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生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

いま、死にたいと思っているあなたへ

2016-09-02 17:05:26 | 社会
毎年、夏休みの終わるころ、自殺する中高生がいます。今年、青森では中学1年生の男子と中学2年生の女子がいのちを絶ってしまいました。
いじめにあっていたといいます。いじめは、あってはならないことです。でも、いじめがなくなるようにと努力してもなかなかいじめはなくなりません。

いじめられて、唯一の解決が死ぬことと思ってしまわないように切に願います。自殺は解決にはならないからです。

中2の女子はスマホに遺書を残していました。
遺書の最後の方に家族あてに「みんなに迷惑かけるし、悲しむ人も居ないかもしれないぐらい生きる価値本当にないし……」と書かれていましたが、これは大きな勘違いです。

一人の人の自殺は最低6人の人の人生に大きな影響を与えると言われています。親や友人、親戚のいない人でも、周囲の人が激しいショックを受けます。直接いじめた人でなくとも、自分のせいだと責め続ける人もいます。その与えたショックは自殺した人の想像を超えることでしょう。

周囲で悲しむ人がひとりもいなかったとしても、新聞やニュースで彼女の死を知った見知らぬ人が悲しみます。

生きる価値がないと書いていますが、生きる価値のない人間はひとりもいません。

わたしは、中学生のころ、ずっと死にたいと思っていました。自分のお墓の絵を描いて墓の周りでバンザイをして喜んでいる人たちを描きました。自分が死んだら周りの人は「いい気味だ」と言って笑うだろうと思ったのです。

その絵を祖母に見つかって、ひどくしかられました。「あんたが死んで喜ぶ人なんかいるわけない」と言って涙を流したおばあちゃんの姿をみて、死ぬことをやめたのです。

今から考えると不思議なことに、両親が悲しむということを全く考えていませんでした。
親不孝なわたしでした。

あなたが生まれてきたときのことを考えてみましょう。
精子と卵子が結合して受精卵になる確率は、40億分の1なのだそうです。同じ両親でも別の精子によって受精したら、生まれる子はあなたではなく、別の人間だということです。

あるサイトには、「人の誕生は、すべてが偶然です」と書かれていました。多くの人が偶然と思うでしょう。

でも、本当は目に見えないお方が背後にいて、あなたという人間をお母さんのおなかの中で形造ってくださると考えたら、偶然ではなくて必然になります。

そもそも宇宙ができたこと、生命の住める星、地球ができたこと、そこにあらゆる種類の植物が生え、動物が育ち、人間が生きていること。こんなすごいことが偶然に起きるでしょうか……。偶然というより奇跡といえるしょう。

それは、神様の業(わざ)なのです。そして神様はあなたが使命を持って生きるように造られ、はぐくみ、愛してくださっているのです。
もし、あなたが死んだとき、悲しむ人がひとりもいなかったとしても、造られた方は悲しみます。こんなに悲しいことはありませんから。

だから、死にたいと思っている人、死なないでください。


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残虐な人間をも

2015-02-05 16:58:41 | 社会

雪のニュースが流れていますが、土浦は雨です。

残虐な事件が起きて、そのことについて書きたいと思いました。ネットの恐ろしさを考えると、ブログに書くことをためらってしまうような気の小さな人間です。

2月1日の礼拝時に牧師先生は、後藤さんの殺害について触れられました。後藤さんがクリスチャンであることは知っていましたが、同じプロテスタント教会なので、ネットワークで祈りの要請がきていたそうです。
後藤さんが、弱い者の前の立ち、素晴らしい信仰者としての生き方をされたことが伝えられました。
ご遺族の方々のうえに神様からの慰めがありますように祈ります。

このような事件が起きると、なぜ神様は後藤さんのような素晴らしい人の命を守ってくださらなかったのか、なぜ、神様はこのような事件が起こるのをゆるされたのかと思う人も多いでしょう。
このような非道なことをした人たちに対して憤りを抱く人は多いことでしょう。

なぜ?の答えの代わりに
「神様は、後藤さんを殺した残虐な人間にも招きの言葉をかけておられます」と語られました。
 
わたしたちは、残虐な人間がいると、その人と自分はかけ離れていると思います。そして、罰を与えてほしいと言い、報復すべきだと言います。
でも、神様は報復を望んでおられません。なぜなら、神様は残虐な人間をも愛しておられるからです。その人を招いておられるのです。

わたしの中にも罪があります。置かれた環境によっては残虐なことをしてしまう可能性があることを認めます。
仕返しだからと言って、正義の戦いだと言って、人に刃を向けてしまうかもしれないのです。

そんな罪深い者を神さまは招いてくださいます。イエス様はわたしたちの罪を赦すために十字架にかかって死んでくださったのです。

今日、デボーションで読んだ聖書箇所は、後藤さんが訴えてこられたことと同じだと思います。今、ひとりでも多くの人に読んでいただきたいです。

詩編37編(1-8)

悪を行う者に対して腹を立てるな。
不正を行う者に対してねたみを起こすな。
彼らは草のようにたちまちしおれ、
青草のように枯れるのだ。

主に信頼して善を行え。
地に住み、誠実を養え。
主をおのれの喜びとせよ。
主はあなたの心の願いをかなえてくださる。

あなたの道を主にゆだねよ。
主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。
主は、あなたの義を光のように、
あなたのさばきを真昼のように輝かされる。

主の前に静まり、耐え忍んで主を待て。
おのれの道の栄える者に対して、
悪意を遂げようとする人に対して、
腹を立てるな。

怒ることをやめ、憤りを捨てよ。
腹を立てるな。それはただ悪への道だ。
悪を行う者は断ち切られる。
しかし主を待ち望む者、彼らは地を受け継ごう。




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高一殺害事件・・・どうして人を殺してはいけないの?

2014-07-30 11:21:10 | 社会

ブログ更新が滞ってしまいましたが、元気です。しなければならないことが山積で、それが夏休みのためすすまないのでブログを書けませんでした。

また佐世保で痛ましい事件が起こりました。2004年に小学生が同級生を殺すという事件が起きて驚愕しましたが、こんどは高校生が同級生を殺し、しかも遺体を切断したというのです。

学校ではいのちの尊さを教えているはずなのに……なぜこんな事件が起こるのかと悲しくなります。
どうして人を殺してはいけないのかについて、教会学校でも語られ、また何度かブログに書いてきました。
その文章を今回書き直しましたので、お読みください。



すべての人は、神さまによって造られたのです。だから、どんな人も殺してはいけません。人間は他の動物とは違う特別な存在として……神さまと話したり、賛美したりできる存在として造られました。
「神はこのように、人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女に彼らを創造された。(創世記1:27)」と聖書にあります。

神さまは、すべての人を……ぼくも、わたしも、君も、あなたも、この人も、世界中すべての人をいちばん良くできた尊い存在として見て下さっています。
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している(イザヤ43-4)」と神さまは言っておられます。

わたしたち人間を造られた神さまは、ひとりひとりをとても愛しておられます。
だから、このような(神さまに特別に造られ、特別に愛されている)人間を(自分も他人も)殺してはいけないのです。

イエス・キリストは、心の中でも人を殺してはいけないといわれました。それは、すべての殺人は、憎むこと、嫌いになること、腹をたてること、赦せないという感情から起こるからです。

人を殺したら神さまはとても悲しまれます。死んでしまった人の家族や多くの人が悲しみます。自分の一生を苦しめます。
殺してしまった人にどんなにあやまっても、その人は生き返りません。でも、殺人者を赦すことのできるお方(神さま)がおられることを忘れないでください。
人を殺さない(心の中でも実際にも)ためにはどうしたらいいでしょう?

1)赦すこと、愛することをイエスさまから学ぶ。
2)友達の悪いところばかり見るのではなく、いいところを見つける。
3)暴力的なビデオや漫画、ゲームなど見ない、やらない。
4)友達に対して思いやりの心、優しい心を持つ。etc……。

これらのことを心がけることが大切です。

「どうして人を殺してはいけないか?」ということを聖書を用いずに話そうとすると、子どもたちが納得する答えを出すのは難しいです。
人殺しは殺人罪だからダメだと言うだけでは納得しないでしょう。法で裁かれなければ悪いことではないと考えると、(極端な例ですが)殺人を犯しても誰にも知られなければ悪くないということになってしまいます。

殺人犯に対して、「あの人は人間じゃない」と言う人がいます。少なくとも自分と同じ人間だとは思えないからそう言うのでしょう。
でも、殺人犯の心理を書いた物を読むと、その人が特別冷酷な人なのではなく、追いつめられて人を殺してしまった。ほんの小さな憎しみ、ほんのささいなきっかけから殺人という行為に至ったという例が多いことに気づきます。
もちろん例外はありますが……。

自分が殺人罪を犯していないのは、環境が整えられ、守られているからだけで、心理的には殺人犯に近いときがあると思うことがあります。

「あの人なんかいなくなればいいのに」と心の中で思うことは、心の中で人を抹殺していることで、実際に殺さなくても殺人と同じ罪なのだと聖書はいっています。

小さな憎しみの芽がいつの間にかぐんぐん育って、心の中は憎しみでいっぱいになることがあります。憎しみを抱くと、その人自身の心も蝕まれていきます。

「自分の敵を愛し迫害する者のために祈りなさい(マタイ5:44)」と聖書に書いてあります。ひとりひとりが憎しみの代わりに愛を持つことができたら、戦争もなくなり、殺人事件もなくなるでしょうね。そうなってほしいと心から願います。




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低い自己評価

2014-06-20 17:10:32 | 社会
5/26の日経新聞に次のような記事が載っていました。

『日本の若者は自己評価が低く、将来を悲観している――。
2013年11~12月に日本、韓国、米国、英国、ドイツ、フランス、スウェーデンでインターネット調査を実施し、各千人程度から回答を得た。日本では1175人が回答した。
 「自分自身に満足している」と答えたのは1位の米国が86.0%、6位の韓国でも71.5%だったが、日本は45.8%と著しく低かった。「自分には長所がある」と答えた割合も日本は68.9%で最下位。他国は93.1%(米国)~73.5%(スウェーデン)だった。』


日本の若者は、自己評価が他国に比べて少し低い程度ではありませんね。著しく低いのです。
劣等感をもっている人が非常に多いです。自分の中に価値が見いだせないのです。
「自分に長所がある」と思わない人が30%以上もいるということに驚きます。

幼少のころからほめられるより、ダメなところを指摘されて、しかられながら育ってきた子どもが多いからではないでしょうか。向上心が出てくると思って親はしかるのですが、否定され続けていると、自分の中にいいものはひとつもないと思ってしまいます。
わたしも自己評価の非常に低い者でした。自分自身を否定し、別の人間になりたいと思っていたくらいでした。強い劣等感があり、自分は欠陥人間だと思っていたのです。

両親は厳しく、小学4年生までは口答えもできませんでした。でも、5年生になった頃から父親に逆らい、母親にも逆らう子どもになりました。反抗期は20歳近くまで続きました。

自分はどのような人間なのか、何をすればいいのか……それがわからないうちはゴールがみえないのにがむしゃらに走っているマラソン選手のようでした。遠回りし、ときには反対向きに走っていました。生きているのが苦しくて途中でリタイヤーしたいと思いました。

そんなとき、わたしが神様によって目的を持って造られた存在だと知ったのです。しかも、この大地が造られる前からわたしを造る計画がたてられていたというのです。
そのことを知ってどれだけ嬉しかったでしょうか……。

「すなわち、神はわたしたちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。(エペソ1:4)」

もし、人が偶然で生まれるのなら、人生の意味や目的を見出すことができないでしょう。偶然でできた人なら、その中に劣った人や優れた人があるいはいるかもしれません。

そうではなく、神が計画して人を創造されたのだとしたら、ダメな人間、不必要な人間などひとりもいないのです。
自分は能力がない、ダメだと思っている人にも隠された能力があり、その能力は何かをするためにあるのだと知るでしょう。能力にはさまざまな種類があるので優劣つけることはできません。学校のテストで測ることができる能力はほんの一部に過ぎません。

存在そのものが尊いことを、自己評価の低い人たちが知ることができますように。 

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。イザヤ43:4」




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子どものネット依存

2013-09-14 11:50:42 | 社会
自分はほかの人からどう見られているんだろう。どういうふうに思われているんだろうと思うことがありませんか?

かつてわたしは人の目ばかり気にしていました。裏を返せば、人に少しでも良くみられたい、少しでも良く思われたいと思っていたのです。
小学校高学年のころ、友人の輪から離れたとき、自分の悪口を言われているのではないかといつも不安でした。それは、数人が集まるといつもそのときにいない人の悪口を言っていたからです。
でも、まだわたしの子どものころは、悪口を言ったことがそれほど深刻な事態を引き起こすことはありませんでした。
でも、今の時代は違います。LINEで悪口の言い合いをして、殺人にまで発展してしまった事件がありましたね。

「誰にも教えないでね」と友人に秘密を打ち明けると、その友人がほかの友人にLINEで流し、翌日学校中の人がその秘密を知っていたということがあり得る時代です。

こうなったら人間不信に陥りますよね。人間関係が築かれていないうちにネット上の言葉だけが先走りしてしまうために起こったともいえるでしょう。
顔と顔を合わせて話すと、そのときの相手の表情、声の調子、しぐさなど知ることができます。その人にとって触れられたくない話題を口にしたとき、その人が嫌な顔をしたら、話すのをやめるでしょう。でも、文字だけのつきあいだと、それがわからないのです。そして言葉で互いに傷つけあうのです。

一昨日から3回シリーズで朝日新聞にネット依存症のことが取り上げられていました。

LINEでのやり取りがやめられなくて、お風呂にも入らず、睡眠時間も削っている人たちがいるそうです。やめたら仲間外れにされる、悪口を書かれるかもしれないとそんな恐怖があってやめられないのです。
オンラインゲームについてはよくわかりませんが、連日20時間もゲームをし続けた中学生がいるそうです。学校で居場所がなくて、ゲームの世界で居場所を見つけてしまったのかもしれません。ゲームが現実を忘れてしまうほどおもしろく、魅力的なのでしょうね。自分がどれだけの時間をネットに費やしているか自覚していないのでしょう。

ネット依存専門のクリニックへ行き、ネットをつなげていた時間の記録をつけさせて、こんなに長い間ネットにはまっていたことを自覚させることが大切なのだそうです。
しかし、親がクリニックへ連れて行こうとしても中高生が素直に従うでしょうか。

親子で話し合う。ルールを作る。などの解決策があげられていましたが、すっかりはまってしまった子どもに対しては難しいかもしれません。

膨大な時間をネットに費やしている子どもたちのことを思うと、健全な魂が何かに吸い取られていってしまっているような気がします。現実の世界での素朴な時間の中に楽しみを見つけさせたい。人間本来の造られた目的を知らせ、生きる喜びを味わってもらいたいと思わずにはいられません。


今日はこれから子ども家庭集会に出かけます。小学生と素朴なゲーム(ネットではありません)をして楽しんできます。

報告が遅れましたが10日に日本クリスチャン・ペンクラブのHP更新しました。



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いじめられているあなたへ

2012-07-18 17:05:25 | 社会
朝日新聞の一面に「いじめられている君へ」と題して書かれた記事が連日掲載されています。わたしは「いじめられているあなたへ」手紙を書きました。


世界中で自分だけがこんなにひどい目にあっている。だれも自分のことを理解してくれない。毎日がつらくて、生きるのが苦しいと思っていませんか。

40年以上も前ことですが、わたしも小学校、中学校のときいじめられました。小学校6年生のとき、体育の授業で幅跳びをしました。運動の苦手だったわたしは、必死に走って跳びました。それをみていたクラスの子が、「ガニウマ!」と言って笑いました。

ガニマタで馬のような走り方をしたからだそうです。「ガニウマ」は、それ以来わたしのあだ名になってしまいました。

一か月ぐらいたったとき、学級会で「最近いやなあだ名をつけられて傷ついている人がいるので、そう言う人は訴えて下さい。いやがっている人にはあだ名で呼ぶのはやめましょう。」という意見が出ました。数人が手を上げて「こんなあだ名で呼ばれるのはいやなのでやめてください」と発言すると、そのあだ名で呼んではいけないということになりました。

引っ込み思案のわたしはそれまで手を挙げて発言したことがなかったのですが、勇気を振り絞って「ガニウマと呼ぶのはやめてください」と言いました。

すると、「ガニウマって呼ばれてるんだ。おもしろいな」とひとりの男子に言われ、それからますますガニウマと呼ばれるようになってしまいました。何のための学級会だったのでしょう。
先生も教室にいて聞いていたはずなのに何のフォローもありませんでした。

中学1年のときは、東京から神戸の学校に転校したので、関東弁をしゃべっているということでいじめられました。「東京で買った筆箱なんやろ!」と言われ、筆箱をごみ箱に捨てられたりしました。中2のときは、クラスで友達がひとりもいませんでした。

でも、当時のいじめは、それ以上エスカレートすることはありませんでした。
今はメールで悪口を流したり、掲示板に書き込んだり、集団で暴行をしたり、脅したり、お金をまきあげたり……どんどん悪質になっていきます。自殺者が出て初めて問題が明るみに出るのでは遅いですね。

覚えていてほしいことがあります。
どんなひどい悪口を言われたり、暴行を受けたりしても、あなたの人格が損なわれることはありません。

たとえば「バカ」と言われたとしても、言われた人が「バカ」になるわけではないですね。
「お前なんか死んでしまえ」と言われたとしても、その通り受け止めないでください。その人が無責任に言っているだけです。もし、本当に死んでほしいと思っているのだとしたら、その人に大きな問題があるのです。

世の中には死んだ方がよい人間なんてひとりもいないのです。ひとりひとり使命があってこの世界に生まれてきたのですから、どんな人でも大きな価値があるのです。

また、「みんな言っている」という言葉に注意してください。
「あの人はうそつきだって『みんな』言ってるよ」と言われたことがありました。『みんな』と言われると、学校中、町中の人がそう言っているように感じ、恐ろしくなりました。

そんなことは決してありません。悪口を言う人は、後ろめたい気持ちがありますから、同意する人がみつかると嬉しいのです。同じように悪口を言う人がひとりでもみつかると、「『みんな』言ってる」と言います。『みんな』はすべての人ではありません。

今はどんなにつらくても、トンネルには必ず出口があるように必ず希望の光が見えてきます。あなたは知らなくても、あなたのことを心配し、大切に思っていてくれる方がいますから決して絶望しないでください。

あなたの存在は尊いです。どうか、かけがえのないいのちをたいせつにしてください。



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震災…回復の道

2011-09-06 15:55:26 | 社会
東日本大震災からもう少しで半年になります。あまりにもひどい惨状に言葉もなく、震災について書くことをためらっていました。
震災後、一か月くらいの間は、津波の後の悲惨な姿と原発の危機的状況を伝えるテレビを見て、何もできない自分を責めました。

まだ震災による心の傷は深く、できればしばらくは書きたくないと思っていました。

ところが日本クリスチャン・ペンクラブで「私と東日本大震災」のエッセイを書く課題が出て、児童文学の会で東日本大震災のことを短歌か俳句、川柳で書くという宿題が出ました。そして、今月18日の教会学校では原発事故に触れて語らなくてはならず、避けて通ることができなくなりました。

日本で初めて原子力発電所が作られたとき、新聞には「人間の英知はなんとすばらしい!」という意味の言葉が書かれていたそうです。

人間が考え出した原子力発電によって、産業は発展し、生活は便利になりました。
危険性の指摘はされていたようですが、たとえ地震や津波が起きても危険なことはないと伝えられていたので人々は安心していました。

ところが人間が予想しているよりはるかに大きな地震が起き、はるかに大きな津波がきて、一部の原子力発電所が壊れてしまいました。「想定外」という言葉を何度も聞きました。

そして、神様が造られた世界にはなかった放射性ヨウ素やセシウムが出てきて、自然が壊れ、人間の体にまで悪い影響を及ぼすことになってしまいました。

なぜこのようなことが起きたのか? と最初は考えました。「神の裁きだ」と言った人もいたそうですが、それは違います。
なぜと問うことは、神様の主権を認めていないことになるので、問うのはやめました。それよりも残された者としてできることは何か考えています。

ただ五七五七七にしただけの拙い短歌を紹介します。
 

北国に避難し子どもらたずねおり 大きく息を吸っていいの


お母さん体に悪くないのはどれ 心配そうにたずねる子ども 


悪くない山、海、空も花や鳥 もどれよ時間あの日の前に


だいじょうぶ影響ないと言われても 募るは不安見えない恐怖


もどってこいあの日の前の水、空気 町、村、人よ じいちゃんの笑顔


なにゆえにと問うのはやめた 何のため生かされたのか問いかけてみる 


何をせん無力な自分責めるだけ 書いて伝えよ残されし者


一首目は北海道に避難してきた福島県の子どもたちがそう言ったとのニュースを聞いて心痛めて作りました。
二首目は近所のスーパーで買い物をしていたら、小学生4年生ぐらいの女の子が母親に尋ねていたことを書きました。

原発のことばかり書いているのは、神様が造られた調和のとれた自然が変わってしまったことを嘆いているからです。見た目は変わらない美しい景色。でも、目に見えぬ放射能が……。簡単にはもとにもどらない世界。

そのような中にあっても神様の守りと恵みを感謝します。回復不可能ではありません。わたしたちが神様の御心に沿って歩むことが回復の道です。


聖書の言葉

地の深みは主の御手のうちにあり、
山々の頂も主のものである。
海は主のもの。主がそれを造られた。
陸地も主の御手が造られた。
来たれ。
私たちは伏し拝み、ひれ伏そう。
私たちを造られた方、主の御前に、ひざまずこう。
                      (詩篇95:4-6)


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政治に無関心だったことの反省

2008-02-13 17:41:57 | 社会

先日は建国記念日でしたが、今月教会の祈祷会では憲法について学んでいます。

ブログで社会のカテゴリーを作りましたが、ほとんど記事を書いてないのは、2つの理由からです。ひとつは、社会問題に対して自分の考えを書いてネット上に公開することが怖いということ。もうひとつは、わたし自身政治経済に関心が持てず、国会中継もほとんど見ていなかったからです。
さすがに餃子事件については「食」という生活に密着した問題なので、ニュースや新聞に関心を示しましたが、憲法の問題は難しいからわからないというのが本音でした。

ところが、先週いきなり、「憲法についてどう考えているか?」という質問をされて、座っている順番に答えなければならなくなりました。わたしは、2番目でした。「パスもありです」と言われたので、考えが頭の中でまとまらなかったのでパスしました。
パスする人がほかにもいるだろうと思っていたら、15、6名の中でパスしたの
は、わたしひとりでした。

何も意見が言えない自分にがっかりしてしまいました。大いに反省して、この1週間意識して新聞を読み、国会中継を見ました。

憲法9条を改正しようとする動きがあることは、以前から薄々知っていました。でも、改正されたらどうなるのか、何が変わるのかなど詳しく知りませんでした。

今日の祈祷会ではNHKスペシャル『日本国憲法がどのようにしてできたか』のDVDを興味深く見ました。憲法について学んだのは高校のとき以来です。知らなかったこともたくさんありました。目が開かれた思いです。

戦争の痛みを体験したばかりの61年前、GHQと極東委員会の2つの機関の間の緊張関係の中で日本国憲法が作られました。国民は平和を切に望んでいました。戦争を永久に放棄することを望んで作られた9条でした。
それを変えてしまったら、また戦争の道へ進んでしまうのではないでしょうか。これは、餃子事件より怖いかもしれません。

西川重則氏とみなみななみさんの「これから戦争なんてないよね?」(いのちのことば社)(憲法改正問題について漫画でわかりやすく解説されている本です)の中に書かれていた言葉に共感しました。


知らなくちゃいけないのに知らない。関心を持たずにいたらまずいことなのになぜか元気に無関心でいられる自分に愕然。今わたしたちは、けっこうこわいがけっぷちを歩いているかもしれないのに全然気づいていないみたい。



平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。(マタイ5:9)

障がいとは……(その4)

2007-11-11 17:55:45 | 社会

昨日、今日と嬉しいことがありました。はこぶねクラブに双子の姉妹MちゃんSちゃんが来たのです。MちゃんSちゃんが2年生の時、お父さんが肺癌で亡くなりました。お父さんが入院している間、主治医で教会員の方の紹介によりふたりが教会学校へ来はじめ、半年ぐらい日曜毎に通っていました。わたしはそのとき2年生のクラス担当をしていました。

お父さんは病床洗礼を受けて、30代の若さで召されました。その後、土浦から少し離れたH市に引っ越したので、めぐみ教会には来ることができなくなってしまいました。お母さんは仕事で送っていけないのですが、2人は教会学校がとても気
に入って、また行きたいと思い続けているようでした。

それから2年間、わたしは教会学校で担当している子供とともにふたりの名前も挙げて毎朝祈っていました。

そうしたら、最近H市に越してきて、ご一家でめぐみ教会に来られるようになったNさんがふたりを連れてはこぶねクラブに来てくれたのです。Nさんのお子さんと、Sちゃんが同じクラスになったそうです。SちゃんがMちゃんとともにめぐみ教会に通っていたことを知ったNさんは、『連れて行かなくては』と思ったそうです。

背が伸びてすっかりお姉さんになったMちゃんSちゃんと2年ぶりに会って感激です。ふたりは、今日の教会学校にも来てくれました。神さまの恵み、その計らい、そしてNさんに心から感謝しました。

そして、もうひとつ。今日ヒックンが、ママと一緒に教会学校のワンツークラスに初めて参加しました。昨日から息子一家が泊まっていたのです。なんと嬉しいことでしょう!!


前回の続きです。
多くの作業所では、精神障がい者が自立し、社会復帰することを目指して訓練させます。
ところが、この「自立」と「社会復帰」ということが、精神障がい者にとって重荷となっているのだと気づかされました。
「自立」と「社会復帰」は、常に健常者を基準にしています。病気を治すこと、幻覚や妄想を取り除くこと、立派な人間になって一人前に働くことがイメージされています。
病気を治せといっても、精神病はなかなか治らない病気です。それを治すようにと言われることは、「病気であってはいけない」と言われているようなものです。
精神科医の方が、「精神病は病気なのだろうか? 精神病というレッテルを貼ることは差別になるのではないか?」ということで議論したことがあるとおっしゃっていました。


「悩む力」(みすず書房)斉藤道雄著には、

(精神障がい者が)病気を治せ、健常者になれと言われつづけることは、すなわちその人が一生「いまのあなたであってはいけない」と言われつづけることになる。そうではなく、病気があろうかなかろうが、「そのままでいい」という生き方があるのではないか。
と書かれています。そして、ベテルの家では「そのままでいい」というメッセージが常に発信されているそうです。
どんなに大きな罪を持っていても、そのままの状態で贖ってくださるというキリストの教えと似ていますね。


このことは、精神病でなくてもいえます。
わたしは3歳のとき小児喘息になり、高校生のころ一時的に治っていたのですが、大人になってから再び喘息が出るようになりました。
かつては、喘息を恥だと思っていたので誰にも言えませんでした。学校では健全な魂は健全な肉体に宿ると言われました。「病気の人の魂は病んでいる」と言われているようです。

わたしは喘息を忌み嫌いました。ゼロゼロと胸の音が聞こえるとぞっとしたものです。高校生の時ようやく治ったと思って喜んでいたのに、大人になって再び喘息が出たときは、なんとかして治したいと必死に治療法を捜しました。

しかし、大人の喘息は完治というのは難しいそうです。幸いなことに子供のころにはなかった予防の吸入薬が作られていました。それで発作を予防することができるので、発作からは解放されたのです。わたしは今でも毎日予防薬を吸入していますが、ここ数年一度も喘息の発作が起きていません。一生吸入薬を使い続けないといけないかもしれませんが……。
また、4年前に乳癌になり、リンパに転移があったので、完治したかどうかわからない状態になっています。

でも、教会で「病んだままでいい」というメッセージを聞いてから、病気は治らなくていいんだと思い、気が楽になりました。喘息も乳癌も受け入れられるようになったとき、病気のことを誰にでも話せるようになりました。

           

                  おわり

障がいとは……(その3)

2007-11-09 13:13:38 | 社会

今週の祈祷会で「ベテルの家」について学んだことを紹介します。

ベテルの家とは、北海道の浦河にある精神障がい者のコミュニテーィです。150名近くの精神障がい者と20名のスタッフが活動を行い、地域の人々の協力を得て商売を展開しているそうです。年間1億円近い売り上があるというのは、驚きです。

ベテルの家の理念は以下のようなものです

・三度の飯よりミーティング 
・そのまんまがいいみたい 
・安心してサボれる職場づくり
・弱さの情報公開 
・偏見差別大歓迎 
・公私混同大歓迎 
・苦労を取り戻す 
・昇る人生から降りる人生へ 
・それで順調 
・弱さを絆に 
・べてるに来れば病気が出る

常識をくつがえすものばかりです。


向谷地生良(むかいやち いくよし)さんは、「ベテルの家の特徴は、管理の行き届かないところです」と言われます。ベテルの家には管理や規則がありません。
『ベテルの家の本』には、もし、管理上の規則があったら、すべてが「規則にこう書いてあるから」と片づけてしまい、ひとりひとりの自由闊達な意見や発想が埋もれていくような気がしたのです。と書かれています。

家庭が規則によって成り立っていないように、ひとりひとりが自由闊達な意見や発想をもち、問題があればそれを「ぶつかりあいと出会い」によって解決していく。というベテルのやりかたに新鮮なものを感じました。


実際規則を作らずにどうやって運営していっているのだろう? と不思議に思います。
しかし、現実に「ベテルの家」では、排除しないことと利益を上げるという矛盾する2つのことを両立させています。

一般社会では、規則や決まり事を作り、それを守れない人を排除していくという傾向があります。でも、障がいを持っている人たちは、規則を守れない方が多いのです。「管理の行き届かないところ」は理屈ではなく、障がい者が生きていくうえでの死活問題でもあると本に書かれています。

あえて、規則を作らない。問題が起こらないようにするのではなく、問題が起きるのは当然で、問題が起きたときにひとりひとりがどう対処するか、問題をどう生きるかが問われているという考えに深く共感しました。


             つづく

障がいとは……(その2)

2007-11-07 17:05:01 | 社会

障がい者を見て、「何かのたたりだ。先祖が悪いことをしたのだろうか?」と思う人が現代にもいるということは、悲しいことです。イエスさまの時代にもそういう人たちがいました。

ヨハネの福音書9章には、イエスさまの弟子が質問しています。

またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。 弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」
イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。


神のわざがこの人にあらわれるためとは、何と喜ばしいことでしょう。



障がいは、その人、または両親(もちろん先祖も含めて)が何か悪いことをしたせいではないこと。
障がいは、神さまが人間を造るとき間違えて(失敗して)しまったのでは決してないこと。
障がい者も神さまによって造られた尊い人間であること。
障がいを持って生きることに使命があるということ。
障がいは、神さまの栄光をあらわすために与えられたのだということ。


これらのことを日本中、いや世界中の人たちが知ってほしいと思います。

障がいを持った子供が普通学級で過ごすことによって、周りの子供たちの心に優しさが生まれたと聞きました。
障がい者と共に過ごすことによって、他者に対して配慮することを学びます。優しさが引き出されます。
本来の人間らしさがあらわれてくるのです。


瞬きの詩人水野源三さんの詩を紹介します。

有り難う

物が言えない私は
有り難うのかわりにほほえむ
朝から何回もほほえむ
苦しいときも 悲しいときも
心から ほほえむ


 水野源三さんは、9才のとき、赤痢の高熱で全身マヒの体となり、言葉を話すこともできなくなりました。12才のとき初めて聖書に触れ、13才で洗礼を受けクリスチャンになりました。母の手助けで、50音図を瞬(まばた)きで指定する方法で、多くの詩を作りました。水野源三さんの信仰と、すなおで感謝と喜びに満ちた詩と、障がいのゆえの苦痛と戦って勝利した人生の姿に多くの人が感動しています。これからも折をみて、源三さんの詩を紹介していきたいです。


今日は、精神障がい者のコミュニティー「ベテルの家」について学びました。これまでの常識をくつがえすような理念に目が開かれた思いです。今日の学びについては、後日書かせていただきます。

                  つづく

障がいとは……(その1)

2007-11-06 11:57:04 | 社会

先週祈祷会で障がい者福祉の学びがあり、自閉症の息子さんをもつKさんのお話を聞きました。

お話を聞いて、「障害」という言葉の意味について考えさせられました。今まで「障害」という言葉を深く考えずに使っていたのですが、害という文字を使うことが差別につながると思いました。

障害という言葉を広辞苑で調べると、「さわり、さまたげ、じゃま、―を乗り越える。身体器官に何らかのさわりがあって機能を果たさないこと」と出ています。

それなら、人間だれでも障害者ということになります。たとえばわたしは、身体が弱く疲れやすい。左手で重い荷物を持てない。(乳癌手術の際左側の腋下リンパ節切除しているため)ので障害者です。また、どんなに健康な人でも年をとれば障害者ということになります。


そもそも障がいとは「障碍」あるいは 「障礙」という字だったそうです。当用漢字が制定されたときに碍、礙の字がなかったため、害が使われたようです。それなら仮名にした方がいいですね。


「人間の尊厳ということを考えると、障がい者を“さわり”のある者として区別することはおかしなことです」
とKさんが言われました。その通りだと思います。
Kさんは絵画教室を開き、3人の自閉症の子供たち描いた絵の展覧会をして、その映像を見せて下さいました。すばらしい色づかい、のびのびとした絵が素敵でした。彼らの絵を見て、他の人が見えないものが見えている。他の人が感じないことを感じていると思いました。

日本の社会は、障がい者、高齢者が生きにくい社会だといわれています。それは、障がい者に対する考え方がネガティブだからでしょう。

「人に迷惑をかけてはいけない」という教えが根強くて、障がい者になったり、年をとって身の回りのことができなくなったとき、誰かの世話になることをいけないことだと考えている人たちが多いのです。
誰かの世話になることは、迷惑をかけることではないのです。たとえ相手が迷惑だと感じたとしても、弱い人を助けるのはあたりまえのことなのですから、申し訳なく思うことはありません。
また、世話をする人は、世話をされる人より優位な立場にあるわけではありません。世話をすることによって、多くのことを学んだり、心のケアーをしてもらったりします。

でも子供のころから「人に迷惑をかけてはいけない」と言われて育った人にいくら話しても、なかなかわかってもらえません。


また、一昔前は、障がいを恥と考えて隠そうとしていました。今は大部改善されましたが、それでもまだ偏見を持っている人がいます。
友人は、子供に障がいがあることがわかったとき、「うちの家系にそんな者はいない」と姑に言われ、深く傷ついたと言っていました。

障がい者に対するいじめの問題は深刻です。子供だけでなく、大人にもいじめが起こっています。職場で知的障がいの人に重い荷物ばかり運ばせたりするのだそうです。悲しいことですね。

                  つづく

信仰とは?救いとは?

2007-01-19 19:00:05 | 社会
今日は我が家での家庭集会でした。学びの中ではっと気づかされたことがありましたので一部紹介させていただきます。


エペソ人への手紙2章から「信仰による救い」ということを学びました。
「あなたは信仰といわれて何を思い浮かべますか?」「救われるとはどういうことですか?」
という質問がありましたが、わかりきったことなのにちゃんと答えられませんでした。


信仰と聞くと、あまりいいイメージを抱かない人が多いと思います。日本人のもつ「信仰」は「信心」とも言い換えることができます。信じる対象は何であれ、修練して自分が信じたという一方通行的なものです。キリスト教でいう信仰とは、神様と人格的なやりとりのある双方通行です。
信じる対象である神、イエス・キリストがどのようなお方であるか聖書に示されています。修練したからというのではなく、神様が働きかけて下さって信仰を持つことができ、救われるのです。



「救いとは人間が本来あるべき姿に戻ること」
なのだと聞いて目が開かれた思いでした。罪を犯す前のアダムは永遠の命を持っていました。神様はご自身の姿に似せて人間を造られたと創世記に書かれています。
神の姿というのは、見た目ではなく性質です。人間に受け継がれた神の性質というのは、「イメージしたものを造り出すことができる」ことと、「言葉をあやつることができる」ことの2つです。この2つは動物にはない性質です。


神様と親しく交わり、永遠の命を持っていたアダムとエバでしたが、神様の禁じた木の実を食べて罪を犯してしまいます。そのせいで死が入ってきました。
人はだれでもいつかは死ぬことがわかっていますが、普段はそのことを考えないで生活しています。でも、つきつめて考えてみると、死からのがれる方法を求めているのではないでしょうか。色々な宗教があるのも、科学が発展していったのも死を克服する方法を考えたゆえではないかと……。


わたしたちクリスチャンは死を克服された方を知っています。それはイエス・キリストです。キリストを信じることによって、人間の本来あるべき姿、永遠の命を持つ者となれるのです。でも、そのことを知らない人がどれだけたくさんいることでしょう……。伝えなくてはならないと思いました。

キリスト教信仰は、いろいろある宗教の中から選んだのではなく、初めからおられた神の存在に気づかされたということなのです。

この方(イエス)を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。(ヨハネ1:12)


世界がもし百人の村だったら

2006-11-13 13:19:08 | 社会

昨日の幼児祝福礼拝で世界がもし百人の村だったらという詩が紹介されました。5.6年前ネット上を駆けめぐった詩なのでご存じの方も多いと思いますが紹介します。


世界には63億人の人がいますが、もしそれを100人の村に縮めると、どうなるでしょう。その村には…
57人のアジア人21人のヨーロッパ人
14人の南北アメリカ人8人のアフリカ人がいます

52人が女性で48人が男性です

30人が子供で70人が大人で
7人がお年寄りです
6人が全世界の富の59%を所有し、
その6人ともがアメリカ国籍の人です。

80人は標準以下の居住環境に住み、
70人は文字が読めません。
50人は栄養失調に苦しみ、
1人が瀕死の状態にあり、
1人は今生まれようとしています

48人は逮捕されたり、拷問を受けるような危険の中にあり、
自由に語り、安全に礼拝したり出来ない状態にあります。
もし銀行に預金があり、お財布にお金があり、
家のどこかに小銭が入った入れ物があるなら‥
あなたはこの世界の中で最も裕福な上位8人のうちの一人です。
もしあなたが車を持っているならば、
世界の中で最も裕福な7人のうちの一人です。
100人のうち1人は(そうたった1人)は大学の教育を受け、
そしてたった1人だけがコンピューターを所有しています。


心が痛みます。どう考えても自分は最も裕福な上位8人のうちの一人になります。
ほんの一握りの人がすべてを持っており、大部分の人は何も持っていないという現実。
安住していていいのでしょうか。わたしにできることはないのでしょうか……。


ほとんどが裕福な者となるこの日本では、隠されたところで恐ろしいことが起こっています。親からの虐待におびえている子供。陰湿ないじめを受けて死を願っている子供……。昨日も中学生が自殺しました。

「あなたの一生は神の前に大きな意義がある。神さまがあなたに期待しておられる」

とメッセージがありましたが、死を願っている者達にこのことを伝えたいです。そして、祈ります。


神さま、子供達をどうか、どうか助けて下さい。命が絶たれないように、自ら命を絶たないように。

人生のリセットボタンって……

2006-07-04 12:28:53 | 社会
 
ティーンエイジャーによる放火殺人事件が続いています。自宅に火を放って家族を死なせてしまうという痛ましい事件に心が痛みます。16歳の少年が動機を語る中に、 リセットしたかったという言葉が出てきました。少年の心理を想像してこんな詩を書きました。こんな単純なものでないかもしれませんが……。

リセット

アイテムをみんな使っちゃった
仲間がみんな死んじゃった
これじゃ ボス戦で負けちゃうよ
そうだ、リセットしよう
リセットして、もういちどはじめからやり直そう

パソコンの調子が変になっちゃった
ウィルスのせいかもしれない
フリーズばかり繰り返している
そうだ、リセットしよう
初期化して、新しく設定してやり直そう

テストの結果が悪いのに 「いい点だった」と嘘ついた
明日は三者面談
これじゃ 親にバレちゃうよ
そうだ、リセットしよう
はじめからやり直せばいいんだ
 


ゲームやパソコンは簡単にリセットできます。でも、人生にはリセットボタンはありません。やり直すことはできません。失われた命はもどってこないのです。やってしまったことの結果を一生背負っていかなければなりません。
でも、このような罪を犯してしまった者は絶対に赦されることがないか?というと、そうではありません。赦されるのです。赦されない罪はないからです。罪を犯した者のためにイエスキリストが死んで下さったことを信じ、悔い改めれば罪は赦されます。
 でも、死んでしまった人の命はもどりません。起きた事件をなかったことにすることはできません。


こんなこと、人間のする事じゃない。(法的な意味での)犯罪者と自分は全くかけ離れていると思っている人がいるかもしれません。でも、心の中に恨みや憎しみがある限り、どんな人でも犯罪者になる可能性があります。わたしが犯罪者にならないですんでいるのは、守られているからだと思わずにはいられません。



「悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。(イザヤ55:7)」

と聖書に書かれています。

犯罪者となってしまった少年、少女たちのために祈ります。このような犯罪が2度と起こらないように祈ります。


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