様が会堂におられるとき、ちょうどそこに右手の不自由な人がいました。律法学者やパリサイ人はイエス様が安息日にその人を癒す奇跡を行うかどうかじっとみていました。

彼らはモーセの十戒の4番目の戒め「安息日に仕事をしてはならない」(出エジプト記20:8・9.10)に過剰反応して、安息日に病気を治すこともこの戒めを破ること考えていたようです。もし、イエス様がこの戒めをやぶったら、訴えることができると期待していたのでしょう。

イエス様はそんな彼らの心を見通しておられました。それで右手のなえた人を人々の真ん中に立たせ、癒そうとされました。
イエス様は律法学者やパリサイ人に次のような質問をしました。

「あなたがたに聞きますが、安息日にしてよいのは、善を行うことなのか、それとも悪を行うことなのか。命を救うことなのか、それとも失うことなのか。どうですか。」



『それは、戒めを守ることに固執してがんじがらめになっていた彼らになんとか神様の思いをわかってほしいと訴えているのです』
と聞いてイエス様は律法学者やパリサイ人に対して愛をもってなんとか悟らせようとしておられたのだと気づきました。

律法学者やパリサイ人はイエス様への憎しみで心がいっぱいだったので、自分たちの間違えに気づきません。

イエス様は右手のなえた人の手を癒されました。ところが彼らはその奇跡を目の当たりにしたのに驚きも喜びもしなかったのです。聖書には彼らは分別を失って・・・と書かれています。

憎しみや妬みに支配された心は、長い間不自由で辛い思いをいていた人のなえた手が癒されるというすばらしい奇跡を見ても、何の感動も起こさなかったのです。イエス様が律法を守らなかったということの証拠をみつけて、イエス様をどうしてやろうかとそのことに頭がいっぱいになっていました。

そこに人間の持つ恐ろしい罪の姿を見て、深淵をのぞくような気持ちになりました。他人事ではありません。わたしの心の中にもこの律法学者やパリサイ人のような人をねたむ心が巣食っているときがあるのです。そんな自分に気づくと、激しく泣きたいような気になります。清さとかけ離れた自分の姿にぞっとするのです。

「自分の中の罪に気づいて心痛めるのは聖霊の働きによるのです。」と牧師先生が言われました。「信仰が深まるほどにますます自分の罪やねじれに気づくようになりますが、それはどんどん悪くなっているのではなく、むしろ逆で聖化されているのです。天国に近づいている過程なのです。」

最後にこの手のなえた人について……。この人はこの箇所では主人公のはずなのに心情が全く書かれていません。
起きて・・・と書かれているのは、横になっていたのでしょうか?
イエス様のうわさは聞いていたはずなのに……。会堂にイエス様が来られているのに横になっていたのはなぜでしょう。自分から癒しを求めていったわけでもなく、まったくの受け身です。 

パリサイ人たちが大勢いる会堂なので、彼らの目を気にしていたのかもしれません。手を伸ばしてと言われて伸ばしたのですから、イエス様を信頼していたはずですが……イエス様もこの人に対して何のコメントもしていませんし、この人のその後のことについて何も書かれていません。 

でも、イエス様によって癒されたことがあかしではないでしょうか。積極的でない人にも神様の栄光が現わされ、用いられるのだと思いました。

子守の日々

2009-01-14 14:49:19 | 日記

ヒックンが熱を出して預かっています。保育園に行っているのでいろんな風邪をもらってきます。9日から39度の高熱を出し、咳もひどいです。10日、11日に泊まりに来て、いったん家に戻り、昨日は息子が連れてきました。熱はまだ38℃台です。あまり咳がひどいので肺炎かインフルエンザかと心配しましたが、検査結果は風邪ということでほっとしました。

ヒックンは1歳10か月になり、自我が出てきました。「いやだ」が口癖のようになっています。もう反抗期なのかもしれません。

最初のころ喜んで飲んでいた薬をいやがって、飲ませるのに一苦労です。好物のジュースやプリンにまぜても吐き出してしまうので、昨夜スポイドを買ってきました。スポイドで口の端から飲ませるとうまくいきました。
薬が効いてきたのか、今日は少し熱が下がったようで(熱を計らせてくれないので正確にはわかりませんが)、やっと機嫌が良くなりました。
昼寝をしたくないとごねて、一時間泣き続け、ようやく寝てくれました。

ヒックンママが機嫌が悪くてどうしようもないときの切り札として「はたらく車」のDVDを置いて行ってくれました。
あまり何度も見せてはいけないと思いますが、今朝は「デービーデー、見る」と泣きながらせがむので一緒に見ました。

消防車の場面でヒックンが一生懸命腕を動かしているので、何をしているのかと思ったら、画面の隅に消防士たちがラジオ体操をしているのが映っていました。ヒックンはまねをして体操しているのでした。消防車に目を奪われてそんな場面があるとは気付きませんでした。観察力の鋭さにびっくりしました。

あっ、もう目を覚ましたようです。
疲れてヘトヘトですが・・・たぶん明日も預かることになるでしょう。


2つの嬉しいこと

2009-01-12 13:40:43 | 日記

嬉しいことが2つありました。

一年半前から文通を続けている兵庫県に住むK子さんから12月に洗礼を受けたとの報告をいただきました。
K子さんとは面識がありませんが、2007年7月、「よろこびの泉」に書いたわたしの詩「死なないでください」を読んで、自殺を思いとどまったといって電話を下さいました。

「よろこびの泉」はおもに関西方面の教会へ配られているキリスト教のトラクトです。当時教会へ行っていなかったK子さんがなぜ「よろこびの泉」を読まれたのかわかりませんが、わたしは電話を受けたとき、神様の臨在を感じて鳥肌がたつほど感動しました。もし、死を願っている人がいたら、この詩を読んで生きる希望を持ってくれますようにと祈っていたからでした。

それからK子さんと文通が始まりました。K子さんは精神的な病をかかえています。最初のころは、深刻な悩みでいっぱいの文章でしたが、わたしが送った聖書や三浦綾子さんの本を読まれて、だんだん変わってきていました。そして、去年から教会に通い始められ、クリスマスに洗礼を受けたのです。

神様がK子さんの心に働かれたのですね。何と嬉しいことでしょう!
心から主に感謝しました。K子さんのことをあたたかく受け入れて下さった教会の方々にも感謝です。


もうひとつの嬉しいことは、17日、18日に祈りの友である「五つのパン」の岩永敏朗さんが、キリスト教番組「ライフ・ライン」(太平洋放送協会)に出演されることです。
岩永さんは商社マンだったのですが、「神の国と神の義とを第一に求めなさい。」のみ言葉から、教会の祈祷会に出席するようになったそうです。祈祷会に出席するため会社を5時に早退して、神様のことを第一とされました。
その後「小さきことに忠実なものは大きな事にも忠実である」との御言葉に導かれ、 商社を早期退職して祈りと賛美の会社「五つのパン」を立ち上げました。

障がいをもつ青年とともに生活する中でビジョンが与えられ、精神障がい者のホームヘルプを中心に、心の病や弱さをもった人々の働きの場や暮らす場づくりをしてこられました。秋には地域作業センターが設立されます。

番組は五つのパンのこれまでの歩みと、岩永さんの証し、製本や布小物の作成の様子などが紹介されるそうです。ぜひご覧ください。

「ライフ・ライン」には、わたしも一昨年出演させていただきました。太平洋放送協会のHPは http://www.pba-net.com/です。地域によって放送日時が異なりますのでHPで「ライフ・ライン」番組表をご覧ください。五つのパンのHPはhttp://homepage2.nifty.com/five-breads/です。

パラグアイに届いた詩

2009-01-10 08:52:25 | 日記

南米パラグアイに住むTさんが、わたしのHPを見てメールをくださいました。
12月に4人目のお子さんが生まれ、名前をKarisとつけたそうです。
”カリス”でネット検索をしていたら、わたしが以前書いた「神様のカリス」という詩にヒットしたそうです。読んで感動され、周りの人にも見せてまわっておられるとか……。

びっくりするやら、恥ずかしいやら、嬉しいやら……。

インターネットの世界はすごいですね。今まで、シンガポールやフィリピンからメールをいただいたことがありますが、アジアなので近隣という感じでした。でも、太平洋を越え、南半球でわたしの書いたものが読まれているとは……驚きです。

それは、3年前に書いた詩で、書いた本人がその内容を忘れていたのです。もしTさんがお子さんにKarisという名をつけなければ、詩が読まれることもなかったでしょう。

主の不思議な導きを感じます。Tさんご家族の写真も添付で送ってくださいました。Karisちゃんのことをおぼえ、お祈りさせていただこうと思いました。いつか大きくなったKarisちゃんと対面することを夢見て……。

「神様のカリス」は2006年の年頭メッセージに感動して書きました。カリスとはギリシャ語でめぐみという意味です。

ブログにも書いていますが、再び掲載させていただきます。
カリスに関して2006年1月3日~10日のブログに書いていますので、過去ログをご覧ください。

神さまのカリス



シャワーのように
わたしの上に 注がれる
顔を上げて
口をあけて
両手を上げて
カリスを受ける
カリス カリス 神さまの恵み
 わたしは いま 喜んでいる

カリスのおかげで
わたしは生きる
当たり前では ないんだね
息ができる
食事できる
おしゃべりできる
賛美もできる
 カリス カリス 神さまの恵み
 わたしは いま 生かされている

神さまをうらみ
ひとをうらんで
生きてきたのに
イエスさまは
むちを打たれ
くぎをさされ
血を流された
わたしのために
 カリス カリス 神さまの恵み
 わたしは いま ゆるされている

神さまのカリス
雨のように
わたしの上に 降り注ぐ
心をつくし
思いをつくし
力をつくして
主を愛したい
 カリス カリス 神さまの恵み
 わたしは いま 愛されている



互いにいたわるには(その3)

2009-01-09 11:12:14 | エッセイ

人の話を聞いて充分理解したような気になって、実は誤解して受け止めていることもあります。

わたしは以前、親しい人から深刻な悩み打ち明けられたとき、理解することができず、的外れなことを言ってその人を傷つけてしまいました。
わたしは高慢にも悩みを聞いたら、何かアドバイスをしてあげなければと思っていました。

しかし、彼女はアドバイスを求めていたのでも、100%の理解を求めていたのではありませんでした。ただ、よりそってほしいと思っていたのでした。ただ聞いて涙を流すだけでよかったのでした。

自分の子どものことならすべて理解できると思いこんでいた時期もありました。自分の身から出た子どもですから、母親はすべて知っているはずだと思っていたのですが、それは間違えでした。自我を持ち始める1歳半の子どもの気持ちすら100%理解できないのです。20年以上も一緒に暮らしている主人のことさえ理解できていません。
理解するって、何と難しいことでしょう。

でも、神様は100%理解して下さいます。このことを知っているかいないかでずいぶん違うと思います。


それでは、相手を100%理解できないと、いたわることができないのでしょうか?
そんなことはありません。互いにいたわりあうには100%理解する必要はありませんね。
相手のことを思いやって、心を寄せ、祈り続ければ、いたわりの気持ちが生まれるのです。そこには愛が必要です。

でも、わたしに愛があるのでしょうか……。
自分のことを省みると、自分本位で愛に欠けた者だとつくづく思います。もともとのわたしの中にはひとかけらの愛もないのです。でも、そんなわたしを神様は愛して下さいました。


「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。(Ⅰヨハネ4:9)」


と聖書に書かれているように、神様はわたしのためにひとり子のイエス様を世におくってくださいました。イエス様はわたしの身代わりになって十字架につけられ、すべての罪を背負ってくださいました。これこそ神様の愛です。

神様がしてくださったことを思い、大きな愛に触れたとき、愛し難い人も愛したいと思うようになりました。
自分を攻めたて、傷つける人をも愛したいと思いました。なぜなら、イエス様はその人のためにも十字架にかかって下さったからです。

以前、牧師先生から、ひどいことをしたり言ったりする人に対して、「明日は変わるかもしれない」と思ってその人のために祈ることが大切だと聞きました。


祈り
神様、イエス様がわたしにしてくださったことをいつも思っていられるようにして下さい。どんな人もいたわり、愛することができるようにわたしに愛をください。

                おわり

互いにいたわるには(その2)

2009-01-07 21:16:06 | エッセイ

互いにいたわるにはどうしたらよいか……
コメントで美雨さんが『先ず相手の言い分を聞くことが大切』というヒントをくださいました。

相手の言うことをよく聞くことは大切です。でも、なかなかそれができないのです。口がひとつで耳がふたつあるのは、話すことより聞くことを大切にするようにと神様がそのように造られたのでしょう。でも、人の話を半分ぐらいしか聞かずに自分のことを話してしまうことがあります。

ひどいときは、人がせっかく話しているのにそれをさえぎって自分が話してしまうことです。このことは、父からしてはいけないこととしてよく聞かされていたのですが、たまにやってしまいます。
以前の無口だったわたしはどこへいってしまったの? というほど最近はよくしゃべるので自戒しなければなりません。


以前教会で傾聴の学びをしたことがありました。2人ずつペアーになって、10分ぐらいひとりがしゃべり、ひとりは口を出さずに(相づちだけうって)聞いているということをしました。1分間黙っているのも大変でした。

相手の話を充分聞くことができたら、その人のことをかなり理解できるでしょう。
でも100%ではありません。育った環境、男性女性、年齢、国籍、感性、経験……などが違うからです。

介護に携わる人が、高齢者を理解するために手足におもりをつけたり、よく見えないメガネをかけ、ヘッドホーンで耳をふさいで高齢者の疑似体験をしたと聞きました。また、おむつを当てられる人の気持ちを理解するために、介護者が自ら紙おむつを当てる体験をしたそうです。
それでも、それだけで完全に高齢者の気持ちを理解することはできませんね。

同じような経験をした方のことは、かなり理解できますが、子どものいない人が母親の気持ちを理解できないように、子どものいる人が子どものいない人の気持ちを充分理解することができません。

健康な人は、病気の人の気持ちを充分理解することはできません。


でも、神様は人のことを100%理解しなさいとはおっしゃっていません。人間には限界があり、とうてい無理なのです。

シスターの渡辺和子さんは、人は相手のことを98%しか理解できないので、2%の誤解される余地、相手を赦す余地を残しておくようにと言っておられました。
人間は完全ではありませんから……。
                         つづく

*日本クリスチャン・ペンクラブのHPhttp://jcp.daa.jp/更新しました。ぜひご覧ください。

互いにいたわるには……(その1)

2009-01-05 11:51:23 | エッセイ

年末年始のあわただしさから解放されて、今日はほっと一息つきました。
今日は主人が初出勤です。去年の事故で車が壊れてしまい、まだ車がないので一時間も早く家を出てバスを乗りついでの通勤です。


今年の教会の年間聖句は「私たちはキリストのからだであって、互いにいたわり、ともに苦しみ、ともに喜ぶのです。(Ⅰコリント12:25-27より)」です。

互いにいたわること、ともに苦しみ、ともに喜ぶことは簡単なようでなかなかできないことだと思います。わたしたちが出会ったすべての人に対してそれができたら、平和な世界になるでしょう。

でも、どうしてなかなかできないのだろうかと思い考えているとき、ちょうど娘が同じようなことを言い出したのでびっくりしました。(娘はまだ今年になって教会へ行ってないので年間聖句を知らないのです)

娘がアルバイトを始めて半年になるのですが、バイト先の人間関係が悪いので心を痛めているのです。人の悪口ばかり言う人がいて、それを聞きつけた当人が怒って衝突し、もめているとか…娘は圏外なのですが、仕事場の雰囲気が気まずくて辛いと言うのです。


「みんな、“わたしが”って言うの。自分は正しいと思っているの。自分目線で人のことを見るから、批判する気持ちが起きるのよ。でも、その人だって他人からどう見られているかわからないのにね」


そうです。人の行動を見て、「わたしならあんなことしないのに……」と思ってしまうところから改めなければいけませんね。

20年ほど前、埼玉県の団地に住んでいました。そのときのことです。5歳と3歳の子どもだけを公園で遊ばせて、母親は家で友人とお茶飲みしているのを見聞きしました。団地内の公園なので車の心配はないのですが、子どもが滑り台から落ちそうになったり、危険なことをして近所の人たちがハラハラしていました。
そのとき(わたしだったら、子どもだけを外で遊ばせたりしないのに)と思ってしまいました。

でも、もしかしたら、母親は人には言えない深い事情があって外遊びする子どもについていることができなかったのかもしれないのです。そして、近所に住んでいたわたしは、自分の子どもと共にその子どもたちを見ていてあげればよかったのです。
でも、わたしはその人の悪口を言う人たちに同調し、心の中で批難していました。

また、やはり団地に住んでいたころ、友人にひじきの煮物を作って持って行ったら、「ごちそうさまでした。わたしだったらもっと辛く煮つけるけど……」と言われてしまいました。
その方は東北の人なので、濃い味付けを好んでいたのでしょう。わたしは関西風の薄味にしていたので、物足りなく感じたのでしょう。

人によっておいしいと感じる味が違うように、さまざまな感覚は十人十色です。
「わたしだったら……」と自分を基準にしてしまうと、それに合わない人を非難することになります。
自分と同じような感性を持ち、同じような考えをする人には共感しても、自分が理解できない言動をする人を非難するのでは、互いにいたわり、ともに苦しみ、ともに喜ぶことはできません。

どうしたらいいのでしょう……。

                  つづく

かけがえのない存在

2009-01-02 08:44:07 | 日記
主の2009年。明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。


31日から息子一家が泊まりに来ています。今日は主人の実家へ行き、引き続いて私の実家へ行くので、ブログを書く暇がないと思っていましたが、皆がまだ寝ており、ほんの少しの時が与えられましたのでひとこと書かせていただきます。


昨日は、元旦礼拝に行ってきました。
わたしたちはキリストの体であることを改めて教えていただき胸が熱くなりました。

「あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。(Ⅰコリント12:27)」


こんなに弱くてひとりでは何もできないわたし。同じ過ちを繰り返し、欠けだらけのわたしなのに、イエス様の体の一部とならせていただいていることに感激です。
わたしは見栄えのしないつまらない器官ですが、神様はかえってそのような器官を尊んでくださるのです。何と嬉しいことでしょう。

自分なんかいてもいなくてもいい存在だと思っていたわたしです。でもそれは間違えで、イエス様にとってわたしがなくてはならない存在だったのです。

わたしだけではありません。人は皆、神様に造られたのですから、なくてはならないかけがえのない存在なのです。 


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