生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

苦しみが理解されなくても

2008-01-31 13:11:46 | 日記
 
1月も最後になりました。今日は天気がいいので自転車で美容院に行って、その帰りに駅の向こう側までいってきました。行き先は100円ショップ。教会学校の子供たちにお皿に絵を描かせて焼き、記念のプレゼントにしようと計画していたので、お皿を見に行ったのです。模様がついてない物でオーブン可というお皿がなかなか見つからず、グラタン皿のような形の物を3種類買ってきました。家で色づけして、どのお皿がいいかためしてみようと思います。楽しみです。

 
昨日、NHK「生活ほっとモーニング」で闘病記の本が用いられていることが番組で取り上げられていました。興味があったので家事をしながら見ていました。全国各地の図書館や病院で、闘病記を集めた専門のコーナーが設けられ、人気を集めているそうです。「闘病記文庫」を設置した鳥取県立図書館はでは、あらゆる病気の闘病記が病気の種類毎に分類されて貸し出しできるようになっています。

病気の人が、自分と同じような病気の方の本を読んで励まされたり、自ら闘病記を書くことによって回復していく様子が紹介されていました。
また、医師や看護師、看護学生が患者の気持ちを知るために闘病記を読んでいるのも紹介されました。

病気のことをよく知っている医師や看護師より、その病気を体験した者の方が患者の気持ちがよくわかります。心の葛藤などは、体験した者にしかわからないのです。そういう意味で闘病記が用いられることは素晴らしいことです。
ただ、費用のことを考えると(自費出版がほとんどなので)、書いても誰もが出版できるとはかぎりません。その点、インターネットはお金がかからなくていいです。

わたしがHPを立ち上げた理由のひとつは、乳癌の闘病記を書いて、同じような病気の人の励ましになればいいと思ったからでした。でも、ネットをしない人たちに伝わりにくいのが残念です。

病気になってつらいことは、病気の苦しみ、お金の問題、理解してくれる人がいないことの3つだとテレビで言っていました。

病人が理解されたいと思うのは当然のことです。でも、そばにいる家族でさえその苦しみが理解できないことがあります。同じ病気の人でも、人によって症状が異なるので、完全には理解できないでしょう。
完全には理解できなくても、心から祈ってくれる人がいれば、わたしはそれで充分です。

イエスさまだけが完全に理解して下さいます。けれども、辛い状況になったとき、ひとりで祈っていると悲しみに押しつぶされそうになるのです。
昨日書きましたが、モーセがひとりで祈ったのではなく、アロンとフルが共に祈って勝利しました。

わたしは、病の苦しみの中にある方々のために毎日祈っています。そして、わたしも祈られています。

勝利の秘訣

2008-01-30 17:29:59 | 教会
 
玄関に出していた鉢植えのパンジーが首を垂れていました。一昨日、日の当たるベランダに移したら、顔を上げてくれました。今日は少し寒さが和らぎました。春が待ち遠しいです。

 
今日祈祷会で 「荒野の祝福」(ハ・ヨンジョ著 、日本ツラノ書院発行)の学びをしました。出エジプト記17章8-16を読んで大切なことを教えていただきました。

 
出エジプトしたイスラエルの民は、荒野で約束の地をめざして旅をします。水と食べ物がないことで苦しみますが、神さまに苦い水を甘くしていただき、天からマナを降らせていただいて必要が満たされます。ところが、また苦難がやってきます。アマレク人と戦わなければならなくなったのです。モーセは、若いヨシュアを戦いに出し、アロンとフルとともに高い丘に登って祈りの手を上げます。モーセの手が上がっているとき、戦いはイスラエルが優勢になり、手が下ろされると劣性になりました。アロンとフルがモーセの手が降りないように一日中支えていたのでイスラエルは勝利しました。

 
ここで、モーセが戦争に人を送ることと丘に登って祈ることを同時に行ったことが大切なのだそうです。災難が降りかかると、現実の問題を解決しようとやっきになるか、問題に対して何の措置もせずに祈るかのどちらかになってしまわないように。両方行うことが勝利の秘訣だそうです。

 
モーセは一人で祈りに行ったのではなく、アロンとフルという同労者を連れていきました。モーセは偉大な信仰者ですが、同労者を必要としたということに驚きをおぼえます。祈りの友は必要なのですね。わたしにはたくさんの祈りの友が与えられていて感謝です。


霊的な戦いは、体をくっつけ合って戦うレスリングのようなものと聞いて、まさにその通りだなあと思いました。

また、霊的な戦いは、勝つことが大切だと聞きました。ここで注意したいのは、現実に起きている問題が解決すること。病気が治ること。望みがかなうこと。が勝つことではないということです。
イエスさまといっしょにいることが勝利だと牧師先生が言われました。

 
現実がどのような状態であっても、イエスさまがいっしょにいてくださることに気づいて平安を得ることが勝利だとわたしは解釈しました。

 
しかし、私たちは、私たちを愛して下さった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。(ローマ8:37)

何に価値を置くのか?

2008-01-28 17:17:46 | 教会

昨日は午後から教会学校小学科の父母懇談会が行われました。「父母懇談を行うなんてすごい!」と神学生が言っていましたが、6月には父母との個人面談、1月には全体の懇談会が毎年行われています。
新一年生のお母さん達がたくさん来て下さったことが嬉しかったです。教師と父兄の自己紹介の後、分級で行っていることや子供たちの様子を話しました。また、いろいろな質問が出て、それについて話し合いました。

めぐみ教会のすごいところは、教会学校の時間の後にジョイクラブといって、小学生のための遊びのプログラムが用意されていることです。しかも、屋外スポーツ、室内バラエティー、わらべうたの3つがあるので、子供たちは選んで好きなところへ参加します。室内バラエティーでは、奉仕する先生が毎週工夫をこらし、お菓子作りや手芸、工作などもしています。子供たちは日曜日が待ち遠しくてたまらないほど楽しみにしています。

世間では、教会へ行っている子供は特殊に見られるようですが、めぐみ教会には幼稚科、小学科合わせて100人以上の子供たちが毎週集まってくるのですから、日曜に教会へ行くのが当たり前という感覚になっています。


礼拝メッセージではマルコ14:3-9からイエスさまに香油を注いだ女の人のことが語られました。この女の人は500万円以上もする香油を全部イエスさまに捧げたのです。

そのことで、弟子(ユダ)が、もったいない。貧しい人に与えたらいいのにというようなことを言いますが、ユダは間もなくイエスさまを銀貨30枚で裏切ってしまいます。ユダはお金に価値を置いていたのです。

でも、女の人は、イエスさまに価値を置いていました。だからすべてを捧げたのだと聞いたとき、何に価値を置くかによって人生が決まってくるのだなあと思いました。


長いようですが、実は短く、限られた時間を生かされているわたしたち。間違ったところに価値を置いたら、どんどん道を外れていってしまいます。かつてのわたしは、健康になることに価値を見いだし、体にいいことを第一にやっていました。そのこと自体は悪いことではありませんが、健康になることが人生の目的になっていたことが、大きな間違えでした。

この香油を捧げた女の人のように、イエスさまに価値を置き、イエスさまの喜ばれることをしていきたいと思いました。

体も心もあたたかく

2008-01-26 21:13:31 | 日記
 
今日帰ってきました。実家では、都内に住む娘も来て、母と3人で楽しいときを過ごしました。おしゃべりをしながら食事をするという平凡なことが、貴重なことに思えました。普段は母も、娘も、ひとりで食事をします。わたしも平日はひとりです。しゃべる相手もなく、ひとりで食べるのは、慣れたとはいえ寂しいものです。寒いときは、ことさら人恋しくなります。
掘り炬燵に入って、3人で熱々のけんちん汁をすすりながら話していると、体も心もあたたかくなりました。

食事の後、母はカラオケ教室で習っている演歌を披露してくれました。父が生前よく母に歌の指導をしていたのを思い出しました。(父はとても歌が上手でした)
わたしは口には出しませんでしたが、歌っていて母は父のことを思い出してせつなくなったりしないのだろうか……と案じていました。
でも、母はそんなそぶりも見せず、「来週のお稽古の日までに上手に歌えるようにならなくちゃ」と、一生懸練習していました。

今日はお茶の水で行われたクリスチャン・ペンクラブの例会に出席しました。
理事長のI先生から、創立60周年に向けてのメッセージをいただきました。ちょうどOBIで学んだばかりのネヘミヤ記からだったので驚きました。先日リポートを書くために何回もエズラ記とネヘミヤ記を読み、エズラとネヘミヤの生き方に感動していたのです。

 
「主を喜ぶことはあなたがたの力」
というみ言葉が迫ってきました。

写真は実家で咲く胡蝶蘭です。
コメント受付再開しました。


クリスチャンの成長(その2)

2008-01-24 12:18:56 | 教会
 
 前回の記事でクリスチャンの成長のための4つの領域を書きましたが、4)の御霊(みたま)の実をみのらせ、主イエスさまに似た人格に聖化されるために自分の内面を正直にみつめ、神さまに委ねて神さまの御取り扱(おとりあつか)いを受ける。
について書かせていただきます。

 
自分を正直に見つめることによって、自分の罪深さや傷、ゆがみが見えてきます。どんな傷やゆがみがあっても、神さまはありのままを受け入れて下さいます。正直に傷やゆがみを神さまの前に差し出したとき、神さまは癒し、人格を清めて下さいます。
子供が親に訴えたり、だだをこねたりしたとき、親が「よしよし」と言って抱きしめてくれるように、神さまも受け入れてくださる。そういう取り扱いを『神さまから御取り扱いを受ける』というのだそうです。


内面を正直に見つめることは、意外と難しいことです。自分がいい子でいたいため、なかなか罪を認められず、正直に告白できないことがあります。かつてのわたしは、とても頑固でかたくなでした。自分が悪いと気づいても、正直にごめんなさいが言えなくて、一生懸命言い訳を考えていました。そんなときはとても苦しかったです。
自分の罪を認めて、正直に神さまに祈ったとき、みじめでボロボロだった心が癒されていくのがわかりました。
詩編の筆者もそのような経験をしたようです。

 
私は黙っていたときには、一日中、うめいて、
私の骨々は疲れ果てました。
それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、
私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。

私は、自分の罪を、あなたに知らせ、
私の咎を隠しませんでした。
私は申しました。
「私のそむきの罪を主に告白しよう。」
すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。

それゆえ、聖徒は、みな、あなたに祈ります。
あなたにお会いできる間に。
まことに大水の濁流も、彼の所に届きません。
あなたは私の隠れ場。
あなたは苦しみから私を守り、
救いの歓声で、私を取り囲まれます。
                詩編32:3-7


 
これから、実家に行って2泊してきます。留守の間、コメントは受け付けない設定にします。戻ってきましたら設定を戻しますので、よろしくお願いします。

クリスチャンの成長(その1)

2008-01-22 12:37:18 | 教会
 
今日は病院、内科の診察日でした。バッチリ寒さ対策をして、朝8時に自転車で病院に向かいました。ほとんど待たされなかったので感謝でした。目の赤味はすっかりとれていましたが、眼科に行った方がよいか内科の先生にお聞きすると、「大丈夫」の返事にほっとしました。

 
礼拝では今年の主題聖句からのメッセージが語られました。今年の主題聖句は、Ⅰコリント9:25-26より 「私たちは、朽ちない冠を受けるため目標に向かって、全力で走ります」です。

朽ちない冠とは、人生の最後に神さまが用意して下さっているおほめの言葉です。

 
人から受ける冠(賞賛)は永遠ではありませんね。人から与えられた賞は、もらったときは嬉しく、周りからほめられたりちやほやされたりしますが、一時的なものにすぎません。でも、神さまから受ける冠は、永遠に朽ちない冠です。人生の最後に、神さまから「よくやったね」とほめられたらどんなに嬉しいでしょう。


先週のメッセージで、忘れてはならない冠として、主イエスの頭に置かれたいばらの冠について語られました。いばらの冠は、悲しみ、屈辱、あざけりの冠です。イエスさまがいばらの冠をかぶって下さった故にわたしたちは賞賛の冠を受けられるのだと聞き、胸がしめつけられました。いばらの冠……イエスさまの受けた苦しみをいつも心に思っていたいです。

今週のメッセージは 『目標に向かって全力で走ります』について語られました。はっきりとした目標を定めてゴールをめざして全力で走るようにパウロ(コリント人への手紙の筆者)は言っています。

クリスチャン成長の3領域は、
1)賜物の開発と聖別
2)人格の聖化(イエスさまのような品性を身につける)
3)最後まで神さまを第一とする献身

成長のための4つの領域は、

1)神のみ心を正しく知り、それを最優先して生きるために聖書と教理(体系化された教え)を学び、聖書の不思議な力を体験していく。
2)信仰の仲間とともに生きるために教会について学び、群の豊かさを味わう。
3)地域社会で活き活き輝いて生きるために地域文化を学び、理解し、隣人への共感を熱くしていく。
4)御霊の実をみのらせ、主イエスさまに似た人格に聖化されるために自分の内面を正直にみつめ、神さまに委ねて神さまの御取り扱(おとりあつか)いを受ける。
 
「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。(ガラテヤ5:22-23)」


 
4つの領域を聞いたとき、成長するって大変なことだなあ。わたしは成長できるのかな?と思いました。でも、成長させてくださるのは、神さまですね。
クリスチャンとして成長するための具体的な指針が示されたのですから、努力していきたいです。

                  つづく

イエスさまの協力者(その3)

2008-01-20 22:21:19 | 聖書から
 
今日は教会学校の礼拝で、メッセージをさせていただきました。ザアカイの話をパネルシアターにしました。家庭集会の学びの内容とザアカイのメッセージと共通するところがありました。
ザアカイの話はまたの機会にして、昨日の続きを書きます。

 
 
すべてが順調に運び、お金や物が豊かに与えられると心が高ぶり、神さまを求めなくなるということは、確かにあると思います。そんなときは、本当の幸せを失っているときです。

順調なときは長く続かず、次々と試練がやってくることがあります。でも、試練が訪れたとき、気落ちする必要は全くないのです。


神さまは人に苦しみを与えることによって、人が大切な物を見いだすことができるようにしてくださるのだそうです。
 
むしろ順調なときは警戒して、試練がやってきたら、喜んだらいいのですね。


ルカ10:5には、 「どんな家にはいっても、まず、『この家に平安があるように。』と言いなさい。」と書かれています。平安とはシャロームのことで、ユダヤ人があいさつに使う言葉です。弟子達がシャロームをまず願うのは、それが人間にとっていちばん大切なことだからです。

どんなに物質的に恵まれても、心に平安がなければ幸せではありません。神さまと平和をもっていると、どんな試練がやってきてもどんな状況におかれても平安でいられます。

 
とはいえ、クリスチャンも人間ですから、突然の悲しみに襲われたとき、誰もがすぐに平安が与えられるわけではないと思います。わたしの場合を考えてみると、乳癌のリンパ転移がわかったときや父の余命がわずかだと知らされたときなど動揺し、平安を失いました。
でも平安を失ったままではなかったのです。しばらく嘆き悲しんだ後、悲しみを受け入れることができて、再び平安が与えられたのでした。


人は、罪を犯して神の怒りをこうむっています。でも、キリストの十字架によって怒りが取り除かれました。 「キリストによって神との平和を持っている(ローマ5:1)」という事実に目を向けるとき、どんな状態のときにも平安をいただくことができるのです。


もしそこに平安の子がいたら、あなたがたの祈った平安は、その人の上にとどまります。だが、もしいないなら、その平安はあなたがたに返って来ます。(ルカ10:6)


神さまは平安をすべての人に差し出しておられますが、それは受け取る人次第だということです。神さまは人間に自由意志を与えておられるので、無理に押しつけたりはなさいません。

 
わたしは、素直に手を差し出して、神さまからの平安を受けます。

90分の家庭集会の学びは内容が濃く、すべて書くことができませんでしたが、書くことによってわたし自身がめぐまれました。感謝。

                   おわり

イエスさまの協力者(その2)

2008-01-19 09:53:46 | 聖書から
 
イエスさまが70人の弟子たちを遣わすとき、
 
「さあ、行きなさい。いいですか。わたしがあなたがたを遣わすのは、狼の中に子羊を送り出すようなものです。(ルカ10:3)」
と言われました。

ふつう、狼の中に子羊を送るような危険なことはしませんね。でも、イエスさまはあえて子羊のように弱い存在である弟子を恐ろしいところに送り出し、「さあ行きなさい」と言われました。

その理由は、苦しみにあうことがまことのしあわせを見いだす道だからだそうです。
 
「荒野の祝福」(ハ・ヨンジョ著 、日本ツラノ書院発行)

 「クリスチャンにとって最大の悲劇は、苦しみにあうことではなく、苦しみの中でキリストを見いだすことができないことである」と書かれています。

つまり、クリスチャンの最大の喜びは、苦しみの中でキリストを見いだせたときです。キリストを見いだせたとき、平安が与えられます。クリスチャンにとって平安を得られることは最大の特権です。

申命記8章には、神さまがイスラエルの民を40年間荒野で試みに合わせたのは、民が神さまの命令を守るかどうか知るため、心の中に何を土台として据えているのか民自身が知るためであったと書かれています。
 
神さまは、なぜ愛する者を苦しい目にあわせるのでしょうか?

申命記8:12-14には次のように書かれています。

 
あなたが食べて満ち足り、りっぱな家を建てて住み、あなたの牛や羊の群がふえ、金銀が増し、あなたの所有物がみな増し加わり、あなたの心が高ぶり、あなたの神、主を忘れる、そういうことがないように――主は、あなたをエジプトの地、奴隷の家から連れ出し……(申命記8:12-14)


 
わたしはこの前半部分を現代に置き換えてみました。

食べて満ち足り、りっぱな家を建てて住み、健康が与えられ、良き伴侶にめぐまれ、高級車に乗り、社会的に高い地位につき、名声が高められ、貯蓄が増し、子供たちは有名大学に入り、……
となるでしょうか。

それは、俗にいう幸せですね。でも、それが本当の幸せでしょうか? 聖書で言う幸せとは少し違うようです。
申命記8:16に、 しあわせと仮名で書かれていますが、それは俗にいう“幸せ”と違うことを意味しているようです。

                  つづく

*「生かされて…土筆文香」HPにエッセイ『劣等感からの解放』を更新しました。

イエスさまの協力者(その1)

2008-01-18 16:48:23 | 聖書から
 
今日は家庭集会で近所の教会員Sさんの家に行って来ました。Sさんと我が家で1か月交代で家庭集会を開いています。

眼が赤くなってから3日目で、ずいぶん良くなってきました。一昨日は、会った人が驚くほど赤かったのに、今日は気づかない人もいたほどです。血のかたまりが一日で消えたのは奇跡のようです。

主人はパソコンのやりすぎで目が充血しているのだと思っています。「違う」と言っても、そう思いこんでいるので、主人が帰ってくると、あわててパソコンを閉じます。

 
家庭集会では、ルカ10:1-8から「イエスの協力者たち」と題した学びをしました。
たくさんの発見、感動がありましたので紹介させていただきます。

 
イエスさまは、12人の弟子を任命されてから後、70人の弟子を定められました。イエスさまは35箇所の町や村を巡って福音を伝えようとされました。イエスさまが行かれる前に70人の弟子たちを、町や村にふたりずつ遣わしました。

 
この70という数字に深い意味があることを教えていただきました。


7は聖数といわれます。創世記に書かれているように神さまが天地万物を7日かけて造られたからです。(6日で造られ、1日休まれた)1週間が7日なのもこのことからきています。

10という数字は満数と呼ばれ、この世を満たすという意味です。

創世記10:1に書かれているノアの3人の息子の子孫の名を数えると70人です。ノアの洪水でノアの家族以外は滅びてしまったので、人類はみなノアの子孫です。ノアの息子セム・ハム・ヤペテから出たのが70の部族ですから、70という数字は人類全てを示しています。

また、民数記11章では、神さまがモーセに70人の長老とともに重荷を分かち合うことを命じておられます。

7×10=70で、70は、この世が、人類全てに福音をもって満たされるという意味だそうです。

イエスさまが、ふたりずつ遣わしたのは、互いに支え合い、痛みを分かち合うようにという意味だそうです。

 
ふたりはひとりよりもまさっている。ふたりが労苦すれば、良い報いがあるからだ。(伝道者の書4:9)



イエスさまは神さまですから、本当は人の手を借りる必要はなかったはずです。でも、あえて弱さや欠けのある人間を用いようとされたことに心打たれます。
神さまは、人と分かち合いたいと思っておられること。罪人であるわたしに神さまから近づいて来て下さることを知って喜びが沸き上がりました。


                     つづく



今日はお休み

2008-01-16 13:37:22 | 日記
 
先週の水曜日は教会の祈祷会と聖書輪読会へ行けなかったので、今日は行けるとはりきっていました。朝起きて鏡を見るまでは……。
鏡を見てぎょっとしました。左目の白目の部分が真っ赤です。単に充血しているというのではなく、内出血したような感じで小さな血のかたまりも見えます。痛みは全くありません。

以前、母もそのようになったことがあって、病院へ行っても目薬を処方されただけだったと言っていたので、内臓の異常ではないと思ったのですが、急に目眩がして気分が悪くなってきました。

そういえば、年末からずっと忙しくしていて、この3週間ほどゆっくりしていたことがありませんでした。しなければならないことがたくさんあるのにできなくて、気になって夜中に目覚めることがありました。
考えてみると、本当にしなければならないことは、わずかなのかもしれません。なぜ、毎日せわしなく過ごしていたのでしょう。
“休みなさい”という神さまからの合図だと思って、今日は午前中横になっていました。少し気分が良くなりましたが目は治りません。調べると、悪い病気ではなさそうですが、赤味がとれるのに2週間くらいかかるそうです。

今日は詩編63篇が心にしみ入ってきます。

 
神よ、あなたは私の神。
私はあなたを切に求めます。
水のない、砂漠の衰え果てた地で、
私の魂は、あなたに渇き、
私の身も、あなたを慕って気を失うばかりです
私は、あなたの力と栄光を見るために、
こうして聖所で、あなたを仰ぎ見ています。
あなたの恵みは、いのちにもまさるゆえ、
私のくちびるは、あなたを賛美します。
             詩編63:1-3

「子どもたちに導かれて」を視聴して(その2)

2008-01-14 16:15:17 | CS(子供伝道)
昨年12月23日にNHK教育テレビで放送された「子どもたちに導かれて」の番組から坪井節子さんのお話を紹介しています。


坪井さんは、虐待・非行……過酷な現実を生きる子どもたちと接して、自分が『無力であること』を感じられました。でも、子供たちから『無力でいい』ことを教えられたと言っておられます。

傷ついている子供たちは、ほとんどが「自分など生まれてこなければ良かった」と思っています。その子供たちに「わたしはあなたに生きていて欲しいと思っている」と伝えます。生きていて欲しいと思っている人がひとりでもいることがわかると、それを支えに生きていけます。


わたしもそうでした。死にたいと願っていた中学生のとき、自分のお墓の絵を描いていました。墓のまわりにいる人たちが笑っている絵でした。それを見た祖母は「おまえが死んで、誰が喜ぶんだ!」と怒りながら体をふるわせて泣きました。
わたしは、はっとして祖母にあやまりました。
そのとき、少なくとも祖母は、わたしに生きていて欲しいと思っているのだなあ。この祖母のために自殺をしてはいけないのだと思ったのでした。


坪井さんも、高校生のころ死にたいと思っていた時期があったそうです。
坪井さんは、子どもの人権救済活動に携わり、子どもたちの生の声を聞く中で、子どもたちの駆け込み寺となるシェルターの必要性を痛感されて、日本で初めての子どもたちのためのシェルター(緊急避難場所)カリヨン子どもセンターを2004年に設立されました。
 
カリヨンに来る子供たちは、最初はみな『死にたい』と思っているのですが、心を開くようになると、本当の気持ちを表現してきます。本当は、『生きていたい』『愛されたい』のです。
大人はそんな子供たちに何かをしようと思ってはいけません。何もできない、無力ですが、『ひとりぼっちじゃないんだよ』と伝えられたら、それだけでいいのです。

坪井さんは、親から虐待を受けている子供と接したとき、しばらく遠のいていた教会に通うようになったと言われました。祈らなければやっていけないことがわかったそうです。

最後に傷ついた子供たちと接するときの大切な3つのことを教えて下さいました。


1)「あなたが生まれてきてよかった。あなたに生きていてほしい」と伝える。
2)子供の人生は、子供自身が歩く。(大人が横取りしてはいけない)
3)「ひとりぼっちじゃないんだよ」と伝える。



坪井節子さんの著書『 子どもたちに寄り添う 』(いのちのことば社)をぜひ読んでみたいと思いました。

おわり


「子どもたちに導かれて」を視聴して(その1)

2008-01-12 12:08:20 | CS(子供伝道)

昨年12月23日(日)早朝5時からNHK教育テレビ こころの時代~宗教・人生「子どもたちに導かれて」の番組で弁護士の坪井節子さんが出演されました。いのちのことば社のメールマガジンで知って、録画していました。
先日ようやく見ることができました。感動し、教えられることがたくさんありましたので紹介させていただきます。

 
 弁護士の坪井節子さんは、子供の電話相談員をされていました。最初は、ご自身の子育ての経験があるので、子供の相談なら大丈夫だろうと考えておられたそうです。しかし、中高生の体験を聞き、とても驚かれたそうです。

中学生の少女からの相談では、友人と喧嘩したら、その友人が怒って不良グループのところへ行き、その子をレイプさせたというのです。その写真を撮って「しゃべったら配る」脅し、いまだにレイプされ続けているという内容でした。そのことを親にも誰にも言えないでひとりで抱えている少女の訴えを聞いて、何ができるのかと真剣に考えたそうです。

 子供たちは必ずしも法的な解決を求めていません。法的解決をするために東奔西走したそうですが、肝心の子供はもうそこにはいなかったそうです。
子供たちは何を求めているのでしょう。このような子供たちに何をしたらいいのでしょう。

坪井さんは「子供たちの話を聞くことがいちばん大切」と言われました。
この子の人生はこの子しか歩めないのだから、自分で自分の人生を選択させるように。ひとりの人間としの誇りを持たせるように。


このことを聞いたとき、しばしば親が子供の人生に介入して、将来を決定したり、選択してしまうことがあると思いました。
わたしも子供に対して過ちを犯したことがありました。もちろん親はその子に良かれと思ってするのですが、そのことが、子供にとって負担になったり足かせとなったりするのですね。


子供たちの話を聞くこととはどういくことかというと、

「子供たちは、いのちをことばにのせて差し出してきます。使っていることばは未熟ですが、自分の存在、いのちをかけて真剣にことばをさしだしてきます。そのことばを大事に受け止めることです。」

と言われました。


子供たちは、真剣に聞いてくれる人を求めているのです。



                      つづく

今日はこれから子供集会「はこぶねクラブ」です。雨の中歩いていってきます。

先日、日本クリスチャン・ペンクラブ(JCP)のHP更新しました。ご覧下さい。

児童文学を愛して

2008-01-10 14:03:19 | 日記
 
昨日は茨木児童文学の会へいってきました。長編1作品と絵本の文章の合評が行われました。今回わたしは作品を提出しなかったのですが、いつか同人誌を出したいという話になって、皆で熱く語り合いました。

2年前までのことを思うと信じられない気がします。
「青い星」としての同人を2002年に解散して(解散当時は、みな疲れ果てていました)2年のブランクの後、4年前に新しく結成しました。結成当初は、作品を提出する人がわたしひとりしかいんませんでした。『もう書けない』とか、『読書会にしよう』という声がちらほら聞こえ、人数も少なくなってきたので自然消滅になるのでは……という危惧を抱いていました。

ところが2年目で誰かが「長編の合評をしようか」というと、「長編ならいままで書いた物がある」と一人が作品を持ってこられ、わたしも長編を持っていきました。書けないと言っていた方が新しく書き始め、会を離れていた方も参加するようになって、会は活性化しています。本当に嬉しいことです。

ネット社会の現代、本を読む人が極端に減っています。逆にケイタイ小説がはやり、内容は軽く、エンターテイメント的なものが人気です。
純文学を書いても出版してくれるところが少ないのです。(自費出版ならいくらでもありますが…)児童文学の発表の場も少なくなっています。
でも、こういう時代だからこそ子供たちに質の高い児童文学を読んでもらいたいと思います。小説を読むことによって、想像力が養われます。自分以外の人物になりきることによって、他の人の心情を思いやることができるようになるのです。たくさん文学作品を読むことによって、いじめも少なくなると思うのですが……。

わたしがなぜ児童文学を愛するのかというと、子供を愛するからということは言うまでもありませんが、「赤毛のアン」の物語がいつも心にあるからかもしれません。アンの言葉を紹介します。

 
「どんな朝でも、朝ってわくわくするでしょ。その日どんなことが起こるか、わからないんですもの。想像のひろがる余地が、いくらでもあるのよ。」

わたしも毎朝、わくわくしています。


競技するとき、休息するとき

2008-01-08 10:38:47 | 教会
6日の礼拝では、今年の年間聖句から元旦礼拝の要約と続きが語られました。


信仰生活は色々な競技にたとえられます。柔道、空手などの格闘技。サッカー、野球などのチームプレー。トライアスロンのような総合競技。長距離マラソン……。

競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだと知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。(Ⅰコリント9:24)

と聖書に書かれています。

“賞を受けるのはただひとり”という箇所ではなく、“賞を受けられるように走りなさい”という箇所に注目してください。『競技に参加していることを自覚していなさい』ということです。
ゴール(目標)は、もちろんイエス・キリストのような人格になることです。そのために自分をみがき、向上していけるようにと薦めがありました。


ここでメッセージが終わっていたら、負担を感じる人がいたでしょう。なすべきことを知っていてもそれができないときがあり、努力したいと願っても、疲れすぎて何もできないときがあります。
以下はそのような方たちのための配慮として語られたのでしょう。


先ほど紹介した聖句の中の“競技場で走る人たちは”という箇所は別訳では“競争に参加する場合は”となっています。

「場合は」ということは、信仰生活は競技だけではないという意味です。クリスチャンの多様性……色々な立場や状況を考えるべきです。同じひとりの人でも元気なときもあるし、疲れ果てているときもあります。

わたしたちは、罪人という霊的病人であり、罪赦された聖徒でもあります。キリストのように生きるという意味では兵士、競技者であり、競争することが全く必要のない神の家族でもあります。
休息を必要とする人は、休息することに専念してください。病気の人はあせらず安静にしていてください。ここ(教会)はホスピスです。


すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。 (マタイ11:28)


と、競技していても休息していてもイエスさまが優しく語りかけて下さいます。


わたしは、この聖句が大好きです。疲れているとき、身体を横たえても休まらないことがあります。たくさん眠っても眠気がとれず、心が騒がしく平安のないことがあります。そんなとき、「やすませてあげます」と言って下さるイエスさまの懐にとびこみます。すると、魂が帰るところに帰ったという気持ちがして、心からの平安が訪れます。

これを読んで下さる方々のうえにも平安が訪れますように。シャローム。



トラウマを越えて

2008-01-06 17:37:18 | 日記

今日はCS(教会学校)のピアノ奏楽でした。先週12/30と2週続けてです。
12月最初の日曜に、奏楽で失敗をしてしまい、トラウマになっていました。どこを弾いているかわからなくなって、子供たちの歌を止めてしまったのです。
それ以来、家で練習していてもそのときのことが思い出され、ピアノを弾くのに恐怖まで感じるようになりました。奏楽奉仕をやめようかとも思ったのですが、祈って神さまのみ心を求めました。

8年前に奏楽奉仕をし始めたころのことを思い出すと……。
全くリズムがわからなくて、テープがすりきれるほど繰り返し聴いて、同じ曲を何時間も弾き続けました。娘に教えられてやっと弾けるようになったときの喜び。最初のころは、1曲ずつそうやって努力して弾けるようになっていったのです。

CSでは何人も奏楽者がいますが、子供家庭集会ではわたしひとりなので、奏楽ができてよかったと思っています。今、月間賛美曲と準備賛美曲の選曲をまかされているので、奏楽をやめてしまったら選曲もできなくなってしまいます。

間違えたくらいで、これまで続けてきた奏楽をやめることが神さまのみ心だとはとても思えません。それでトラウマを克服するために、2週続けて弾かせていただくことにしたのでした。

ところがよく考えると、年末年始という時期は条件としては最悪でした。
わたしがCSで弾くときは、ヴァイオリニストのOさんに頼んで一緒に弾いていただきます。Oさんが弾いて下さるときは、安心感があって、それほど間違えずにすみます。(間違えても気づかれないかも)でも、先週と今週はOさんと連絡が取れなくて頼めませんでした。

また、主人が12月29日から1月6日まで休みなので、ピアノの練習がほとんどできないのです。しかも息子一家が来ているときと、実家に行く日は全くできません。それ以外の日に、主人が夕方お風呂に入っているときに(約10分間)練習しました。(ピアノがリビングにあり、主人はずうっとテレビを見ているため……)
あとは、祈って備えるのみです。

先週はあまりにも緊張して、ところどころリズムが狂ったのですが、何とか止まらずに弾けました。そして、今日はいつもより早く起きて奏楽のためにも祈る時間を充分とりました。すると、最初から最後まで落ち着いて弾けました。平安があり、子供たちの歌声に耳を傾ける余裕も出て、イエスさまがそばについていて下さることを感じました。間違えることを恐れる気持ちが消えていくのを感じました。
2週続けて奏楽奉仕をしてよかったと感謝しました。

(関連記事 2007年12/3)

礼拝メッセージのことは次回書きます。

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