生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

風が変わるとき

2010-09-30 14:14:48 | 日本クリスチャン・ペンクラブ
日本クリスチャン・ペンクラブ(JCP)では花鳥風月をテーマにして400字エッセイを書いています。

400字は原稿用紙一枚分。たかが一枚、されど一枚……。
最初書いたときは、字数がかなりオーバーしています。
削って、ああでもない、こうでもないと言葉を入れ替えて推敲に推敲を重ねます。でも、書きたいことすべては書きつくせないので、行間に思いを込め……読者に伝わるように祈りつつ書いています。

「花」と「鳥」はブログで公開させていただきました。今日は「風」を掲載させていただきます。

風が変わるとき

「クリスチャンは、人を裁(さば)くの?」
責めたてるような友人の言葉にぎくりとした。部屋の中に険悪な風が吹いていた。
(彼女はわたしに裁かれたと思っているんだ。どうしよう。何と答えたらいいんだろう……)
わたしは答えに窮した。

(神様、助けて下さい。語るべき言葉を与えて下さい)
心の中で祈って口を開くと、

「クリスチャンだけじゃなくて、自分のことを棚に上げて他の人を裁いてしまう人は多いよね。でもクリスチャンは、裁いたとき、それが悪いことだと気がついて深く悲しみ、悔い改めるの。わたしがそうだから……」

と語っていた。わたしの考えで出てきた言葉ではなかった。

それに対して友人は何も答えなかった。でも険悪な風は消え、その代わりにふわりとした温かな風が吹いてくるのを感じた。

「さばいてはいけません。さばかれないためです(マタイ7:1)」


人生の中には窮地に陥る瞬間があります。心の準備ができていないとき、思いもよらないことを言われると頭の中はパニック状態になります。
どう反応したらよいか、何と答えたらよいか全くわかりません。返答一つで険悪な状況になりかねません。

そんなとき、心の中で短く祈ります。祈るしか術がないのです。
あのときわたしの口から出た言葉は、神さまが言葉を授けてくれたとしか思えない答えでした。


夫や娘との会話も、祈る間をおいてからすればいいのですが、家族だと緊張感が欠け、感情的にもなって、言葉で失敗することが多いです。(反省……)


わたしのパトモス島

2010-09-28 20:38:29 | 聖書から
先日(9/20)ルターの「キリスト者の自由」の一文を紹介しました。それは素晴らしい文章でした。今日は、ルターがワルトブルグ城に幽閉されたときの苦悩に満ちた状態が書かれたものを紹介します。


私は愚か者のようにすわっている。
暇を持て余して祈ることもしない。
神が私から離れてしまったかもしれないと思ったりする。
もう8日たってしまった。
その間私は、書くことも、祈ることも、勉強もしなかった。
それというのも肉の誘惑のゆえであり、またいろいろの苦しみを負っているゆえである。


このときルターは、文を書く気力もなかったようです。ルターのつぶやきをルターの友人のメランヒトンが書き記しました。

ルターはこの時期を「わたしのパトモス島」、「わが荒野の経験」と言っていたそうです。

ルターでさえもこんなに無気力になり、祈れないときがあったと思うと、なんだかほっとします。

この後、ルターはワルトブルグ城で新約聖書をドイツ語に翻訳しています。「9月聖書」といわれ、最初のドイツ語訳新約聖書となりました。
新約聖書全部を訳したのですからすごいです。用紙は千枚ぐらい使ったと推測されます。

祈ることも書くことも勉強もできない時期があっても、また、神様の臨在さえ感じられなくなった時期があっても、再び神様から力をいただいて立ち上がることができるのですね。


若者も疲れ、たゆみ、
若い男もつまずき倒れる。
しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、
鷲のように翼をかって上ることができる。
走ってもたゆまず、歩いても疲れない。
(イザヤ40:30.31)


月のように

2010-09-26 20:44:07 | 日本クリスチャン・ペンクラブ
一昨日は都内の実家に泊まり、昨日はお茶の水クリスチャンセンターで行われたJCP(日本クリスチャン・ペンクラブ)の例会に出席しました。
JCPでは3月から花・鳥・風・月で400字の証し文章を書いています。作品を無記名で提出し、グループで全員の作品を読み、合評を行います。

今回は今年最後のテーマ「月」でした。25名の方が集まりましたが、ほとんどの方が作品を書いてきておられ、しかも力作なので圧倒されました。

聖書に「月」が出てくる箇所は少ないので、わたしはこのテーマで何を書けばよいのかさんざん悩まされました。何とか書くことができて、持って行きました。

11月には花鳥風月のエッセイと、詩や童話、小説を掲載した文集が出版されます。わたしは編集委員をさせていただいているので、これから校正などで忙しくなりそうです。

理事長の池田勇人先生が「月」にちなんだメッセージをしてくださいました。紹介します。


光という言葉の語源は、天上で輝く太陽の火を借りてきたことによります。火借り→ひかりです。

月の語源は、尽きるという言葉からきています。わがままに尽きる。これに尽きるなどといいますが、自分の姿をだんだん消していく、月の光がなくなって尽きていくということから月という言葉が生まれました。


月の明るさは、太陽の約50万分の1です。それでも、夜に月の光があると道が見えます。月のような小さな光でも方向がわかるので役に立ちます。
わたしたちが書く文章を他の人と比較して落ち込むことはありません。
月には月の栄光が、わたしにはわたしの栄光があります。

月の光は反射の光です。自分で光っているのではありません。
わたしたちも神さまの光を受けて光っています。
暗いことで悩むことはありません。暗い光でも喜んで必要としてくれる人がいるから……。ねたまず、うらまず、さげすまず、つぶやかず、感謝しましょう。


月は太陽の光を反射させて光っている! 月は自分自身で光っているのではないのですね。
知っていたことですが、新しい発見をしたような気がしました。
わたしも月のようになりたいです。自分で光ることはできないけれど、神さまの光を受けて輝きたい。小さな光でもいい。ほの暗い光でもいい。誰かがこの者の光で主に導かれるなら。

ぶどう狩りと宇宙センター

2010-09-23 09:36:30 | 日記
雨が降ってきて、昨日までの暑さが嘘のように肌寒い朝になりました。

一昨日、息子一家とぶどう狩りに行ってきました。恵まれたことに我が家から車で20分ぐらいのところに果物狩りができる農家がたくさんあります。



昨年ぶどう狩りに行ったときは、巨峰は採りつくされていて、スチューベンしかありませんでした。今回は巨峰食べ放題です。(白い袋がかぶせてあります)
ひと粒、ひと房が大きいので、4人で3房食べたら満腹になりました。種も少なく、甘くておいしいぶどうでした。

その後、つくばエキスポセンターに向かいました。「ロケットを見に行こう」と言うとヒックンは大喜びです。
ところが、お休みで閉まっていました。いつも月曜休みなので大丈夫と思っていたのですが、20日の祝日の代わりに休みだったようです。

あきらめて帰ろうとすると、ヒックンが「ロケットは? ロケットは?」と車内で大騒ぎ。
気を紛らわそうとしても、ジュースやお菓子を出してもごまかされません。

「ヒックンを落ち着かせるため、遠回りして土浦にもどろう」と息子が言って、車を走らせていると、たまたま筑波宇宙センターの前を通りかかりました。

看板の横に展示中という文字が目に入りました。宇宙センターは予約しないと入れないと思い込んでいたのですが、見学できるようです。ほっとしました。
外に展示されている大きなロケットを見て、ヒックンは大喜びです。


展示室にはこれまで打ち上げられたロケットの1/20の模型が並んでいました。


人工衛星の試験モデルが展示されていました。実物とほぼ同じだそうです。


宇宙飛行士が実験を行う「きぼう」の船内実験室の中に入りました。大型バスぐらいの大きさです。

宇宙服が展示されていました。堅い素材で、かなりの厚さです。(14層になっています)重さは120㎏もあるそうです。
宇宙では重さを感じないかもしれませんね。これを着て宇宙旅行ができたらどんなに素晴らしいでしょう!



「ロケットに乗ったけど、ビューンって飛んで行かなかったよ」と言ったヒックンへ。

君なら宇宙飛行士になる可能性はあるよ。
大きくなったら宇宙飛行士になって宇宙に行き、そのようすを伝えてほしい。
君が大人になるころは、もっと宇宙のことが解明されているでしょう。

でも、まだ謎はいっぱいあるだろうね。
不思議なこともたくさんあるだろうね。

君が宇宙飛行士になれなくても、
広大な宇宙に思いをよせたとき、
宇宙の創造者を知ってほしい。
こんなに広大な宇宙、すばらしい地球、
尊いいのちを与えてくれたお方がいることを知ってほしい。
それが君を愛するこの者の願いです。

宇宙の好きなババより。


愛を動機として

2010-09-20 16:47:58 | 教会
昨日は礼拝の後教会の草取り、その後CS教師会でした。暑さの中に涼風を感じて草取りも楽しかったです。

礼拝では「目を覚ましていなさい。堅く信仰に立ちなさい。男らしく、強くありなさい。いっさいのことを愛をもって行いなさい。(Ⅰコリント16:13~14)」
この聖書箇所から「目を覚まして」という題でメッセージを聞きました。


『目を覚まして』というのは、主イエスが戻って来られるから目を覚ましていなさいという意味です。
目を覚ますとは、礼拝や家庭集会で聖書の教えを聞き続けることで、そうすれば間違った教えを聞いたとき、おかしいと気づくはずです。

『堅く信仰に立つ』とは、神の善意に信頼する。神が最善をなして下さることを信じることです。
『男らしく、強くありなさい。いっさいのことを愛をもって行いなさい』とは、愛を動機として強く勇気ある行為をしなさいという意味です。

人間の行動の動機は①~したいから②~すべきだから③~させられるから
の3種類があります。

①は、したいことができるのは素晴らしいけど、自分の利益、欲のために行うと危険です。自分の利に目がくらむと、他人の利に目がいかなくなります。
②は、理を持って行うことで、いきすぎると他者を縛ろうとする危険があります。
③は、強制されてすることですから、ストレスがたまります。

「したいこととすべきことが同じでない場合が多いですが、それが一致している人は幸いです。」と牧師先生が言われました。

ルターの「キリスト者の自由」 からの一文が紹介されました。書き写すことができませんでしたので、別訳の文章を掲載します。

ほんとうに私の神は、価値のない、呪われるべき人間であるこの私に、何の功績もないのに、まったくただで、純粋の憐れみから、キリストを通して、またキリストにおいて、すべての義と祝福に満ちあふれる富を与えてくださった。

そこで私は、その後そのとおりだと信ずることのほか何も必要としない。
ああ、このように、ありあまる財宝を注ぎ与えてくださった、こういう父に向かって、私もま
た自由に、喜んで、報いを求めず、神の喜びたもうことをしよう。

そしてキリストが私に対してなってくださったように、私も隣人に対してキリストのようになろう。そして隣人にとって必要、有益にして祝福と思われることのほかは何も行わないようにしよう。私はほんとうに信仰によって、キリストにおいてすべてのものを十分にもっているのだから。


「私も隣人に対してキリストのようになろう。」
この部分は「私の隣人のためにひとりのキリストになろう」と紹介されました。


隣人のため、ひとりのキリストになれたらどんなにいいでしょう。そうなりたいと思います。なぜなら、ルターの書いたように、神様は、何の価値もない呪われるべき者だったわたしにあふれるほどの祝福と恵みを与えて下さったからです。
神様に愛され、赦されたことがわかって、はじめて他者を愛し、赦すことができるのですね。


私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。(Ⅰヨハネ4:10~11)


彼の言うことを聞きなさい

2010-09-18 09:12:02 | 聖書から
昨日はOさん宅での家庭集会でした。
8月の家庭集会がお休みだったので久しぶりでした。

聖書の学びは山上の変貌の箇所です。

・・・イエスはペテロとヨハネとヤコブとを連れて、祈るために山に登られた。
祈っておられると、御顔の様子が変わり、御衣は白く光り輝いた。
しかも、ふたりの人がイエスと話し合っているではないか。それはモーセとエリヤであって、栄光のうちに現れて、イエスがエルサレムで遂げようとしておられるご最期についていっしょに話していたのである。(ルカ9:28-31)



とても不思議な出来事です。イエス様の姿が突然光り輝く姿になり、すでに天に召されているモーセとエリヤと語り合っているというのですから、目撃した弟子たちはどれだけ驚いたことでしょう。

以前、「山上の変貌」の箇所で礼拝説教を聞きました。「それは変貌ではなくて、イエス様が本来の姿を見せたのです。地上におられるイエス様の姿こそ、変貌された姿なのです」と語られた言葉が印象に残っています。

モーセは旧約聖書時代の偉大な指導者で、神様から十戒を授かった人です。律法を代表する人といえます。一方、エリヤは預言者の代表です。
律法と預言者を代表するふたりがイエスの最期についてイエス様と語っていたということは、十字架と旧約聖書が密接に関わっていることを意味するそうです。

イエス様が立ち去られようとしたとき、ペテロは「イエスとモーセとエリヤのために三つの幕屋を造ります。」と言いました。
聖書に「ペテロは何を言うべきかを知らなかったのである」と書かれているように、このとき言ったペテロの言葉は的はずれだったのです。

幕屋というのは、神様と出会う場所。神の臨在の象徴です。ペテロは、このすばらしい時間を終わらせたくないと思いました。栄光の姿のイエス様とモーセ、エリヤがここに居続けてほしいと思って言った言葉です。

この言葉は、ペテロの間違った救い主についての考えを示しています。イエス様はこれから十字架に向かうのに、ペテロはイエス様を留めたいと思いました。受難と反対方向の言葉です。
ペテロは自分なりの考えでイエス様を理解していたのです。

そんなペテロに神様は雲の中から言われました。
「これは、わたしの愛する子、わたしの選んだ者である。彼の言うことを聞きなさい(9:35)」この神様の言葉は直接ペテロに語りかけている言葉だそうです。

神様は「彼(イエス)の言うことを聞きなさい。」と言うことによって、ペテロの間違った救い主についての考えを正しています。

イエス様に聞き従うことによって間違えが正されるのですね。「間違ったからお前はダメなのだ」と言われなくてよかった。わたしもその場にいたら何を言ったらよいかわからなくて的外れなことを言っていたでしょう。ぺテロに親しみを感じます。




日常生活の中でどうしたらよいか迷うとき、自分で考えて出した結論が御心(みこころ)だと思ってしまうことがあります。
でも、それは自分なりの考えで、間違っているかもしれません。かんたんに御心だと思いこまず、よく祈ってイエス様に尋ね、イエス様に聞いていきたいと思いました。


無駄と思われても

2010-09-14 20:56:38 | 教会
日曜日に教会学校の分級で子どもたちとわらべ歌で遊びました。わらべ歌は音楽主事の指導で一か月に一度行っています。『子とろ、子とろ』で前にいる子どもの肩から手を離さないように必死に動き回っていました。

翌日、腰痛でダウンです。ぎっくり腰になったかと思いました。一日ようすを見て治らないようなら病院へ行かないと……と思っていました。
筋肉痛だったようで、湿布を貼って寝たら朝には痛みがひいていました。年甲斐もなくがんばったのがいけなかったのでしょう。でも、治ってよかったです。腰が痛いとPC作業も苦痛ですから。


礼拝ではケニア宣教師のT.I先生から「高い香油」と題されたメッセージを聞きました。一部を紹介させていただきます。

マタイ26:6-13には次のようなことが書かれています。

過ぎ越しの祭りの2日前、イエス様への敵意が高まる中での出来事です。シモンの家で食卓についていたイエス様のところへひとりの女入ってきました。彼女は高価な香油の入った石膏のつぼを持ってきて、イエス様の頭に注ぎました。
それを見ていた弟子たちは憤慨して、なんのためにこんな無駄なことをするのかと言います。この油を高く売って貧しい人に施しができたのにと。
それに対してイエス様は、「この人はわたしの埋葬の用意をしてくれたのです」といって、女の人のした行為を称賛されます。


ヨハネの福音書では、この女の人はマルタの姉妹、マリヤになっています。マリヤは、イエス様が家に訪れたとき、もてなすことに心奪われて忙しく働いているマルタとは反対に、イエス様の足元に座ってじっと話しを聞いていました。このときもイエス様に褒められています。

なぜ高価な油をイエス様に注いだマリヤが称賛されたのでしょう?
イエス様は、それまでに何度も繰り返して十字架の死を予告しています。でも、弟子たちはそんなことがあってはならないと思い、受け入れていませんでした。
しかし、マリヤだけはしっかり受け止めいていて、イエス様こそ救い主であると知って、油を注いだのです。
油を注がれた者を、メサイヤ、メシアといいます。

無駄なことをしたと言った弟子達ですが、誰の頭に油を注いでいるかわかっていれば、そんなことが言えるでしょうか。

最初のクリスマスで、飼い葉桶に寝ているイエス様に東方の博士は高価な贈り物(黄金、乳香、没薬)を捧げました。博士たちがしたことは、マリヤのしたことと共通しています。
貧しい姿ですが、王の王としてのイエス様に高価な油・・・なくてはならないものをささげたマリヤの行為をイエス様は称賛されました。

「イエス様を王の王として証しし、告白し、捧げられる人生、賜物、時間、献金、忍耐は高い油です。
イエス様ご自身が苦しみを背負い、わたしたちの罪を贖ってくださいました。そのことを多くの人が覚えるように」
と宣教師の先生が言われました。


何の報いもなく、世間の人には無駄だと思われても、イエス様に捧げていく人生はなんと素晴らしい人生でしょう。誰に認められなくても、誰にもかえりみられなくてもイエス様が褒めて下されば最高です。イエス様が喜んで下さる人生をおくりたいです。


キャンドルの光に包まれて

2010-09-11 20:00:10 | 教会
昨日は教会で葬儀がありました。
9/1にめぐみ祭りのことをブログに書きましたが、お孫さんとダブルダッチで跳んだIさんのご主人の葬儀でした。

(以降IさんをI姉。ご主人をI兄と書かせていただきます。教会ではクリスチャンは神の家族という考えから、お互いを、男性なら「・・兄」「・・兄弟」、女性なら「・・姉妹」「・・姉」と呼びあいます)

I兄は9月2日に肺炎で天に召されました。93歳11か月だったそうです。火葬はすでにすませ、教会でキャンドル葬というかたちで10日午後6時から行われました。
わたしは晩年のI兄しか知りません。いつも穏やかで、杖をつきながら礼拝を守っておられた姿が心に焼き付いています。

I兄が家畜ウイルスの研究者として世界で活躍されたことを初めて知りました。

I兄は、ご自分が召されたあと、仲間と家族に伝える言葉を残しておられました。
仲間には、礼拝を最優先できて感謝。仲間に入れてもらえて感謝。
家族(4人のお子さんと、お孫さんひ孫さんたち)には、互いに助け合ってほしい。土台にキリスト信仰を置いてほしいという言葉です。

また、会報に書かれた文章の最後には、「めぐみあふれる年月であった」と記されていたそうです。

I兄の人生の中でお辛いことや悲しいことがたくさんあったでしょう。でも、「めぐみあふれる年月であった」と断言されたのは、神様にしっかりと目を向けておられたからだと思います。

『あなたに恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる』と詩篇103篇に書かれていますが、その御言葉をしっかりと握っておられたのでしょう。

また、礼拝を最優先できたことの感謝をしておられることに感銘を受けました。
奥さんのI姉が30年間祈り続けて洗礼を受けたI兄です。洗礼を受けてから礼拝を守ることを第一としてこられました。

毎週礼拝を守ることによって、信仰者としての歩みが確かにされたのだなあと思いました。
I兄のご葬儀で大切なことを教えていただきました。
I姉はじめ、ご遺族の方々に主からの慰めがありますようにお祈りします。

最後にI兄の愛された聖書の言葉を記します。
(これは、わたしの好きな箇所でもあり暗唱聖句です)

私は山に向かって目を上げる。
私の助けは、どこから来るのだろうか。
私の助けは、天地を造られた主から来る。
主はあなたの足をよろけさせず、
あなたを守る方は、まどろむこともない。
見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。

主は、あなたを守る方。
主は、あなたの右の手をおおう陰。
昼も、日が、あなたを打つことがなく、
夜も、月が、あなたを打つことはない。
主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、
あなたのいのちを守られる。
主は、あなたを、行くにも帰るにも、
今よりとこしえまでも守られる。

(詩篇121)


「地雷の村で「寺子屋」づくり」を読んで

2010-09-09 13:13:08 | 読書
 8月はじめに京都で行われたJCP夏期学校に参加したとき、児童文学者の今関信子先生と再会しました。5年前、滋賀県でお目にかかって以来2回目です。
今回は最近執筆された「命をつなぐ250キロメートル」という本について話して下さいました。そのときのことは8/9のブログに書いています。

クリスチャンで、同じ児童文学者協会に所属しているという共通点があって親しくお話しさせていただきました。わたしの小説が掲載されている作品集を差し上げると、(あまりにも拙文なので差し上げるのをだいぶためらったのですが……)喜んで下さいました。

そして、先日お手紙と著書 「地雷の村で「寺子屋」づくり」を送って来てくださいました。
手紙にはわたしの小説「エフラテール」の感想が丁寧に書かれていました。構成力をほめていただき、飛び上がるほど嬉しかったです。

今関信子先生のご本、
「地雷の村で「寺子屋」づくり」の本の紹介をさせていただきます。

 この本はPHP研究所から2003年に出版されました。小学校高学年から読め、理解できるように書かれています。

「カンボジアのポイペットという町で子どもたちのために力を尽くしている栗本英世さんという人がいる。その町には一歩ふみこんだら地雷原というところを通学路にして寺子屋に通う子どもたちがいる」と聞いて、筆者は単身カンボジアに出かけていきます。

地雷の危険、マラリヤなどの伝染病の危険、そのほかたくさんの危険があるのにもかかわらず、カンボジアの人々の暮らしぶりが見たい。栗本さんの生き方が見たいという思いから出かけていく勇気、情熱に驚きました。
今関先生は、私財を投げ売って、また、命がけで子どもたちのために寺子屋を作っている栗本さんを取材します。

文房具にも不自由している寺子屋で一生懸命学ぶ子どもたち。できないことができるようになって喜んでいる子どもたちの姿が生き生きと描かれています。
また、ストリートチルドレンや人買いに買われていく子どもたちのこと、カジノを作るため、政府に土地を取り上げられ、住むところを探しに地雷原を歩いている難民と出会ったことが書かれていました。本を読んでいると、今まで遠い世界の出来事のように思っていた問題が、現実として迫ってきました。

「相手によりそって、相手と共にいて、思うことを知り、感じることを感じ、考え方がわかるところからしか、相手のためになる支援はできない」という栗本さんの姿勢に、弱者に寄り添って共に歩まれるイエス・キリストの姿を思い起こしました。  。
「自分がしあわせなら、他人がどうなっても、関係ないなんてしらんふりする人は、心に地雷を埋めているんですよ」という栗本さんの言葉が心に残りました。


今関先生がカンボジアに行かれたのは10年ほど前ですが、栗本さんの活動は現在も続けられています。
「カンボジア子どもの家」のHPをご覧ください。


 
日本クリスチャン・ペンクラブのHP更新しました。

気力について

2010-09-07 11:48:29 | 聖書から
 わたしはパソコンではウインドウズメールとgooメールを使い分けています。
昨日、どういう操作をしたせいなのかわからないのですが、突然ウインドウズメール受信ボックスのメールが全部消え、メールの送受信ができなくなってしまいました。
すぐにウイルスチエックをしましたが、異状なしです。
大切なメールはどこへ行ってしまったのでしょう?
ユーザーIDとパスワードを入れてもログインできず、2時間もPCと格闘してしまいました。
夕飯の支度もせずに「どうなってるの?」などとPCに向かって独りごとを言っていると、娘が見るに見かねて送受信できるようにしてくれました。かかった時間は約5分。

消えたメールはわからないというので、PCの検索機能を使うと、ちゃんと保存されていました。
保存されている場所から受信トレイに移すのが大変です。まとめてできないので、ひとつずつ戻しているところです。もしかして簡単にまとめて移動する方法があるのかもしれません。でも、それを調べる気力がなくなってしまいました。
でも、消えてなくてほんとうによかったです。

先月主人の実家にわたしの小説が掲載されている作品集を持って行ったら、義母に「年を取ってからもできる趣味を持っていていいわね」と言われました。

何歳まで書いていられるのでしょう? 長編を書くには体力も気力も必要だから、あと10年ぐらいかなと思いました。PC作業も気力がないとね……。と弱気になっていました。

 
一昨日の礼拝では「生涯現役」というメッセージを聞きました。
 「彼の目はかすまず、気力は衰えていなかった。(申命記34:7)」これは、モーセが120歳のときのことをいっています。
モーセは80歳のとき神様から命じられて、イスラエルの民を引き連れて40年間荒野を旅しました。120歳の高齢になってもますます意気盛んでした。

人間は20歳をピークに体力は衰えてきます。衰えるのは当たり前です。でも肉体が衰えても、気力に満ちた生き方ができます。若い時と同じようにはできなくても、高齢だからこそできることがあります。
「古き良きことを若い人に伝える責任がある」と日野原重明氏の著書に書かれています。

「高齢クリスチャンは、身についた信仰姿勢を若い人に伝える役割があります。」と牧師先生が言われました。


わたしは、すでに目はかすんできていますが、気力はまだ衰えていません。これからだんだん衰えていくんだろうなあ……と思っていましたが、大いに励まされたのでした。



君が生まれてきてよかった

2010-09-04 12:22:29 | 
 昨日、片づけをしながらNHKをつけていると、わたしの好きなシンガーソングライターのアンジェラ・アキさんがゲスト出演されていました。
アンジェラさんは、子どものころハーフということで辛い思いをされてきました。今を生きる10代の子どもたちを励ましたいと思って「手紙」という曲を作ったそうです。

 「今負けないで 泣かないで 消えてしまいそうな時は 自分の声を信じて歩けばいいの」と歌詞にありますが、自分の声が聞こえないほど落ち込んでいる時はどうしたらいいのでしょう。

わたしも小、中学校のころ辛い思いをしてきました。
すべての自信を失っていたわたしは、自分自身さえ失いかけていました。
自分というものがなかったら、何を信じたらいいのでしょう……。

わたしは作曲はできませんが、いま辛い思いをしている少年少女に向けて詩を書いてみました。
 
君が生まれてきてよかった

図書室の片隅で 
まわりの目を気にしながら 
熱心に本を読むふりして 
昼休みが終わるのを待つ君 

友だちがほしいのに
さみしくて たまらないのに
心に涙流しながら
へいきな顔してほほえむ君

君の涙をみたよ
わたしは特別な者として
君を造ったんだ
君は高価で尊いから
ああ 君が生まれてきてよかった
You are precious.
You are precious in my sight.

学校を休んでも 
気に留める人はいなかった 
自分の存在って何だろう  
生きる意味を見いだせない君 

「消えろ」って言われた日
心がパリンと割れた
ぼくはどうして生まれてきたの 
声なき声で叫んでいた君

君の叫びを聞いたよ
わたしは君が生まれる前から
君のこと知っている
君は大切な存在なんだ
ああ 君が生まれてきてよかった

You are precious.
You are precious in my sight.

preciousとは尊いと言う意味です。
 「わたしの目には、あなたは高価で尊い、わたしはあなたを愛している。(イザヤ43:4)」

愛すること 赦すこと -平和を求めて(その2)

2010-09-01 16:55:09 | 教会
 次にJCPの55周年のテーマでもあった「愛すること、赦すことー平和を求めて」について語ってくださいました。

 
人々は皆、平和を求めています。でも社会は矛盾に満ちています。平和を願いながら、いつテロが起きてもおかしくない現実です。
1億個以上も埋められている地雷。地球は傷つき悩み、恐れで取り囲まれています。
平和を考えるとき、現実は矛盾していることに気づきます。
平和の一歩は勇気ある戦争責任告白です。しかしながら自分の罪を認めるのは難しいことです。

フランンスの大統領は、ルワンダに出かけて行って謝罪しました。
このように「私が間違っていた」と言える勇気が必要です。

聖書には 「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。(マタイ5:44)」と書かれています。

キング牧師はこのみ言葉を「ありがたい言葉だ」と言ったそうです。敵を好きになりなさいではなく、愛しなさいと書かれていることがありがたいと言っているのです。

好きになるというのは感情です。感情では嫌いな人は嫌い、憎い人はどこまでも憎いのですが、愛することは意志的なことで感情はあとからついてきます。

イエス・キリストは十字架上で、十字架につけた人たちに向かっていいました。 「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです(ルカ23:34)」
「わたしが赦します」と言わずに父(神)に赦しを願ったのはなぜでしょう。
それは、イエスキリストが架け橋となってくださるという意味です。

『愛、赦し、平和』を身をもって見せて下さったのはイエスキリストの十字架です。

 「父よ。彼らをお赦しください」
 「この彼らの中にわたしたちも含まれるのです」と池田先生が言われました。

 いままでわたしは、たくさんの過ちを犯してきました。気付いていることもありますが、気付かずに人の心を傷つけてしまったこともあったと思います。それがイエス様の十字架によって赦されているからこうして顔を上げて生きていられるのです。
まさに『キリストこそ平和』です。


 
29日は夕方から教会でめぐみ祭りが行われました。礼拝後いったん家に帰ってからヒックン、ヒックンママ、娘と一緒に出かけました。
写真は野外礼拝の後行われたダブルダッヂを見ているところです。

ダブルダッヂとは2本の縄を使って跳ぶ縄とびです。(生で見るのは初めてでした)若者たちがダンスやいろいろな技をしながら跳んでみせてくれました。

メンバーのひとりの青年が、めぐみ教会員のIさんのお孫さんでした。青年はおばあさんの前で初めて披露したそうです。

ショーが終わると、メンバーと一緒に跳びたい人を募り、数人の子どもたちが参加しました。

終わりになったとき、サプライズがありました。青年の祖母のIさんが「わたしも跳びたい」と前に出て来ました。
青年は一瞬驚きましたが、おばあさんの両手をしっかりにぎって一緒に跳びはじめました。
Iさんは84歳です。一同はかたずをのんで見守りました。

Iさんは身軽に7,8回跳びました。そしてお孫さんに抱きしめられて……感動的な瞬間でした。
Iさんよりお孫さんが緊張していたようで、終わった後、何度も胸をなでおろしていました。

                 おわり



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