生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

み手の中で

2006-01-31 17:14:32 | 乳癌

今日は乳癌手術後の検査の日でした。癌の再発転移の有無を調べるものです。最初の一年は3か月に一度だった検査ですが、今は半年に一度行っています。血液検査と腹部、胸部の超音波(エコー)、レントゲンです。とくにつらい検査ではありません。待たされることを覚悟してさえいれば、いつもの診察の日と同じです。
検査の前に診察があり、外科へいくと、思いも寄らぬことを担当医の先生から告げられました。

「この3月で退職するので、次回からは他の先生にみてもらうことになります」
まだ30代の若い医師です。別の病院へ移られるのでしょうか? 質問する勇気もないほど動揺してしまいました。
わたしの乳癌の手術をして下さった先生です。若いけれど手術の腕は確かだという評判の医師です。これからずうっと看てもらって、もし再手術することがあれば、この先生なら安心と思っていたのに……。担当医が変わると治療の方針も変わるかもしれません。不安です。でも、そのときわたしは「これは、神さまの計らいだ」と思ったのです。

外科の担当医は白血球値が2000まで下がっても、抗ガン剤のせいではないと言って3か月間、検査もしてくれませんでした。内科の医師は抗ガン剤をやめるか変えた方がいいと言いました。また、婦人科の医師は子宮筋腫が大きくなったのはホルモン剤のせいだと言いましたが、外科医はそのせいではないと主張されました。
でも、先週具合が悪かったので一時的に抗ガン剤を飲むのをやめていました。そのときの血液検査の結果は、赤血球値は低かったのですが、白血球は正常値になっていたのです。

医師によって考え方が違うようです。外科の医師は再発転移しないためには、多少副作用があっても抗ガン剤とホルモン剤を飲み続けないといけないと考えておられるようです。

内科と婦人科と外科の先生の考えが違っていると患者は混乱します。どうしてひとりの患者を総合的に診ていただけないのかなあと疑問を感じます。
外科医が変わったら、ますます混乱するようなことになるかもしれません。でも、担当医は神様が備えて下さる。神さまは最善の治療をして下さる。だから大丈夫という思いが沸き上がって、動揺していた心もすぐに平静になりました。今日の検査結果も、この先のことも神さまにすべてゆだねています。神さまの大きなみ手の中にあって安らぎを感じています。

今日与えられた聖書の言葉。
「主は絶えず、あなたを導いて、焼けつく土地でも、あなたの思いを満たし、あなたの骨を強くする。あなたは潤された園のようになり、水のかれない源のようになる。(イザヤ58:11)」



ブログとHP

2006-01-30 12:41:11 | 日記

今日は、久しぶりにコーヒーがおいしく飲めました。コーヒーは好きなのですが、体調が悪いときは飲めないのです。コーヒーは、わたしの健康のバロメーターになっています。

ブログを開設して3か月たちました。2004年4月からHPを開いているので、特別新しいことを始めたという気はしませんでした。
パソコンをやらない友人から、「HPをケイタイで見ることができればいいのに……」と言われたのがきっかけで、ブログの開設を思いつきました。

ブログというのは、開設しようと思い立ったらすぐ始められるものなのですね。テンプレートもちゃんと用意されているので選ぶだけでいいし……HPではさんざんhtmlに悩まされ、大変な思いをしてきたのに肩すかしをくらった気がしました。

HPではつれづれ日記というのを週に5回書いていました。それが半年続いて、しばらく休んだ後、BBSを日記代わりにしてまた書き始めました。荒らしにあうのが怖くて、最初はBBSをつけず、HP開設後一年ほどしてようやくつけたのですが、書き込んでくれる人は少なく、ほとんどわたしの独り言という感じの日記でした。わたしの文章が固くて、つまらないからコメントもないのだと思っていました。メールフォームからメールを下さる方もいますが(歓迎です)年に2人程度です。孤独を感じ、これでいいのかな?と迷いつつ祈りつつ書いていました。親友がときどきBBSに書き込んで叱咤激励してくれるので続いていたのです。

ブログを開設したからといってこれといった変化はないと思っていたのですが、2人のクリスチャン・ペンクラブのメンバーが次々とブログを開設され、リンクさせていただいたのがきっかけでコミュニケーションが始まりました。また、mixiというブログの輪に入れていただいて、若い人たちとのブログを通しての交流も始まって嬉しい限りです。さらにペンやmixi以外でもコミュニケーションがとれたら嬉しいです。

ブログを開設してから、毎日のように日記を書いています。以前HPで書いた内容と似たようなことを書いてしまうこともあります。日曜は休もうと思っていますが、昨日は書きたくてたまらなくなったので書きました。でも、ノルマのようになってはいけないと思います。
体調が悪いときや、創作に打ち込むときはお休みします。過去に書いたものも随時更新していきます。

現在はブログの日記と同じ物をHPのBBSにも書いています。HPは背景画をつけて自在にレイアウトできるので、旅行記などはブログよりHPで書いた方が見やすいものになります。どちらも長所と短所があるので、しばらくは2本立てでいきます。今後ともよろしく願いします。

わたしのHPをまだご覧になっていない方は是非ご覧下さい。

生かされて…土筆文香 
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子どものように

2006-01-29 17:04:28 | CS(子供伝道)


「自分の宝は天にたくわえなさい。そこでは虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません(マタイ6:20)」


今日、教会学校でこの聖書の箇所から「天に宝をつむとはどういうことでしょう?」と先生が尋ねました。小学2年生のRくんは「簡単だよ。大事な物を持って階段をのぼっていけばいいんだから」と答えました。

Rくんにとって、天国とは階段をのぼっていったところで、簡単に行ったり来たりできるところなのです。天国のことを身近に感じているRくんは、イエスさまのことが大好きです。Rくんは、イエスさまが望まれるなら、自分の大事にしている宝物を天国に置いてきてもいいと思っているようです。子供たちと接していると、その信仰の純粋さにはっとさせられます。

「子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。(ルカ18:17)」
のみ言葉を思い出しました。


健康でなくても

2006-01-28 16:11:07 | 乳癌

子供の頃から身体の弱かったわたしは、丈夫になりたいと思い続けていました。非常に疲れやすい体質なので、とにかく人並みの体力が欲しい、喘息が完全に癒されたい、と強く願っていました。健康雑誌を買ってきては、ありとあらゆる民間療法をためし、健康法のテレビ番組があると録画してまで見ていました。お昼にやっている番組で「ブロッコリーを食べると元気になる」と聞くとさっそくブロッコリーを山のように買ってきて、次にキャベツがいいと聞けばキャベツを……という時期もありました。後にいくら体にいい食べ物でも同じ食品ばかりとり続けるのはよくないとわかってやめましたが……。健康食品を買い求めて試したこともありました。でも、あらゆることをしても効き目はありませんでした。

信仰生活を送るのも、まず健康でないと充分な奉仕ができないので、健康になることが第一なのだと思っていました。そして12年前スイミングを始め、10年間続けました。確かに水泳をしたら体力がつき、少しは効果が得られました。でも、喘息は治りませんでした。

感謝なことに喘息は予防薬を飲み、予防の吸入をすることによって、ほとんど発作が起こらないようになりました。でも、完全に癒されたわれではなく、未だに2か月に一度通院しています。

そして2年前、身体にいいと思われる物を食べ、健康には気を使っていたのにもかかわらず乳癌になってしまいました。食べ物や生活習慣においては癌になる要因は少なかったはずです。それなのに何故? とがっかりしました。

再発転移の恐れを抱いて苦しんでいたとき、
「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです(ヨハネ11:4)」
という聖書の箇所を読んで、はっとしました。 わたしの生きる目的は神様の栄光をあらわすためだったはずなのに、いつの間にかはきちがえてしまっていたのでは? 健康になることが第一の目的となり、すべての関心事は健康に向かっていました。身体が丈夫でなくても、病をかかえていても、そのままで神様の栄光をあらわすことはできる。たくさん奉仕ができなくても、自分にできることをやっていけばいいのだと気づきました。
そして、病気だからこそできる証もあるのだと気づいて、身体が弱いことを喜べるようになりました。

使徒パウロも持病があって、それを去らせて下さいと3度祈っています。でも、神さまは
「わたしの恵みは、あなたに充分である。というのはわたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである(Ⅱコリント12:9)
と言われ癒して下さいませんでした。

不信仰なわたしは、3度どころか何十回、何百回も癒しを祈り、健康を求め、神さまの答えに耳をふさいでいました。乳癌になってはじめて耳が開かれ、神さまの声が聞こえるようになっという感じです。


神さまに書かせてもらおう

2006-01-27 17:34:40 | 乳癌

一昨日、病院の待合室で星野富弘さんの「愛、深き淵より」(学習研究社)を読みました。3時間も待たされたので、ほとんど読んでしまいました。以前読んだことがあったのですが、新版が出たので父にプレゼントしようと思って買って家に置いていたのを持っていったのです。
 
改めて読んで気づいたことは、手足が動かなくなってから、筆をくわえて詩画を描くようになられるまで2年半もあったということです。怪我をされた直後は、呼吸確保もむずかしいほど命の危険にさらされ、危機が過ぎると四肢が動かないことへの苦悩、絶望、あせり……。

2年半といっても、身体的苦痛を伴う時間は5分が何時間にも感じられますし、ただベッドで横になっているだけの時間は、元気な人の数倍の時間に感じられたことでしょう。とほうもなく長い時間の末、筆をくわえて描けるということがわかり、生きる喜びを見いだしていきます。
でも、この2年半という苦しい時間があったからこそ、人を感動させるような詩画が描けるのだなあと思います。

成果にこそ価値があると考えている人が多く、何をなし得たかということで人の価値が決まってしまうような世の中です。病気や怪我をして何もできない日々を過ごしていると、自分が価値のないものに思われ、あせる気持ちが起きてきます。でも、何もできないときこそ価値のある時間なのではないでしょうか。

23日に「共鳴箱」を書いたあと、無性に書きたくなってはりきっていました。ところが、急に具合が悪くなって、出鼻をくじかれたようになってしまいました。自分の力で、「書くのだ!」と力んでいたわたしに、神様は「ここに近づいてはいけない。あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は聖なる地である(出エジプト記3-5)」と言われたような気がします。

富弘さんが「花に描かせてもらおう」と謙虚な気持ちになられたように、わたしも謙虚な気持ちで『神さまに書かせてもらおう』と思いました。
 


主が設けられた日

2006-01-26 11:51:08 | 乳癌

昨日、一昨日と具合が悪く伏せっていました。でも、今日は大部良くなり、こうして久々にブログ記事を書くことができます。

これまでに乳癌と喘息という病気を抱えていることは書きましたが、子宮筋腫のことはまだ書いていなかったですね。子宮筋腫は40%の婦人が持っているというので珍しいものではありません。掌大より大きい場合、あるいは貧血などの症状が強い場合は手術した方がいいといわれています。

わたしの場合は乳癌になる何年も前から、5-6センチ大の筋腫が3つあるといわれていました。その筋腫が少しずつ大きくなって、今は7-8センチ大になっています。しかも3つともです。

そして今回その影響で、動悸、息切れ、目眩、頭痛、むくみの症状が出て一昨日は起きあがることもできず、昨日やっとの思いで病院にいってきました。(3時間待たされました)血液検査の結果、ひどい貧血だということで鉄剤をいただいてきました。

婦人科の医師は乳癌の治療のため飲んでいるホルモン剤(ノルバテックス)の影響で筋腫が大きくなっているのだと言いました。でも、外科(子宮筋腫は婦人科、乳癌は外科です)の先生は、ノルバテックスのせいではないと言われます。どちらが本当なのかわかりません。原因はともあれ、今後またこのような症状が起きたり、これ以上筋腫が大きくなるようなら手術を受けないといけないということで、覚悟はしておかなければと思っています。

いちばん具合の悪かった日、24日のデボーションの本に「最悪の日」という題でのメッセージが書かれていました。イギリスの心理学者がその年の最悪の日を割り出す算式を考察して、昨年の最悪の日は1月24日だったと書かれていました。ああ、ほんとうに今日はわたしにとって、最悪の日なのかもしれない……でも、今年の最悪の日がこの程度なら、今年はいい年だなあ、なんて思って読んでいました。
でも、次の文と聖書の言葉を読んだとき、はっとしました。


たとえ今日が「最悪の日」とカレンダーに記しをつけたくなるような日でも、生命という賜物を感謝し、喜びをもって一日一日を受け取ることができるよう、創造主は私たちを助けて下さいます。(ディリーブレッド1.24より)


「これは、主が設けられた日である。この日を楽しみ喜ぼう。(詩編118:24)」


そうです。最悪の日と思われるようなこの日も、主が造られ、備えて下さった日なのです。そう思ったとき、平安な気持ちで休むことができました。
具合が悪くて何もできない日、以前は無駄な一日を過ごしていると思っていました。そして、体の弱い自分がみじめでなりませんでした。

でも、主にあって無駄な時間、無駄な一日は存在しないのだと気づいたとき、この苦しみに耐える時間が、いつか真珠のようになって自分の中で輝くときがくるのだと思えます。
そして、この一日がわたしにとって必要な尊い一日だということ、神さまがわたしのために備えて下さった日だと気づいたとき、一日がキラキラと輝いて、肉体的にはつらくても、心は喜びでいっぱいになりました。



共鳴箱

2006-01-23 13:46:09 | CS(子供伝道)

共鳴箱のついた音叉をご覧になったことがありますか? わたしが小学校のとき、音楽室にありました。同じ振動数の音叉を近づけると、共鳴箱つき音叉が同調して鳴り出すのを知って驚いたことを覚えています。
別の小学校へ通った6歳年下の妹は共鳴箱を知らないといいます。今では、共鳴箱のついた音叉を置いている学校はないのでしょうか? 知らない人が多いのかもしれません。

わたしの心には共鳴箱があるようです。昨日教会で礼拝のメッセージを聞いたとき、わたしの心の音叉は鳴り響きました。数年前にも鳴りました。鳴ったのは何回目でしょう。なぜか礼拝中に鳴り出すのです。
牧師先生は最近の新聞記事を取り上げて言われました。
イライラしている小学2年生は40%、
自分などいない方がいいと思っている子供は30%、
日本の未来は暗いと思っている中高生は61%いる。
そして、自殺者は年間3万人以上。児童虐待の相談件数は3万件にも上ると……。現代は、何というカオス(混乱)の時代なのでしょう。

Ⅰコリント人への手紙の冒頭には、使徒パウロがコリントの教会の人たちのことを「聖徒として召され」た者と呼びかけています。聖徒というのは、その人が特別すぐれているからそう呼ばれるのではなく、神さまの恵みによって、イエス・キリストを信じることにより聖徒とされた者です。イエスさまは、ひとりひとりのクリスチャンのことも「聖徒」と呼んで下さっています。
「このわたしが聖徒? バンザーイ、嬉しいな」と手放しで喜んでばかりいられるでしょうか。

聖徒には目的、使命があるといわれました。自分の存在価値がわからず、生きる目的を失い、さまよっている人たちに「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している(イザヤ43:4)」と言って下さる神さまの愛を伝えるという目的です。

わたしは、神さまの愛を子供や若者に伝えたいと思って小説を書いています。
でも、困難を感じ、とてもわたしには書き上げられないと落ち込んでいたときに、共鳴箱が鳴り出しました。どうしたらいいのでしょう……。いくら耳をふさいでも聞こえてきて、鳴りやまないのです。



雪の道

2006-01-22 17:07:33 | 日記
昨夜床についてからひどい目眩がして、しばらく眠れませんでした。翌日は日曜日なのにこれではとても教会へ行けないと思っていました。

でも、感謝なことに朝になったら、すっかりおさまっていて出かけることができました。道は、昨日からの雪が凍り付いています。自転車は危ないので歩いて行きました。木の枝や枯れ草に積もった雪の美しさに見とれながら歩きました。

この写真は教会の少し手前で写しました。木の向こうの建物が我が愛する土浦めぐみ教会です。

家庭集会(その2)

2006-01-21 11:38:35 | 教会

一昨日の家庭集会の学びでもうひとつ発見と感動がありました。

「また、天の御国(みくに)は、良い真珠を探している商人のようなものです。すばらしい値打ちの真珠を一つ見つけた者は、行って持ち物を全部を売り払ってそれを買ってしまいます。(マタイ13:45-46)」


聖書にはイエスさまが話して下さったたくさんの{たとえ話}があります。イエスさまは人々が理解しやすいように、人々の生活に即した{たとえ話}をして下さっていますが、時代も国も違う者に通じるものがたくさんあります。これもそのひとつです。

わたしはこのたとえの意味は、天の御国が、財産全部売り払って得るほどの価値あるものだということなのだと思っていました。確かにその通りなのです。でも、もうひとつ意味があることを教えていただきました。

それは「良い真珠を探している商人」とは、イエス・キリストのことだというのです。真珠商人が、ひとつの真珠のために持ち物全部を売り払ったように、イエスさまはわたしたちひとりひとりを見つけだし、救ってくださいました。ご自分の命を代価として……。

イエスさまは、わたしのことをすばらしい値打ちの真珠だと言って下さっています。そしてわたしを救うために命まで投げ出して下さったのです。そういう意味がこのたとえ話の中にこめられていたのかと思うと、心が震えました。



ナルニアの世界

2006-01-21 11:30:41 | 日記
朝起きると一面の雪景色。ベランダから撮った写真です。電線の代わりに街灯があったら、ナルニアのようではありませんか? ルーシーになったような気持ちです。

雪のために今日予定されていた子供家庭集会は中止になりました。わたしは、ゲーム担当だったので、ゆうべ古新聞を一生懸命切って準備していたのに残念でした。

家庭集会(その1)

2006-01-20 12:14:11 | 教会
昨日は近所のSさん宅で家庭集会がありました。家庭集会は月1回開かれ、わたしたちのグループは、Sさんとわたしの家とで月交替で行っています。いつも5.6人が集まり、牧師先生による聖書の学びの後、楽しくおしゃべりしながら昼食をいただきます。
昨日はマルコ10:17-22からの学びでした。何度も読んだ聖書箇所でも、読むたびに新しい発見や感動があります。

金持ちの青年が、イエスさまに永遠の命を得るにはどうしたらよいかと尋ねます。
青年は相当の地位を持ち、財産を持っていました。そして小さいときから律法(モーセの十戒を中心とした人々の生活と行為に関する神の命令)を守っているので、自分に自信がありました。
そんな青年にイエスさまは言われます。「あなたには欠けたことがひとつあります。帰ってあなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。……」
青年は顔をくもらせ、立ち去ってしまいます。この人は多くの財産を持っていたからであると聖書に書かれています。

この青年はどんな人物だったのか想像して皆で話し合いました。青年は、かたちの上では律法を守り、品行方正です。でも、心が伴っていなくて高慢な人。自分の財産に執着している人……と、あまりいい評価はありませんでした。

でも、わたしはなぜかこの青年の肩を持ってしまいます。永遠の命を得たいと一途に思ってイエスさまのところに来たのではないかと考えたからです。でも、自分の地位と財産にしがみつく思いが彼の心を閉ざしてしまいました。もし、この青年に地位も財産もなければ、素直に永遠の命がいただけたのではないでしょうか。

イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた。と書かれているのを読んではっとしました。イエスさまはこの青年を愛し、青年の救われることを心から願っておられました。もちろん、財産を捨てることが永遠の命を得る条件ではありません。イエスさまは、青年がにぎりしめているものを手放さなければ救われないのだということを言いたかったのではないでしょうか。青年が去っていったとき、イエスさまの心は悲しみで一杯だったでしょう。

わたしは、いままでイエスさまの心を悲しませるようなことをたくさんしてきました。これからは、イエスさまに喜ばれる者になりたいと願いました。



読書会

2006-01-17 19:09:18 | 日記

今日は、三浦喜代子氏の新刊本「美しき姉妹たち」の読書会にお茶の水クリスチャンセンターまでいってきました。著者を囲んで楽しい語らいの時を過ごせて感謝します。

「美しき姉妹たち」(キリスト新聞社)にはふたつの物語が掲載されています。ひとつは、旧約聖書から「レアとラケルの物語」もうひとつは新約聖書から「レプタふたつの物語」です。どちらの小説も読み出したら途中でやめられなくなり、夢中で一気に読んでしまいました。それほどおもしろいのです。
世話係の人から感想文を用意しておいてくださいとあらかじめ頼まれていたので、書いて持っていきました。

読書感想文を書くのは高校のとき以来ではないでしょうか? 書こうとして気づいたことは、おもしろくて一気に読んだ場合、感想文を書くのはとてもむずかしいということです。何回か読み直して書きましたが、小学生の書いた物のようになってしまいました。また、質問があったらあらかじめお知らせ下さいとのことだったので、遠慮なくメールに書いて送りました。

「当時の羊の飼い方、住まいの状況、生活など、どのように調べたのですか?」などと質問したのは、わたしです。的はずれな質問をしてしまいました。三浦先生、ごめんなさい。
わたしは、いつか聖書から子供向けの小説か童話を書きたいと思っているのです。

他の方からも色々な質問が出て、三浦氏はひとつひとつ丁寧に答えて下さいました。

本を出すとき不安を感じる。孤独であるということを聞いて、わたしも本を出版したときそうだったので、同じなのだなあと思いました。一生懸命心の中であたためてきて、何度も書き直しながら完成させたものを出版してもらうには勇気がいります。読者の反応が気になるところですが、ほとんど作者には伝わってきません。わたしの場合は、こんな小説書いてしまって、よかったのかな?と落ち込むことがありました。

神さまに用いていただいて、試練の中にある人を励ましたり、まだ主を知らない人がキリストに導かれることを祈りつつ書いておられる著者の姿勢に心打たれました。


ありがとう わたしのいのち

2006-01-16 10:48:28 | 乳癌

昨日は春を思わせる暖かさでしたが、今日はまた冬に逆戻りです。

今日、ベランダのプランターにチューリップの球根を植えました。毎年秋になると球根を買ってきて植えるのですが、今回はすっかり忘れていました。植え付け時期がとっくに過ぎていますが、ホームセンターで安売りをしていたので三袋も買ってきてあわてて植えました。
去年の球根も掘り出していなかったので、土の中からひとまわり小さくなった古い球根が出てきました。そのまま植えておきましょう。これもきっと芽を出すでしょう。

乳癌の手術を受けてその翌春、朝日新聞の「季節の風」という冊子に星野富弘さんのチューリップの絵と詩が載っていました。それを見て同感し、ぽろぽろ涙をこぼしたのを思い出します。

ちょうど今年の星野富弘さんのカレンダーに同じ詩画があって、今、またながめて感慨にふけっています。ベランダのチューリップが咲いたら、また感動するでしょう。春が待ち遠しいです。

星野富弘さんの詩を紹介します。
   
ありがとう
私のいのち
こんなに生きられるなんて 
思わなかったよ
今、二十一世紀 
春!


本当の幸せ

2006-01-14 10:40:07 | 聖書から

先日たまたまテレビをつけたら、みのもんたさんの退院記者会見をやっていました。
「『無病息災』が大切なことだと今までテレビで言ってきたけれど、その言葉のしっぺ返しにあったようで……今回病気して『無病息災』が一番大切なことだとわかりました。」と涙ながらに話していました。

人間誰でも無病息災を願います。けれども、無病息災であれば幸せなのでしょうか? それなら、病気をかかえている人は幸せではないのでしょうか?
イエスさまが群衆に向かって話して下さった言葉があります。これは山上の垂訓と呼ばれるものですが、紹介したいと思います。

心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。
柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。
義に飢えかわいている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。
あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。
心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。
平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。
義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
                         (マタイ5:1-10)

最初にこれを読んだとき、疑問を感じました。心の貧しい人というと、心が狭くて相手の意見に聞く耳を持たない人という意味だと思ったからです。それになぜ悲しむ者が幸いなのかわかりませんでした。

心の貧しい人とは、自分の弱さを知っていつも神さまに頼る人のことで、悲しむ人とは、自分がした悪いことに気づいたり、自分の心が冷たいと感じて悲しむ人。世の中の苦しんでいる人を見て悲しむ人だと教えていただいたとき、嬉しくなりました。

イエスさまの言われる「幸い」とは、世間一般の人が考えているものと全然違ったものです。
自分の願い通りにならなくても、病気をかかえていても、お金持ちでなくても、幸せを感じることはできるのです。本当の幸せは、まわりの状況に左右されないものなのですね。


ヨブ記を読んで

2006-01-13 11:02:44 | 乳癌

昨年の暮れからヨブ記を1章ずつ読んでいて、今日は33章を読みました。12月30日の日記にも書きましたが、以前(乳癌になる前)にヨブ記を読んだときと今とでは感じ方が全く違います。

以前読んだときは、自分の正統性を主張し続けるヨブをやや批判的な目でみていました。友人たちの議論は理解しがたく、真理を語っているのは誰なのだろう?と考えていました。

でも、今回読んでみてヨブに心から同情しています。ヨブは財産や子供たちを失っただけでなく、自身も足の裏から頭の頂まで悪性の腫瘍ができ、土器のかけらで自分の身をかいていたというのです。今まで元気で裕福な暮らしをしていたヨブが突然の不幸に襲われて、このような状況になってしまうとは……。神さまの存在を深く信じているヨブは、
「神さま、どうしてですか? わたしのどこが悪いというのですか?」と叫ばずにはいられなかったのでしょう。

わたしは喘息で死ぬほどの苦しみを経験しましたが、それは苦難といえる程のものではありませんでした。乳癌の手術を受けたときも、肉体的苦痛はたいしたことありませんでした。でも、リンパ転移がわかってからの精神的苦痛はいままで経験したことのない苦しみでした。ヨブの苦難に比べれば、これもたいしたことないものですが……。

でも、乳癌という病気を通して、少しだけヨブの気持ちが理解できるようになってよかったです。ヨブ記が聖書にあるのは、苦難の中にある人を慰めるためなのかなあと思います。


「苦しみは神を仰ぐとき恵みの宝庫となる」
(「旧約聖書1日1章」榎本保郎著506ページより)

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