わたしの反抗期は長く、11歳から10年近く続きました。最初は父に反抗し、その後母に反抗しました。でも、この反抗期は自己を形成するために必要な時期でした。
母に反抗してもその支配からなかなか抜け出すことができず、抜け出したのは40代に入ってからでした。
自己評価が極端に低いというわたしの抱えていた問題は、家庭環境にあったのかもしれません。でも、同じような環境で育ち、親から同じように否定的な言葉を言われてきた人がいたとします。その人は否定的な言葉をバネにして積極的で頑張り屋になったかもしれません。
わたしの生まれつきの性格にもよるので、誰かのせいにして怨むようなことはしたくありません。怨みを晴らすことができたとしても、それは何の解決にもなりません。
わたし自身、親になったとき、ひどい言葉で子どもたちの心を傷つけてしまったことがありました。
間違った育てられ方をしたり、家庭内で虐待を受けたり、「生まれてこなければよかった」と言われたり、愛されなかったり、愛されているのにそのことが伝わらなかったり……。
問題の多い家庭であっても、理想の親子関係でなくても、子どものころに深い心の傷を受けたとしても、どんな状態でも回復可能だということをお伝えしたくて書いています。
過去に戻ってやり直すことができなくても、傷は癒されます。新しく歩み始めることができます。
それでは、わたしはどのようにして癒されていったのでしょう。
5/19のブログ「あなたは高価で尊い」に【そんなわたしが自分の意見をはっきり言えるようになり、人前で感情を表せるようになったのは、聖書の言葉に出会って、自分の存在価値が認められていることがわかったからです。『わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。(イザヤ43:4)』このみ言葉がわたしを根底から変えてくれました。】と書きました。
この一文をもう少し詳しく説明します。
聖書の言葉に出会うとは、初めて読んだということではありません。イザヤ書43章4節は有名な箇所ですから、22歳で洗礼を受けた後、何度も読んでいます。最初のうちは読んでも特別な思いを抱きませんでした。
「わたし」というのは神様のことだとわかりましたが、「あなたは」というのが誰をさしているのかわからず、たくさんの人がこの箇所を読むのだから、不特定な人に対して「あなた」と書かれているのだなあと思っていました。
ところが何度目か読んだとき「あなた」という言葉を見て、ドキッとしました。自分のことだと思えたのです。なぜそう思えたのか……(神様が働きかけて下さったとしか思えません)とにかくそう思えたとき嬉しくて涙が出ました。
そのときから癒しが始まったのです。神様によって薬をつけられ、包帯が巻かれたので、心の傷やひねくれた思いも少しずつ癒されてきました。
金環日食で神様からたくさんの○をもらったように思えたとき、自分でもびっくりしました。(5/21のブログをごらんください)○をもらうというのは、わたしの言動が、生き方が正しいという意味ではありません。わたしの存在が○だということです。
かつてのわたしは自分に×ばかりつけていました。そのことを思うと、いまのわたしは(完全ではありませんが)神さまによってかなり癒されていると思えるのです。
完全に癒されても傷跡は残りますが、その傷跡は同じように傷ついた人を慰めることができるでしょう。
聖書の言葉
「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。(マタイ5:4)」
「キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたはいやされたのです。(Ⅰペテロ2:24)」
「主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。(イザヤ61:1)」
おわり
最後まで読んでくださってありがとうございます。
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母に反抗してもその支配からなかなか抜け出すことができず、抜け出したのは40代に入ってからでした。
自己評価が極端に低いというわたしの抱えていた問題は、家庭環境にあったのかもしれません。でも、同じような環境で育ち、親から同じように否定的な言葉を言われてきた人がいたとします。その人は否定的な言葉をバネにして積極的で頑張り屋になったかもしれません。
わたしの生まれつきの性格にもよるので、誰かのせいにして怨むようなことはしたくありません。怨みを晴らすことができたとしても、それは何の解決にもなりません。
わたし自身、親になったとき、ひどい言葉で子どもたちの心を傷つけてしまったことがありました。
間違った育てられ方をしたり、家庭内で虐待を受けたり、「生まれてこなければよかった」と言われたり、愛されなかったり、愛されているのにそのことが伝わらなかったり……。
問題の多い家庭であっても、理想の親子関係でなくても、子どものころに深い心の傷を受けたとしても、どんな状態でも回復可能だということをお伝えしたくて書いています。
過去に戻ってやり直すことができなくても、傷は癒されます。新しく歩み始めることができます。
それでは、わたしはどのようにして癒されていったのでしょう。
5/19のブログ「あなたは高価で尊い」に【そんなわたしが自分の意見をはっきり言えるようになり、人前で感情を表せるようになったのは、聖書の言葉に出会って、自分の存在価値が認められていることがわかったからです。『わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。(イザヤ43:4)』このみ言葉がわたしを根底から変えてくれました。】と書きました。
この一文をもう少し詳しく説明します。
聖書の言葉に出会うとは、初めて読んだということではありません。イザヤ書43章4節は有名な箇所ですから、22歳で洗礼を受けた後、何度も読んでいます。最初のうちは読んでも特別な思いを抱きませんでした。
「わたし」というのは神様のことだとわかりましたが、「あなたは」というのが誰をさしているのかわからず、たくさんの人がこの箇所を読むのだから、不特定な人に対して「あなた」と書かれているのだなあと思っていました。
ところが何度目か読んだとき「あなた」という言葉を見て、ドキッとしました。自分のことだと思えたのです。なぜそう思えたのか……(神様が働きかけて下さったとしか思えません)とにかくそう思えたとき嬉しくて涙が出ました。
そのときから癒しが始まったのです。神様によって薬をつけられ、包帯が巻かれたので、心の傷やひねくれた思いも少しずつ癒されてきました。
金環日食で神様からたくさんの○をもらったように思えたとき、自分でもびっくりしました。(5/21のブログをごらんください)○をもらうというのは、わたしの言動が、生き方が正しいという意味ではありません。わたしの存在が○だということです。
かつてのわたしは自分に×ばかりつけていました。そのことを思うと、いまのわたしは(完全ではありませんが)神さまによってかなり癒されていると思えるのです。
完全に癒されても傷跡は残りますが、その傷跡は同じように傷ついた人を慰めることができるでしょう。
聖書の言葉
「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。(マタイ5:4)」
「キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたはいやされたのです。(Ⅰペテロ2:24)」
「主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。(イザヤ61:1)」
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