生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

神さまのあやつり人形?

2006-02-28 13:14:16 | 日記
昨日、「神さまの導き」について書きましたが、『クリスチャンは神さまのあやつり人形なのか?』という質問が寄せられました。今日はその質問に答える形で書きます。

 題名は忘れましたが、曾野綾子さんの本に「神さまの木偶(でく)になりたい」という一文がありました。木偶というのは人形です。神さまの意志通りに生きたいという願いが表れています。

 わたしも今はその心境ですが、以前はそうではありませんでした。20歳のころ、とても自我が強かったのです。洗礼を受けてからも、自我が砕かれませんでした。神さまを信じていましたが、導きを求めるなどという祈りはしたことがありませんでした。困ったことや願い事があると必死に祈り、自分の願い通りにしてほしいと訴えていました。

 教会からも離れてしまいました。完治したと思っていた喘息が出てきてしまったときは、「神さま、どうしてですか?」と神さまを恨んでいました。

 キリスト教では、神さまのことを主(しゅ)と言います。主というのはわたしの主人という意味です。主と言うときは、奴隷が主人に服従するように、わたしも主に従いますという意味があります。でも、わたしは自分が主であり、神さまを自分の後ろに従えていたのです。

「神さま、この人と結婚します。幸せにして下さい。神さま子供を与えて下さい。神さま、喘息を癒して下さい……。」いつも自分の願いを訴える祈りしかしていませんでした。教会へ行っていなくても、正しい道を歩いているのだと思っていました。でも、まっすぐだと思っていた道が曲がっていたのでした。気づいたのは、3年のブランクの後、再び教会に行ったときです。

 教会で
『祈りとは、自分の願いを訴えるだけではなく、神さまのみ心を求めるものです』
と聞いて自分の過ちにようやく気づいたのです。
神さまは、従順であることを人間に求めておられます。それなら、なぜ神さまは人間を逆らったり罪を犯したりできないように造らなかったのかという疑問が出てきます。もちろん、人間をロボットのように造ることはできたはずです。でも、神さまはそうはなさらず、人間を自由意志の持った者として造られました。従うか従わないか人間が自分の意志で決めることができます。アダムとエバは、神さまのいいつけに逆らって禁断の実を食べてしまいました。アダムとエバ以降も多くの人間が神さまに不従順でした。そして、このわたしも……。

 神さまは、ご自分のお造りになった人間ひとりひとりをとても愛しておられますから、常に良い方に導いて下さっています。神さまの導かれる方へ進んでいくことが最善なのです。でも、それがわかっていても、なかなか従えないことがありました。何度も罪を犯し、何度も失敗をしました。でも、神さまは忍耐をもってわたしがつまずくたびに助け起こして下さいました。

 イエスさまは、父なる神さまに従順であられたので、十字架にかかってくださったのです。そのことを思うと、従順になりたいと願わずにはいられません。

「すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。(ローマ5-19)」


神さまの導き

2006-02-27 12:44:52 | 教会

昨日は教会へ行って来ました。「導き」という題でH先生ののメッセージを聞きました。人生で受験、結婚、就職など大きな選択を迫られることがあります。どうしたらよいのか? どちらを選べばいいのか? 神さまの導きを求めて祈ったとき、はっきりと示されればなやむこともありません。でも、はっきり示されないことが多いと聞いて、ああ、わたしだけではないのだと安心しました。

「今、わたしは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔を会わせて見ることになります。(Ⅰコリント13:12)
」とあるように神さまのみ心は、ぼんやりとしてわからないことが多いのです。でも、導きを求めて祈り、聖書を読むことによってだんだんはっきりわかるようになるのだそうです。

ブログの記事でエッセイ「書くこととわたし」に書きましたが、執筆についても色々迷いがありました。童話や小説を書き続けていくべきなのか、やめた方がいいのか? 日曜日に例会のある児童文学の会に行くときは、礼拝を後にするか先にするか?……。

 神さまは、わたしに書き続けるべきだと、なかなかはっきり示して下さいませんでした。でも、悩みつつ書き続けることができました。児童文学の会の問題も、試行錯誤の末、礼拝を最優先することの大切さを神さまから教えていただきました。

 また、これが導きなのだと信じて進んでも、間違った選択をしてしまうことがあります。でも、そのとき神さまは、間違えに気づいたその時点から良い方向へと導いて下さる。間違えてやってしまったことを消すことはできませんが、間違えたらそれで終わりなのではなく、そのことも用いて神さまは良い方へ導いて下さると聞いて慰められました。

 メッセージを聞いてから、わたしは次のように祈りました。
 
 天の父なる神さま。わたしはいままで、たくさんの間違った選択をしてきました。でも、神さまはそれに気づかせて下さいました。気づいても、強情なわたしはなかなか向きをかえることができないときもありました。でも、心から悔い改めたとき、そこから正しい方へ歩くことができるようにして下さいました。感謝します。
日々の生活は選択の連続です。どうかわたしがみ心にかなった正しい選択ができるようにしてください。もし、間違えてしまったときは、すぐに気づかせて下さい。たとい、自分の意にそわないことであっても、神さまの望まれる方を選んでいくことができるようにしてください。


 

ただいま

2006-02-26 21:01:28 | 家族

 昨夜帰宅しました。父は思いのほか元気でした。会ったのは、お正月以来です。少し痩せましたが、以前と同じように背中をまっすぐにしてきちっと正座していました。そして、わたしが来たことをとても喜んでくれました。

 父は先が短いことを感づいているようで、「お母さんを頼む」と遺言のようなことを言ったので、胸がつまる思いでした。
今日、教会でお昼の時間に「親が元気なときになるべくたくさん会って話しておくことが大切よ。親の死を経験すると、人間って必ず皆死ぬものなのだと実感するわ」と最近お母様を亡くされたO姉が言っていました。

昨日は実家の帰りにお茶の水のクリスチャンセンターで行われたクリスチャン・ペンクラブの「小さな集い」に出席しました。礼拝のあと、児童文学と詩のグループに分かれて学びました。わたしは児童文学のグループに出ています。原稿を持ち寄っての合評は有益なものとなりました。
 
 クリスチャン・ペンクラブの仲間も、教会の友人達もわたしや父のために祈って下さっていて、そのことが心強く、また嬉しくもあります。父のことを考えると胸が張り裂けそうになりますが、イエスさまが「大丈夫だよ」といってくださるのがわかるので、落ち込んではいません。

 わたしにとって、かなりハードスケジュールだったのですが、体調もくずさず、元気で帰って来ることができました。これからできるだけ頻繁に実家に帰って、父と話してきたいと思います。


祈り

2006-02-24 09:04:25 | 家族
 以前、83歳になるわたしの父が前立腺癌で放射線を当てに病院へ通っていることを書きました。先日、病院で呼吸が苦しくなって内科にいくと、レントゲン検査の結果、癌が肺に転移していることがわかりました。(源発は膀胱癌だったそうです)体力がないので抗ガン剤治療もできないといわれてしまいました。今は小康を保っており、自宅で普通に生活していますが、いつ症状が悪化するかわかりません。

 ショックでした。私自身が乳癌で手術を受け、放射線治療もしましたが、すでにリンパに転移しているので、今後肺に転移する可能性があるといわれています。喘息で呼吸が苦しくなることの恐怖を味わっているわたしは、肺転移を最も恐れています。呼吸困難は、激しい痛みよりつらいです。癌末期の痛みはモルヒネによって緩和されるでしょう。でも、呼吸困難に対してはどのような治療がなされるのでしょうか? 今後の父のことを考えると……つらいです。

 今日これから、東京武蔵野市の実家に行きます。都内に住む妹の家に泊まって25日夜に帰ってくる予定です。わたしのできることは、祈ること。それだけです。どうか、父が苦しまないですみますように。イエス・キリストを信じ、平安が与えられますように。
      

ネットコースを始めて

2006-02-23 11:50:24 | お茶の水聖書学院

 お茶の水聖書学院ネットコースの学びを初めて4週目に入りました。DVDで学び、レポートはネットで提出するので、自宅にいながらにして講義が受けられるという恩恵にあずかっています。意志の弱いわたしなので、続けられるだろうかと最初は不安でした。共に学ぶ仲間もいないし、講師の先生と直接お話もできません。メールで質問することはできますが、面と向かってお話しするのと、メールでは意味合いが違ってきます。継続して学べるのだろうかと不安を抱きながらの入学でした。
 
 始めて良かったと心から思っています。1枚のDVDに90分の講義1回分が納められています。一週間に1枚のペースで良いとのことなので、90分を2回に分けて週に2日学ぶことにしました。講義の初めに講師の先生のお祈りがあるので、心を合わせて祈ります。時を同じくして祈っているのでもなく、お目かかったことのないかたの祈りですが、「キリストが十字架にかかって死んでくださったおかげで、いまわたしたちは罪赦されてここにおります」という祈りに涙があふれてきます。2回目のときも、お祈りの部分を再生して祈ってから始めます。

 旧約聖書概観の学びは興味深く、わくわくします。姿勢を正してメモをとりながら聞きます。旧約聖書の中にキリストの雛型がたくさん散りばめられていることを知って驚いています。

 雛型というのは金属を溶かして鋳造するとき、木や粘土で作られる型のことです。キリストが罪の贖いのために十字架にかかって死んでくださることを示す雛型が創世記にも(たとえばアダムとエバに着せられた皮の衣、ノアの箱船など)書かれています。キリストの贖罪は、神さまが天地を創造し、人間を造られたときから計画されていたことだったのだなあと改めて教えられ、胸が熱くなりました。

お茶の水聖書学院のHPは
http://obi-net.com/ です。

あなたがいる、それだけでいい

2006-02-22 17:02:31 | 日記

今日は祈祷会でヨナ書を学びました。ヨナ書は「物語り」としてもおもしろい箇所です。

ヨナは、神さまからニネベの町へいって、ニネベの滅亡を告げるように命じられました。ヨナは異教の町でそのようなことを言ったら、危害を加えられるかも知れないと恐れ、タルシシュというニネベとは全く別の方向の町へいく船に乗り込みます。すると、神さまは嵐を起こし、船は沈みそうになります。ヨナは嵐の海に投げ込まれ、大きな魚にのみこまれてしまいます。三日三晩の後、陸に吐き出されます。

その後、ニネベにいって神様から言われたことを人々に告げると、ニネベの町の人々は悔い改めました。神さまはそれを見て、ニネベを滅ぼすのをやめました。ところがそのことを知ったヨナは神さまに腹をたてます。「ニネベは滅びる」と言った自分の言葉が嘘だったことになるからです。

ヨナは嘆いて「主よ、どうかわたしの命を取って下さい。私は生きているより、死んだ方がましですから」とまで言います。そのとき、神さまは一本のとうごまの木を生えさせ、ヨナに心地よい日陰を作ります。その後、とうごまを枯らしてしまいます。ヨナはまた「死んだ方がましだ」といって怒ります。そのとき神さまは言われました。

「あなたは自分で骨折らず、育てもせず、一夜で生え、一夜で滅びたこのとうごまを惜しんでいる。まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには右も左もわきまえない12万以上の人間と、数多くの家畜がいるではないか(ヨナ書4:10.11)」
このセリフでヨナ書は終わっています。
この最後のセリフを言いたいために聖書の記者はヨナ書を書かれたのではないかと思われます。

わたしには、どうしても赦せない人がいました。深く心を傷つけられたからです。赦せない自分を責めました。自分はクリスチャンでありながら冷酷な心を持っている者だと悲しみました。でも、この箇所を読むと、神さまがニネベの町の人たちと家畜をも愛されたように、わたしを傷つけたあの人のことも、そして、わたしのことも無条件で愛して下さっていることがわかります。

「あなたがいる。それだけでいい」
という存在そのものを大切にして下さる神さまの愛に感動で胸がいっぱいになりました。



ペイ・フォアード

2006-02-21 11:50:58 | 日記
花かんざしの蕾が次々と開いてきました。春の訪れを喜んでいるようです。

2月6日に「愛の連鎖」という日記を書いたら、「ペイ・フォアード」は愛の連鎖がテーマの映画だと友人が教えてくれたので、レンタルビデオ屋さんで借りてきて見ました。とても感動して、最後は涙、涙でした。

 中学一年のクラスで社会科の先生が「もし、きみたちが世界を変えたいと思ったら何をするか」と問いかけをするところから始まります。 トレバーが考えたことは、人を助けること(愛の行為)をして、助けられた人は3人を助けることにすれば、3人が9人、27人、81人……と世界中に広がっていくということでした。 でも、トレバーが願うようにはなかなかうまくいきません。トレバー自身もいじめられている友達を助けられなくて悩みます。アルコールホリックやドラッグ、虐待、ホームレスの問題もからめられていて、とてもいい作品です。結末はあえて書きませんが、まだご覧になっていない方はぜひご覧ください。

 ペイ・フォアードは日本語では「可能の王国」というタイトルですが、pay forwardとはどういう意味なのかと思って調べてみました。
英語で「恩を返す」というのをpay backというそうです。これは、恩を返すのではなく、恩を受け渡すということなのでpay forwardという題名なのだと知り、なるほどと思いました。

 最大の愛の行為は、イエスさまがわたしの身代わりになって十字架にかかって死んで下さったことです。それに対して、pay backすることができません。だからpay forwardしていきたいと思いました。


家庭集会

2006-02-16 18:59:28 | 教会
「書くこととわたし」はまだ続きますが、今日はお休みします。

今日は我が家での家庭集会でした。牧師先生と5人の友人が来て下さいました。家庭集会を開くには掃除をしたり、昼食の用意をしたり、何日も前から準備します。特に掃除は苦手で、普段いい加減に掃除をしているのですが、このときばかりは真剣(?)に掃除をします。おかげで2か月に一度、我が家は普段と違って、とてもきれいになります。

 わたしにとって、掃除や料理より、体調を整えることがいちばんです。もし、当日具合が悪くなって、できなくなってしまったら、楽しみにしている人たちをがっかりさせてしまいます。体調が良ければ、多少料理がまずくても、掃除が行き届いていなくても大丈夫。笑顔でカバーできます。今回は2日前が病院の日だったので、ちょっと大変でした。
今日の日のために祈ってきました。祈りはきかれました。昨日は、体がだるくて黄色信号でしたが、今日は体調良好でした。

 今日の学びは聖書のマルコの福音書11:12-18です。空腹になられたイエスさまが、葉の茂ったいちじくの木に実がなっていなかったので、木をのろって「今後、いつまでも、だれもお前の実を食べることがないように」と言われたという箇所です。この箇所は、大変誤解しやすいところだと思います。わたしも、最初に読んだとき、実がなっていないからといって木をのろうなんて、イエスさまらしくないなあ……と、思いました。

 でもイエスさまは、木をのろったのではなく、いちじくの木を視覚教材として、イスラエル人たちに大切なことを教えようとしたのだそうです。当時のイスラエル人は、見かけは立派で、熱心で信仰深そうですが、内実は違っていました。見かけと内実にギャップのある者たちに、そのことを気づいて欲しいと願って、いちじくの木にそう言われたのだと教えていただきました。
ここで注意したいことは、イエスさまは、見かけと内実のギャップがあることが悪いと言っているのではないということです。自分の中にギャップがあることに気づくことが大切なのだと聞いて、わたしはほっとしました。

 正しいことをしようと思っているのにそれができない自分に気づき、苦しむことがよくあるからです。聖書のローマ人の手紙7章にパウロはこんなふうに書いています。

「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです」
「私は、本当にみじめな人間です。だれが、この死の体から私を救い出してくれるのでしょうか。私たちの主、キリストゆえにただ神に感謝します」


こんなギャップのあるわたしでも、赦し、招いて下さるイエスさまに感謝!


がんばれ、ノルバちゃん

2006-02-14 17:15:22 | 乳癌
 今日の題名をみて、トリノオリンピックのこと?と思われた方がいるかもしれませんが、違うんです。ノルバとはノルバテックスという薬の名前です。

 今日は、病院の日でした。2週間前に行った検査結果を聞く日でもあります。
内科、外科、婦人科の順で受診しました。待っている間、ちょっとドキドキしましたが、いつもより落ち着いていられました。今朝のディボーションで読んだ詩編23篇を思い出していたからかもしれません。

主はわたしの羊飼い。
私は、乏しいことがありません。
主はわたしを緑の牧場に伏させ、
いこいの水のほとりに伴われます。
主は私のたましいを生き返らせ、
御名(みな)のために、私を義の道に導かれます。
たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、
私はわざわいを恐れません。
あなたが私とともにおられますから。
(詩編23編1-4)


再発転移していませんでした。血液検査の結果は、白血球も赤血球も正常値から大きくはずれており、鉄剤を毎日飲んでいるのに貧血もまだまだ改善されていませんでしたが、子宮癌検査の結果も異常なしでした。
子宮筋腫は少し様子をみましょうということでした。すぐにでも手術といわれるのかと思っていましたが、ほっとしました。

乳癌のあと、再発予防のためにホルモン剤ノルバテックスを飲んでいますが、「ノルバテックスのおかげで、大きな筋腫が3つもあるのにもかかわらず、いままで大丈夫だったのですよ」と婦人科の医師にいわれました。効き目は人によって違うそうです。
 先月は、何らかの原因でノルバテックスの効き目が低下し、大量に出血したのでひどい貧血になったけれど、これが毎月ではなく、年に一度くらいなら手術することはないでしょうと言われました。ただし、次に出血したときは、すぐに病院に行かないと危険なのだそうです。

 思わず「がんばれノルバちゃん」と心の中でいいました。ノルバテックスが頑張ってくれたら、手術しなくてすむかもしれないのです。もっとも、子宮筋腫が大きくなってきているのもノルバちゃんのおかげでなんですが……。
 でも、わたしの体の中のこと、すべてを支配している神さまが最も良いようにして下さると信じていますから心配はありませんが、どうかお祈り下さいね。

 この画像は帰り道で撮ったりんりんロードの入り口です。りんりんロードは昭和62年に廃線となった筑波鉄道の敷地を利用して作られたサイクリングロードで、土浦から筑波山入り口、真壁を経由してJR水戸線の岩瀬駅まで続いているそうです。(40.1㎞)
 貧血が治ったら、このりんりんロードを走ってみたいと思っています。希望へ続く道のような気がしてきました。


「書くこととわたし」はまだ続きますが、今日はお休みします。

工事中

2006-02-12 17:11:01 | 日記

この画像は、土浦めぐみ教会の正面です。入り口を入ったところが礼拝堂で2階になっています。1階はホール。中庭には納骨堂付きチャペルがあり、その向こうには広々とした駐車場があります。今日は風が強くて教会まで自転車での往復が大変でした。特に帰りは飛ばされそうでした。
今日は「書くこととわたし」は一休みして、礼拝メッセージから受けた恵みのお裾分けをしましょう。

今日のメッセージの中でいちばん印象に残った言葉は「工事中」という言葉でした。

「わたしは工事中です。あなたも工事中です。有益と思うことを受け取り、無益と思うことは無視して下さい。わたしは、神の真理をさがそうと手探りしている者です。神さまはわたしの中で業(わざ)をし続けているのです」

 
ある本のあとがきにこのような文章が書かれているそうです。同じ一冊の本を読んで、人によっては、賞賛し高く評価しますが、ある人は批判します。それは、どんな本に対してもありうることだと思います。
ブログに掲載している記事に対しても当てはまります。普通は文章を書いてから何度も推敲を重ね、日にちをおいてからまた読み直して推敲し、完成させています。それでも完全な文章は書けませんが……。ブログはその日に書いて、2.3回読み直しただけで公開しています。ですから不充分ですし、工事中である者の内面から出てきた文章なので、的はずれなことを書いていることもあるかもしれません。

「完全な人間はいませんし、みんな不充分な者です。完全な者になることをめざして工事がなされているところです」

と牧師先生はいわれました。

自分も含めて、みんな工事中で不充分な者であると思えば、人の過ちや欠点をみつけて鬼の首をとったようになることはしないでしょう。

聖書では、わたしたちのことを体の各器官にたとえています。

「もし一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。(Ⅰコリント12:26)」


お互いが工事中の身であるということを自覚して、思いやりを持つことができるといいですね。

み言葉(聖書の言葉)がわたしたちを成長させ、み国をつがせて下さいます。ひたすらみ言葉に耳を傾けましょう
と、メッセージはしめくくられました。



愛の連鎖

2006-02-06 12:02:09 | 日記

童話「ボケの住む町」を更新しましたが、なぜ「いじめ」をテーマに書いたのかお話したいと思います。
数年前になりますが、教会学校で父母との個人面談でショッキングなことを聞きました。

小学2年生の男の子が、上級生に口のききかたが生意気だと取り囲まれて、脅されたというのです。その男の子は恐怖のためしばらく学校へ行けなかったそうです。
中学でのできごとならそれほど驚きませんが、小学校で実際に起きたことです。

また、小3の男の子のお母さんからは、テニス教室で同じ学年の男の子から、何もしていないのにすれ違いざまにひどい言葉、傷つける言葉を毎回のように言われているのだと聞きました。その男の子は、母親にいつもひどい言葉でどなりつけられているそうです。

わたしは、虐待は連鎖するのか?という問題について去年調べました。色々な例を調べているうちに、子供を虐待する親は、親自身が子供の頃虐待されていたというケースの多いことに気づきました。もちろん、虐待を受けた子供がみんな虐待をするようになるわけではありません。でも、たしかに連鎖は起こっているのです。

言葉によるいじめ、暴力によるいじめも連鎖が起こります。親から子へだけではなく、子供から子供へ。子供から動物へ……。

強いストレスを受け、そのはけ口を自分の子供に向けてしまうことは、私自身も経験があります。自分のかかえている問題が解決できなくて、子供に当たり散らしてしまったことがありました。

「弱い者に対して接するその態度があなたの本当の姿です」と、礼拝のメッセージで聞いたとき、自分が恥ずかしくなりました。目上の人や友人には腹の立つことがあっても文句もいわず、ニコニコしているのに、自分の子供には自分の醜い思いを押さえることができず、ぶつけてしまっていたのでした。

親も子供もストレスをかかえている者が多い現代です。虐待やいじめの連鎖をどうしたら断ち切ることができるでしょう……。

ボケが拓也の代わりにかみつかれたというのは、キリストがわたしたちの身代わりにむち打たれ、十字架につけられたことを意味します。
イエス・キリストは言われました。「あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行いなさい。(ルカ6:27)」
キリストの愛の行為を行うことによって虐待やいじめの連鎖は断ち切られます。断ち切るものは、愛しかないのでは?……。

虐待、いじめの連鎖ではなく、愛の連鎖が起きていったらいいなあと願いつつ書きました。


罪無きものとされ

2006-02-05 17:31:50 | 教会

今日はとても寒いですが、いい天気でした。つくば山がくっきりと見えました。

罪ある者が
罪あるままに
罪無き者とされた
それは罪無きかたが
罪そのものとられたからである


今日の礼拝メッセージの中で紹介された藤尾正人牧師の詩です。
罪無きかたというのは、神のみ子イエス・キリストのことです。罪のないイエス・キリストが、罪に満ちたこのわたしのために十字架にかかってくださったので、わたしは罪なき者とされました。「罪そのものとなられた」というところを読んで涙があふれました。

罪を赦してもらうためには何の努力も、何の行いも必要がありません。ただ、イエス・キリストを信じるだけで、罪なきものとされたのです。

何と嬉しいことでしょう! 喜びが沸き上がってきました。ありがとうの感謝の気持ちで何かをしたい。このあふれる感動を伝えたいと思いました。



立春

2006-02-04 11:28:56 | 日記
これは、昨日の夕方撮った写真です。
日陰にいつまでも残っていた雪がようやくすっかり溶けました。雪かきして集めた雪がそのまま空に浮かんでいるようです。そういえば、今日は立春。

入学しました

2006-02-01 12:48:48 | お茶の水聖書学院

昨日、夕方から雨になるという天気予報を信じて病院へ自転車で行きました。帰りはお昼過ぎだったのですが、買い物をしたり、銀行に寄っていたら雨が降り出してきて、あわてて帰りました。カッパは着ていたのですが、雨に当たったせいか風邪気味で今日は教会の祈祷会をお休みしました。絶対に風邪ひいてはいけませんといわれている身です。(それは無理なことですが……)使い捨てカイロをスカーフにつつんで首の後ろに当て、熱いしょうが湯に友人からお土産にいただいた花梨はちみつをたっぷり入れて飲むと、身体が温まってきました。今日はおとなしく家にいることにします。

かねてから、聖書を本格的に学びたいと思っていました。神学校に聴講生として通えないかと考えたこともありましたが、体力のないわたしにはとても無理です。お茶の水聖書学院(OBI)でネットコースが始まったことを聞き、自宅で自分のペースで学べることを知り、興味を持ちました。でも、ネットコースだとよほど意志が強くないとできないと思い、しばらくためらっていました。

神さまは、ご自分のことを聖書にあらわして、わたしたちに理解してほしいと望んでおられます。聖書を読みたくても手に入らない国があるのに、わたしの家には何冊も聖書があって、いつでも読むことができます。それなのに、あまり熱心に読んでないし、とくに旧約聖書はわからないことだらけです。教会学校で子供たちにお話するのにも、聖書理解が充分でないまま話さなければならないことがあって、そんなときは子供たちに申し訳ないと思っていました。

聖書を学びたいという気持ちは、去年から日に日に募っていきました。今年に入ってから聴講生として受講することを決心し、牧師先生に推薦状を書いていただいて申し込みました。そして、その教材が昨日届いたのです。ネットコースなので入学式はありませんが、講師の先生から「入学おめでとう」のメールをいただいて、この年にして入学なんて、嬉しい!と思いました。

今日、さっそく旧約聖書概観のDVDから講義を受けました。家にいても、姿勢を正してしっかりと聞こうと思います。途中で挫折しないように祈りつつ。

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