一昨日の礼拝では旧約聖書イザヤ書からのメッセージを聞きました。
「彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく、まことをもって公義をもたらす。(イザヤ42:3)」
葦は丈夫な草で杖にもなりますが、いたんだ葦はぐにゃりとして杖としては使い物になりません。
ランプは油が切れても火はすぐには消えません。燈心自体がしだいに燃えてきて消えそうになっている状態がくすぶる燈心です。
いたんだ葦というのは、人間のこと。
くすぶる燈心とは、クリスチャンのことだそうです。
イエス様は、わたしたちのことを「地の塩、世の光」と言われるのに、なぜわたしたちがいたんだ葦、くすぶる燈心なのでしょうか。
聖書には盗んではいけない。人を殺してはいけない。姦淫してはいけないと書いてあります。「それらのことは全部守っている」と、たいていの人は思います。
でも、マタイの福音書には兄弟に向かってバカ者と言う者は殺人と同じと書かれています。
また、情欲を抱いて異性を見るのは姦淫と同じと書かれているのを読み、「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」というイエス様の言葉を聞いたら、それを実行するのは難しいと気づきます。難しいというより、とうていできないと思って絶望してしまいます。
わたしはひとりの人さえ愛することができない人間です。声に出して「バカ者」と言わなくても、心の中で人をばかにしたことがあります。一段高いところから人を見下していました。迫害する人のために祈ることなど、とうていできない者でした。
わたしこそいたんだ葦であり、くすぶる燈心なのです。
でも、イエス様は、いたんだ葦を折ったり、くすぶる燈心を消したりなさいません。それどころかいたんだ葦、くすぶる燈心を用いて公義を行って下さると言われるのです。何と素晴らしいことでしょう。
「自分がいたんだ葦、くすぶる燈心であることを認め、ここからはじめられれば幸せだ」と牧師先生が言われました。
神様は、わたしたちがとうていできないことをできるようにしてくださると約束してくださいました。自分の力では不可能なことでも神様がなしてくださるのです。
信仰がためされるような出来事が起こります。忍耐が必要なことがたくさん起きてきます。あせりと恐れが沸き上がり、どうしたらよいかわからなくなってしまうことがあります。
「あなたの信仰はどこにあるのですか?」と問われたら何もいえなくなってしまうわたしです。
「信仰とは、わたしたちが神を信じることではなく、神がわたしたちを信じて下さっていること」と聞いて安心しました。