生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

いたんだ葦、くすぶる燈心

2009-09-29 11:26:42 | 聖書から

一昨日の礼拝では旧約聖書イザヤ書からのメッセージを聞きました。

「彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく、まことをもって公義をもたらす。(イザヤ42:3)」



葦は丈夫な草で杖にもなりますが、いたんだ葦はぐにゃりとして杖としては使い物になりません。

ランプは油が切れても火はすぐには消えません。燈心自体がしだいに燃えてきて消えそうになっている状態がくすぶる燈心です。

いたんだ葦というのは、人間のこと。
くすぶる燈心とは、クリスチャンのことだそうです。

イエス様は、わたしたちのことを「地の塩、世の光」と言われるのに、なぜわたしたちがいたんだ葦、くすぶる燈心なのでしょうか。

聖書には盗んではいけない。人を殺してはいけない。姦淫してはいけないと書いてあります。「それらのことは全部守っている」と、たいていの人は思います。

でも、マタイの福音書には兄弟に向かってバカ者と言う者は殺人と同じと書かれています。
また、情欲を抱いて異性を見るのは姦淫と同じと書かれているのを読み、「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」というイエス様の言葉を聞いたら、それを実行するのは難しいと気づきます。難しいというより、とうていできないと思って絶望してしまいます。


わたしはひとりの人さえ愛することができない人間です。声に出して「バカ者」と言わなくても、心の中で人をばかにしたことがあります。一段高いところから人を見下していました。迫害する人のために祈ることなど、とうていできない者でした。
わたしこそいたんだ葦であり、くすぶる燈心なのです。

でも、イエス様は、いたんだ葦を折ったり、くすぶる燈心を消したりなさいません。それどころかいたんだ葦、くすぶる燈心を用いて公義を行って下さると言われるのです。何と素晴らしいことでしょう。


「自分がいたんだ葦くすぶる燈心であることを認め、ここからはじめられれば幸せだ」と牧師先生が言われました。

神様は、わたしたちがとうていできないことをできるようにしてくださると約束してくださいました。自分の力では不可能なことでも神様がなしてくださるのです。


信仰がためされるような出来事が起こります。忍耐が必要なことがたくさん起きてきます。あせりと恐れが沸き上がり、どうしたらよいかわからなくなってしまうことがあります。
「あなたの信仰はどこにあるのですか?」と問われたら何もいえなくなってしまうわたしです。

「信仰とは、わたしたちが神を信じることではなく、神がわたしたちを信じて下さっていること」と聞いて安心しました。
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マローンおばさんの部屋へ

2009-09-27 21:21:38 | 日記

五つのパンの地域活動支援センター「絵本のカフェ&ワークショップ」が今月14日にオープンしたので、一昨日行ってきました。場所は横浜から地下鉄に乗って約20分。仲町台駅から2分のところです。

コミュニティーカフェの名は「マローンおばさん」という絵本の題名からとって「マローンおばさんの部屋」です。

「やさしい絵本で街づくり」をテーマとしたコミュニティーカフェ&ワークショップタイプの
地域活動支援センターです。

絵本の「マローンおばさん」(エリナー・ファージョン作・エドワード・アーディゾーニ絵 阿部公子・茨木啓子訳:こぐま社) はわたしの大好きな絵本の一冊です。

ストーリーを紹介します。

森のそばでひとり寂しく暮らしているマローンおばさんところに次々と弱くてみすぼらしい動物が訪れてきます。マローンおばさんは動物たちに「あんたの居場所くらいここにはあるよ」と話しかけ、心休まる場所を与えてあげるのです。文章は、英国人児童文学作家・詩人エリナー・ファージョンの詩です。


カフェ&ワークショップのイメージは
「マローンおばさんが、木の香りのする部屋に弱きものたちのひとりひとりを、
やさしく迎え入れてくれて、おいしいお茶を入れてくれたり、絵本を読んでくれたり、いっしょに物づくりをしてくれたりする、愛とぬくもりに満ちたカフェにしたいと思っています。」

と五つのパンのブログに書かれていました。


五つのパンとの出会いは3年ぐらい前でしょうか。スタッフのFさんが「児童文化の会」で検索してわたしのブログをみつけてくださり、連絡をくださいました。わたしは30年も前ですが、2年くらいの間、大阪児童文化の会に入って例会に出席していました。Fさんは千葉の児童文化の会に入っていたそうです。

その後、オーナーのIさんとお会いしてお話しする機会が与えられ、「五つのパン」の働きについてずっと祈ってきました。


たくさんの困難があったのにもかかわらず、神様が素晴らしい奇跡をいくつも起こして下さってワークショップがオープンできたことを知って、ぜひ訪れたいと思ったのでした。

店はまだ出来たばかりで、必要なものは十分に揃っていませんでしたが、あたたかい雰囲気を感じました。
地域支援センターなので、ダイレクトにキリストを伝えることはできないのだとは思いますが、キリストの香りを放っていました。

大勢の人の中にいても自分の居場所がみつからなくて孤独を感じている人は多いと思います。

わたしは子育てをしているとき、団地の公園でで同じような子どもを連れている人たちがたくさんいるのに中に入れなくて、孤独を感じていました。ベビーカーを押して隣の県営住宅の公園まで行ったこともありました。
そんなお母さんたちがここを訪れるようになればいいなあと思いました。。

絵本作りなど本格的な活動を始めるのはまだ先だそうですが、次々と人が訪れてきていました。

ひきたてのおいしいコーヒーをいただきながらお話をし、店の中を見せていただいて、母の待つ三鷹の実家へ向かいました。

五つのパンのブログはここをクリックしてご覧ください。


翌日は御茶ノ水の日本クリスチャン・ペンクラブの例会に出席。T姉、Y姉(チャキさん)の賛美に感激しました! チャキさんは「神様のカリス」を賛美してくれました。

帰りはぼおっとして上野駅を乗り越して鶯谷まで行ってしまいました。(こんなことはよくあります。行きは、地下鉄の切符を失くしてしまいました)でも、ちゃんと土浦まで帰れましたのでご安心ください。


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占いって、気になる?

2009-09-24 12:31:22 | エッセイ

「占いって、気になる?」と中2の姪が尋ねました。
「Rちゃんは気になるの?」
と逆に尋ねると、
「うん」
との返事。
以下はわたしはRちゃんに話したことをまとめた文章です。


わたしも、結婚する前、占いにはまっていたことがありました。毎日が不安でたまらなかったので、将来どうなるのか知りたくて……。

スキーに行った時、友達になった人がタロット占いをしてくれました。当たっていることが多かったので興味を抱き、自分でもカードを買って、色んな人にタロット占いをするようになりました。

ひとりの友人に「クリスチャンなのに占いしていいの?」言われて、「えっ、クリスチャンは占いをしちゃいけないの?」とびっくりしました。

そのころ洗礼を受けたばかりでしたが、占いがいけないこととは知りませんでした。また、どうしていけないのかもわかりませんでした。
神様の存在は信じていたのですが、神様がどんなお方かわかっていなかったからです。

天地を造られた神様は、わたしたちのことも造って下さいました。神様はわたしたちの未来に起ることをすべてご存じで、よい方向に導いてくださいます。
わたしたち人間は、明日・・いいえ一瞬先に起こることさえ知ることができません。知りたいと思う気持ちはあるけれど、実際に自分の未来をすべて知ってしまったら、どうなるでしょう。

もし、1年後に事故で死ぬとわかったら、その1年間はそのことばかり考えて何も手につかなくなってしまうでしょう。もし、試験を受けて合格するとわかってしまったら、安心して勉強しなくなるでしょう。

神様は、人間が未来を知ると平静な心ではいられなくなるということをご存知なので、未来を知ることができないように造られたのだと思います。
神様は私たちの人生にすばらしい計画をたてておられるので、たとえ悲しく辛い出来事が起こったとしても、あとからきっとそのことがよかったと思えるようになるのです。だから、将来のことは神様にお任せしていればいいのです。

占いは、未来を無理に知ろうとすることです。神様を信頼していないから占いを信じてしまうのです。占いは当たることもあるけれど、同じぐらいはずれているのです。当たったときの方が記憶に残るので、よく当たると錯覚してしまうのです。

聖書の申命記 18:10~12には「占いをする者を主は忌みきらわれる」と書かれています。

友人の一言で、わたしは占いが罪だということに気づきました。
それからは、占いをやめました。神様が嫌うことをしたくないと思ったからです。

テレビで占いをやっていたら、番組を変えます。雑誌を読んでも占いのページは見ないようにしています。見てはいけないというわけではありませんが、見たらとらわれてしまうという自分の弱さに気づいているからです。


明日から出かけます。
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千客万来

2009-09-23 17:14:30 | 日記

息子一家がつくば市内で引っ越したので、17日からヒックンを預かりました。
18日には我が家で家庭集会があり、牧師先生と7人の方が来て下さいました。

ヒックンを預かっている中での準備は大変でしたが、なんとか間に合いました。ヒックンは、ふきそうじを手伝ってくれました。始まる直前に消毒液をこぼして大変でしたが・・・。

チャイムが鳴って次々とお客さんがくると、ヒックンは恥ずかしがってわたしの後ろに隠れるようにしていました。「ゆこちゃん(わたしの呼び名)のお友達よ」と説明し、「お勉強するからおりこうにしていてね」というと、静かに遊び始めました。新しい木製のおもちゃも気に入ったようです。

学びが終って昼食をいただくころは慣れてきて、ニコニコ笑顔をみせました。


19日にはママの実家で預かっていただき、21日にまた連れて来てもらいました。
19日夜から姪のRちゃん(中学2年生)が泊まりに来ました。Rちゃんは、夏休みに来るはずだったのですが、部活の合宿で新型インフルエンザに感染して来ることができなくなってしまったのです。

幸い症状は軽かったので8月末にはすっかり良くなりましたが、夏休み中には会えませんでした。この連休にやっと来ることができて嬉しくてたまらない様子でした。

20日には教会のティーンズ礼拝に出席できました。
夏休み予定通り来ていたら日曜が入らなかったので、そのことを考えると新型インフルエンザに感謝です。

21日の午前中、妹(Rちゃんのママ)とヒックンが来ました。ヒックンはRちゃんに会って、最初は恥ずかしそうにしていましたが、遊んでもらってすぐに慣れ、「Rちゃん、Rちゃん」とついてあとをついて歩いています。ヒックンとRちゃんちゃんはちょうど12歳年が離れていますが、姉弟みたいです。


お天気がいいので、皆で主人の運転する車に乗って出かけました。(チャイルドシートを借りて、準備していました。)
車で30分の所に果樹園があり、そこでぶどう狩りをしました。
スチューベンも巨峰も種があるので、ヒックンには種を取ってあげていたら、待ち切れずに口に入れてしまいました。でも、ちゃんと大人のまねをして種を口から出していました。

ぶどうの実が出てくるたびに喜んで、「こんにちわー」と言ってから食べていました。

食べるのに飽きると、同じ年ごろの子供と追いかけっこをして遊んでいました。
夜寝るときは、パパもママもいなかったのですが、泣きもせず、Rちゃんとわたしの間で寝ました。眠る前、Rちゃんにほっぺたをくっつけるほど接近して、じっと見つめていました。


22日は、ママの実家に行くのでむこうのおじいちゃんが土浦駅まで迎えに来てくれました。ヒックンは「バイバイ」と言ってさっさと車に乗って行ってしまいました。ほっとすると同時に一抹の寂しさが残りました。

その後、妹の運転で今度は水海道のハーブハーモニーガーデンへ行き、秋を満喫してきました。

今日は疲れて半日寝ていました。
ヒックンがトイレトレーニング中なので、一日に何度もトイレに連れていくうちにひどい腰痛が起こりましたが、それも癒されてきました。日々守られたことを感謝!
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ときにかなって……

2009-09-17 11:22:42 | 日記

息子一家が18日に引っ越すので、これから明日にかけてヒックンを預かります。明日は家庭集会の日です。娘にベビーシッターを頼もうと思ったら、仕事が休めないとのことで、あてが外れてしまいました。

ヒックンには新しいおもちゃを買って用意しています。学びが始まったら出そうと思っています。木製のねじをドライバーで回しながら木をつなげていくおもちゃです。喜んでくれるでしょうか。何とか学びの間の約一時間半、静かに遊んでいてくれればいいなあと思っています。

19日午前中は教会で結婚式です。夕方からは姪がきて泊まります。姪と教会に行けるのが嬉しいです。ヒックンは19日にいったん帰って21日から再び来るので、明日から一週間は大忙しです。


わたしの書いた詩「神様のカリス」に曲をつけてくださったチャキさんこと山本千晶さんのインタビュー記事がインターネット新聞、クリスチャントゥデイに掲載されました。

作曲して間もなく、インタビューを受けたと聞いていたので、どのような記事が掲載されるのか楽しみにしていました。

昨日チャキさんと電話で話しました。
「語った言葉を丁寧に聞いてくださって、まとめて下さった」と言うチャキさんの言葉通りでした。救いの証しと、曲ができるまでのいきさつ、祈りが書かれていて、心打たれる記事です。

曲が生まれたのは8月20日です。それから一か月もたたないうちにこのことが記事になるとは、チャキさん自身も想像していなかったそうです。

曲を聴いて受洗の決心をされた方もおられるそうで、曲を通して神様が働いてくださっていることを実感し、感謝しています。


神のなさることは、すべて時にかなって美しい。(伝道者の書3:11)


クリスチャントゥデイはここをクリックしてご覧ください。

チャキさんのブログチャキの大盛り晴れ日記もご覧ください。

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「聖なる」とは?

2009-09-15 12:51:12 | 聖書から

今朝は内科の診察日で病院に行ってきました。(弱い雨が降っていましたが、合羽を着て自転車で行ってきました)8:30予約だったので待たされずにすみ、9:30には家に戻っていました。

内科には3か月に1度、喘息の予防薬をいただきに行っています。この数年、喘息の発作が一度も起きないので感謝です。
外科や婦人科にも定期的に通っているので、内科は卒業したいのですが……。予防の吸入をやめるとまた発作が起きるようになると言われてしまいました。

病院に新型インフルエンザの人もいるかもしれないと思い、しっかりマスクをしていきましたが、患者でマスクしている人は10人にひとりぐらいだったので、不思議に思いました。数か月前に病院へいったときは、ほとんどの人がマスクをしていたのに・・・。
そういえば近くのスーパーの店員さんは、7月ぐらいまで全員マスクをしていたのに今はだれもマスクをしていません。今の方が流行っているのに不思議ですね。


今日は詩篇99編を読みました。詩篇99編には「主は聖である」という言葉が何回もでてきます。聖なるとはどういう意味なのでしょう。

「聖」という言葉のもともとの意味は『わけ隔(へだ)てる』です。神様は私たちの住んでいる世界から隔たった方であることを示しています。

聖書には「人にはできないことが神にはできるのです。(ルカ 18:27)」と書かれていますがなかなか信じられなくて、神様もわたしたちと同じようにできないことがあるのではないか? と思ったりしてしまいます。
でも、。神様はどんなことでもできるのです。

引っ込み思案のわたしは、小学生のころ、人前で話すことはおろか必要なことを先生に言うことすらできませんでした。意識的に目立たないようにし、いつも人の陰に隠れていました。

今でも人前で話すときはドキドキしますが、そんなわたしがCSで60名もの子供の前でお話しをしたり、2年前はテレビ出演(ライフライン)をさせていただいて・・・子どものころのわたしを知っていた人ならびっくりするでしょう。

わたしの力だけでは不可能なことでも、神様が働いて下さればどんなことでもできるという証拠です。

神様が聖であるというもう一つの意味は、神が人間から引き離され、隔絶された方であるということだそうです。
隔絶された方というと『わたしたちとかかわりのない』方だと思うかもしれませんが、決してそういう意味ではありません。神様はわたしたちの必要をご存じで、わたしたちの訴えを聞き、それに応答して下さる方です。

「彼らは主を呼び、主は彼らに答えられた(詩編99:6)」

神様は、神様から背を向け、敵対していたわたしたち人間のためにひとり子(イエスさま)をおくってくださいました。そしてわたしたちを救うためにひとり子を十字架につけてくださいました。

自分の愛する家族や友人のために命を捨てる人はいるでしょう。でも、敵のために命を捨てられる人はいませんね。ましてや愛する自分のひとり子の命を敵のために差し出すことなんて決してできないでしょう。

でも、神様は人間のできないことをしてくださいました。神様が人間とは隔たったお方である、つまり聖なるお方であるという根拠です。

聖なるお方に愛されているわたしは、なんて幸せなんでしょう。わたしだけでなく、このブログを読んで下さるあなたも愛されています。


われらの神、主をあがめよ。
その聖なる山に向かって、ひれ伏せ。
われらの神、主は聖である。(詩篇99:9)

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秋空に向かって

2009-09-12 09:55:08 | エッセイ

さわやかな季節になりました。近くの田んぼでは稲刈りが始まっています。
わたしは秋が嫌いでした。喘息発作の起きやすい季節だからということもありましたが、とりわけ天気の良い日、すみきった青空を見るのが嫌いでした。


この空の下で苦しみあえいでいる人がいると思うと心が痛みます。すばらしいお天気で澄みきった青空をみても、心に憂いがあるとかえって青空がうらめしく、自分にはまぶしすぎると思うでしょう。

喘息で入院したとき、乳癌になったとき、父の余命が告げられた時、わたしの言葉が友の心を傷つけていたことを知ったとき、なぜこんなにいい天気なの? なぜほかの人は幸せそうなの? と思いました。
幸せそうに見える人でもそれぞれに悩みを抱えているのですが、自分の抱えている悩みがいちばん大変なのだ。そして、自分の苦しみを誰も理解してくれない。と思
っていました。

でも、空の向こうにあるものに目を向けると、たとえ今がどんな状態であっても憂える必要はないのだと気づきます。
イエス様を信じた者は、永遠の命をいただいています。死が終わりではないのです。

神様によってすべての問題は解決していただける。どんなに理不尽なことがあっても、天国にいったときには納得がいく。たとえ志半ばで召されても、そのとき召されて良かったと思えるのです。
なぜ苦しみがあるのか、その本当の理由はわかりません。でも、確かなことは、この苦しみのすべてを神様は知っておられるということ。善意に満ちた神様が、いたずらに苦しめているのではなく、その人に必要な苦しみを与えておられるということ。そして、神様も共に苦しんで下さっているということです。

喘息で入院していたとき、わたしは聖書が読めませんでした。祈ることもできませんでした。なぜこんなひどい目にあわせるの?と神様をうらんでいました。

聖書の代わりに三浦綾子の小説を読んでいました。その中に「神様は不必要なものは、与えはしない」ということばをみつけて、はっとしました。神様は、この苦しみはわたしにとって必要だから与えて下さったのだろうか……。と思い始めたとき、「神様、助けて下さい」と素直に祈りの言葉が出てきました。


今、わたしは秋の空が大好きです。大空に向かって高らかに賛美し、神様をほめたたえます。
あなたは秋が好きですか?

聖書の言葉

私は山に向かって目を上げる。
私の助けは、どこから来るのだろうか。
私の助けは、天地を造られた主からくる。
主はあなたの足をよろけさせず、
あなたを守る方はまどろむこともない。
見よ。イスラエルを守る方は、
まどろむこともなく、眠ることもない。

主はあなたを守る方。
主はあなたの右の手をおおう陰。
昼も、日があなたを打つことがなく、
夜も、月があなたを打つことがない。
主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、
あなたのいのちを守られる。
主は、あなたを行くにも帰るにも、
今よりとこしえまでも守られる。
詩編121篇


日本クリスチャン・ペンクラブのHP更新しました。ぜひご覧ください。
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高齢者を顧みる(その2)

2009-09-09 21:13:03 | 教会

もうひとつの詩は、高齢者と共に暮らす家族のありかたを教えてくれる内容でした。
書き写すことはできませんでしたが、おおよその内容は次のようなものです。


年老いた父親が食事をする時、手が震えて食器を落としたり、テーブルを汚すようになりました。それを見た息子はイライラして父親のテーブルを部屋の隅に持って行き、家族と離れた場所で食べるようにし、食器は落としてもいいように木のお椀を使わせました。

あるとき子供がおもちゃの大工道具で何かを作っていました。息子が「何を作っているの?」と聞くと、「木のお椀だよ。パパとママがそのうち使うと思って」と言ったそうです。
それから、父親もまた家族と同じ食卓で食べるようになり、父親がこぼしても誰もイライラしなくなったそうです。


わたしは、自分が高齢者になることをあまり想像したことがありませんでした。でも、最近ふとしたことから老いを感じるようになって、わたしもまだまだ生かされれば、高齢者になるのだと気づきました。

高齢になったとき、家族から疎外されたら、どれだけ傷つくでしょう。体のあちこちが衰え、若い時のように色々なことができなくなってきてしまう。記憶力が鈍り、同じことを何度も言ってしまう。
そうなったとき、周りの者が温かい目でみてくれたら、ゆったりとした気持で接してくれたら、どんなに嬉しいでしょう。


神様は「胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。(イザヤ46;4)」と言って下さっています。

メッセージの最後にイエス様の言葉が紹介されました。
二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。(マタイ 10:29)

五羽の雀は二アサリオンで売っているでしょう。そんな雀の一羽でも、神の御前(みまえ)には忘れられてはいません。 (ルカ 12:6)



*アサリオンとは、最小の単位の銅貨です。



市場で売られている雀が2羽で1アサリオン、5羽で2アサリオンということは、1羽はおまけなのだそうです。
神さまは、おまけのような者でも、守り、愛して尊く用いて下さることを教えていただきました。

一羽の雀さえ愛して下さる神様は、高齢者ひとりひとりのことを、そしてこれを読んで下さっているいるあなたやわたしのことを愛し、いつくしんでくださるのですね。
           おわり
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高齢者を顧みる(その1)

2009-09-07 12:51:36 | 教会

昨日は高齢者顕彰礼拝で、「家族を顧みる」という題でメッセージがありました。聖書箇所はⅠテモテ5:1-16です。


「しかし、もし、やもめに子どもか孫がいるなら、まずこれらの者に、自分の家の者に敬愛を示し、親の恩に報いる習慣をつけさせなさい。それが神に喜ばれることです(Ⅰテモテ5:4)」

と書かれています。この箇所での“やもめ”というのは高齢者という意味です。

家族が高齢者を配慮して高齢者ケアーをすることを勧めています。このことはあらゆる文化圏で当たり前のことです。

動物はあっという間に大人になりますが、人間は成人するまで長い時間がかかります。その間、親の世話になります。親が高齢になったときは、その恩に報いて親を顧みなければなければなりません。


「もしも親族、ことに自分の家族を顧みない人がいるなら、その人は信仰を捨てているのであって、不信者よりも悪いのです。(Ⅰテモテ5:8)」



わたしは、この箇所を読んで、主人の両親、私の母になすべきことをしていないのではないかと心が痛みました。



「顧みるとは親と同居して親の面倒の一切を背負うことではありません。高齢者の不安、寂しい思いを理解を大切にし、最高最善の配慮をすることです」
と、牧師先生が言われました。


「もし、信者である婦人の身内にやもめがいたら、その人がやもめを助け、教会に負担をかけないようにしなさい。そうすれば、教会は本当のやもめを助けることができます。(Ⅰテモテ5:16)」

この箇所での“本当のやもめ”とは、身寄りのない高齢者のことです。

身内のいない人や、身内だけでは助けることができない場合、教会が高齢者を助けられたら、どんなに素晴らしいでしょう。わたしの通う土浦めぐみ教会では。介護保険指定事業所の喜楽希楽(きらきら)サービスを行ってそれを実践しています。

原作者不詳で樋口了一さんが歌ってブームになっている詩、「手紙~親愛なる子どもたちへ~」と、もうひとつの詩が紹介されました。

「手紙~親愛なる子どもたちへ~」は高齢者から息子、娘たちへお願いするような形で書かれています。高齢者の気持ちが良く表わされていて、ジーンとくる詩です。

「手紙~親愛なる子どもたちへ~」は樋口了一さんのHPから読むことができます。


主人を育んでくれた大切な両親、そしてわたしの母に寂しい思いをさせないように自分ができる最善なことをしたいと思いました。
                       つづく
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カリスあふれて

2009-09-04 21:45:51 | 日記

今日、わたしが書いた詩「神さまのカリス」に曲を作ってくれたチャキさんが、我が家に来て下さいました。

チャキさんのお住まいから土浦まで3時間近くかかるのですが、曲を披露しにはるばる来て下さると言うので、この日を楽しみに待ち望んでいました。

家にはピアノがあるのですが、5年も調律をしてなかったので、あわてて調律を頼み、昨日済ませていました。そのかいあって、ピアノはすんだ音をたててくれました。

まずはお祈りしてから、チャキさんが「神さまのカリス」を弾き語りしてくれました。ちょうど娘が仕事が休みで家にいたので、一緒に聴きました。

想像以上でした。聞いていて涙があふれました。曲が終わってからチャキさんと抱き合いました。

一度聞いただけでフレーズが頭の中でこだましています。歌詞はわたしが書いたものだとは思えません。神様が書かせてくれたのです。チャキさんも神様が与えて下さったメロディーだと言っていました。

チャキさん作曲、文香作詞なので『チャキ&ふみか』だねと話しましたが、本当の作者は神様です。なので、ふたりともこの曲を神様に捧げるという気持ちでいます。

いつかブログで曲を紹介できるといいのですが……。

昼食を共にしてから、チャキさんと、娘とわたしの3人で何曲も賛美しました。神様もきっと喜んで下さったでしょう。


「あなたの恵みは、いのちにもまさるゆえ、私のくちびるは、あなたを賛美します。(詩編63:3)」
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力の源はどこに?

2009-09-03 17:53:13 | 聖書から

聖書のみことばに、語られるメッセージに、人の話す言葉に、1通のメールに、起こった出来事に神様の臨在を感じ、心打たれることがたくさんあって書ききれないほどです。


昨日水曜礼拝でエリヤの力の源についてのメッセージが語られました。
イスラエル国家が南北に分裂し、北イスラエルにたてられた王は、偶像礼拝を行って神様のみこころを悲しませることをしていました。中でもアハブ王はバアル信仰をひろめ、アシュラ像を作って拝み、国民にも奨励していました。

当時の北イスラエルの人たちは、主なる神の存在がどこにも認められないように思い、絶望感を味わっていたのではないでしょうか。

そのような暗黒のときにも水面下で神様は働いておられます。


神様はエリヤという人物を預言者として遣わしました。エリヤは当時無名の人物でした。エリヤは大胆にもアハブ王の前に行って語ります。エリヤがアハブ王に言った言葉がⅠ列王記17:1に書かれています。


「私の仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私のことばによらなければ、ここ2.3年の間は露も雨も降らないであろう。」

「私の仕えている」というのは英訳によると「私はその方の御前(みまえ)に立っている」という意味になるそうです。エリヤはアハブ王の前に立っていますが、同時に神の前に立っているということです。
エリヤは神の臨在を感じているので恐れがないのです。

まことの神様がみえなくなっているときに、エリヤは「主は生きておられる」と言い切ります。

「わたしの言葉によらなければ」とは、神のことばによらなければという意味です。
神様のことばによらなければ雨も降らない。神のことばによらなければ何も起こらないのです。


「私たちのいただいている数々のめぐみは神の意志によって与えられているのです。」
と牧師先生が言われました。

神様の意志によってわたしが生かされていることを思い、感謝しました。

エリヤの名の意味は「主はわが神」「主はわが力」だそうです。
エリヤは決して強い人ではありませんでした。このあとバアルとイスラエルの信じている神とどちらが本物か対決する場面があって、エリヤは力強さを見せてくれますが、後にアハブ王と奥さんのイゼベルを恐れ、ホレブ山の洞窟に逃げ込んでしまいます。

弱り切ったとき、「主はわが力」を思い出し祈っていく人物、それがエリヤです。

弱いからこそ主に頼っていったエリヤ。エリヤの力の源はエリヤ自身にではなく、神様にあったのです。

わたしも弱いからこそ主により頼みます。神様はわたしの力の源です!
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