生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

絶えず目を留めて

2009-12-31 17:06:28 | 日記

大掃除とおせち作りで忙しい数日間でした。正月は1日、4日に(両方の)実家へ行き、2日、3日は息子一家を招くことになっています。

この一年も健康が支えられてここまで歩んでこられたことに感慨深い思いでいます。

今日のデボーションで読んだ聖書の箇所を紹介します。

「そこはあなたの神、主が求められる地で、年の初めから年の終わりまで、あなたの神、主が絶えずその上に目を留めておられる地である。(申命記11-12)」

その地とは、神様がエジプトを出たイスラエルの民に与えると約束して下さった土地です。

神様はわたしに対しても年の初めから年の終わりまで『絶えず目を留めて』下さったのだなあと胸が熱くなりました。

わたしは妄想癖(?)があって、たとえば主人の帰りが遅いとき、娘と連絡が取れないときなど事故や事件に巻き込まれているのではないかと想像して不必要な心配をしてしまうことがあります。

将来のことを恐れる気持ちが沸き上がってきて、新しいことを始めるとき、恐れが先立ってしまうことがあります。

でも、神様がわたしの人生にこれからも絶えず目を留めて下さるのですから、恐れずに新しい年に向かって前進していけばいいのだと思いました。


今年は神様のカリス(恵み)あふれる年でした。

ブログを読んで下さった方々、祈って下さった方々に心から感謝いたします。
2010年、みなさまに神様の祝福が豊かにありますようにお祈りいたします。
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み旨を求めて

2009-12-29 22:06:54 | 日記

「みなさん、神様がどんなに素晴らしいことをしてくださったか証ししましょう。奨励をしましょう。奨励ができるように熱心に求めましょう」と、今年の春、礼拝で牧師先生が言われました。


* 証しとは、自らの体験を通して神様の素晴らしさを伝えること。
*奨励とは、神の言葉の説明と自らの体験を通して人を励ましたり慰めたり、すすめをすることです。


それを聞いたとき、わたしは(書くことならできるけれど人前で証しするのは苦手だな。奨励などもってのほか……)と思いました。

ところが、11月に多摩ニュータウンバプテスト教会で奨励させていただき、12月には、めぐみ教会の家庭集会クリスマス会で証しさせていただきました。
予想もしなかったことです。モーセではありませんが、わたしは言葉の人ではありません。昔から人前で話すのは苦手でした。書くことはできても語れないと思っていました。

それなのに、今年神様は3回わたしに語るように導いてくださいました。
1回目は5月にクリスチャン・ペンクラブ(JCP)の修養会で「わたしの文章作法」について10分間語るように言われました。そのとき、わたしはためらいました。わたしよりずっと長い間JCPで 学んでおられる方、すばらしいあかし文章を書いておられる先輩方に向かってわたしが語るようなことは何もないと思ったからです。
でも、「あなた自身が書くときに心がけていることを語ればいいのよ」と言われ、語らせていただきました。


2回目は、わたしの書いた詩「神さまのカリス」にゴスペルシンガーのチャキさんが曲をつけてくださいました。チャキさんはJCPのメンバーでもあります。
そのことがきっかけで、多摩ニュータウンバプテスト教会でお話しさせていただきました。最初は10分ぐらいの証しだと思っていました。ところが、30分の奨励と言われ、とてもできないと思いました。

ところが、証しをするために書いていた文章が長くなり、全部話すと30分くらいかかるものになってしまいました。削ろうとしていたときに30分ぐらい話してほしいと言われました。神様がすべてを語りなさいとおっしゃってくださっているのだと受け止め、引き受けさせていただきました。

でも原稿を読むのではなく、30分も語ることができるのでしょうか?
よく考えてみると、教会学校では1か月半に一度、(10分間ですが)子どもたちの前で語っているのです。今は低学年、高学年と分かれて礼拝しているので教師と子ども合わせて40数名ですが、合同礼拝のときは60数名の子どもたちと20名の教師たちの前で話していました。

教会学校で話すときは、項目だけ書いた要点メモを作って、それを見ながら話しています。それを適用させればいいのだと気づいたとき、きっと語れるという確信をいただきました。

それでも、欠けだらけのわたしが・・・語る言葉も不完全なわたしが・・・と足りないところばかりに意識が向かってしまいます。自分の弱さをとことん自覚しました。

「わたしの力ではひとことも語ることができません。でも、神さま、あなたが力をくだされば、どんなことでもできると信じています。どうか力を与えて下さい」
と祈ると平安が与えられました。

それは、奨励になっていなかったかもしれません。言葉が足りなかったかもしれません。でも、神様は栄光を現わしてくださいました。

神さまは弱い者、能力の乏しい者を通して働かれ、み業を示して下さいます。
わたしの話を聞いたからというわけではないのでしょうけれど、神様はその日洗礼を決心する方を起こして下さいました。このことはわたしにとって大きな喜びとなりました。

ご奉仕が終わったのち、多摩ニュータウンバプテスト教会の牧師先生から「文香姉を奨励者としてお迎えできたことは予め備えられていた恵みでした」とお手紙をいただきました。

『あらかじめ備えられていた』と伺って、(このようなわたしでも神様に用いていただけたのだ!)と喜びでいっぱいになりました。


3回目の家庭集会クリスマス会で証しさせていただいたときは、何人もの方から「同じような思いをしたことがある。励まされた」と言っていただきました。

今年は、自分の希望や予想とは別のことをしました。でも、それは神様が望んでおられたことでした。

来年は、神様は何を望んでおられるか? 常にこのことを祈り求めて、たとえわたしが望まないことでも、神様のみ旨ならば喜んで行うことができるようにと願っています。

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苦しみに会ったことは……

2009-12-27 20:50:13 | 教会

クリスマスが終わると、今年もあとわずかなのだなあ…・・・と焦るような気持ちになります。
一年を振り返ってみると、やりとげられなかったことや小さな失敗のことが頭をよぎり、心につきささるものを感じます。
今日の礼拝メッセージを聞いて、いつも笑顔のHon牧師もこのような痛みを感じておられるのだと意外に思いました。

今日はメッセージをメモしたらB5のノート5ページにもなりました。全部はとても紹介できませんので、心に残ったことと自分にあてはめて考えさせられたことを書かせていただきます。

望んでいた結果が得られなかったり、失敗したり…・・・人、ぞれぞれ立ち位置が違うのは、その人の能力の違いのせいだと世間一般の人は考えます。
でも、それは能力の違いではなく、神の意図があって必然的に置かれている場所なのだと教えていただき、なんだかほっとしました。


自分の望みを第一に考え、かなえられるように祈っていると、かなえられなかったとき、挫折感を味わいます。
自分の思いや願いから出発すると、祈りも自己中心的になってしまいます。
かつてのわたしはそうでした。「神様、このことをします。うまくいくように守ってください」と祈っていたのです。何をなすべきか祈って決めるのではなくて、最初に自分で決めてから祈っていたのです。

神様の側から考えること・・・神様のお考えは何だろう・・・神様はわたしに何をしてほしいと望んでおられるのだろう・・・と考えて、たとえ自分の願いと違っても神様のみこころを行うことを第一にすることが大切だと教えられました。


いまから3500年ほど前、エジプトで奴隷としてしいたげられていたイスラエルの人たちは、救い出され、40年荒野で歩まされました。

荒野での生活は決して楽なものではありませんでした。農業をすることもできないので、自分の力で食べ物を得られません。彼らの能力は必要とされず、計画は成就しません。

一方、荒野の生活には奇跡が伴いました。昼は雲の柱、夜は火の柱が彼らを導きました。柱が動くとき彼らも移動し、留まれば何か月でも同じ場所にいなければなりませんでした。

栄養価たっぷりのマナが毎日与えられ、肉が食べたいと言えば、うずらが飛んできて、のどがかわけば岩から水が出ました。

そんなすごい奇跡が起きているのに彼らの中には不平不満がありました。

「あなたの神、主が、この40年の間、荒野であなたを歩まされた全行程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。(申命記8:2)」
とモーセが書き記しています。

『神が彼らを40年間も荒野を歩ませ、苦しみ試みたのは、自分がどんな人か自分自身が知るためだった。』という意味だそうです。


人は、意外と自分の心を知りません。12/19の「言葉で人を傷つけたとき」に書いたようにわたしは、上から目線で話し、人の心を傷つけていましたが、そのことに全く気付きませんでした。でも、乳がんという試みにあったのち、気づかされたのです。

そんな高慢なわたしのことを赦して下さる神様の恵みにただただ感謝するばかりです。
神様の恵みのうちにしか生きられない弱い自分だと知らされたことで、心から次のみ言葉が言えるようになりました。

「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。(詩編119:71)」


不平ばかり言っていた不信仰なイスラエルの人たちを裁くことはできません。わたしは彼らより不信仰でした。

でも「この40年間あなたの着物はすり切れず、あなたの足ははれなかった(申命記8:4)」と書かれているように、イスラエルの民と共におられた神様は、わたしと共に歩んで下さり、あふれるばかりの恵みを与えて下さいました。
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我が家のクリスマス

2009-12-24 13:05:23 | 家族

昨日はヒックンとママを招いて我が家でクリスマスを祝いました。
一羽分の鶏をスーパーで予約して買い求めました。中にフランスパンとセロリーの葉、ローズマリーを詰めてオーブンで焼きました。直径25センチの皿からはみでそうなぐらい大きかったので、焼くのに1時間以上かかりました。
メニューはこの他にパイキッシュとサラダ、サーモンのカルパッチョとパンプキンスープです。ケーキまでは焼けなかったので、チョコレートケーキを買ってきました。

ヒックンパパは仕事がどうしても抜けられなくて、来ることができませんでした。夕食のお土産を持って行ってもらいました。


ヒックンは車のおもちゃが大好きです。
「バスがねんねしちゃったの。トラックがジャンプして公園に行くところなんだ」と車を擬人化して遊んでいます。

最近はよくしゃべるようになって、ずいぶん長い文章を言えるようになりました。
「お洋服ぬらしちゃったから、新しい服に着替えたの。おばあちゃんから買ってもらった服だよ。かっこいい服、ありがとう」

ひいおばあちゃん(主人の母)からヒックンにクリスマスプレゼントとしてトレーナーをいただきました。そのお礼の電話をかけたときにしゃべった言葉です。
ひいおばあちゃんは、感激していました。

まだ言えない言葉もあります。ブロッコリーはコロッコリー。お魚はオカタナ。ままごとはマガゴトになってしまいます。

また、都合が悪いことを言われると、目を閉じて寝たふりをするようになりました。
悪いことをしてしかられると、「聞こえないよ」と言ったりします。
そんなとき、主人は全くしからないので、
わたしはびしっとしからなければと思います。でも、一緒に暮らしているわけではないので、あんまりきつくはしかれません。

思案していた時、いいことを教えられました。これもOBI(お茶の水聖書学院)のDVDからですが・・・。


言いつけをやぶって庭に出て遊び、ひざをすりむいてしまった3歳の孫に対してとったおじいちゃんの態度が紹介されました。

まず抱きしめて愛していることを伝えます。そして抱きかかえたままお尻をたたいて、「お前のことを愛しているよ。おまえがやってはいけないことをしたので、しかるんだよ」と言い、そのあとで、傷の手当をしたそうです。

聖書に「この方(イエス・キリスト)は恵みとまことに満ちておられた」(ヨハネ1:14)と書かれています。恵みとまこと。この順序が大切なのだそうです。

まず神様は恵みを贈ってくださり、そのあとで真実を示して下さいます。神様からの恵みがなければ、わたしたちは神の真実(厳しさと裁き)に耐えることができません。でも、恵みによっておおわれた真実ならば、神のふところのうちにあって受け入れることができるのですね。

このお孫さんは、おじいちゃんからお尻をたたかれても、おじいちゃんを嫌いになったり怖がったりすることはなかったでしょう。

まず愛していることを伝える。愛しているから、悪いことをしたときにしかるのだと伝える。この原則は親子の間はもちろん、ほかの人間関係にもあてはめるといいですね。

恵みとまことを与えて下さるイエス様が地上に来て下さいました。まず、恵みを与え、包み込んで下さるイエスさまが生まれて下さいました。なんて嬉しいことでしょう。
このブログをお読みになっておられる方々の上にクリスマスの祝福があふれますように。


メリークリスマス!


もうひとつのブログカリスは、「生かされて」の過去の記事からの転載が多いのですが、今日は「クリスマスは何の日?」と題して書きましたのでよろしければ、そちらもご覧ください。
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手作り絵本&カレンダーノート

2009-12-22 13:50:29 | 日記

9/25のブログで紹介した五つのパンの「マローンおばさんの部屋」から絵本カレンダー&ノートが届きました。
表紙に布が貼ってある手作りノートです。大きさも手ごろで使いやすそうです。(19㎝×13.5センチ)

一般の店で販売されている手帳はたいていが月曜始まりになっています。カレンダーは日曜始まりなのに、なぜでしょうか・・・クリスチャンは、日曜日に礼拝をささげてから新しい週が始まるという感覚です。なので、日曜始まりの手帳が欲しいと思うのです。

このノートはもちろん日曜始まりです。カレンダーにはローマ字で聖書の言葉が書かれています。

好きな布を送って作ってもらうこともできます。

こちらの手帳は娘が送った布で作っていただきました。世界にひとつだけの手帳です。

まだ年内に注文が間に合うそうです。五つのパンのHPより申し込めます。
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クリスマスメッセージ

2009-12-21 12:37:33 | 教会

昨日はクリスマス礼拝でした。
今月から「変化」というテーマでクリスマスメッセージが語られています。


「クリスマスは巨大な変革です。神様が人となって出現したからです。新しく出現した神を信じる者には大きな価値変換が起こります。」
と聞いて、確かにそうだと思いました。

わたしは、キリストを信じる前には価値があると思っていたものが、キリストを信じてからは無価値と思えるようになりました。
たとえば人に認められること。賞を得ること。お金持ちになること。また、ブランド物をたくさん持つことなどは価値のないことと思うようになりました。もし、それらを求めて得たとしても、さらに欲が出てきて心が満たされることはないのです。

10月に召されたTさんの説教ノートに書かれていたメモ書きが紹介されました。

わたしは、当然のようにより多くの物を持ちたいと思い、人に認められたいために追い求めてきました。しかし、わたし自身を喜ばせる物を求めるのではなく、どんな境遇にあっても幸せを味わえる人になることが幸せではないでしょうか。


悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべての物を持っています。(Ⅱコリント6:10)
のみ言葉が思い浮かびます。


イエス様は変革をもたらす言葉を何度も語っておられます。

悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。(マタイ5:4)

義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。(マタイ5:10)


この山上の説教は、この世の常識とはずいぶん違います。価値観の変革ですね。

わたしは中学生3年生のとき、自分の性格を変えようとしました。努力したら変えられると思っていました。非常に消極的でマイナス思考でもあったので、それを根底から変えたいと思いました。いろいろ努力したのですが、結局変えられませんでした。価値観が変わっていなかったので、内面が変えられることがなかったのです。
その後、イエス・キリストを信じたとき価値観が変わり、少しずつ変えられていきました。


ーこのいのちが現れ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠の命を伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現わされた永遠のいのちです。ー(Ⅰヨハネ1:2)



「いのちというのは神のひとり子、イエス・キリストです。この方が根底の変革をもたらす方です。父(神)とイエス・キリストとの交わりによって変えられるのです。


と牧師先生が言われました。

わたしの人生の目標は、イエス様のような人格になることです。目標に達するまでには、まだまだ遠い道のりです。
「イエスさま。不完全で欠けだらけのこのわたしをもっと、もっと変えてください。」
と祈りました。
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言葉で人を傷つけたとき

2009-12-19 17:54:01 | エッセイ

今日はCS小学科クリスマス会でした。
わたしの担当したドラマは、自分で言うのは何ですが・・・なかなかの出来栄えでした。監督、撮影、編集のすべてをして下さったK先生に感謝です。

家庭集会クリスマス会での証しの原稿を掲載させていただきます。


言葉で人を傷つけたとき  

家庭集会18年続けて嬉しかったことは、KさんとOさんが洗礼を受けたことです。
「辛かったことはありません」と言いたいところですが……実は家庭集会をやめようと思ったことがこれまでに2回ありました。1回は乳癌になったときですが、もう1回はその数年前のできごとです。

家庭集会のあとの会話の中でわたしはひとりの人の心を傷つけてしまいました。傷ついたと言って下さったのでわかったわけですが……。

出席した人が満たされて喜んで帰って行く家庭集会になるようにと備えてきました。その家庭集会の場で傷つけるようなことを言ってしまうなんて……とショックで3日間、ほとんど食事がとれないほどに落ち込んでしまいました。

もう家庭集会を開く資格がないと思いました。伝道師のM先生に相談すると、「あなたが言った言葉は傷つけるような言葉ではない。誤解して受け止められたのだから、そんなことで家庭集会をやめることはない」と言われて、なんとか立ち直れ、家庭集会を続けることができました。でも釈然としない思いが残りました。

最初は悪かったと思っていたのに、月日がたつうちに自分は悪くないのだという気持ちに変わっていったのです。

そして今から6年前に乳癌になりました。
乳癌になって、辛いところを通らされたとき、わたしは今までの自分がとても高慢だったということに気がついたのです。

誰かが悩みを語ったり、苦しみを訴えたりしたとき、何かアドバイスをしなければと思っていました。その人より一段高い所に立って、教えようとしていました。今どきの言葉で言うと「上から目線」で話していたのです。

あのときもそうでした。一緒に苦しむのではなく、相手には十分わかりきっていたこと……正論を唱えていたのです。

乳癌の手術後、リンパ転移があるので再発転移のリスクが非常に高いことがわかったとき、辛くてたまりませんでした。

葛藤の末、最終的には神様にすべてをお委ねして平安をいただいたのですが、葛藤の最中に誰かに「神様はすべてを働かせて益としてくださると聖書に書いてあるでしょう」と言われたら深く傷ついてしまうことに気づきました。

神様に委ねたあとでも、血液検査で腫瘍マーカー値が上がっただけで、心は大嵐のように波立ち感情が不安定になってしまいました。そんな自分の弱さをとことん知らされました。

正しい言葉が人の心を傷つけることがあるのです。言葉は悪くなくても、あのとき話したわたしの態度はなんと高慢だったのでしょう……。わたしが悪かったのだとようやく気づきました。

わたしはほかにも色々な人の心を傷つけていたかもしれません。今もわたしの言った言葉で心の傷が痛んでいる人がいるかもしれません。この罪がいつまでも残るのなら、生きていることができません。

でも、ルカの福音書を読んだとき、罪深い女に対してイエス様の言われた、「あなたの罪は赦されています。」 (ルカ 7:48)という聖書の言葉が迫ってきました。

わたしの罪は神様からすでに赦していただいているのです。そのためにイエス様が十字架にかかってくださいました。十字架にかかるために人となって生まれてきてくださったのですから……。

 過ちを犯し、乳がんにならなければ人の心の痛みに気づくことのなかった欠けのあるわたしが家庭集会を開かせていただいています。このことは、神様の憐れみです。また、背後で祈ってくださる多くの人たちに支えられているからです。

喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣けるような者になれるよう願っています。
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家庭集会クリスマス会

2009-12-18 13:01:54 | 教会

昨日は家庭集会のクリスマス会でした。土浦めぐみ教会の家庭集会は全部で8つあります。いつもは各家庭で集会が行われるのですが、年に一度クリスマスの時は、メンバーが教会のチャペルに集まって共にクリスマスを祝います。

昨日は40人以上の方が集まりました。
我が家で開いている家庭集会は、町名をとって文京と呼んでいますが、文京になってから10年という節目なので(その前は真鍋で8年間行っていました)、「証しをしてください」とH先生から言われていました。
証しとは、神様がわたしの人生にどのように働いて下さったかを語ることです。

土浦の地で家庭集会を始めさせていただいてから18年にもなるので、語ることはたくさんあります。思い出やエピソードなど話したら1時間でも足りないでしょう。でも、「証し」と言われて脳裏に浮かんだことは、わたしの犯した過ちのことでした。
このことは、先月多摩ニュータウンの教会でもお話しさせていただきました。でもそのときは、めぐみ教会では話せない思っていました。

他の証しを考えようとするのですが、どうしてもそのことに思いがいってしまいます。

その出来事から10年以上たっています。話す時期がきたのかもしれないと思いました。

準備をしているとき、まだ痛みが残っていたのでしょう。辛くて涙が出ました。このことを語っていいのですか?と神様に問いかけながら準備しました。

クリスマス会が始まり、賛美の後、コミカルでメッセージ性のある朗読劇、5人の牧師先生たちによる男声合唱……とプログラムがすすんでいきました。

各家庭集会で撮った写真をスクリーンで映しながら、代表者が家庭集会の紹介をし、楽しいなごやかな時間が過ぎていきました。このあとにわたしが証しすることになっています。

わたしは、ものすごく緊張していました。(多摩ニュータウンの教会で奨励させていただくときよりずっと…・・・)楽しいこの会で深刻なことを話すことがふさわしくないような気がして、別の話にしようかと迷ったりしていました。

でも、クリスマス会が始まる前に友に祈ってもらったことが心の支えとなりました。
そして、原稿を全く見ずに準備していた証しをすることができました。不思議なことに証ししたとき、痛みを全く感じませんでした。むしろ心が解放され、赦された喜びでいっぱいになりました。

内容は次回掲載します。


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自由意志(その2)

2009-12-16 16:42:03 | 教会

神様は人を造られたとき、エデンの園というすばらしい楽園に住まわせてくださいました。
園にある木には果物がたわわに実っていました。どの木の実もとって食べて良いが、善悪の知識の木の実だけは食べてはいけないと言われました。

ところが、エバは蛇にそそのかされて食べてしまい、アダムにもすすめました。アダムも神の言いつけを破って食べてしまいます。

そして、アダムとエバはエデンの園から追い出されてしまうのです。これが人間の罪のはじめだと聞いたとき、わたしはなぜ神様はわざわざ禁止事項を作ったのだろうと思いました。

食べるなと言われれば食べてみたくなるものです。
善悪の知識の木を置かなければ、あるいはその木の実を食べるなと言わなければ、人類はエデンの園でずっと暮らしていられたのに……。

「神様は人間を自由意志を持つ者として造られたのです。」と牧師先生が言われました。

神様は、人間に従う自由と従わない自由を与えるためにそうなさったのです。

アダムとエバは従わない方を選んでしまいました。わたしがエバだったら…・・・、やはり食べてしまったでしょう。


神様は人間に律法を与え、従うか従わないか自由意志を与えました。

私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。(申命記30:19)


人を変えるのに強制的に力ずくで変えるのと、その人自身に選ばせて内側から変えていく2つの方法があると聞きました。

強制的にすると、それは一時的で、抑えつける人がいなくなったら、もとにもどってしまいます。その人自身が選んで変わった場合は、まわりの状況が変わっても、もとにはもどらないでしょう。

イエス・キリストが救い主であると強制的に信じさせることはできません。でも、神様が「あなたはいのちを選びなさい。」と言っておられるのです。神様はすべての人々にいのちの君であるイエスさまを受け入れて欲しいと願っておられるのです。

いのちと死、祝福とのろい。あなたはどちらを選びますか?

              おわり


*先日、縦にまっすぐの虹が出ていました。写真ではほとんどわかりませんが、中央より左にある縦の筋がそうです。虹は神様の祝福の約束のしるしです。
とてもいいことがあるような気がして嬉しくなりました。
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自由意志(その1)

2009-12-14 17:10:23 | 教会

12日はCSクリスマス会の予行演習があり、昨日は最終練習日でした。ドラマはアフレコもすみ、なんとか完成できそうです。19日がCSクリスマス会本番です。
そして20日はいよいよクリスマス礼拝です。クリスマスに向かって喜びが高まってきました。

昨日は6人の方が洗礼を受けました。今年のクリスマスは『変化』というテーマで牧師先生方が順にメッセージをしてくださっています。
昨日の礼拝メッセージで受けためぐみを紹介します。


人類の歴史の中で救い主誕生の出来事ほどのビッグニュースはないでしょう。神の子が人間の赤ちゃんとして生まれて下さったのですから。
ところがその出来事が起こったときは、ほんの一部の人しか知らされませんでした。最初にビッグニュースを受け取ったのは、野宿していた数人の羊飼いたちでした。

神様はなぜもっとたくさんの人にこのニュースを知らせなかったのでしょうか?

と、問いかけられて、何故だろう?と思ってしまいました。
天変地異が起きるとか、世界中に響くようなとどろきが聞こえるとか・・・そんなやり方で救い主誕生を知らせることもできたはずなのに。
 
羊飼いに知らされたとき、天の軍勢の合唱が聞こえました。大音響ではなかったでしょう。それは、そこにいる数人の羊飼いにしか聞こえないくらいの賛美でした。


「いと高き所に、栄光が、神にあるように。
地のうえに、平和が、
みこころにかなう人々にあるように。」(ルカ2:14)



みこころにかなう人々に神の栄光があるように」といっているのは、すばらしいニュースを聞いた後で、それを受け入れるかどうか各自に選びとらせ、受け入れた人に神の栄光があるようにという意味だと教えていただきました。

神様は全知全能のお方ですから、人を強制的に信じさせることもできますし、人間をロボットのように神様に忠実に従う者にすることもできたのですが、そうはなさいませんでした。

エデンの園の真ん中に善悪の知識の木を置いたわけは、人間に食べる自由と食べない自由を与えるためだったのです。

つづく
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レ・ミゼラブルを読んで(その2)

2009-12-12 11:51:07 | 読書

ファンティーヌを看取ったジャンは、テナルディの宿屋から8歳のコゼットを助け出します。そしてコゼットをわが娘のように愛します。
ジャヴェルに追われ、コゼットを連れて逃げるところ、棺桶に入って修道院から出るところなどはハラハラドキドキしました。

コゼットに恋する青年、マリユスが現れたときは、ジャンが娘を取られる父親のような心境になるところに思わず微笑んでしまいました。

しかし、ジャンはコゼットを奪う憎き(?)マリユスを助けるのです。
瀕死のマリユスを背負ってパリの下水道を歩き、命がけで助けたのですが、ジャンはそのことを誰にも言いません。


「あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。(マタイ 6:3)」
という聖書のみ言葉を思い出しました。

ミリエル司祭に出会った後のジャンの生き方はキリストの生き方そのものです。

面白いのは何度も登場するテナルディです。彼は悪人なのですが、結果的にジャンを助けることになります。
また、テナルディがマリユスに下水道での恩人がジャンであると知らせることによって、ジャンの最期の願いが叶うことになります。

ジャンは死の床でもういちどコゼットに会いたいと切望していました。マリユスは自分を助けたのがジャンであることを知ってコゼットと共にジャンのところに駆けつけるのです。

神様は悪人をも用いられる。それどころか、神はあらゆる出来事を働かせて、誠実に生きる信仰者を助け、恵みを与える
ことを作者は書きたかったのではないかと思いました。

最後にコゼットが幸せになったところが読者として嬉しかったです。

臨終のとき、ジャンはコゼットに母親の名をあかし、母親について次のように言いました。

「あの人は非常に難儀をした。お前を大変かわいがっていた。お前が幸福な目にあったのとちょうど同じぐらい不幸な目にあった。これが神の配剤である。神は天にあって、われわれ皆の者を見られ、大きな星の間にあって自分の仕業を知っていられる。」


ジャンは天国でイエス様に義の栄冠を受けたことでしょう。

この小説のタイトルは、「レ・ミゼラブル(悲惨な人々)」ですが、わたしは悲惨な人々への神様の憐れみを感じました。

       おわり
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レ・ミゼラブルを読んで(その1)

2009-12-10 17:05:19 | 読書

mixiのコミュでカラマの会に入っています。カラマの会とは2007年8月に開始されたネット読書会(非公開)で、同じ本をメンバーが半年ぐらいかけて読み、感想などを書き込んでいます。
これまでに「カラマーゾフの兄弟」「エデンの東」「クォヴァディス」を読みました。

そして今回は「レ・ミゼラブル」です。小学生の時「ああ無情」を読みました。
岩波文庫から出ているものは600ページ前後の文庫本4冊にもなります。最初は読破できるのかと心配でした。

この小説の背景にあるフランス革命のことやナポレオン戦争のワーテルローの戦について書かれており、政治の世界もかなり詳しく描かれています。退屈な箇所はところどころ読み飛ばしながらスローペースで進んでいきました。
合間に数冊の軽い本や児童書を読んだので、読み始めてから10か月近くかかってしまいました。でも、おかげで今年の読書は充実感でいっぱいです。

さて、感想は・・・。

ジャン・ヴァルジャンは、たった1本のパンを盗んだ罪で19年も服役していました。徒刑場を出たジャンは行く先々で冷たく扱われます。
そんな彼をミリエル司教は暖かく迎え入れてくれました。それなのにジャンは司教の大事にしていた銀の食器を盗んでしまいます。翌朝、彼を捕らえた憲兵に対して司教は「食器は私が与えたもの」だと告げてさらに2本の銀の燭台をも彼に差し出しました。

ミリエル司教がジャンに言ったセリフが心を打ちます。

「ジャン・ヴァルジャンさん、あなたはもう悪のものではない、善のものです。私が購うのはあなたの魂です。私はあなたの魂を暗黒な思想や破滅の精神から引き出して、そしてそれを神にささげます」


ミリエル司教との出会い、この出来事がジャンの生き方を大きく変えました。ジャンはミリエル司教(キリスト)の愛と赦しによって新しく生まれ変わったのです。

その後、ジャンは『マドレーヌ』と名乗り、市長になりました。
自分と間違えられて逮捕された男がいることを知って、葛藤の末、自分の正体をあかし、再び追われる身になります。言わなければ安泰な生活が続けられるというのに正直に告白します。

ジャンを執拗に追いかける警視ジャヴェル。後に彼を射殺するチャンスがあったのにもかかわらずそうしなかったジャンの誠実さに心打たれます。

いちばん悲しかったのは、コゼットの母ファンティーヌのことです。テナルディエ夫妻にだまされてお金を取られ、歯まで売ってしまいました。(当時のフランスでは歯を売ってお金に代える人がいたようです)
そして病気になり、コゼットに会いたいと願いつつ息を引き取ってしまいました。


つづく
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心が宝で満ちたなら

2009-12-08 16:14:20 | 日記

昨日ようやく新型インフルエンザワクチン接種してもらえました。内科主治医から優先接種券をいただくのに3時間かかり、別の日予約券をいただくのに1時間半。(一回目は少し遅れて行ったため、いただけず)そして昨日は40分ほどの待ち時間でした。

ワクチンが不足しているからなのでしょうが、こんなに大変だと思いませんでした。
わたしより体力のない人は、家族の協力がなければ予約することもできないでしょう。働いている方で持病のある人は、日時が指定されてしまうので難しいでしょう。妊婦さんも持病のある人と同じ扱いで、時間に遅れて来たら予約券がもらえない状況です。

わたしは接種していただけたことを感謝しますが、接種を希望してもできないかもしれない方々を思うと申し訳ない気持ちです。
ワクチン接種してもかかる人もいますから、油断はできませんが・・・。
ヒックンは19日にかかりつけの小児科で予約がとれたと聞いて、ほっとしました。

今日は内科の診察日で、連日病院通いです。2日ともいい天気で自転車で行けたのでよかったです。

 
今、OBI通信では新約聖書を学んでいます。今まで読み過ごしていた聖書の言葉がピックアップされ、感動に震えて思わず涙することもしばしばです。

マリヤが「心に留めておいた(ルカ2:51)」という箇所を英語で「心の宝とした」訳されているものがあると教えていただき、なんて素晴らしい言葉なのだろうと思いました。

聖書を読むたびに心の宝がひとつずつ増えていきます。心が宝で満ちたなら、どんな試練がやってきても、神様の愛をあふれさせることができるような気がしました。


苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。(Ⅱコリント 8:2)
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小さなところに現れる業(わざ)

2009-12-06 20:52:43 | 聖書から

今日の礼拝のメッセージから受けたことを書かせていただきます。

イエス様が弟子のペテロとヤコブとヨハネを連れて山に登られたとき、イエス様の姿がまばゆいほどのひかり輝く姿になったことが聖書に書かれています。


それから六日たって、イエスはペテロとヤコブとヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。そして彼らの目の前で御姿が変わった。その御衣は、非常に白く光り、世のさらし屋では、とてもできないほどの白さであった。(マルコ9:2-3)


「山上の変貌」といわれる記事ですが、それは変貌ではなくて、イエス様が本来の姿を見せたのだと聞きました。地上におられるイエス様の姿こそ、変貌された姿なのだと。

神の子であるイエス様が人間になるということは、人が蟻になる以上のことだと聞いて、はっとしました。
ペテロたちが見たように本来のイエス様は、じっとみつめていられないほどまばゆく、栄光に満ちたお方で、天を巻物のように閉じてしまうこともできるお方です。

そんな力あるお方が、無力で誰かに世話をしてもらわないと生きていけない人間の赤ん坊の姿になって地上に来て下さったのです。
このクリスマスの出来事を想うと、神様がどれほどわたしたちのことを愛しておられることか・・・と胸が熱くなります。

山の上でペテロたちが見た者は、栄光のイエス様の姿のほかにモーセとエリヤでした。
モーセとエリヤは、どちらもホレブ(シナイ)山で神様と直接出会っています。
モーセは燃えているのに燃え尽きない柴をみて、その中に神様がおられることに気づきました。
エリヤはかすかな細い声の中に神様がおられるのに気づきました。


「神様は、わたしたちから見て小さな変化の中に現れる」
と牧師先生が言われました。
わたしたちは神様を直接見ることはできませんが、神様の業(わざ)を見ることができます。でも、それは小さなところに現れるので見過ごしてしまうことも多いと思います。
神様が働いておられることに気づかずにいることもあるでしょう。

でも、いちど神様の働きに気づき始めると、あのことにもこのことにも背後に神様の働きがあったと、心震えるのです。


たとえば、本屋さんで何気なく手に取って買った本を読んで人生が変わることもあります。わたしは、三浦綾子さんの本を読んだことがきっかけで教会へ通うようになりました。
ブログやHPに書かれた文章から神様を求めるようになった方もいます。インターネットのうえにも神様が働いておられるのです。

絶望のどん底にあって検索サイトに「だれか助けて下さい」書き、わたしのHPの詩(生かされて)にヒットして心動かされたという方もおられました。(メールをいただいたとき、驚きました)

小さき者の書いているこの文章のうえにも神様が働いて下さることを期待しつつ。
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6節まであった「きよしこの夜」

2009-12-03 20:18:14 | 日本クリスチャン・ペンクラブ

クリスマスシーズンになると、「きよしこの夜」が聞こえてきます。教会へ行ったことがない人でも「きよしこの夜」を知らない人はいないでしょう。

「きよしこの夜」は賛美歌109番ですが、3節までしか歌詞が書かれていません。
数年前、6節まであることを知ったとき、心打たれました。
ドイツ語の原作は6節まであり、その翻訳をメロディーにあわせて日本語の歌詞として書かれたのが日本クリスチャン・ペンクラブ(JCP)のメンバーでもある詩人、佐藤一枝さんです。

佐藤一枝さんは、たくさんの賛美歌の作詞をなさっておられます。その佐藤さんと先日JCPクリスマス会で朗読劇をご一緒にさせていただきました。佐藤さんは80歳過ぎておられますが、美しく乙女のような声でマリヤ役をされました。わたしはヨセフ役でした。

きよしこの夜の4~6節の歌詞を紹介します。


4 きよしこの夜 神のみ子が 
  栄えの姿 惜しまず捨てて
  降(くだ)り給う 罪の世に

5 きよしこの夜 小さきみ手を
  かかげて招く 救いのみ子は
  愛し給う 友の如(ごと)

6 きよしこの夜 み傷しめし
  すべての民に ゆるしの恵み
  与え給う イエス・キリスト


以下はわたしなりの解説です。

4 神様の子どもであるイエスさまは、本来栄光に輝いたお姿です。それなのに栄光の姿を惜しまず捨てて、人間の赤ん坊として最も貧しいところ(家畜小屋)、罪に満ちたこの世界に生まれて下さいました。

5 イエス・キリストは、どの国の人たちも、どのような身分の人たちも、小さな手をかかげて招いて下さり、友のように愛して下さいます。これは、世界平和を意味します。

6 み傷というのは、十字架にかけられたときの傷です。キリスト生誕の歌なのになぜ十字架が出てくるのか? と思われる方もいるでしょう。
それは、キリストが生まれた理由が十字架につけられるためだったからです。

「すべての民にゆるしの恵み」
と書かれているようにキリストは、わたしたちの身代りに十字架にかかって罰を受けて下さいました。そのおかげでわたしたちはキリストを信じるだけで罪をゆるしていただけるようになったのです。ゆるしの恵みを与えていただいたのです。


今年のクリスマスは、「きよしこの夜」を6節まで賛美しましょう!

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