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生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

どんな状態になっても

2015-12-29 15:49:28 | 日記
この一年ほど激しい変化のあった年はありませんでした。何の抵抗もできずに激流に流されながらも、行きつくところはイエス様が用意してくださっていると思っていたので、安心していられました。
激動は、母が胃癌と診断された去年から始まっていて、2014年を漢字一字で表すとしたら……「激」という文字を掲げています。
2015年は何の字にしましょう……。
どんな状態になっても祝福をいただけることを体験したので「祝」にします。

今日読んだ聖書に「二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。
また、あなたの頭の毛さえも、みな数えられています。
だから、恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。(マタイ10:29-31)」
と書かれていました。

いろいろなことで不安になるときがありますが、神様は一羽の雀のことさえ考えてくださっています。雀よりすぐれたわたしたちを見捨てたり見放したりするはずがありません。


目を上げると目の前の壁面に祝福の祈りが貼ってありました。紹介します。
       
     祝福の祈り

主があなたの前におられるように。
 あなたの正しい道を示すために。
主があなたのかたわらにおられるように。
 あなたを胸に抱き、守るために。
主があなたの後ろにおられるように
 あなたを悪人のたくらみから守るために。
主があなたの下におられるように
 あなたが倒れるとき助け、わなから救うために。
主があなたの中におられるように
 あなたが悲しむとき慰められるために。
主があなたを囲んでおられるように
 他の人々があなたを襲うとき、防ぐために。
主があなたの上におられるように
 あなたを祝福するために。
 いつくしみの神がこのように
 あなたを祝福なさるように。


ブログを読んでくださっているみなさまに、2016年もたくさんの祝福がありますように!

これから娘夫婦が来て、明日は妹一家、明後日は長男一家が入れ代わり立ち代わり来て、にぎやかな年末年始になりそうです。



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本当の平和

2015-12-25 15:36:44 | 教会
20日の日曜日、小学科のクリスマス会が行われました。
クリスマス会は、これまでは劇をすることが多かったのですが、今年の低学年は世界のクリスマスというテーマで準備してきました。4つのグループに分かれ、ポーランド、ケニア、韓国、ブラジルのクリスマスを調べて発表しました。

低学年の子どもたちに「他の国ではクリスマスをどのように祝っているのでしょうか。海外の方々や、海外でクリスマスを過ごした人にインタビューしてみましょう」と言うと、「めんどくさい。ネットで調べたらいいじゃん」「ぐぐってみたら」という声が聞こえてきました。
わからないことがあったらすぐネットで調べる習慣がついてしまったのは、大人だけではないようです。確かにインターネットを使うと瞬時に色々なことがわかります。いえ、わかった気になります。でも、実際とは違うことも多く、色々な情報があふれているので、何が本当なのかわからなくなってきます。

インターネットではできない、じかに話すこと、触れること、共に賛美し、祈ることをしながらクリスマスの準備をしてきました。幸い土浦めぐみ教会には、海外の方が多くいらっしゃいます。
インタビューしていくうちに子どもたちもやる気になってきました。そして、いくつもの新しい発見をしました。

日本では当たり前に食べているクリスマスケーキは食べないというブラジル。ポーランドではお肉を食べず、何種類もの鯉料理を作って食べるそうです。

韓国は日本と同じようにケンタッキー・フライド・チキンやケーキを食べるそうです。
ケニアとブラジルは暑い季節にクリスマスを迎えます。
ケニアではサンタクロースがパラグライダーに乗って降りてきます。ブラジルでは、街角にサンタクロースがいて、子ども達の願いを聞いてくれるそうです。

日本ではクリスマスが終わるとすぐ飾りを片付けてお正月モードになりますが、海外ではしばらく飾りはそのままにしておくところが多く、三人の博士がイエス様を拝みに来るまでに2週間かかったので、それまでクリスマスの飾りを飾っておくという国もありました。

また、クリスマスの日はお店がいっせいに休みになります。教会に行ってクリスマス礼拝を捧げるからです。
日本は、クリスチャン人口が少ないので何を祝っているのかわからずにお祭り騒ぎをしている人たちが多いですが、教会に通う人たちはイエス様の誕生を心からお祝いしています。

発表の後に「ぼくらはひとつ」という歌を賛美しました。歌詞を紹介します。


 ぼくらはひとつ        若林栄子作詞・作曲

ぼくらは手をとって ずっと歩いてく
生れた国は違っても
おなじ空の下で 生かされ愛されてる
ぼくらは神さまに
笑顔はひとつ なみだもひとつ
神さまによって 心はひとつ
賛美もひとつ いのりもひとつ
神さまにあって ぼくらは ひとつ 


イエス様は「平和の君」であると聖書に書かれています。国や民族や肌の色が違ってでも神様によって造られたのです。ルーツをたどっていくと世界中の人がアダムとエバの子孫になります。
ここまで書いたとき、休憩して新聞(読売新聞)を読みました。すると子どもの詩の欄に小学三年生の岩野イチローくんが書いた「今」という詩が載っていました。

ママがいるから「ぼく」がいる/おばあちゃんがいるから/ママがいる/ひいおばあちゃんがいるから/おばあちゃんがいる……/じゃあ/一ばんさいしょにうまれた人はだれがうんだんだろう

批評には、「皆が一度は疑問に思うこと。この難題を解いた人はいるのでしょうか?」
と書かれていました。

鶏が先か卵が先か……にもつながることですが、聖書には神様が最初の人アダムを造ったと書かれています。塵で作り、その鼻にいのちの息を吹き込んでくださったのです。いちばん最初の人間は、だれかが生んだのではなく、神によって造られたのです。

さて、本当の平和とは何でしょう。自分の国の益になること、自分の国の平和だけを望むこと、それは本当の平和ではありません。本当の平和は、どの国の人でも神様によって造られたのですから、自分と同じように大切にし、愛し合おうと努力することから始まります。

平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。(マタイ5:9)
平和の君であるイエス様が地上で生まれてくださったことを感謝して、

                メリークリスマス!!

追記

日本クリスチャンペンクラブのHP更新しました。ここをクリックしてごらんください。




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母のメモ書き

2015-12-24 17:56:55 | 日記
納骨の旅が終わってほっとしていると、常に母のことを考えている自分を発見しました。

料理をしていると、この味は母の好みだったと思い、ショッピングセンターに出かけると、母を車椅子に乗せて妹と買い物したことが思い出され、文章を書くと、書き上げたら母に読んでもらおう。何て言ってくれるかなと思って、読んでもらえないことに気づいたり……。
何をしても母と結びつけてしまいます。

もうすぐお正月だなあと思ったとき、去年までは実家に帰っていたのになぜ実家がなくなってしまったのかと思います。頭では分かっていても納得がいきません。

なぜそんなに母を慕うのか、自分でもわかりません。

母は江戸っ子気質で思ったことをズバズバ言う性格でした。ドジで失敗ばかりしているわたしを、「何やってんのよ!」と叱りつけることもありました。情けないことにわたしは50歳過ぎても、叱られて泣いていました。

母が召される一週間ぐらい前のこと、「苦しいから早く天国に連れて行ってとイエス様に頼んでいるのに連れて行ってくれない。イエス様はちゃんと来てくださるのかな」とつぶやいたことがありました。末期がんの痛みは出ませんでしたが、体のあちこちに水がたまって苦しかったようです。
ふと、本当に母はイエス様を信じて天国に行ったのだろうかと不安になりました。

そんなとき母のメモ帳が出てきました。
それは、東京の病院でバイパス手術を受けた後に書いたものでした。

手術直後はやはり相当辛かったようで、「助けてあなた。いたいよう、苦しいよう」書かれていました。『あなた』というのは、一瞬亡き父のことかと思いましたが、母は父のことを『あなた』とは呼んでいなかったことを思い出しました。

 
母は詩編23篇を暗記しており、そこに書かれている『あなた』が天地万物を造られた神様であることを知っていたのです。
前にも書きましたが、わたしには「ずっとイエス様に祈っていたの」と言い、「ほとんどイエス様を信じているけど、まだ洗礼は受けない。苦しい時の神頼みになるから」と付け加えたのでした。

そのときから母の心はイエス様に捕えられていたのです。疑いの気持ちを抱くほどに信じていたのです。
イエス様は確かに母を天国に連れて行ってくださったんだと思ったとたん、ほっと心が安らぎました。

これからは、天国で再会した時に、お母さんが天国に行ってからの出来事を話して聞かせるつもりで生きます。「何やってたのよ!」と叱られないように。

たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。
あなたが私とともにおられますから。(詩編23:4)



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仙台から秋田へ(その5)

2015-12-19 19:05:05 | その他
阿仁から田沢湖高原へ向かいました。田沢湖は美しく、車内から見ると湖の色が変化していくのがわかりました。


秋田駒ヶ岳が見えました。


田沢湖の辰子像は角度によって表情が違って見えました。どの角度から見ても悲しみをたたえているようです。

田沢湖の辰子には次のような伝説があります。たいそう美しい娘辰子は、美しさと若さを保ちたいと願い、大蔵観音に百日百夜の願いをかけました。北に湧く泉の水を飲めば若さと美しさが保たれるとお告げがあり、泉に出かけて行きます。泉の水を飲んだ辰子は、喉の渇きが治まらなくなり、水を飲み続けているうちに龍になってしまったそうです。

辰子はたぐいまれなる美貌の持ち主だったそうですが、幸せではなかったのですね。美貌ゆえ、衰えていくことを恐れたのでしょう。
辰子の話は事実ではありませんが、人はみな、心の中に悲しみをたたえており、闇を持っています。はたから幸せそうに見える人でも、空しさを感じていたり、闇を抱えていたりします。

暗闇をポンプで追い出すことはできません。暗闇を明るくするためには灯りで照らせばいいのです。
暗いところに光が照らされました。イエス・キリストの光です。ヨハネの福音書1:5には、「光はやみの中に輝いている。やみはそれに打ち勝たなかった。」と書かれています。イエス・キリストが暗い世に来てくださり、やみを照らしてくださったのです。




田沢湖高原のホテルに泊まりました。なまはげが出てきてパフォーマンスをしてくれました。


翌日は角館に向かいました。角館ではジブリの映画に出てきそうなすてきなお店を発見しました。武家屋敷を見学して田沢湖高原駅から上野に向かう新幹線に乗りました。
今回の旅も多くの恵みをいただいたことを心から感謝しています。              おわり



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仙台から秋田へ(その4)

2015-12-16 17:26:00 | その他

阿仁合(あにあい)駅に着いてから、阿仁合というのは町名ではないことがわかりました。
町の名は阿仁です。

妹は、祖母から聞いて父の生まれた場所は阿仁合だと記憶していました。わたしは荒瀬という地名を記憶していました。


ここが父の故郷なのだろうかと心配していると、荒瀬という文字が看板に書かれていて、ここに違いないと確信しました。

阿仁は鉱山で栄えた町だそうです。阿仁鉱山の歴史は古く、鎌倉時代に金山が発見されそうで、そのあと銀や、銅が掘り出され、町は活気に満ちていたそうです。



二階の窓あたりまで雪が積もると聞いて驚きました。そのようなところで父は生まれたのです。
小さな商店に入って祖母(生きていれば120歳ぐらい)の名前を言ったら、知っている方がおられ、「親戚だ! 親戚だ!」と喜んでくれました。蔵まで見せていただき、出会いの不思
議さを想いました。



阿仁はマタギの里と言われています。マタギとは秋田地方の山間に住む猟師の一団です。
                                    つづく


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仙台から秋田へ(その3)

2015-12-14 17:04:57 | その他
昼過ぎに男性陣と合流して、お寺に向かいました。親戚の方数人と、母の友人が3人も東京から来てくださいました。

3人の友人たちは、母と20年来の麻雀仲間で、年に5、6回一緒に旅行をしていました。手術後母は、友人たちに「あと3年は生きるからよろしく」と言っていたそうです。末期癌ということは知っていたのですが、高齢者は癌の進行が遅いので、自分はあと3年は大丈夫だと思っていたようです。それを聞いていた友人たちもそのように思っており、筑波山温泉に一緒に行こうと約束していたのです。
母は土浦のホームに入所してから、「もう少し具合がよくなってから皆さんをお招きして温泉に行く」と言い続けていましたが、その日は来ませんでした。

母の死を告げると、母の友人たちはとても驚いたようすでした。それで、お葬儀に行けなかったのでと、納骨の折に秋田まで出向いてくださったのです。
それだけ、母は愛されていたのだなあと思いました。

納骨後の会食の席で、わたしは母のことを語らせていただきました。
義弟が母の友人たちに「お義母さんは洗礼を受けたんですよ。それで教会でお葬儀をしたんです」と言っていたことを知って、嬉しくなりました。

翌日は主人と娘は帰って行きました。
わたしは妹一家と一緒に旅を続けました。妹が、お父さんの出生地に行きたいというので秋田県の北部にある阿仁合(あにあい)へレンタカーで向かいました。


阿仁合駅


かわいい熊の車掌さん


電車が入ってきました。


駅構内のレストランで食べた馬肉入りオムライス。とてもおいしかったです。

前の記事に秋田新幹線写真を追加しました。いちばん上の写真変更しました。
                                      つづく


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仙台から秋田へ(その2)

2015-12-13 16:31:51 | その他
翌日は秋田です。納骨は14時半からなので、午前中に教会へ行けると思っていました。最初は仙台福音自由教会のいちばん早い時間の礼拝に出るつもりでした。ところが、仙台から秋田に向かう新幹線が1時間半に1本ぐらいしかなく、しかも仙台の教会は、駅からかなり遠い場所にあるので間に合わないことがわかりました。


それで、8時6分の新幹線に乗って、秋田中央キリスト教会へ行くことにしました。中央教会は駅から車で5分ほどだと聞いていました。駅に着くと時計は礼拝が始まる10時半になろうとしていたので、急いで階段を降りました。秋田はうっすらと雪が積もっていて、階段の一部は凍っていました。
駅の階段で2回ほどすべり落ちそうになり、ドキッとしました。「あわてないで、あせらないで」と自分に言い聞かせながら手すりをしっかりつかんで階段を降り、タクシー乗り場へ行きました。

タクシーに乗ったら、秋田中央教会は知らないと言われ、驚きました。電話番号と住所を書いた紙が見当たらなくなってしまい、わたしはあせりながらバッグを書き回し、運転手さんは無線で尋ねながら市内をぐるぐる回って……永久に行きつかないのではないかと思ったとき、レンガ色の建物と十字架がみえました。思わず「そこです!」と叫んで、主に感謝しました。運転手さんは「時間がかかって申し訳なかった。場所を知らなかったのはわたしだけだったかもしれない」と言って、おつりを多めにくださいました。
何と誠実な運転手さんでしょう。秋田のタクシーはみんなそうなのでしょうか……。感動しました。

礼拝堂に入ると、聖書を朗読する声が聞こえてきました。
マタイの福音書1章に書かれている系図が読み上げられているのを聞いて、ほっとしました。

この教会は、9年前、父の納骨の翌日に訪れたことがあります。かつてクリスチャンの大叔母が通っていた教会と聞いて、礼拝に出させていただこうと大叔母の娘さんに案内していただいたのですが、それが別の教会だったのでした。礼拝が始まる直前にわかったので、その教会で礼拝を守り、礼拝後に大叔母の秋田中央キリスト教会へ向かいました。礼拝は終わっていたので、礼拝堂や部屋などを見学させていただきました。それなので、タクシーで外観を見たとき、すぐわかったのです。
そのとき、母も一緒だったな……と思い出しました。

マタイの福音書には、イエス・キリストの系図が書かれています。新約聖書の冒頭にわけのわからない名が羅列されていて、それを最初に読んでつまずいてしまう人がいると聞きました。

でも、マタイの福音書は系図を大切にするユダヤ人向けに書かれているのです。系図の中に次の女性の名が書かれています。タマル、ラハブ、ルツ、ウリヤの妻です。この人たちは異邦人であったり、罪を犯した者であったりです。聖書記者はこの人たちの名をなぜ省かなかったのでしょうか。
神に見捨てられたような人たちが系図の中に入っています。

それにもかかわらず、神様の約束が着々となされました。見捨てられたようなところに救い主が誕生したのは、血筋や一族が評価されるのではないことが示されているのですね。

先祖に犯罪者がいたり、また自分自身が罪を犯した者であっても、キリストの血によって罪赦されるということのあかしなのだなあと思いました。
聖餐式にも与ることが出来て感謝しました。
大叔母が召されてから10年以上がたっているのに、大叔母の名を言うと知っている方が何人かおられ、お話できてうれしかったです。
帰りは、車で駅まで送っていただきました。

あわてていて写真を撮れませんでした。この写真は9年前、ブログにアップした秋田中央キリスト教会の写真です。

                    つづく



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仙台から秋田へ(その1)

2015-12-12 10:27:31 | その他
母の遺骨を携えてお墓のある秋田まで行ってきました。9年ぶりの秋田です。

葬儀は土浦めぐみ教会で行い、分骨して教会納骨堂と秋田のお墓に入れてほしいというのが母の遺言でした。父の遺骨も、土浦と秋田にあります。

秋田に行く前に仙台に立ち寄りました。秋田に行くことがあったら仙台に寄ろうと決めていたのです。
以前、子どもたちがまだ小さいころ、埼玉県の久喜福音自由教会に通っていましたが、当時久喜でお世話になったK牧師先生ご夫妻が仙台にいらっしゃいます。

久喜を離れ、土浦に引っ越したときは息子が6歳、娘が3歳でした。ふたりとも久喜教会の幼児クラスに通っていました。
娘はそのときのことをよく覚えていて、「なつかしいな。わたしもK先生に会いに行く」と言ったので、娘と共に納骨の前日(5日)に仙台へ行くことにしました。
妹と姪も仙台観光するから行くと言って、4人で新幹線に乗りました。

わたしは遺骨を持って土浦から出かけました。娘と交代で持てばいいと思っていたのですが、娘は一緒に住んでいなかったのでした……。上野まではわたしひとりで運ぶのだと思うと緊張しました。

遺骨はクーラーボックス(ちょうどぴったりの大きさのものが家にありました)に入れて肩から下げて行ったので、だれも遺骨とは気づかなかったと思います。かなり重かったので、あとで体のあちこちが痛みましたが……。

仙台に着くと、K先生ご夫妻がホテルのロビーで待っていてくださいました。お目にかかるのは10数年ぶりですが、ちっともお変わりなく、たくさんお話できて至福の時を過ごしました。

娘の結婚の報告と、母葬儀のことなど話せてよかったです。昼食をごちそうになり、車で教会やご自宅を案内していただき、夜は青葉城へ。伊達政宗公騎馬像がライトアップされて幻想的でした。        
                                   つづく



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脳の奥底まで

2015-12-02 17:08:57 | 日本クリスチャン・ペンクラブ
先週の土曜日は、お茶の水で行われた日本クリスチャン・ペンクラブのクリスマス会に出席しました。
ずっと母のことで忙しくてお休みしていました。半年ぶりのペンクラブです。なつかしい皆様のお顔をみて、我が家に帰ったような気がしました。

いつもペンクラブの集まりに行くときは、三鷹の実家に一泊してから行っていました。
母は、わたしが行くのを楽しみにしていて、行くたびに「次のペンクラブはいつなの?」と聞いて、カレンダーに嬉しそうに印をつけていました。

あかし文章が書けると、ペンクラブに提出する前に母に読んでもらいました。母はいつも批評をしてくれました。ときには厳しく、ときには褒めてくれました。母のためにと張り切って書いていました。

御茶ノ水に行くのに東京駅から中央線に乗ったら、そのまま三鷹へ行ってみたいという衝動に駆られました。家はまだ取り壊されておらず、そのままになっていると近所の人から聞いていました。家に行けば、母がコーヒーを入れて待っていてくれるのではないか……と思いました。

でも、御茶ノ水で降りました。三鷹に行ったら辛くなることがわかっていたからです。
先日、実家の玄関と縁側が内側に動いて、家の中に入れなくなっている夢を見ました。

実家がなくなってしまうなど想像もしていませんでした。それより、母が地上にいなくなってしまうことはあり得ないような気がしていたのです。
でも、確かに母は天国にいて、必ず再会できるのです。

クリスチャン・ペンクラブでは「脳と言語」という題で興味深いお話を聞きました。脳の各部で働きが違うことは以前から知っていましたが、縁上回という部分が、書くことによって鍛えられて密度が高くなってくることは知りませんでした。それは科学的に証明されているのだそうです。

漢字と平仮名を記憶しておく場所が違うそうで、手で書かないと、どんどん漢字を忘れていくと聞いて、最近簡単な漢字さえ書けなくなっているのは手書きをしないからだ……と反省しました。

スマホやPCの画面で読むと情報は入ってきますが、感動が少ないと聞きました。紙の本で読むほうが感動して脳の奥が震えるのだそうです。
脳の奥は、心の領域です。

少なくとも聖書は紙の本で読みたいと思っています。

紙の本を手でめくって触感を確かめ、匂いを嗅ぎ、線を引いたりするほうが、み言葉が脳の奥にしみこんでいくのですね。
あかし文章を書いて、読んだ人の脳の奥底まで届かせることができたらどんなに嬉しいことでしょう。

聖書の言葉
みことばは、あなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。(ローマ10:8)


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