生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

ぼくは誰なの

2013-06-28 20:55:55 | 

アイデンティティーをテーマとした童話を書いています。主人公の気持ちで詩を書きました。



             ぼくは誰なの
ぼくは誰なの
町中にあふれている大勢の人
ぼくは、その中のひとり
ぼくがいなくなっても世界が変わるわけじゃない

ぼくは誰なの
空気よめないヤツ
間の悪いヤツ
仲間からは、そんなふうに言われてる

ぼくは誰なの
役に立たないヤツ
いないほうがいいヤツ
消えられるものなら消えてしまいたい

ぼくは誰なの
君は君だよ
誰が何と言おうとも
君がいなくちゃ困るんだ

君は君だよ
世界でたったひとりの
大切な、大切な、君だよ



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Who am I ?

2013-06-25 17:34:33 | その他
先日、CS教師研修会でアイデンティティーの問題についての話を聞きました。

多くの人はアイデンティティーよりハウツーを重要視します。
どうすれば成績が上がるか。どうすれば効率よく働けるか。どうすればよい人間関係を築けるか、どうすれば健康で長生きできるか……。
ハウツー本が売れていますね。役に立つ部分もあるかもしれません。でも、本を読んだ人がその通り実行したら、悩みは解決するのでしょうか? そもそもその通り実行することが難しいような気がします。

就職試験に落ち続けて人格を否定されたように思い、傷ついて鬱病になってしまった人の話を聞きました。アイデンティティーが確立されていれば、それほど傷つくこともなかったのに……と残念に思いました。

ではアイデンティティーとは何でしょう。
アイデンティティーには、存在(自分はどういう人間か)と行為(自分に何ができるか)
という二つの側面があります。

アイデンティティーを確立するには、まず自分がどれだけ価値のある者かを知ることが大切です。
人は誰でも、神様によって造られ、愛されている存在です。
どれくらい愛されているかというと、神様はあなたのことを救うためにご自分のひとり子のいのちを差し出してくださいました。それほどに愛されている存在、価値ある存在なのです。
このことがしっかりわかっていれば、誰に何を言われようとも動揺することがありません。
たとえ世界中の人に嫌われても、あなたは愛されている存在なのです。なくてはならない存在なのです。

「自分に何ができるか」については、すぐにはわからないでしょう。でも、自分がどういう存在なのかを知っていれば、なすべきことがわかってきます。

レ・ミゼラブルのジャン・バルジャンが「Who am I」と叫んでいます。牢獄では番号で呼ばれ、牢獄を出たら犯罪人としてのレッテルを貼られてバカにされ、それを隠して市長になったら市長さんと尊敬され……。立場や置かれた場所で違った扱いを受けるので、本来の自分は誰なんだろう? と思うのは当然です。         

ジャン・バルジャンの場合は、盗みを働いたのに赦され、愛されたことを思い出すことによって、アイデンティティーが確立されたのです。それで、なすべきことができたのではないでしょうか。



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理屈を超えて

2013-06-22 12:26:37 | 聖書から
昨日はOさん宅での家庭集会でした。
男性と女性の視点の違いについて興味深いお話を聞きました。

男性は「構造」から考える人が多く、そういう人は、概念、理念、原理、原則、普遍性、公性優先、左脳派で、現場に埋没しないで大所高所から発想できる。

一方女性は、「ぬくもり」から考える人が多く、生活実感、具体性、特殊性、私性、親しみ優先、右脳派の人が多く、関係性を豊かにできる。

「構造」から考える人は、場所を尋ねられたとき、頭の中に地図が描けるので相手に正確に伝えることができるそうです。わたしの最も苦手なことです。

また、「構造」から考える人は神様が自分の頭に納められないので、神様を信じることが難しいと聞いて、まさにわたしの夫もそうなのだと思いました。

でも、そのような男性が大勢クリスチャンになっています。信じ難い人でも、あるとき、ひっかかっていたことすべてが解決して信じることができるようになります。それは人の力ではなく、神様の力ですね。

理屈で考えると、神の存在がわからなくなります。科学的には証明できないからです。
まさに奇跡は原理、原則、普遍性から逸脱しているので受け入れられないでしょう。でも、神の存在が奇跡に始まり奇跡に終わっているのです。

旧約聖書のいちばんはじめには、「初めに、神が天と地を創造した(創世記1-1)」と書かれています。新渡戸稲造は、この聖書の言葉を漢文で読み、信仰に導かれたそうです。

神様が何もないところから天と地を造られたこと受け入れられれば、理屈にあってなくても信じられますね。神様は理屈を超えた存在だからです。



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21世紀のアダムとエバに

2013-06-18 17:22:58 | 教会
16日は第2礼拝が親子礼拝でした。年に一度、1,2歳クラスから小学生までが親御さんと共に礼拝堂で礼拝を捧げます。
そのあと小学生は体育館に移動して親子運動会をしました。
わたしは受付だったので、残念ながら親子礼拝のメッセージを聞くことができませんでしたが、第1礼拝で聞いたメッセージの一部を紹介させていただきます。

旧約聖書創世記3章8~10節からです。
アダムとエバが神様から禁じられた木の実をとって食べた後、ふたりは神様から身を隠しました。そのとき神様は「あなたはどこにいるのか」と言われました。

神様がアダムがどこにいるのかわからなくて聞いたのではありません。神様は全知全能なのでアダムがどこにいるかご存じのはずですから。
「あなたは、どこにいるのか」は、『あなたがたは、自分たちがどこにいるのかわかっているのか』という意味です。

アダムは神の声にこたえて「裸なので恐れて隠れていました」と自分の内的状況を話します。アダムは神様の声を無視せずに正直に答えました。そのことは褒められることです。でも、彼は神の懐に走って行きませんでした。

もし、アダムが自分の罪を認めて神様の懐に飛びこんであやまったなら、神様は赦してくださったでしょう。神様はそうしたかったのだと思います。ところがアダムは、自分の非を認めたくなくて虚栄を張り、神さまとの関係を断ち切ってしまったのです。

神様は『あなたはどこにいるのか。わたしのもとにかえってきなさい』
と、21世紀のアダムとエバ(わたしたち)にも語りかけておられるのです。
 
神様から隠れ、離れているとき恐れを感じるのだそうです。
わたしもときどき神様から隠れようとすることがあります。神様がいつも共にいてくださると頭ではわかっているのに、不安でたまらなくなるときがあります。
そんなとき神様はわたしに「あなたは、どこにいるのか」と言っておられるのでしょうね。



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研修会(その3)

2013-06-15 16:17:27 | 日本クリスチャン・ペンクラブ
今回の研修会のメインは作品合評です。「雲」という共通テーマでエッセイや小説、童話などを書き、あらかじめ添付ファイルで送り合い、お互いの作品を読んでいました。傑作揃いです。他の方の作品を読むと、自分の作品が小さくしぼんでいくようです。

2日間の研修で2回の合評会が行われました。1時間半かけてじっくりと5作品を合評します。

感想、批評を言うのは簡単ではありません。しっかり読み込まないと言えません。きついことを言って相手が傷ついてしまったらどうしよう……という恐れも抱きながら。それでも伝えたいことは、はっきり言いました。わたしの作品に対しても忌憚なく言ってほしいからです。

より良い作品とするためには何度も書き直しが必要で、そのためには他者からの視点が必要なのです。もちろん、人によって受け止め方が違うので、同じ個所を読んでまったく別の感じ方をされる場合もあります。だから、けなされても落ち込む必要はないのです。

以前こんなことがありました。JCPではなく、児童文学者協会の合評会のとき、「こんなつまらない作品書いて、書く意味があるのかしら」と言った人がいました。あまりにもひどい言葉だったので、言われた方は深く傷ついたのではないかと思いました。終わってから声をかけると、「あの人はそう思ったのでしょ。でも、わたしにとっては、ちゃんと意味がある作品だから……」とけろっとしていました。わたしは、その姿勢を見習いたいと思いました。

話がそれましたが、今回わたしが提出した作品は「似顔絵描きの一生」という童話です。
舞台は中世のフランス。イエス様を描こうとした似顔絵描きの主人公が、イエス様の瞳の色がわからないためイエス様を求め続け、生涯の終わりに描き上げるというストーリーです。

イエス様を求める切なる思いを書きたかったのです。イエス様のみこころを完全にあらわす作品を書くにはどうしたらよいか求め続けている自分の気持ちとだぶらせました。

子どもだけでなく、大人も対象にしています。めずらしく「よかった」という声が聞こえて嬉しく思いました。もう少し書き直してなんとか完成させたいです。

2日目はY・M先生手作りのお心の込められた昼食をいただきました。おいしくて夢中でいただいたので写真を撮るのを忘れてしまいました。




雀のお宿といわれている旅館の磯部館に泊まりました。ごちそうをいただき、温泉につかってゆっくりしました。夜はメンバーが一部屋に集まり、信仰と創作への熱い思いを語り合いました。充実した2日間でした。


               おわり


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研修会(その2)

2013-06-13 17:13:00 | 日本クリスチャン・ペンクラブ
日本クリスチャン・ペンクラブの研修会は、安中聖書教会の会堂をお借りして行われました。参加者は11名です。(上の写真は2日目に訪れた安中教会)


研究発表では新島襄についての話を伺いました。
新島襄は、いま大ブームになっているNHK大河ドラマ「八重の桜」の主人公、新島八重の夫です。


新島襄の肖像画

新島襄は安中藩士・新島民治の子として江戸神田一ツ橋の上州安中藩邸で生まれました。幼名を七五三太(しめた)というと聞いて、変わった名前だなあと思いました。

それは、女子が4人続いた後の初の男子誕生に喜んで、祖父が「しめた」と言ったことから命名されたらしいです。

20歳のとき、初めて漢訳の聖書を読み、21歳でアメリカ商船ベルリン号でアメリカに向けて密出国します。それから9年の間アメリカで過ごすのですが、船の中で知り合ったA・ハーディ夫妻の支援をうけて、アーモスト大学、アンドバー神学校で学ぶことができました。
23歳で洗礼を受け、神学校卒業後、宣教師として日本に戻ります。帰国してから「同志社英学校」を設立します。

当時、出国を禁じられていた日本からアメリカに行けたこと。何の保証もない21歳の青年が異国の地で大学や神学校にまで通わせてもらえたこと。宣教師となって帰国したこと。どれひとつとってもびっくりすることばかりです。
それらの背後に神の守りと導きがあったと思わずにはいられません。

新島襄は、
「この世に対する神の愛は無限に大きく強烈である」
「この世の意味を見出さなければ神の愛を知ることができない」

と「神の愛」を熱く語りました。







研修会2日目に訪れた「新島襄記念会堂」(日本基督教団 安中教会)です。
大正8年に新島襄召天30年を記念して建設されたそうです、石造りの重厚な建物でした。
       
                    つづく


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研修会(その1)

2013-06-12 17:23:58 | 日本クリスチャン・ペンクラブ
お久しぶりです。
1週間もブログを更新しなかったのは珍しいことです。昼間はずっと出かける用事が続いていたので、夜に更新しようと思っていました。
でも、体調がおもわしくなかったので無理するのはやめました。

先週金曜日は、教会学校の小学科夏期学校で出かける場所の下見に行きました。
土曜日は教会で教会学校教師研修会。子ども用のいすに4時間近く座っていて腰を痛めてしまいました。

日曜日は朝8時半からの礼拝に出て、教会学校の奉仕のあと、三鷹の実家に向かいました。

6/10、11に日本クリスチャン・ペンクラブ(JCP)の研修会が群馬県安中で行われるため、その前日に実家に泊まらせてもらったのです。
幸い日曜日には体調が整えられて、無事参加できました。

高崎(群馬県)集合だったので、東京駅から新幹線で行くこともできたのですが、三鷹から新宿、新宿から大宮、大宮から高崎までは各駅停車で向かいました。高崎でメンバーの方と会えて、ほっとしました。高崎から信越線で磯部へ向かいました。磯部(安中市)は初めて訪れる場所です。写真はとれなかったのですが、日本三大奇勝の一つと言われる妙義山の山並みがみえました。


磯部駅から歩いて5分のところに建つ教会が安中聖書教会です。この教会の会堂を研修会場として使わせていただきました。
牧師のY・M先生が温かく迎えてくださいました。


教会堂のそばに小さな納骨堂が建っていました。(上の写真の左端にある納骨堂を正面から撮った写真です)

                           つづく


日本クリスチャンペンクラブのHP更新しました。ぜひごらんください。



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どんなに非難されても忘れられる

2013-06-04 16:57:32 | 教会
クリスチャンの詩人、八木重吉の詩に「願」というのがあります

  願
私は
基督の奇跡をみんな詩にうたいたい
マグダラのマリアが
貴い油を彼の足にぬったことをうたいたい
基督の一生を力一杯詩にうたいたい
そして
私の詩がいけないとけなされても
一人でも多く基督について考える人が出来たら
私のよろこびはどんなだろう


わたしは、この詩に心打たれました。人からけなされても自分の書いた詩を読んで一人でも多くキリストについて考える人ができたら嬉しいと書いています。

実際、けなした人がいたのかもしれません。
でも、重吉は人からの評価を全く気にしていなかったのです。けなされても心騒がせることがなかったのでしょう。
また、自分の詩が認められたいとか、評価を得たいという気持ちではなく、キリストを伝えたい一心で書いていたのです。


先日の礼拝メッセージでは、パウロのことが語られましたが、パウロとも通じるところがあります。
パウロは使徒の働き20:19で「数々の試練の中で主に仕えました」と書いています。試練とは、人から誤解されたり、さまざまな批判の声が聞こえたり、反対されたりしたということが含まれていいます。

パウロはどんな声が聞こえてきても、益になることなら少しもためらわず伝えたのです。
「人にではなく、主(キリスト)に仕えていると、どんなに人からひどいことを言われても、非難されても、辛いことがあっても忘れられる。」と牧師先生が言われました。

人からの評価は絶対ではありません。たとえばあなたが「お前は役立たずの人間だ」と言われたとします。あなたが、その人にとって役に立たなかったとしても、ほかの誰かにとっては役立つ存在に違いありません。あなたが気づかないだけで、すでに役に立っているかもしれません。

あなたが「お前なんかいなくなればいい」と言われたとしても、言葉通りに受け取ってはいけません。
あなたにいてほしい。何もできなくても、あなたがいるだけでうれしい」とイエス・キリストは言ってくださいます。

パウロは人からどんなに非難されても「神に対する悔い改めと、イエスに対する信仰」を語ることをやめませんでした。このことは、神様からの全人類へのメッセージだからです。

八木重吉は結核を患い29歳で召されるまで、人からけなされても、キリストを示す詩を書き続けました。



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