27日は、義母と母と3人でお台場にいってきました。わたしと主人が結婚して以来、義母と母は気が合うようで、よく一緒に出かけていました。子供が小さいときは、毎年春休みに子供どもたちと義母と母とわたしで小旅行に出かけていました。義母が体調をくずし、母が父の看病で忙しくなって、しばらくの間会っていませんでした。会いたいという2人の願いで、お台場見学をしようということになったのです。
わたしは案内役でしたが、何年も関東に住んでいながら、わたしもお台場は初めてで、ネットで調べて案内しました。その前の日に行った六本木も初めてだったのです。これで遠方から来られた友人を案内できます!(かなりの方向音痴で、迷わない自信はありませんが)写真はフジテレビ展望台から見た景色です。
昨日の礼拝では「神に召し出されたように」という題でのメッセージがありました。
おのおの自分が召されたときの状態にとどまっていなさい。(Ⅱコリンント7:20)
とパウロがコリントの教会宛に送った手紙に書かれています。神に召し出されるというのは、神さまの招きに答えること、つまりキリストを信じることです。
結婚してからキリストを信じた人は、そのまま結婚生活を続けなさい。割礼を受けている人もいない人もそのままでいなさい。重要なことは、神さまの命令を守ることです。とパウロは薦めています。
クリスチャンになったからといって、急激な変化を求められるわけではありません。『召されたままの状態でいなさい』というのは、そこに神さまの意図があるのだそうです。
確かに、洗礼を受けたとき、性格や生活が180°変わるわけではありません。もちろん、劇的な変化をする人も中にはいますが、変わらない人の方が多いのではないでしょうか。わたしも、洗礼を受けても相変わらずわがままで癇癪を起こしていました。すぐに変化するものだと思っていたのに変わらないことが悩みでした。
しかし、変化はゆっくり起こるのです。それは努力ではなく、神さまがキリストと似た者になるようにと私たちを少しずつ造りかえて下さるのです。
「身分、境遇、過去の体験などをネガティブに受け止めて嘆く人が多いですが、たとえ苦しい体験をしたとしてもそれを神さまの祝福として受け取ることができたら幸いです」と牧師先生が言われました。
先日トラクトにあかしの執筆を依頼されて、さきほど書き終えました。救いの証ですから、今まで書いた物です。それを推敲し、制限字数内におさまるように書き直しました。書いていて、自分の辛い過去の経験が祝福であったとしみじみと感じました。辛い経験がなければ、キリストに出会わなかったと思えたからです。
苦しみにあったことは、私にとって幸せでした。私はそれであなたのおきてを学びました。(詩編119:7)