生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

感謝・感激・感動

2013-08-17 16:50:48 | お茶の水聖書学院
昨日は、息子の運転する車でヒックンを連れて千葉県の主人の実家へいってきました。
ヒックンを千葉へ連れて行ったのは約3年ぶりです。義母はひ孫に会ってとても喜んでいました。

今日はお茶の水聖書学院の同窓会報に寄稿した文章を紹介します。以前もブログで似たような内容の文章をいくつか書いていましたが、それらをまとめたようなものになっています。

DVDから流れてきた神の愛


 わたしは、子どもたちに神様の愛を伝えるために童話や児童小説を書いています。書き始めて15年近くたったとき、行き詰まりと迷いを感じ、何をすべきなのか祈り求めていました。

すると、「神の国とその義とをまず第一に求めなさい」のみ言葉が示されました。書く技術を身につけることより、神様のことを第一に求めるべきだと思いました。でも、具体的にどうすればよいのか思いあぐねていたとき、お茶の水聖書学院で通信の学びがあることを教えていただきました。聖書を学ぶことが今のわたしに必要なのだと思い、早速申し込みました。

最初は通信の聴講生でした。卒業のことなどまったく考えておらず、単位も気にしないでDVDを視聴しながらゆっくり学んでいました。

旧約聖書にイエス様を示す言葉や出来事がたくさん書かれていることにまず驚きました。申命記はモーセの遺言だと聞いて、一字一句もおろそかにしないで読まなくてはと思いました。
旧約聖書は難しく、読んでいても意味のわからない箇所だらけでしが、学んでいくうちに書かれている事柄の背後にある神様の愛に気づかされ、胸が篤くなりました。

旧約聖書の学びが終わると、新約聖書、聖書重要教理を受講しました。レポートは、最初要領がわからなかったので、一か月近くかけて書いていました。自信がなく、不合格になるのではないかと恐る恐る提出すると、講師の先生から丁寧なコメントをいただきました。半年で一課目というゆっくりペースでしたが、5年たったときは20単位になっていました。

卒業を意識したのはOBI20周年記念会に出席させていただいたときでした。OBIの歴史を知り、どんな思いで学院が始められたのかお聞きしたとき、卒業したいという思いが与えられました。

2011年4月に聖書科の本科(通信)に編入しました。編入したとたん、卒業研究の説明があり、卒業するためには論文を書かなければならないことを知りました。

卒業研究のために資料をTCUから取り寄せていただいたり、ルーテル学院大学の図書室に通ったりしました。同時にDVD授業をこれまでよりピッチを上げて受けました。
大変というより、楽しくて夢中になりました。2年後には必要単位を越え、論文も無事書き上げ、今年の3月卒業式を迎えることができました。

 よく通信で卒業できたねと感心されますが、一生懸命頑張ったという気はしませんでした。難しすぎることやつまらないことを通信で勉強したら、きっと途中で挫折していたでしょう。でも、学ぶたびに神様の愛がますます感じられ、もっと学びたいと思うのです。
 神様の愛を伝えようと童話を書いていたのですが、わたし自身が神様の愛をどれだけ知らない者であったか気づかされました。OBIの学びを通して流れてきた神様の愛で心をいっぱいにして新たに書いていきたいと思います。

 残念に思ったことは、7年の間に通信で指導してくださったお2人の先生が天国へ召されたことです。悲しいことでしたが、M先生とN先生のスピリットがDVDを通してしっかりと伝わり、わたしの中で生きています。ここまで続けられたのは、素晴らしい先生方と背後で祈ってくださった方々、そして神様のおかげです。3K(感謝・感激・感動)を味わっています。



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涙のわけ(奇跡の余滴)

2013-04-12 21:03:50 | お茶の水聖書学院
これまで7回にわたってお茶の水聖書学院で提出した卒論「奇跡の意味と意義について」から書いてきました。

奇跡ではないので、論文には書かなかったのですが、ラザロのよみがえりのところで「イエスは涙を流された(ヨハネ11:35)」という一文があります。イエス様がラザロの死を悲しんで泣いている人々をみて、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて涙を流されました。なぜ涙を流されたのでしょう。

イエス様が涙を流されたわけについて、聖書学者たちが書いていることを記録していたので紹介させていただきます。

1、カルヴァン 『カルヴァン新約聖書講解Ⅲ ヨハネ福音書上』
キリストが憤りを覚え、心の動揺を覚えたのは、泣いている彼らに同情したからと全人類の共通した悲惨と苦難について考え、神がどんな目的で自分をこの世につかわされたか十分に知っていたから。
彼自身、わたしたちの不幸に心揺り動かされていた。
「彼が人間の肉体をまとったとき、罪以外の人間的な諸情念もすすんでその身にまとった。」
38節で 「イエスはまた心の内に憤りを覚え」と書かれている。
ひとびとに対して憤ったのではなく、死に対して戦いにのぞむ闘士として出かけるときの憤りである。


メリルテニイ『新約聖書注解 ヨハネによる福音書』(聖書刊行会)
イエスが涙を流されたのは、彼らと共に悲しまれた。霊の憤りを覚えたのは人間の大きな敵(死)に対して憤われた。



・ビーエフ・バックストン「ヨハネ傳講義」(バックストン記念霊交会)
『主が涙を流された理由は、愛する者(マリヤ)の不信仰を嘆いての涙。ルカ19:41のエルサレムの不信仰に泣いたときと同じ涙である。』


・CLアレン『イエスの奇跡物語講解』
イエスが涙を流された理由は、ラザロの死を悲しんでではなく、友人たちの悲しみに同情したわけでもありません。
「私は、キリストがその日に泣かれたのは、ラザロが死んだためではなく、むしろラザロをもう一度地上の生活にもどす必要があると感じられたためだったと思います。


・R・V・Gタスカー『テインデル聖書注解 ヨハネの福音書』
『イエスが涙を流されたのは、単に人間的な同情や、ラサロの姉妹や友人たちの信仰が限られていたことに対する悲しみということだけではない。彼の悲しみのうちには憤り、怒りが込められている。
パウロが「滅ぼされるべき最後の敵」と呼ぶ死が冷徹に支配する人間の悲惨がイエスに鮮明に押し迫ったと推論できる。』



イエス様が心に憤りを覚えたのは、死に対してだというのは聖書学者たちの共通する意見ですが、涙を流されたわけはそれぞれです。
ビーエフ・バックストンは「マリヤの不信仰を嘆いて」と書いていますが、わたしはそのようには思えません。
CLアレンの考えは独特です。まるでラザロは、ラザロ自身のためには生き返らない方が幸福であると言っているようです。(確かに天国へいったほうが幸福と言えるかもしれませんが……)

わたしは、カルヴァンの「彼自身、わたしたちの不幸に心揺り動かされていた。」という一文に共感を覚えました。

2009.3.28「イエス様の涙」ブログには次のように書いています。

「聖書にはイエス様が涙を流されたことが書かれているのはこの箇所しかありませんが、実際は何度も泣いておられたのでは? このときは特別激しく泣かれたので、弟子たちの印象に残ったから筆記されたのではないでしょうか」と牧師先生が言われました。
「イエス様は、人の悲しみや痛みに同情されないお方ではありません。ラザロのこと、マルタ、マリヤの悲しみに同調されて涙を流されたとも考えられます」


何度も涙を流されたかもしれないイエス様。世の中をご覧になって、まさに今も涙を流されているのではないでしょうか。


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奇跡の意味と意義(奇跡についてその7)

2013-04-06 11:15:49 | お茶の水聖書学院
お茶の水聖書学院の卒業論文「奇跡の意味と意義について」よりシリーズで書いてきました。
いよいよ結論を紹介します。あくまでもわたし個人が感じ、考えたことですので、正しいか正しくないかの判断はできません。
カルヴァン、CLアレンなど有名な聖書学者たちも、聖書の同じ個所に対してさまざまな考えを記しており、正反対の考えを書いているものがあることを思うと、どれが真実かみきわめるのは大変難しい作業です。でも、さまざまな視点から思いを巡らすことができたのでよかったです。

最初はわたし自身の考えというものがはっきりしていなかったのですが、文献を調べていくうちに自分自身の考えがまとまってきました。
論文に書いた結論の一部を紹介します。
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新約聖書における奇跡の目的がヨハネ20:31に次のように書かれている。
「イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じてイエスの御名よっていのちを得るためである」
神は、すべての人がイエスが救い主であることを信じるようになって欲しいと願われて奇跡を起こされたのである。(中略)
ヨハネは、共観福音書の記者とは違って、奇跡を「しるし」と呼んでいる。奇跡はイエスがだれであるか証拠を与えるものという見解で「しるし」と呼んだ。(中略)


単に奇跡的出来事、不思議な出来事を神のみわざとみなすことは危険である。悪魔も不思議を行うからである。迷信や根拠のない不思議な出来事を奇跡と言わないようにしなければならない。
フランクコールは、「しかし、聖書では悪魔の奇跡は神の奇跡に劣るものとして示されている。(中略)しかし、悪魔の知識の方がわれわれの知識よりも大きいために、こうした『ふしぎ』がわれわれには奇跡のようにみえるのであろう。」 と記している。(中略)

この論文を書くにあたって聖書学者たちの考えを調べているうちに奇跡がいかにキリスト教の重要な部分を占めているかということがわかった。最初は、奇跡がなければ多くの人たちがつまずかずに信仰に導かれるのではないかと考えていた。
また、逆に神がもっと目を見張るような奇跡を起こせば、多くの人が信仰をもつことができるのに…という思いもあった。しかし、奇跡を見たことによってのみ信じた人は、もっと奇跡を求めるようになり、神の言葉を求めなくなる。このことは、主のみこころではないであろう。

カルヴァンは「もちろん神は、一瞬にして病人たちすべてを癒すこともできただろう。しかし、奇跡にはそれなりの意味と目的があるので、またそれには節度がなければならないのである。」 と記している。

それでは、なぜ神は奇跡を行ったのだろうか。
聖書における奇跡の定義は、イエスの神性(全能性、無限性、遍在性、超越性、永遠性そして、時を支配される力)を示し、イエスが神の子であること、約束されたお方、救い主であることを立証するわざとして行った行為である。そして、その根底には神の人類に対する愛と憐れみがあることを忘れてはならないと思う。

奇跡は現代でも起こりうるだろうか。
奇跡は、神の愛から起こされるのであるから、現代においても祈りの答えとして起こり得ると思う。だから、どんなときにもあきらめないで祈ることが大切である。でも、たとえ奇跡が起こらなかったとしても、主権は神にあるのだから、それをよしとして受け入れなければならない。
明日、いや一瞬先に起こることを予見することすらできない者が、全知全能である神の計らいを知ることができないからである。結果は神に委ね、神の最善を信じて祈り続けたい。


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先日葬儀が行われましたが、日本クリスチャン・ペンクラブ(JCP)の理事長池田先生が2年余りの闘病の後、癌で召されました。
癌だとわかったときにはすでに肝臓に転移しており、医師に余命が3か月と言われたと聞いたとき、奇跡の回復を祈りました。
そのとき、神様に奇跡を願ってもいいのだろうかと思い、論文のテーマを決めました。

結局完治せず、駆け足で天国へ行ってしまわれたのですが、奇跡は起きていたのです。昨年の10月、JCP60周年記念にはお茶の水に出向いてメッセージをしてくださったことは奇跡といえるのではないでしょうか。

2年の間に2冊の本を出版されたこと、教会では2月いっぱいまでメッセージをされたこと。ご自分の死と向き合われつつ語られた言葉は、多くの方の心を打ったこどでしょう。このことも奇跡だと思います。

ホスピス入院後もさらなる奇跡が起きて癌細胞が消滅ということにならないかと祈っていましたが、その祈りはかなえられませんでした。とても悲しいのですが、神様が決められたことなのです。

「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。(ヨブ記1-21)」


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何の応答がなくても(奇跡について6)

2013-03-21 20:32:02 | お茶の水聖書学院
風がふけば嵐になり、寒い日と暖かい日が交代でやってきて、体調がおかしくなりそうです。桜川の桜が咲きはじめました。

お茶の水聖書学院の卒業論文にヨハネの福音書からイエス様が行った奇跡の意味と意義について書きました。
論文を書いて教えられたことを記しています。(論文そのままではありません)
イエス様の行った最後の奇跡はラザロのよみがえりです。(ヨハネ11:1-45)

イエス様はマルタ、マリヤ姉妹と親しくされており、しばしばその家に立ち寄っています。
そのマルタ、マリヤ姉妹の兄弟のラザロが重い病気にかかりました。マルタとマリヤはイエス様のところに使いを送って、「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」と伝えました。
イエス様は愛するラザロが病気だと聞いてもすぐには駆けつけず、その場所に2日もとどまりました。イエス様がユダヤに行ったとき、ラザロは4日も前に亡くなっていて、墓に入れられていたのです。

マルタもマリヤも、イエス様がもっと早く来てくだされば、ラザロは死なずにすんだのに……と訴えます。イエス様が来てくださったことで問題は解決するのですが、姉妹は死んだ人がまさかよみがえるとは思っていなかったので、希望を失っています。
イエス様に不思議な力があることを知っていても、死んでしまったらどうしようもないと思っていたのです。

そのようなとき、イエス様はラザロの墓の前で言いました。「その石(洞穴の墓の前にある石)を取りのけなさい」人々は、いぶかりながらも石を取りのけました。

イエス様が「ラザロよ。出て来なさい」と大声で言われると、ラザロは体に長い布を巻きつけられたままで出てきました。よみがえったのです。そこに居合わせた人々はどれほど驚いたことでしょう。

イエスがこの奇跡を起こされた理由として考えられるのは、次の4つです。
①ヨハネ11:25「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」によって明らかにされているように、キリストが生と死を支配するお方であること、キリストがよみがえりであり、いのちであることを示すため。
②イエスが十字架の死の3日目によみがえることの前兆としての意味を込めて。
③キリストの愛とあわれみによって。「イエスはマルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。」(ヨハネ11:5)
④神の栄光をあらわすため。


イエスは、マルタ・マリヤ姉妹の望みをすぐにかなえず、意図的に遅らせました。ラザロの死から4日もたってそこへ行くことが、神の栄光をあらわすことにつながるからでした。
イエスがラザロの死の直後によみがえらせたとしたら、ラザロは仮死状態だったと疑う人も出てくるかもしれません。でも、死んで4日もたち、すでに腐敗がはじまっているような時期によみがえらせたので、奇跡を疑う余地がなくなりました。そしてこのことは何より神の栄光をあらわすことになりました。


祈ってもかなえられないことがあります。むしろすぐかなえられるときの方が少ないような気がします。
かなえられないと、祈りを神様は聞いていないのではないか、聞いておられたとしてもこのような祈りは受け入れてもらえないのだろう……などと詮索します。
それが早急な願いだとして、何の応答もないとあせります。

マルタとマリヤもあせったことでしょう。愛するラザロが死にかけているのですから。ところが、イエス様が来られたのはラザロの死から4日もたってからでした。
このことにどういう意味があるか、姉妹にはわかりません。そこに居合わせた人も同じでしょう。

神様には神様の都合があって、わざと遅らせることがあるのです。何も応答がないと、不安になりますが、水面下で神様の御手が動いているのですね。
神様は最善な時に最善なことをなしてくださる。そのことを信じて歩んでいきたいです。


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たとえ追い出されても(奇跡について5)

2013-03-09 11:33:15 | お茶の水聖書学院
急に暖かくなりました。昨日は日中の気温が23度もあったそうです。つい数日前までは真冬のコートを着て、マフラーと手袋、耳宛をして出かけていました。散歩コースの桜川の土手を歩くと、人影はまばらで、枯れたヨシがざわざわと風になびいていました。

昨日の桜川の土手は、保育園の子どもたちが散歩をしていました。2歳児ぐらいでしょうか、みんなより先に行って、また戻ってこようとしています。「走るところぶから、ゆっくりね」と先生に言われているのに、にこにこしながらタッタッターと走っていました。
子どもたちの黄色い帽子がタンポポのように見えました。

今日は午後から子ども家庭集会です。パネルシアターを持って出かけます。


OBI(お茶の水聖書学院)卒業式から一週間たちました。時間がたつにつれ、わたしの人生において学んだこと、卒業したことが大きな意味をもたらすのではないかと思えてきました。

OBIでヨハネの福音書における「奇跡の意義と意味について」という卒業論文を書きました。ヨハネの福音書に書かれている主の奇跡をカルヴァンやBFバックストン、メリルテニイ、CLアレン、CSルイスなど8人の聖書学者たちが、その著書でどのように書いているかを調べて論文を書きました。その論文からブログで紹介させていただいていましたが、それが途切れていました。

今日は、久しぶりに続きを書きます。(前回は1/15 に書きました。右のカテゴリー欄の一番下にお茶の水聖書学院がありますが、2010年5月以前はカテゴリーの中に入っていませんでした。入学した2006年2月からの記事も加えましたので、まとめてご覧になりたい方は、カテゴリーのお茶の水聖書学院をクリックしてください)


イエス様が行った奇跡はヨハネの福音書には7つ書かれています。6番目は、生まれつき盲人の奇跡です。(ヨハネ9:1-41)

イエス様はなぜ中途失明の人ではなく、生まれつきの盲人の目を開かれたのでしょうか。
生まれつきの盲人が見えるようになることは、当時あり得ないことでした。 生まれつきの盲人を癒したのは、神にはできないことがないということ、つまり神は全能であるということを人々に示すため、また神の栄光をあらわすためだったという結論になりました。

この盲人の言動をみていると、彼の信仰が成長していることに驚かされます。盲人は最初イエスが誰であるか知りませんでした。目に泥を塗られ、シロアムの池に行って洗うようにイエス様から言われ、彼はその言葉に従いました。すると見えるようになったのです。

ユダヤ人たちは、どうして目が開かれたのか彼に質問しました。この男はイエスが行ったことをそのまま答えました。
彼は、両親に見捨てられ、ユダヤ人から反感を買われても、何度問いかけられても、起こった出来事をありのままに語りました。
彼が自分の身に起こったことをそのまま話すことは、イエスを快く思っていないユダヤ人たちにとって腹立だしいことでした。ユダヤ人のコミュニティーの中から追い出される危険がありました。それでも彼は恐れませんでした。

ヨハネ9:33では、「もしあの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできないはずです」と言い、イエスが神から出ているお方だと告白しています。

彼はユダヤ人から追い出されてしまいます、イエスは彼を見つけ出してご自分が人の子であると語りかけ、彼は信仰告白をしました。

彼は他の人が何と言おうと、またユダヤ人から反感を買われようと、事実を曲げずに語りました。それは、イエスによって目が開かれた喜びに満たされていたことと、イエスを救い主と信じていたからでしょう。彼の信仰を見習いたいです。

また、R.V.G.タスカーは「この奇跡を行ったのは、人々が霊的に盲目であることに気付かせるため」と書いています。『わたしは見える』と思っていることが高慢なのだと思います。このことも心に留めたいです。



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卒業しました

2013-03-03 17:37:43 | お茶の水聖書学院
昨日は、お茶の水聖書学院の卒業式でした。記念品目録を読むという大役を与えられ、感謝会では大勢の方々の前で食前の祈りさせていただくことになって、とても緊張しました。

通信で2006年から学びはじめたので、卒業まで7年もかかりました。
どうして始めたかは、2010年10月29日のブログ心の宝としてに書いています。

本格的に聖書を学びたいという気持ちの根底には、乳癌になって、いつ召されるかわからない者だと自覚したことにあります。今、元気で自由な時間が与えられているのなら、その時間を神様のことをもっと知るために使わせてもらおうと思ったのです。

最初は聴講生でした。卒業することなどまったく考えておらず、単位も気にしないでゆっくりと学んでいました。

1週間で90分のDVDを2回に分けて視聴していました。1課目で12枚のDVDと3~4のレポート課題があります。ひとつのレポートを書くのに1か月かかっていましたから、1課目に約半年かけていたわけです。1課目で2単位いただけるので、5年たったときには20単位になっていました。

2010年10月に、学院の20周年記念会に出席しました。そのとき『なんて素晴らしいところで学ばせて頂いているんだろう。ぜひ卒業したい』という思いが与えられました。そして2011年4月に聖書科の本科(通信)に編入しました。

編入したとたん、卒業研究の説明があって、卒業するためには論文を書かなければならないことを初めて知りました。単位が満たされればいいというわけではなかったのです。また、通信生はサマースクーリングに2回以上参加しなければなりません。

それから2年。DVD授業をこれまでよりピッチを上げて受け、サマースクーリングに参加し、同時に卒論に取り組みました。
大変というより、楽しくて夢中になりました。卒業時には必要単位30単位を越え、34単位を取得していました。

よく通信で卒業できたねと感心されますが、一生懸命頑張ったという気はしませんでした。
難しすぎることやつまらないことを通信で勉強したら、きっと途中で挫折していたでしょう。でも、学ぶたびに神様の愛がますます感じられ、もっと学びたいと思うのです。

今まで、高慢にも聖書のことは少しは知っていると思っていたわたしでしたが、いかに知らない者だったか気づかされました。学びを一応終了した今でも知らないことがまだまだたくさんあります。

聖書は汲んでも汲んでも尽きない泉のように、求める者には恵みを溢れさせてくださいます。聖書学院の学びは、神様の愛と恵みをあふれさせる場となりました。

7年の間に通信で指導してくださったお2人の先生が天国へ召されました。とても悲しいことでしたが、M先生とN先生のスピリットがDVDを通してしっかりと伝わり、わたしの中で生きています。

ここまで続けられたのは、素晴らしい先生方と背後で祈ってくださった方々、そして神様です。3K(感謝・感激・感動)を味わっています。


卒業式直後の角帽をかぶったわたしの写真、恥ずかしいのですが、期間限定で公開します。


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わたしだ。恐れることはない。(奇跡について4)

2013-01-15 16:11:26 | お茶の水聖書学院
昨日は思いもよらぬ大雪でした。ちょうど出かける予定がキャンセルになったので、一歩も外に出ませんでした。ニュースを見ていると神奈川、東京、千葉の方がひどかったようです。ここ茨城県土浦市は、2~3センチの積雪で、今朝はかなりとけていました。
でも、買い物は用心して自転車でなく、歩いていきました。日の当たらない路地は道が凍っていたので、自転車では危なかったですね。


奇跡について去年3回書きましたが、また、シリーズで書いていきます。

ヨハネの福音書に書かれているイエス様が行った奇跡は7つあります。
カナの婚宴で水をぶどう酒に変える奇跡、カペナウム役人の息子の病気を治す奇跡、
ベテスダの池の病人の癒しの奇跡、五つのパンと二匹の魚の奇跡、水の上を歩く奇跡、
生まれつきの盲人の目を開く奇跡、ラザロのよみがえりの奇跡です。

どれがいちばん信じ難いでしょうか? ひとつが信じ難ければ、すべて信じ難いですね。逆にひとつ信じられれば、すべて信じられますね。

水の上を歩くというのは、どうでしょうか? そんなことできるはずない。弟子たちの見間違えか、イエス様が浅瀬を歩いていたんだ。と言う人もいるでしょう。

舟でガリラヤ湖を渡っていた弟子たちは、ひどい風と波に悩まされていました。周辺がすりばち状になっているガリラヤ湖は、突然風がふいて、嵐になることがあるそうです。
弟子たちは吹きまくる強風の中で、湖の上を歩いてくる人を見て、幽霊ではないかと恐れました。それはイエス様でした。

CSルイスは「水の上を歩かれたあの奇跡のうちに、われわれは、霊と自然との関係がまったく変えられて、霊はその欲するままに自然をして行動せしめることができるのを見る。」と『奇跡…信仰の論理』(みくに書店)に書いています。
(*『霊』とは、ここではイエスキリストを示す)

イエス・キリストは、天と地とその中にある物を造られました。水を造られた方が、その性質を変えることができるのは、当たり前ですね。自然を意のままに変化させることができるのも、考えてみれば当たり前なのです。

それでは、なぜこの奇跡を行ったのでしょう。それは、決してイエス様ご自身のためではありませんでした。イエスが神であるということを示すため、また神の超越性を示すために行ったのです。

弟子たちがイエス様を舟に迎え入れたとき、風はやみ、舟は目的地につきました。

波や風は不安をあらわすと言われています。
弟子たちは、ひどい嵐にあったとき、イエス様がそばにいなくて不安だったと思います。水の上を歩いてくる姿を見て、イエス様とは思わず幽霊と思ったのは、よほど恐怖に取りつかれていたからでしょう。

でも、イエス様は「わたしだ。恐れることはない」と言われました。わたしも何か困ったことが起きると不安でたまらなくなります。でも、危機の最中に遅れることなく助けてくださるイエス様がおられることを心に刻みつけたいです。



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奇跡について(3)

2012-12-24 12:13:57 | お茶の水聖書学院
クリスマスのことは、今回の論文には書きませんでしたが、クリスマスの出来事ほど奇跡といえることはないでしょう。

処女懐胎がどうしても信じられないという方もおられるでしょう。今までそのようなことはなく、これからもないであろう出来事が約2000年前に起きたのです。
でも、今まで起きたことがないからという理由で処女懐胎が嘘の出来事であると決めつけることはできませんね。

マリヤもヨセフも戸惑ったと思います。結婚前に妊娠したことがわかると、ユダヤの社会では石打ちの刑になるのです。ヨセフはマリヤを守るため公にせず、ひそかに別れようとしていました。

ところが、ヨセフの夢にみつかいが現れて、マリヤの子は神の子で、救い主であることを知らされます。ヨセフはみつかいの言葉を信じました。
救い主が生まれるためにはマリヤとヨセフがこの奇跡を信じ、受け入れることが必要でした。   

昨日の礼拝でバッハの「クリスマスオラトリオ」の素晴らしい賛美を聴きました。ドイツ語で歌うのですが、歌詞の意味がスクリーンに映し出され、クリスマスオラトリオからのメッセージが語られました。

クリスマスオラトリオの訳詩の一部を紹介します。

63
地獄の恐怖も、もはやなんだというのでしょう?
私たちに世や罪が 何ができるでしょう?
私たちはイエスの手の中で安らいでいるのに。
64
いまや あなたたちは十分に復讐しました、
自分たちの敵の群れに。
なぜなら キリストが打ち砕いたのですから、
あなたたちに敵対する者を。
死、悪魔、罪、そして地獄は
完全に力をそがれました。
神の下に自分の居場所を持ったのです、
私たち人類は。



「ヨセフやマリヤは、不安と恐れの中を生きとおしてくれました。暗闇があっても大丈夫。暗闇の中に光が存在するのです。」と牧師先生が言われました。

「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった」(ヨハネ1:5)

イエス様、この地上に生まれて来てくれてありがとう。
イエス様、闇を打ち砕いてくれてありがとう。
わたしに居場所を与えてくださってありがとう。
わたしの居場所はあなたのもとにあります。
イエス様のご降誕を心からお祝いします。

メリークリスマス!

久々にわたしのHP「生かされて・・・土筆文香」更新しました。



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奇跡について(2)

2012-12-22 21:15:44 | お茶の水聖書学院
病気の人は、病気が治って元気になりたいと心から願います。不治の病にかかると、どんな宗教でもいいから癒しの奇跡を行ってくれる宗教に入りたいと思う人がいるかもしれません。

わたしは、ひどい喘息の発作にしばしば襲われたとき、病が癒されることばかり願っていました。ある宗教の信者である友人に喘息のことを話すと、「キリスト教なんか信じているから喘息が治らないのよ。〇〇教に入信しなければ、あなたは喘息で野垂れ死にするよ」と友人が言いました。そう言われたとき、不覚にも心が揺らいでしまったのです。

わたしは、そのとき教会を離れていましたが、自分がクリスチャンであること友人に話していました。
喘息が治るなら、キリスト信仰を捨ててしまうかもしれないという自分の弱さに気づき、恐ろしくなりました。そのことがきっかけで再び教会へ通うようになりました。教会に通えば喘息が癒されると思っていたわけではありません。でも、心のどこかで癒しの奇跡を望んでいたのかもしれません。
病の癒しの奇跡を求めるのは、いけないことなのでしょうか?

聖書には病の癒しの奇跡について何箇所も書かれています。ヨハネの福音書では、ベテスダの池のほとりにいた病人について書かれています。 
その病人は38年間も病んでおり、癒される可能性がほとんどない状態でした。その人は希望が見いだせないので、気持ちがすさんでいました。わたしは、この人がかつての自分のように思われてなりません。
イエス様はこの病人に近づき、癒してくださいました。ベテスダの池のほとりには何人もの病人がいたのに、イエス様はなぜこの人だけを癒されたのでしょう……。

「もっとも癒される可能性が低い人だったから」とカルヴァンは書いています。
イエス様が神様であることを示すためには、癒される可能性が最も低い人を癒した方が効果的です。でも、それだけではなく、イエス様の愛と憐れみによって、その病人は癒されたのです。

その日が安息日だった(当時のユダヤ社会では、安息日に働いてはいけない。病人を癒してはいけないという決まりがありました)ので、イエス様はユダヤ人たちに責められることになりますが、あえてそうしたのにも理由がありました。古い律法に縛られているかたくななユダヤ人たちに救いを知らせるためもあったのでした。
                        つづく


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奇跡について(1)

2012-12-21 20:16:39 | お茶の水聖書学院
お茶の水聖書学院(OBI)の卒業論文がようやく完成しました。書き上げるのに1年半かかりました。何度も書き直しになり、先生と添付ファイルでやりとりし、ようやくOKが出ました。昨日、御茶ノ水まで行ってファイリングし、提出してきました。大きな仕事をやり遂げたという気持ちでほっと安堵しています。もちろん、やり遂げる力を与えてくださったのは神様です。
論文のテーマは「聖書における奇跡の意味と意義について」です。

聖書を読んで「奇跡の記事さえなければ信じられるのに……」と言う人がいます。
わたし自身、クリスチャンになる前は聖書に書かれている全ての奇跡が信じられませんでした。
奇跡の記事につまずいてキリスト教を受け入れることができない人をみると、残念だなあと思います。聖書にはなぜ奇跡の記事がたくさん書かれているのだろうか……。聖書はどのような目的で奇跡を記しているのだろうか……と思い、このテーマを選びました。

聖書に書かれているすべての奇跡について調べたら、膨大になり、収拾がつかなくなってしまったかもしれません。ヨハネの福音書に記されているイエス様が行った7つの奇跡について調べてみてはどうかとOBIの先生から助言をいただき、その7つの奇跡に絞って調べることにしました。


まず初めに資料集めをしました。インターネットで「奇跡」というキーワードで検索して東京基督教大学の図書室から本を借りました。東京基督教大学まで行くのが大変だったので、OBIに送っていただき、OBIで読ませていただきました。

借りた3冊のうち2冊は、的外れの内容(聖書における主の奇跡ではなく、いわゆる世界中にある不思議な出来事の書かれた本)でしたので、がっかりしました。
でも、一冊はとても役に立つ内容でした。自宅への持ち帰りとコピー禁止というので必死に書き写しました。

去年の夏と秋にはルーテル学院大学の図書室の使用許可をいただいて、貴重な資料を集めることができました。(膨大な資料をコピーさせていただきました)

おかげでカルヴァン、メリル・テニイ、CLアレン、CSルイス、BFバックストン、RVGタスカーなどの聖書学者たちと親しくなりました。

「やっぱりそうよね、カルちゃん。テニイさんはそう考えるの。アレンさん、ルイスさんの考え方素敵! バックストンさん、ちょっと違うんじゃないの? タスカーさんはどう思う?」などと語りかけながら調べていました。

(偉い先生方で、親しくさせていただけるような方々ではないのに勝手に言っています。カルヴァンのことをカルちゃんなんて言ったら叱られそうですが……)

ルターさんとも親しくなりたかったのですが、ルター著作集の中にヨハネの福音書がなかったので残念でした。
内村鑑三が奇跡について書かれているのを読んだときは、はっとさせられました。

「キリスト教の重点はその奇跡である。」「キリスト教よりその奇跡を除いて余すところは零である。」「キリスト教は奇跡である。超自然的事実また勢力である。神が人として生まれ、罪を取り除き、死を滅ぼし、永生を賜えりとの事である。奇跡ならざるキリスト教は、これをキリスト教として認むることはできない」(『内村鑑三信仰著作集14』(教文館、2005年)、p131)

考えてみれば聖書は奇跡に始まり、奇跡で終わっています。はじめに神が天と地を創造したということ自体奇跡です。福音書においてもイエス様の誕生の奇跡から始まって、復活の奇跡で終わっています。
聖書には道徳的な教えだけが書かれていると思っている人がおられますが、そうではありません。キリスト教は、教えではなく神様がなさったことを信じる宗教です。              つづく

OBIの帰りに実家に寄って泊まり、母を手伝って大掃除をしてきました。我が家の大掃除はまだ途中なのですが……。
帰りの電車では熟睡してしまいました。



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心から和解するには・・・(2012年サマー・スクーリングその4)

2012-07-17 15:13:08 | お茶の水聖書学院
7月3日~5日、お茶の水聖書学院のサマー・スクーリングに参加しました。
そこで聞いたお話しから得られたことを紹介しています。14日の続きで、今日が最終回です。

上の写真はスクーリングで泊まったヌエックの日本庭園。

イサクに与えられた子どもはエサウとヤコブの双子です。イサクは長男エサウを祝福しようとしたのですが、ヤコブに騙されてヤコブを祝福してしまいます。

でも、それは神様が最初から決めていたことです。イサクの思いを越えた神の恵みの介入でもあります。
ヤコブは祝福をだまし取ったことでエサウの憎しみを買い、伯父ラバンのもとへ旅立ちます。ベテルにきたとき、天の門が開けた夢を見て、神が共におられることを知ります。

創世記28章16節には「まことに主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった」と書かれています。


「聖なるお方の前で、『私は知らない』という自己認識なくして自己変革は望めない。ヤコブの認罪は、彼の自己変革と和解の基礎」
とK先生が言われました。

ヤコブはその後、伯父ラバンのもとで20年働きます。ラバンに騙されて自分のしたことを追体験させられます。一族を連れて故郷に帰ることになったとき、兄エサウを恐れて『兄の手から救ってください』と祈ります。

ヤボクの渡しで神様と格闘したとき、腿の関節がはずれてヤコブは神様に敗れました。でも、聖書には「あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ。(創世記32:28)」と書かれています。
神の前に敗れる者に、神は勝利を賜います。

ヤコブの自己認識が「私は知らなかった」から「私は足りない者です」に変えられたことが大切で、これが和解の基礎となったと教えていただきました。

イサクは穏やかで平和の人ですが、ヤコブは兄を出し抜いたずるい人、でも神と格闘するすごい人というイメージを抱いていました。

でも、父と母の家からひとり旅立ったとき、心細く感じたヤコブ。故郷に帰る時、エサウを恐れて一行の後ろをビクビクしながら歩いているヤコブの姿を思うと、自分の姿を見ているようです。
最も心細いとき、不安なときに神様がヤコブに現れていることに心動かされます。


神との格闘を通して、ヤコブは自分が足りない者だと気づきます。そして、まず祭壇を築き礼拝を捧げます。ヤコブは、兄エサウとの和解を神様に委ねたのです。

神様抜きの和解は本当の和解にならないと思います。
「ごめんなさい」とあやまって相手に赦してもらえても、それは表面上の和解でしかありません。心の中で「でも、悪いのは相手だ」とお互い思っていることがありますね。

かつて友人との間でトラブルがあっりました。表面上は和解したのですが、わたしはなかなかその人のことを赦せませんでした。赦せないことで苦しみました。

でも、あるとき、神様はその人のためにも大切なひとり子(イエスさま)のいのちを捧げて下さったことに気づきました。

神様がそれほどまでに愛している人をわたしは憎んでいていいのだろうか……。私の方がよほど罪深いではないか……と思い、友人を赦し、愛することができるように祈りました。

何年か経って、その友人と出会ったとき、(会えて嬉しい!)と思いました。不思議です。

憎しみやこだわりがいつの間にか消えていたのです。消して下さったのは神様です。努力ではなしえないことを神様がして下さったのです。





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あきらめないで(2012年サマー・スクーリングその3)

2012-07-11 17:04:02 | お茶の水聖書学院
昨日は病院の帰りに亀城(きじょう)公園内にある土浦博物館と東櫓を訪れました。亀城とは土浦城のことで、たびたび水害に遭っているけれど、水没することがなく、水に浮かぶ亀の甲羅のように見えたことから亀城と呼ばれているそうです。

いま書いている児童小説は戦国時代の土浦、鎌倉を主な舞台としているので、土浦城の歴史を知りたくて行きました。(5月には鎌倉古道を歩きました)

戦国時代の資料は少なく、土浦城も今はほとんどが焼失して門と堀ぐらいしか残っていません。そしていつ築城されたのか定かではないそうです。でも、戦国時代には土浦城が建築されていたことは確かです。はるか昔を想いながら、石垣や堀にかけられた石の橋をさわってきました。

土浦博物館と東櫓は16日まで無料開放されています。
上の写真は東櫓です。かつてはこの上から霞ヶ浦が見えたそうです。


サマー・スクーリングでの講義の紹介の続きを書きます。

アブラハムの息子イサクは、「聖書の中で最も分かりにくい人物の一人(ラビアディン・シュタインザルツ)」と言われているそうです。

イサクは、飢饉に遭遇したとき黙々と種をまき、主の祝福を受け「百倍もの収穫」を得ました。
井戸を掘ると、異民族から妨害されたり奪われたりしますが、争わずに別の場所で井戸を掘り続けます。

しもべたちはイライラして井戸を奪ったゲラル人と戦うか、その土地を去るかにしてほしいとイサクに訴えたことでしょう。でも、イサクは井戸掘りをあきらめず、黙々と井戸を掘り続けます。その姿にしもべたちも思い直して井戸を掘ったのです。

そしてついに「水が出ました」というところに導かれました。

ブルックマンは「イサクは平和の人である。彼は平和に生きるだけでなく、彼の周囲の人々に平和をもたらす。彼は祝福を受けるだけでなく、それを担い、祝福をもたらす」と言っています。


イサクのあきらめない信仰に教えられました。

創作も井戸を掘る作業と似ています。いつ水が出るのかわからずに黙々と掘っているようなものです。ときどき投げ出したくなるのですが、「水が出ました」という声が聞こえるまで書き続けたいです。


日本クリスチャン・ペンクラブのHP更新しました。ぜひごらんください。


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「なぜ?」と問いたいとき(2012年サマー・スクーリングその2)

2012-07-09 16:51:12 | お茶の水聖書学院
K先生の講義は1時間半×5回ありました。すべてを紹介することはできませんが、印象に残ったこと、講義を聞いて心動かされたことを書いていきます。
聖書の創世記からアブラハム・イサク・ヤコブについて語られました。

アブラハムは、神様から子孫を星の数ほどにするという約束を受けながら、なかなか子どもが与えられませんでした。アブラハムが100歳、サラが90歳のときようやく子どもが与えられて、イサクと名付けました。
旧約聖書の時代は、礼拝するとき、罪の贖いとして動物を殺して祭壇の上で焼き、全焼のいけにえを捧げていました。

イサクが少年になったとき、神様はこともあろうにそのイサクをいけにえとして捧げなさいとアブラハムに命じます。アブラハムはどんなに動揺し、苦しんだことでしょう。
でも、聖書にはアブラハムの心理描写がまったく書かれていません。また、なぜ神様がこんな苛酷な命令をしたのか、その理由についても書かれていません。

ギブソンは「聖書には心理的観察が存在しない。神はその命令についての理由を与えたまえず、ただ命令されるだけである」と言っています。

アブラハムは神様から「試された」のです。アブラハムはそれに従いました。
「納得したから従ったのではなく、神が命じられたから従っただけ」とK先生が言われました。

アブラハムがイサクに手をかける前に「その子に手を下すな」と神様がストップをかけたので、イサクの命は守られたのですが、アブラハムにとって生涯最大の試練でした。

わたしだったら、わが子を連れて山を下りてしまうかもしれません。神様から逃げられないとわかっていても必死に逃げて隠れるか、「なぜこんなひどいことをさせるのですか?」と神様に食ってかかるでしょう。

「なぜですか、どうしてですか」と問う私たちの側に信仰の本質的な拠り所を置かないこと。「なぜですか、どうしてですか」と問いつつも不可解の中で、理不尽な中で、そのなぜに十字架で祈られたイエス御自身と向き合うことが大切と教えていただきました。

考えてみれば、「なぜ?」と問いたいのは何の罪もないのに十字架に架けられて苦しみ、死んでくださったイエス様の方です。

苦しい目にあうと理不尽だと思い、どうしてわたしだけがこんな目にあうの? と腹を立てるのですが、イエス様の十字架ほど理不尽なことはありません。でも、イエス様は黙って神様のみ心に最後まで従いました。

神が一匹の雄羊を備え、イサクを救い出してくださったように、試練を与える神様は、試練の答えを備えてくださっているのですね。


「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。(ガラテヤ2:20)」



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2012年のサマー・スクーリング(その1)

2012-07-06 15:19:08 | お茶の水聖書学院
3日からお茶の水聖書学院(OBI)のサマー・スクーリングに参加して、昨日無事帰ってきました。体調を整えるため病院通いまでして備えていた効果があって、3日間元気で過ごせたことがいちばんの感謝です。

去年は軽井沢めぐみシャレーで行われましたが、今年は埼玉県嵐山の独立行政法人女性会館(ヌエック)です。
広い敷地で緑に囲まれた施設はロケーションもよく、快適でした。
上の写真は研修棟から宿泊棟へ行く道で撮りました。

2回目の参加だったので、昨年ほどではありませんでしたが、着くまではとても緊張していました。
去年ご一緒だった方たちとの再会を喜び、新しい方と知りあえることを楽しみました。

今年は2人部屋でしたが同室の方と打ち解けて、ずっと以前から知り合いだったような気がしました。
3日間で5回の講義があり、講師のK先生の篤い講義にわたしも篤くなりました。講義の内容は後日紹介させていただきますね。
講義の前に司会者のお証しが聞けることも喜びでした。

休み時間に卒業論文の指導を受けました。2年越しで書いている論文です。下書きを見ていただき、書き直すところを教えていただいたので、完成への道がようやく開かれました。


朝の散歩で不思議な木を見ました。一本の木から枝がもう一本の木に伸び、繋がっているのです。そして、継ぎ目がありません。『男女共同参画の木』と書かれていましたが、祈りによって、神様と繋がる、人と繋がるということを想っていました。

孤独を感じたとき、手を伸ばすとしっかり受け止めてくれて、その手が体に食い込んで痛くても、決して離しません。その手から喜びが流れてきたら一緒に喜び、苦しみが流れてきたら共に苦しむ。繋がるということは、そういうことなのではないでしょうか。

神様と人との繋がりが深められた3日間でした。



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理由なき喜び

2012-04-13 11:39:02 | お茶の水聖書学院
体調がもとに戻ってきました。外へ出かける体力もつきました。
先日の風雨で散ってしまったかと思われた桜でしたが、桜川の土手の桜は満開でした。


待っていてくれたのね、桜さん
今年も咲いてくれてありがとう
あなたの美しさが
ことさらまぶしく感じます。


OBIのDVDでの学びを再開しました。
学びの中で「理由なき喜び」というのが印象に残りました。
紹介させていただきます。

************************************
わたしたちは何かを喜び、何かについて喜ぶ習慣がある。その何かとは、普通の生活からかけ離れた特別なものである。そうすると、当然普通の生活というのは、辛い、喜びのないものになる。

ところが、本当の喜びとは、何かから来るのではなく、神から来る。(略)キリストが私たちを苦労から離れさせ、バラ色の中に連れて行ってくれるわけではない。苦痛のある日常生活の中に喜びを送ってくださる。

本当の喜びとは理由なきものである。それは、キリストから来る喜びである。
それは事物に先立ってそこにある。

獄中で賛美したパウロは、嬉しいことがあったわけではない。体は拘束され、死の危険もある獄中であってもキリストと共にいる喜びに満たされて賛美したのだ。

生活のうちに理由なき喜びを見出すことができるように。
*************************************

具合が悪かった後なので、ことさら『理由なき喜び』を感じています。

満開の桜を見ることができたこと。食事がおいしくとれること。パソコン作業ができること。深呼吸ができること。
病後だけではありません、病中にも『理由なき喜び』がありました。

友人がわたしの病の癒しのために祈ってくれていること。熱が高くても、呼吸困難や激痛がなくて、うとうと眠れること。快適な自分の場所で横になっていられること。

天地を作られた創造主と直接お話しができること。わたしの体の細胞のひとつひとつを造り、体の中がどういう状態になっているかすべてご存じである方に信頼できること。
病床にいるのは私一人ではなく、イエス様が共にいて一緒に苦しんで下さっていること。

そういえば受難週のメッセージで以下のようなことが語られました。


苦しみの只中にあって、イエスと共にいることに気づいたとき、肉体の苦しみは同じでも充実感と喜びが与えられます。

神と共にいるとは、神に訴え応答を待つ関係を持つことです。




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