生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

娘への手紙

2015-11-25 16:28:51 | 家族
21日に娘が結婚式を挙げました。お天気にも恵まれ、祝福された式、披露会でした。
娘あてに書いた手紙を紹介します。

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親愛なるMちゃんへ
Mちゃん、結婚おめでとう。Mちゃんが、「結婚したい人がいる」と言ったとき、心から嬉しく思いました。そして、人を見る目があるMちゃんが選んだ人だから、相手の方は、きっと優しい人だろうなあと思いました。本当にそうでしたね。

Mちゃんが生まれた時、わたしは喘息で入院してしまい、どうなることかと思いましたが、ミルクをよく飲み、よく眠り、すくすく育ちましたね。
わたしが退院してからは、お兄ちゃんがやきもちをやくので、なかなか落ち着いて相手ができませんでした。でも、お兄ちゃんがいないとき、Mちゃんをぎゅっと抱きしめて「なんて可愛いんでしょう。こんな可愛い子いないよ」と何度も言ってたの覚えてる?(覚えているわけないよね)

Mちゃんは、2歳前ぐらいから自分の意志をはっきり示すようになって、意志にそぐわないときはギャーギャーといつまでも泣いていましたね。ずいぶん長い反抗期で、わたしはへとへとでした。

でも、自分の考えを持ち、意志をはっきり示すことは、大人になってプラスに働いているので嬉しく思っています。あの時期はMちゃんの人格形成に必要だったのかもしれませんね。
また、気が強く、幼稚園ではOちゃんと引っかきあいをしたり、近所ではKちゃんとはたきあいをしてハラハラさせられましたが、今になると笑い話だね。

気が強くなったのは、100%お兄ちゃんのおかげだと思っていたけれど、オーママ(祖母)からきているのかもしれないと、最近思っています。

Mちゃんが高校を卒業して一人暮らしを始めたときは、心配でたまりませんでした。携帯が2日間もつながらなかったり、学校へ来てないと先生から電話があったり……。犯罪に巻き込まれたのかと思って、いのちの縮む思いがしました。
「心配のし過ぎだよ」と言う声が聞こえてくるようですが……。この気持ちは親にならないとわからないでしょうね。

「東京で一人暮らしを始めたら、もうずっと戻ってこないかもね」と色々な人から言われ、寂しい気持ちでいっぱいでした。でも、卒業して戻ってきたときは本当に嬉しかったです。ちょうどお兄ちゃんが結婚して家を出たので、タイミングよかったよね。
それから8年……。一緒に暮らせて楽しかった。旅行も一緒に行けたしね。

この8年の生活があったから、今回嫁いで行ってしまうことを寂しく思いません。(少しは寂しいけどね)
短気でせっかちな性格のわたしなので、Mちゃんをいらいらさせることがあったけど、Mちゃんのおかげで「待つ」ということを学びました。そのほかにもたくさん教えられました。ありがとね。

わたしは母親としては失格点だったけど、わたしをはるかに超えていい娘に育ってくれてよかったです。育ててくださったのはイエス様ですね。
これからは、Yくんと仲良く生きていってください。

結婚すると、結婚前には知らなかった面をみることになります。こんなはずじゃなかったのに……と思うこともあるでしょう。また、育った環境が違うので、お互いに感性や習慣、考え方などが違うことに気づくでしょう。でも、違っているのは当たり前のことです。よく話し合って違いを認め合えるといいね。

何よりもいちばんに神様がYくんと出会わせ、伴侶としてくださったことを心に留めてください。
喧嘩しても、本気で喧嘩してはだめですよ。Mちゃんが以前「相手が悪くても、自分にも悪いところがあると思う。お互い様だと思う」というようなことを言っていたけれど、それは素晴らしい発想です。このことを忘れないでね。

それから、三浦綾子さんの本に「不機嫌は罪です」書いてあったけど、不機嫌にしていると周りの人が嫌な気持ちになるので、気を付けてくださいね。
あっ、お説教めいたことは書かないつもりだったのに……説教臭くなってごめんなさい。
とにかく、イエス様を見上げて新しい家庭を築いていってください。  母より


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娘も手紙を書いていて、披露会で読んでくれました。「わたしは育てにくい子だったと思います」と書かれていました。小学4年の時骨折して、母に松葉杖ごと自転車に乗せて病院へ通ってくれたことを感謝しているというのを聞いて、そんなこともあったなあ……となつかしく思い出しました。

娘の晴れ姿を母に見てもらいたかった……。でも、主人の母が結婚式に参列してくれたので、嬉しかったです。




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病気になるために生まれたの?

2015-11-19 16:36:09 | 教会


昨日水曜礼拝で「子どもたちのいのち」という題のお話を聞きました。

今年、日本で、そしてアジアで初めて「こどもホスピス」が大阪に設立されたそうです。
『治らない病気の子どもに希望と癒しを与える』ために作られたと聞きましたが、治らない病気の子どもに希望や癒しが与えられるとはどういうことなのでしょう。

『死にゆく魂の痛み』には、4つの種類があるそうです。
①人生の意味への問い

小児がんにかかった子どもが「ぼくは病気になるために生まれたの?」「何のために生まれたの?」と問いかけたそうです。

同年代の子どもは、勉強をしたり遊んだりして元気に過ごしているのに、なぜ自分はこんなにつらい治療を受けなければならないのかと思うのは当然ですね。

②苦しみの意味への問い
5歳の子が「何で病気になったの?」と問いかけたそうです。母親は答えられなかったそうです。
病気になった理由が知りたいのです。旧約聖書に出てくるヨブもその理由を神様に問い続けました。

③死の恐怖
「死んだらどうなるの?」「真っ暗で何もないところに行くの?」と恐怖を抱くのは当然です。

④死後の世界への問い
死後の世界はどうなっているのか。ひとりぼっちになってしまうのか?
いつ死ぬかではなく、死んだらどうなるか知りたいのです。

死ぬ瞬間はひとりで迎えなくてはならないということ。どんなに愛していても親は子どもと一緒に死ぬことはできないのです。

この4つの問いは子どもだけでなく、大人も抱く問いです。

その答えは、聖書に書かれています。
①と②は、苦しみの最中にはわからないかもしれません。でも③と④については、明らかです。
死という最大の敵を滅ぼし、死に勝ったイエス・キリストがおられるので、死は恐怖ではなくなりました。肉体のいのちが終わるときは、イエス様が迎えに来てくださいます。
だからひとりで死を迎えることはないのです。


聖書の言葉

しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた。」としるされている、みことばが実現します。(1コリント15:54)


「素晴らしい人生」という詩を紹介します

あなたが生まれたとき、
みなが笑って、あなたは泣いたでしょう。
だから、あなたが死んだとき、
みなが泣き、あなたは笑っているような、
そんな人生を送りなさい

 

日本クリスチャン・ペンクラブ(JCP)のHP更新しました。ここをクリックしてご覧ください。



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天使の微笑み

2015-11-13 20:26:11 | その他
この間の日曜礼拝では幼児教育の祖といわれるフレーベルの詩が紹介されました。

神さま
あなたは妻である私をとても幸福にしてくださり
この世の生を天上の喜びで飾ってくださいました
今あなたは私を人間の最高の位にお選びくださり
あなたのおかげで私は天使を産みました

父なる神さま 生命の永遠の泉よ その泉を
この子のためにもその流れを 勢いよく 清くすきとおるように
お放ちください

私たちはみんなあなたの子どもです。あなたの家族です
それゆえ 私たちがいつもひとつの愛で あなたに結ばれていますように



天使を産みましたと書かれているところ、思わず笑みがこぼれます。赤ちゃんは本当に天使のようですね。
生後間もない赤ちゃんが、あやしたわけでもないのに、ニコッと微笑む『天使の微笑み』は、単に赤ちゃんが神経反射で顔の筋肉を引きつらせているだけで、特別な感情はないそうですが、生きている喜びを表しているような気がしてなりません。
赤ちゃんは、善意を信じ切って抱かれます。疑いや悪意を知りません。そんな赤ちゃんが虐待を受けたりすることがないように祈ります。

今日は児童文学者協会茨城支部の集まりでした。数編の作品がよせられ、合評に花が咲きました。わたしはまだ落ち着かず、作品は書けませんでした。来年になったら書けるでしょうか……。
「どんなに疲れても書かずにはいられない」と言った友の言葉が心に残りました。




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決してあきらめない理由

2015-11-08 16:16:06 | 教会
水曜礼拝で隣に座った方は、90歳近くのIさんでした。
個々に祈る時間があり、そのとき、Iさんは声に出して祈られました。最初は自分の祈りをしていたわたしでしたが、祈りの声に耳を傾けるうちに、いつの間にか心を合わせて祈っていました。

祈りの中で、「年をとって耳が聞こえなくなり、体が思うように動かなくなり、頭がぼんやりしてきます。初めての経験ですが、神様がそのようにしてくださったのには意味があるのでしょう。感謝します」と言っておられるのを聞いて、はっとさせられました。

確かに人はどんな人でも老いていきます。若い時は、自分はそのようにはならないと思っています。いや、思いたいのです。
でも、実際耳が遠くなり、目がかすみ、体が思うように動かなくなると、感謝を忘れ、嘆くことばかりになってしまいがちです。

老いていくことは初めての経験と言われたIさん。神様がそのようにしてくださったと、老いを受けて入れている姿に心打たれました。
わたしもじわじわと老いを実感する年になりました。Iさんのように老いを感謝できるようになりたいです。

水曜礼拝は、横田早紀江さんがライフラインに出演された番組のDVDを見せていただきました。

新しく出版された本「いのちの授業」(フォレストブックス)には、立川第七中学校での横田さんご夫妻の講演録、中学生との交流会、講演会を終えての生徒の感想文、教師のことば、早紀江さんのあとがきメッセージが書かれています。

早紀江さんは、めぐみさんが拉致されたときの年齢である子どもたちに会うのは辛かったそうです。でも、その子どもたちに拉致という事件があったこと、まだ解決されていない問題であること、そしていのちの大切さを伝えたいという思いをもって話されたと聞きました。

毎日、事件、事故が起こり、ニュースで放映されます。でも、しばらくすると過去の事件や事故のことは放映されなくなり、人々は忘れていきます。

でも、愛する子どもが13歳という年でいなくなり、20年たって北朝鮮に拉致されたことがわかり、その後18年たっても救出できないでいるという過酷な状況に置かれている横田さんご夫妻のことを思うと、拉致事件のことは決して忘れてはいけないのです。めぐみさんはじめ、拉致被害者の方々の救出のために祈り続けなくてはと思います。

気の遠くなるほど長い間、わが子が救出されることを待っている早紀江さん。何度かチャンスが訪れたように思えたのに、一向に解決されず、年月だけがたっていきます。でも、早紀江さんは決してあきらめません。
あきらめないでいられるのはなぜでしょう……。


以下は
いのちのことば社の小冊子からの引用です


「神は愛です」と聖書にあります。神はきよくて、正しく愛にあふれたお方だということを、そして、私たちは、その方の手の中に包まれて生かされているのだということをいつも思わされています。
私が人生の意味がわからなくても、神が私の人生に意味をもってくださっていると信じます。どんな時も、輝く日の光が私たちすべてに降り注がれています。野には花が咲きます。
全ての人が大きな力に包まれて、いっしょに生かされています。うつむくときも、背中に太陽の熱を感じます。誰も見ていないように思えるときにも、神は私たちを心にかけておられるのです。
神が私をあきらめないで愛してくださっています。だから私はあきらめないでいられるのです。                  
                                      (全国家庭文書伝道協会・文:横田早紀江)


一日も早くめぐみさんたち拉致被害者の方々全員が帰国できるようにお祈りします。



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確かな希望

2015-11-02 11:39:12 | 教会
母が召されてから一か月たちました。
早いような遅いような……。悲しみに暮れる暇もなく、立ち止まっていられない日々を過ごし、今少し落ち着いたところです。

忙しいと寂しさを感じないものですが、余裕が出てくるとじわじわと悲しみが襲ってきます。ホームの近くを通ると、思わず見上げて母のいた8階の部屋の窓をさがします。もうホームの部屋はすっかり片づけてお返したのに。

母と似たような後姿の高齢者が歩いていると、母かもしれないと思わず声をかけそうになったり……。生活のあらゆる場面で母を思い起こし、もっと母にしてあげればよかったのに……と思うことは尽きません。


昨日は教会で召天者記念礼拝がありました。なんとタイムリーなのでしょう。

「愛する人の死は、最大の別れ、最大の悲しみです。死という断絶があって、地上では会って話すことができないという寂しさがあります。でも、天国で再会できるという希望があります。」
牧師先生が語られました。

希望とは、確かなものなのでしょうか。不信仰なわたしは、ふと不安になります。
でも、その希望には、根拠があるというのです。

希望について聖書には次のように書かれています。
「あなたを造り、あなたを母親の胎内にいる時から形造って、あなたを助ける主はこう仰せられる。『恐れるな。わたしのしもべヤコブ』(イザヤ44-2)」
天地万物、いっさいのもの(わたしたち人間を含む)を創造されたのは神様なので、恐れることはないと言っておられます。


「あなたがたは、心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。(ヨハネ14:1-2)」
これはイエス様ご自身が語られた言葉です。

母がホームにいるとき、わたしはこの聖書箇所を読みました。母は何度もうなずいていました。

天地万物を造られた神様は、わたしたちが地上の生涯を終えるとき、迎えに来てくださいます。住まいを用意し、そこでずっと暮らせるようにしてくださるのです。

聖書に書いてあるのですから、それは本当のことです。

「わたしはアルファでありオメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都にはいれるようになる者は幸いである。(黙示録22:13)」


天国の門に入るときは、天の軍勢が迎えに来て歓迎してくださいます。
母はもう、天国の門に入っているのですね。天国のラッパの鳴り響く音が聞こえてくるように思いました。



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