生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

がん患者としての心境(その10)

2010-05-29 16:24:39 | 乳癌

たくさんの方が拍手ボタンを押してくださって、感激しています。押してくださる人は多くても2~3人かなあと思っていたので嬉しいです。書く励みになりました。

がん患者としての心境をつれづれなるままに書いてきて、今日で10回目になりました。今回で一応終わりにしたいと思います。
一応と書いたのは、また思いついたことがあれば書くかもしれませんし、質問などがありましたらお答するかたちで書きたいと思います。ぜひ、質問や感想をコメント欄に書いてください。


「がんになって失ったものは健康だけだった」と言ったのは作家の三浦綾子さんです。
ほんとうにそう思います。わたしは付け加えて「失ったものより、得たものの方がはるかに大きかった。」と言います。

わたしが得たものとは・・・
死の後ろ姿を見て、(今すぐ死ななくても)必ず死が訪れることを自覚し、限られた時間を生きていることを確認しました。
がんにならなくても、人はみな死にます。当たり前のことですが……。でも、死ぬのはまだずっと先のことと思っていたので実感がなかったのです。
がんになって死を身近に感じたとき、生きていることの価値を知らされました。

生きているということは当たり前ではなく、特別な条件が整えられてこそ可能なのですね。どんなにたくさんのお金や権力を持っていても、生きられる条件のすべてを自分で整えることはできないのです。

つまり生きるとは、自分の力で生きるのではなく、生かされてはじめて可能になるのです。
限りある『生かされている時間』がとほうもなく尊いものだと気付かされました。

これまでどうでもよいことに夢中になり、どれだけ無駄に時間を費やしてきたことでしょう……。
たとえば、もしあと半年しか生きられなかったら、何をすべきなのでしょう?

いままで夢中でやってきたことは必要なことだったのでしょうか? 本当にしなければならないことは何なのでしょう?
そんなことを考えるようになりました。

それががんになってわたしが得たものです。

今わたしは神さまから平安をいただいています。その平安はどんなことが起きても取り去られない平安です。がんになる前はこのような平安を感じませんでした。

わたしはがんになってよかったと心から思います。

「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。(詩篇119:71)」

という聖書の言葉そのものがわたしの心境です。

最後までお読みくださり、ありがとうございました。お読み下さった方々のうえにも平安がありますように。



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                おわり

がん患者としての心境(その9)

2010-05-27 12:28:59 | 乳癌

『がん患者としての心境』を書くと、アクセス数が多くなります。それだけ関心を示して下さる方がおられるのだと思うと身が引き締まります。

一昨日は199人もの方が訪問してくださいました。アクセス数は522。昨日は記事を書いてないのに訪問者150人。アクセス数は1435だったので、驚いています。

ブログは一方的に発信しているので、読まれた方はどのように受け止めておられるのだろうか・・・と、気になることがあります。
拍手ボタンをつけましたので、応援していただける方はボタンをクリックしてくださいね。
ひとことメッセージ(非公開)を送ることもできます。


がんの原因はストレスだとも言われています。ストレスが体に悪いことがわかっていても、ストレスをためないようにするのは難しいですね。
落ち込んだり、気持ちが暗い方に向いているとよくないともいわれますが、自分で明るい方に気持ちを切り替えることは、やはり難しいですね。

わたしは、がん細胞にビビくんと名前を付けて童話を書きました。(生かされて・・・土筆文香のHP児童文学の部屋にあります)ビビくんは、免疫細胞をやっつけ、仲間をどんどん増やします。さらにリンパの流れに乗って体中に増えていこうとするのですが、そこで本体に出会います。本体に愛されていることを知り、受け入れられて正常細胞に変化するというストーリーです。

乳がん手術後、どうしても体の中でがん細胞が増えていくイメージを抱いてしまい恐ろしくてならなかったのですが、この童話を書いてから、がん細胞が正常細胞に変化するイメージを抱くことができました。
がん細胞は、もともとは正常細胞だったので、正常細胞にもどることも可能ではないかと考えたのです。

聖書には、神様が人を造ったことが書かれています。神様は、細胞のひとつひとつを造られたのです。ということは、がん細胞も神さまが造られたのです。
ですから、がん細胞を毛嫌いしないで受け入れたいです。がん細胞を抱きしめるほどにいとおしみたいです。

笑うことは、免疫力を高めるといわれていますね。
ちょっとおもしろいことを考えてみました。

がんという言葉は、どうしても暗いイメージがあるので、別の言葉に置き換えてみました。
親の言うことをきかず、いたずらばかりする子どもを《ごんた》というのをご存知でしょうか? 方言かどうかわかりませんが、関西ではその言葉をよく耳にしました。

がんを《ごんた》に置き換えると・・・大腸がん、胃がん、肺がん、子宮がん、乳がんは……大腸ごんた、胃ごんた、肺ごんた、子宮ごんた、乳ごんたになります。

医師に「あなたは、胃ごんたです」と言われたら、「なーんだ、胃にごんたの細胞ができただけか」と深刻にならないですみますね。

「わたし、乳ごんたなんです」と言ったら、「ニュー(新しい)ごんたになったなんて、カッコイイ!」ってうらやましがられたりして・・・。

・・・笑っていただけましたか?


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つづく

がん患者としての心境(その8)

2010-05-25 17:24:01 | 乳癌

がん患者としての心境、そろそろ最終回にしたいのですが、書きたいことが次々出てきます。

今日は病院へ行ってきました。再発の有無を調べる胸部エコーとマンモグラフィーの撮影をしてもらいました。
前回までは、肝臓転移の有無を調べるため腹部エコーも受けていましたが、今回から腹部エコーは受けなくてよくなりました。
それでも術後6年にもなるのにまだ薬を飲み、定期的検査を受けているのは、よほど再発転移の可能性が大きかったということでしょう。
《大きかった》と過去形で書きましたが、わたしの中では再発転移を恐れることは過去形になっています。

それなら、検査結果を聞くときは、さぞかし落ち着いているのでしょうねと言われると困ってしまいます。やはり、不安でドキドキすると思います。胃が痛むほどの緊張はなくなりましたが……。結果を聞きに行く日でなくても、体調に異変があると不安になります。
心は騒ぎます。

でも、嵐のとき波はさわいでも、深い海の底は静かなように、わたしの心の深いところには静けさがあり《平安》があります。
親鳥の翼の下にいるひな鳥のように、守られ包まれているからです。

クリスチャンの友にがん患者との接し方について尋ねられたので、わたしだったらこうしてほしいという願いを書きました。


            がん患者からのお願い

がんを告知されて落ち込み、泣いているときは一緒に泣いてください。
それだけでいいんです。
聖書の言葉は語らずに悲しみの嵐がおさまるまでそっとしておいてください。

再発転移を恐れてオロオロいるときは、
「心配だよね」と言って一緒に心配してください。
心配することは不信仰だなんて思わないでください。

手術や治療の不安を抱いているときは、祈ってください。
どんなときでも主が共にいて下さることを確信させてください。

死への恐怖があるときは、天国について語ってください。
天国について書かれている聖書の箇所を読んで、希望を思い起こさせてください。


「また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。(黙示録21:3-4)」
つづく


本当のしあわせ

2010-05-23 20:12:54 | 聖書から

体調は急速に回復し、昨日はクリスチャン・ペンクラブ(JCP)の例会に参加するため、御茶ノ水まで行くこともできました。体の弱いわたしとしては、この回復ぶりは奇跡的なことです。お祈りくださった方、ありがとうございました。


今日は教会学校の賛美リードだったので、子どもたちの前で大きな声で賛美しました。
わたしは子どものころとても内気で、人前で歌うどころか話をすることもできなかったのです。そのことを子どもたちに話すと「へえーっ、信じられない!」と驚いていました。
今でも人前で話したり、歌ったりするのは苦手だけど、神さまに力をいただいたからできるんだと話しました。

今日はペンテコステ礼拝でした。今日のメッセージを書きたいところなのですが、下書きには先週のメッセージを書きかけたものがありましたので、そちらの方を書かせていただきます。


神さまから特別な知恵をいただいたソロモンは、
「私は、日の下で行われたすべてのわざを見たが、なんとすべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。(伝道者の書1:14)」
と書いています。
それは、神様がいないと仮定してあらゆることを試したら、すべてがむなしいという結論になったという意味です。

ソロモンが王として即位していたときは、イスラエルが最も栄えていたときでした。ソロモンの知恵ある言葉を聞いてシェバの女王が驚嘆し、高価な贈り物をおくりました。それだけでなく、シェバの女王はソロモンの知恵と繁栄を見て、神が真理であると信じたのでした。

物質的にも精神的にも豊かであったソロモンが、『もし神がいなかったら、すべてがむなしい』と感じたのはなぜでしょう・・・。

物質的には豊かなのに、年間3万人もの自殺者のいる現代の日本の姿をみるとうなずけます。
確かに『もし神がいなかったら、すべてがむなしい』のですが、実際には神様はおられるのですから、決してむなしくありません。

旧約聖書の申命記には、神がイスラエルの民を40年もの間、荒野で苦しい目にあわせた理由が書かれています。

「それは、あなたを苦しめ、あなたを試み、ついには、あなたをしあわせにするためであった。(申命記8:16)」


「幸せ」ではなく、あえて仮名で「しあわせ」と書かれているのは、神様の与える「しあわせ」という意味だからだそうです。

「しあわせ」とは、まわりや自分自身の状況、所有などによって左右されない「しあわせ」。神様と永遠に生きられることを自分のものとして認識できる「しあわせ」です。


わたしはメッセージを聞いて、パズルの最後のピースがパチンとはまったような気持ちで納得しました。

神さまは、「わたしは、あなたのことをとても大切に思っている。ときには、あなたを苦しい目にあわせるけれど、それはあなたがしあわせになってほしいと思っているからなんだよ」と言っておられるのだと思いました。

わたしは、喘息や乳がんという病気で苦しみましたが、本当の「しあわせ」を得るために神様が与えて下さった苦しみだったのだなあと思い、感謝の気持ちでいっぱいになりました。

きっと良くなる

2010-05-21 17:56:30 | 日記

火曜日から発熱、嘔吐で寝込んでいました。我が家での家庭集会の日が迫っていたので無理せず休むことにしました。

2日間、ほとんど何も食べずにひたすら眠っていました。普段は家のことをほとんどしない娘が仕事の合間に夕飯を作ったり、買い物に行ってくれました。
火曜日一日寝ていたのに、水曜日になっても良くなる気配がありません。あせってきました。

どうしようもないときは、日のべするか、もうひとりの家庭を開放してくださっている方に代わっていただくこともできます。中止にしてもかまいません。
でも、18年家庭集会を開いてきて自分の都合でキャンセルしたことはいちどもありませんでした。月に一度の集会を楽しみにしている人たちのことを思うと、何とか開きたいと思うのですが、吐き気が止まらないと料理もできません。ひたすら祈って横になっていました。

木曜の朝になってもすっきりしないので、変更の連絡を入れようかと思っていると、
「午後になったらきっと良くなる。それから準備すればいいよ」と娘が言いました。
その言葉を聞くと、本当にすぐ良くなる気がして横になりました。1時間ほど眠って起きると、すっきりしています。食欲がないのでいつもの元気は出ませんが、掃除や買い物、料理ができました。

そして、今朝になるといつもの元気が与えられ、家庭集会を開くことができたのでした。神様は必要な時に必要なことを成してくださいます。主に感謝!

代わりに(?)娘が昨夜から熱を出してしまいました。

家庭集会では8人の方が訪れ、新しい方も参加され、たくさんの祝福を戴きました。

家庭集会でも話題になり、親子礼拝でテーマソングとして賛美した歌を紹介します。



      誰かのために

誰かのために あなたは生まれた
誰かを愛し よろこばせるため
誰かのために あなたは生まれた
誰かとともに よりそうために

*あきらめないで 夢やぶれても
あなたを待っている人がいるから
忘れないで あなたしか
できないことがあるから

あなたのために イエスは生まれた
あなたに いのち与えるために
あなたのために イエスは生まれた
あなたに 未来与えるために

*くりかえし

土浦めぐみ教会のHPのmegumi musicで曲を聞くことができます。楽譜もダウンロードできます。

親子礼拝

2010-05-17 21:56:59 | 教会
ヒックンが下痢をしてまた預かっています。今日は一日中何をやっているのかわからないくらいバタバタしていました。

昨日は年に一度の親子礼拝でした。第Ⅱ礼拝にて0歳児から小学6年生までの子どもと親が共に礼拝を受けました。教師を入れて300名近くの出席でした。礼拝の後、小学生の親子はバスで体育館にでかけ、親子運動会をしました。

わたしは、例年は親子運動会に参加しないのですが、今年は小学科教師も参加するように勧められたので出かけました。

チームに分かれ、新聞紙を丸めて棒状にして塔を作り、高さを競ったり、風船割りゲームやリレーをして大いに盛り上がりました。
運動会の後は、外でお弁当を食べました。いい天気で気持ち良かったです。

昨日は第Ⅰ礼拝にも出ることができました。朝のデボーションを終えたのが7時20分だったので、とうてい間に合わないと思ったのですが……間に合ったのですから、のんびりなわたしとしては驚異的なことです。

一時間でお弁当と主人の朝、昼食を作り、朝食をとり、食器を洗い、洗濯物を干し、身支度をして8時20分に家を出ることができました。

Ⅰ礼拝に出て、神様から大きな喜びと力をいただきました。そのことについては、後日書きますね。


日々新たに

2010-05-13 21:26:21 | 日記

母が我が家に来ています。
母は80歳になりましたが、フィットネスクラブに週に3回も通うほど元気です。でも、久しぶりに一緒に出かけたら、以前と比べて歩く速度がずいぶん遅くなっていることに気づきました。

今日は市内の老人ホーム見学にいきました。老人ホーム見学は2か所目です。前回見学したところは部屋が狭く、収納が少ないことで気に入りませんでした。今日行ったところは、気に入ったようです。

でも、簡単に入居を決められません。都内に住む妹が母と一緒に住むことを望んでいるからです。
わたしは、母がキリストに導かれることを第一に願っています。土浦に住めば、教会の礼拝や高齢者の集いに連れて行けるので、こちらに住む方がいいと思います。
でも、決断するのは母自身です。無理強いはできません。
母が救われるために神様は最善のことをしてくださると信じて祈るばかりです。

今日の午後はゆっくりできたので、証し文を読んでもらったり、聖書の話をすることができました。
今年の土浦めぐみ教会の年間テーマ聖句の「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。(Ⅱコリント4:16)」を母と読みました。

「体は日々老化によって衰えるけど、内なる人が毎日新たにされるって、すごいね。」と言うと母は大きくうなずいていました。
明日はヒックンを預かることになっているので、母は喜んでいます。

がん患者としての心境(その7)

2010-05-11 19:44:32 | 乳癌
ここ数日PCでの作業が続いていました。やっと一段落してホッとしています。
22日に持って行くJCPのエッセイがまだ書けていないので気になりつつ、ブログを書いています。

がん患者としての心境についての続きを書きます。


がんを克服したということがよく言われますが、わたしは疑問に思います。がんを自分の力で克服できる人がいるのでしょうか? 術後の治療のつらい副作用に耐えて元気になった人を克服したというのでしょうけれど、治療を受けても効果のない場合や、体力がなくて治療が受けられない場合もありますから、がんは自分の力で克服できるものではないと思います。

どんなに生きたいと願って、気力があっても生きられない場合があります。すべては、いのちを握っておられる神様におまかせするしかありません。
わたしは、リンパ転移について調べたとき、自分は5年以内に死んでしまうのだと思いました。

どうしても死にたくないと思っていたとき、苦しくてたまりませんでした。でも、いのちを神さまにゆだねたとき、心から安らぐことができました。
「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です。(ピリピ1:21)」
と聖書に書かれていますが、そのような心境になったとき、恐れから解放されました。

なぜ「死ぬことも益」と思えるの?
と疑問に思われる方もおられるでしょう。ちょうど先日の礼拝メッセージで語られたことがその答えになると思います。メッセージの一部を紹介します。


最初のアダムは土から造られたので、人間の肉体は死んだら土に帰ります。
わたしたちの体は朽ちていきます。肉体は弱く、病と闘っている人は常に悩みがあります。
最後のアダム(イエス・キリスト)は、人をよみがえらせる者となりました。
キリストを信じる者には永遠の命が与えられる。朽ちない体に変えられる。という約束が与えられています。
ローマ8:18には、「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。」
と書かれています。


子どものころから病に苦しんでいたわたしは、この体が別のものに変えられたらいいのに・・・と願いました。そんなことできるはずがないと思いましたが、将来朽ちない体、痛まない体、苦しくない体に変えられると約束されていることを知りました。なんと嬉しいことでしょう!

今、肉体的につらいことがあっても、新しい体をいただいたときには、この苦しみをすっかり忘れてしまうことでしょう。取るに足らない苦しみなのです。

もし、いま死が訪れたとしても、肉体の死であって、魂は死にません。新しい体をいただけるのですから「死ぬことも益」といえるのです。


つづく

*日本クリスチャン・ペンクラブ(JCP)のHP更新しました。




がん患者としての心境(その6)

2010-05-07 13:38:15 | 乳癌
「友人ががんになったんだけど、何て言葉をかけたらいいかわからなくて…」という相談を受けたことがあります。今日は、がん患者として言われたい言葉、傷ついた言葉について書きます。


「太ったね」「やせたね」と言われると不安になります。健康な時なら「やせたね」と言われたら嬉しいのですが、がんになってからは、やせるということは再発か転移しているのでは?と思ってしまうのです。
逆に「太ったね」と言われると、薬の副作用だと思います。副作用でこれからどんどん体重が増えていったらどうしよう・・・と不安になります。


『大丈夫』というのは、わたしの好きな言葉です。でも、何の根拠もなしに大丈夫と言われると、簡単に言わないでほしいと思ってしまいます。
「知り合いに乳がんの人が何人もいるけれど、みんな再発もせず元気よ。だからあなたも大丈夫」と言われると複雑な気持ちになります。
その人たちはどういう種類の乳がんで、ステージはいくつで、リンパ転移はあったの?と尋ねると、知らないと答えます。

乳がんといっても色々な種類があり、進行状態も違います。そのことを知らずに安易に大丈夫と言われても納得できないのです。
また、腫れものにさわるように接し、がんのことや死という言葉を避ける人もいますが、わたしはふつうにがんや死という言葉を使ってくれた方がいいです。
(自分ががんであることを受け入れられない人の場合は異なると思います)

がんは確かに死亡率の高い病気かもしれませんが、特別な病気ではないと考えています。当然、告知は当たり前と思っています。もし、がんということを隠して治療が始まったら、納得がいかないでしょう。がんだからこそ、しっかり治療を受けなくてはと思うのです。


三浦綾子さんの言葉を紹介します。


がんだと言われたときはほんとうにショックで泣いた人も、みんながんの現実に慣れてゆきます。落ち着いてゆきます。がんの告知のショックでどうにもならなくて、自殺したという人をわたしは知りません。「永遠のことば」三浦綾子(主婦の友社)より


わたしは、母を土浦の老人ホームに入ってもらいたいと考えていました。でも、わたしのがんが再発して母より早く死んでしまったら、母に寂しい想いをさせてしまう・・・と思ってためらっていました。

そのことを牧師先生に話すと、「もし早く死んだとしても、お母さんは教会の交わりの中で守られるから大丈夫」と答えて下さいました。

母より先に死んでしまう不安を否定せず、そういう可能性があっても大丈夫と言ってくださったので、心から安心しました。

                  つづく

観覧車

2010-05-04 21:31:21 | 日記

昨日は主人と息子一家の5人で葛西臨海公園に行き、帰りに主人の実家に寄ってきました。
臨海公園に行くことにしたのは、ヒックンが去年遊園地で観覧車に乗って以来、一日に何度も「観覧車、観覧車」と言うからです。
渋滞に巻き込まれないことを願いながら朝8時に土浦を出発しました。首都高は少し渋滞していましたが、予定より早く10時時半に着きました。

車中から観覧車が見えたとき、大喜びしてはしゃいでいたヒックンでしたが、いざ観覧車の前まで行くと、その大きさにびっくりしたのか固まってしまいました。
乗るときは、「こわーい」とパパにしがみついていました。
喜んだのは大人たちです。東京湾を臨む景色にうっとりしながら17分の空中散歩を楽しみました。水族館は大混雑で、ゆっくり見られませんでしたが、芝生でお弁当を食べ、ボール遊びをして楽しいひとときを過ごしました。

昼食後、主人の実家に向かいました。道路はすいていて臨海公園から45分ほどで着きました。義父母は、久しぶりにひ孫に会えて大喜びしてくれました。



*写真は91歳の義父と3歳のヒックン


今回、ヒックンは1日から来て、ひとりでお泊りしました。寝るとき、パパとママがいなくても平気でした。

家では2時間もひとり遊びができるようになったそうですが、我が家に来ると甘えて遊んでもらいたがります。主人がお風呂掃除をし、わたしが食事の支度をしていると、「一緒にレーシングカー走らせよう」と言ってやってきました。

「見ながら料理しているから、走らせてごらん」と言うと、「ヒックン、ひとりじゃまぶしくなっちゃう」と言って悲しそうな顔をします。

(まぶしいとはどういうこと?)と思っていたら、「さみしい」という意味でした。さみしいという感情表現をするようになったんだと驚きました。


子どもだけじゃなくて、大人もさみしいことがありますね。人間みんなさみしさを抱えているような気がします。ひとりじゃなくて大勢の人の中にいても、愛する人と一緒にいても、ふとさみしくなることはありませんか?

以前わたしは、よくこのさみしさを感じていました。
さみしさがあるのは、心に空洞があるからだと聞きました。空洞を埋めて下さるのは、創造主である神様だけです。わたしは、神様が一緒にいて下さると確信したとき、さみしさから解放されました。




勇気はどこからくるの?

2010-05-01 15:46:53 | 聖書から

先日の水曜礼拝ではⅡ列王記6:8-23からメッセージを聞きました。

アラム王が北イスラエルに戦いを仕掛け、町を軍隊で取り囲みました。預言者エリシャの弟子がそれをみて恐れ、「どうしたらよいのでしょう」とエリシャに言います。
エリシャは「恐れるな。私たちとともにいる者は彼らとともにいる者より多いのだから」と言って落ち着き払っています。

エリシャには敵のまわりを取り囲む天の軍勢が見えていたのです。エリシャが祈ると、弟子の目にも天の軍勢が映りました。
イスラエルは戦うことなくアラムの軍隊を追い払うことができました。

四方を敵に囲まれたようなとき、恐れにとりつかれてしまうことがあります。目の前にある敵、障害しか見えていないので絶望的になります。
でも、どんなに強い敵に囲まれていようと、どんなに大きな困難に出会おうと、神様がわたしを取り囲んでくださって、わたしの代わりに戦ってくださるのです。

わたしたちも霊的な目を開いていただいて神の軍勢を見ないといけないと牧師先生が言われました。

「神がわたしたちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。(ローマ8:31)」

クリスチャンの勇気は、神が味方であると信じるところからくるのですね。


これからヒックンがきます。今日はひとりでお泊りです。

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