生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

「時」を待つ

2014-06-28 16:24:39 | 聖書から
昨日はOさん宅での家庭集会でした。マルコの福音書6:1~6aからの学びをしました。

イエス様が公生涯に入られてから2回目に郷里ナザレを訪ねたときの出来事です。
1回目に訪れたときのことはルカ4:14~30に書かれていますが、ナザレの人々はイエス様に強い拒否反応を示しました。

それなのにイエス様が再びナザレを訪れたのはなぜでしょう。ナザレの人にも福音を伝えたいと思われたからでしょう。
イエス様はナザレの会堂で聖書について教えました。当時、会堂ではユダヤ人の男子なら誰でも聖書を読んだり、語ったりすることができたので、イエス様のなさったことは、非常識なことではなかったそうです。

イエス様の言葉を聞いた人たちは驚きました。聖書には次のように書かれています。

「それを聞いた多くの人々は驚いて言った。「この人はこういうことをどこから得たのでしょう。この人に与えられた知恵や、この人の手で行われるこのような力あるわざは、いったい何でしょう。この人は大工ではありませんか……」
                                              (マルコ6:2~3)


イエス様の知恵や力あるわざに驚嘆しながらも、イエス様のことを以前から知っている人たちは馬鹿にしています。

当時「大工」という言葉は、石工や金工にも用いられる言葉で、一般的にはどんな仕事でも請け負う便利屋、細工師、技術屋をさしたそうです。

ナザレ以外の土地では、イエス様を預言者あるいは神であると思った人たちもいました。でも、イエス様の家柄や昔のことを知っているナザレの人たちは、イエス様を人間としてしか見ることができませんでした。

イエス様は家族からも理解されなかったのです。

「それで、そこでは何一つ力あるわざを行うことができず、少数の病人に手を置いていやされただけであった。(マルコ6:5)」

と書かれているようにイエス様は奇跡を行うことをせず、立ち去りました。

ナザレで奇跡を行えば人々はイエスを神の子と認めるのに、なぜ奇跡を行わなかったのでしょう。行えなかったのでしょうか……。いいえ。行えなかったのではなく、あえて行わなかったのです。

不思議な出来事を見ただけで信じた者は、イエス様の教えを知ろうとせず、もっと奇跡を求めるようになります。不思議な出来事だけに目を向けるようになるので、奇跡を起こさなかったのです。

郷里の人たちは、イエス様を信じるのが困難で、かえってつまずいています。

「イエスは彼らの不信仰に驚かれた。(マルコ6:6)」と書かれていますが、それはナザレの人たちをあきらめたわけではなく、その人たちが信じるには時間が必要で、信じることができる「時」があるので待つとおっしゃっているのです。

後に母マリヤときょうだいたちは、イエス様を救い主として信じるようになったのです。

夫や母や息子たち、周りの人たちが救われる日をわたしは待っています。




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原因探し

2014-06-24 20:54:14 | 教会
今日は午前中から激しい雷雨がありました。都内では雹が降ったとか……。テレビではどうしてこんな天気になるのか一生懸命説明していましたが、穏やかな天気に変えることは出来ません。大自然の前に人は何もすることができませんね。


先日の礼拝メッセージは、先週の続きで使徒の働き28章から語られました。
誰かが不幸な目に遭うと、その人の行いが悪かったからじゃないかとか、その人の親が悪いことをしたのではないかと原因探しをする人がいます。不可抗力の事故に逢うと、バチがあたったのだという人がいます。
そんな声が聞こえてくると、二重に苦しむことになります。

2000年前も、そのようなことがありました。パウロたちは難船してようやくのことでマルタ島にたどりつきました。
火にあたっていると、マムシが這い出てきてパウロの手に取りつきました。それを見た島の人は、パウロが人殺しだからバチが当たったのだと考えました。

でも、パウロはパニックにならず、落ち着いて対処しました。そして、何の害も受けませんでした。
このことは、以前イエス様が言われた約束の成就といえます。
イエス様は「信じる人々には次のようなしるしが伴います。(マルコ16:17)」と言われ、「蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず……(マルコ16:18)」と約束してくださいました。 

今日こうして生きていることが神様の約束の成就だと聞いて、ジーンときました。乳がんの手術を受けてから11年。こんなに生きられるとは思いませんでした。家事ができ、食事ができ、教会へ行け、こうしてPCの前にすわっていられる幸いを感謝せずにはいられません。


イエス様の弟子たちも因果応報的な考えを持っていたようです。弟子たちは、生まれつきの盲人を見て尋ねました。
「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか」
イエスは答えられた。
「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。」(ヨハネ9:2-3)


『神のわざが現れるため』という答えに感動します。

不慮の事故、突然の病気、災難が起きると、パニックになってしまいます。
何も悪いことをしていないのになぜこんなことが起きるの? と理不尽さに腹を立てます。
でも、神のわざが現れるために起きたことだとしたら、不幸と思われる出来事も実は不幸ではなく、幸いな出来事になります。

渦中にいるときはわからなくても、後に「よかった」と思える日が必ず来ると、神様が約束してくださっているように思います。
「恐れず、神に信頼して歩むとき、神の確かな守りと支えを知るでしょう」という牧師先生の言葉に深くうなずきました。



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低い自己評価

2014-06-20 17:10:32 | 社会
5/26の日経新聞に次のような記事が載っていました。

『日本の若者は自己評価が低く、将来を悲観している――。
2013年11~12月に日本、韓国、米国、英国、ドイツ、フランス、スウェーデンでインターネット調査を実施し、各千人程度から回答を得た。日本では1175人が回答した。
 「自分自身に満足している」と答えたのは1位の米国が86.0%、6位の韓国でも71.5%だったが、日本は45.8%と著しく低かった。「自分には長所がある」と答えた割合も日本は68.9%で最下位。他国は93.1%(米国)~73.5%(スウェーデン)だった。』


日本の若者は、自己評価が他国に比べて少し低い程度ではありませんね。著しく低いのです。
劣等感をもっている人が非常に多いです。自分の中に価値が見いだせないのです。
「自分に長所がある」と思わない人が30%以上もいるということに驚きます。

幼少のころからほめられるより、ダメなところを指摘されて、しかられながら育ってきた子どもが多いからではないでしょうか。向上心が出てくると思って親はしかるのですが、否定され続けていると、自分の中にいいものはひとつもないと思ってしまいます。
わたしも自己評価の非常に低い者でした。自分自身を否定し、別の人間になりたいと思っていたくらいでした。強い劣等感があり、自分は欠陥人間だと思っていたのです。

両親は厳しく、小学4年生までは口答えもできませんでした。でも、5年生になった頃から父親に逆らい、母親にも逆らう子どもになりました。反抗期は20歳近くまで続きました。

自分はどのような人間なのか、何をすればいいのか……それがわからないうちはゴールがみえないのにがむしゃらに走っているマラソン選手のようでした。遠回りし、ときには反対向きに走っていました。生きているのが苦しくて途中でリタイヤーしたいと思いました。

そんなとき、わたしが神様によって目的を持って造られた存在だと知ったのです。しかも、この大地が造られる前からわたしを造る計画がたてられていたというのです。
そのことを知ってどれだけ嬉しかったでしょうか……。

「すなわち、神はわたしたちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。(エペソ1:4)」

もし、人が偶然で生まれるのなら、人生の意味や目的を見出すことができないでしょう。偶然でできた人なら、その中に劣った人や優れた人があるいはいるかもしれません。

そうではなく、神が計画して人を創造されたのだとしたら、ダメな人間、不必要な人間などひとりもいないのです。
自分は能力がない、ダメだと思っている人にも隠された能力があり、その能力は何かをするためにあるのだと知るでしょう。能力にはさまざまな種類があるので優劣つけることはできません。学校のテストで測ることができる能力はほんの一部に過ぎません。

存在そのものが尊いことを、自己評価の低い人たちが知ることができますように。 

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。イザヤ43:4」




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カイザルの前に立つとき

2014-06-17 15:42:21 | その他

一昨日の礼拝メッセージは、使徒の働き27章から語られました。この章にはパウロがローマにおくられるときの船旅のようすが詳しく書かれています。

2000年前の船がどのようなものだったかわかりませんが、航海には危険が伴うものです。
地中海は冬季の嵐のため、11月から3月までは航海が閉鎖されていました。この時は、10月であっても航海の危険な時期でした。

でも、船長たちは冬を過ごすのに適当な港へ行くと言って、パウロが危険だと言うのを無視して出帆しました。パウロにはたくさんの航海の経験があり、難船したこともあったので、危険を察知していたのですが、聞き入れてもらえませんでした。

まもなく船は暴風に巻き込まれ、漂流することになりました。
聖書には「吹き流されるまま」(15節)、「積荷を捨て始め」(18節)、「太陽も星も見えない日が幾日も続き」(20節)、「激しい暴風がふきまくる」(20節)、「助かる最後の望みも今や断たれようとしていた」(20節)、「長いこと食事をとらなかった」(21節)と書かれています。

船に乗っているほとんどの人たちは、助かる望みを絶たれ、食事をする元気さえなくなっていたようです。

そんな中、パウロは力強く語りました。「元気を出しなさい」(22節)「いのちを失う者はひとりもありません」(22節)「私たちは必ずどこかの島に打ち上げられます」(26節)「食事をとることを勧めます」(34節)

なぜパウロはそのように言えたのでしょうか。それは神様の声を聞いたからでした。
神様はパウロが必ず助かって、カイザルの前に立つときがくると約束してくださいました。

神様の約束は反故にされることがありません。神の言葉を信じたパウロは、絶望している人たちを励ますことができたのです。

実際、船は900キロも流されましたが、マルタ島に漂着しました。いのちを失った人はだれもいませんでした。

「絶望したとき、神の言葉を待ち望むことが大切です」と牧師先生が言われました。

わたしは、メッセージを聞いて、それが自分に語られているように思い、胸騒ぎがしました。
「約束が遂行されるときがくる。そのとき、あなたはカイザルの前に立つ。そのときは恐れずに信仰の証しをしなさい」と、神様が語りかけてくださったのです。

約束とは何か、カイザルとは誰なのか、はっきりわかりませんが、心に留めたいと思います。




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笑い上戸(その2)

2014-06-14 20:45:44 | 童話

 さやかは亜佐美に背を向けてむっつりしていたが、ようやく口を開いた。
「わたしを笑わせたら、劇に出てもいいよ」

(やった!)亜佐美はガッツポーズをした。
「アルミ缶の上にあるみかん。ふとんがふっとんだー。内臓がないぞう。梅はうめえ」
亜佐美はさやかを笑わせようと必死だ。
「猫が塀から落ちた。へえっ!」
さやかは二コリともせず、すましている。

(ヤバイよ。さやかが笑わなかったら、あたしが笑い上戸の役をやらなきゃなんない)
 翌日、亜佐美が笑い話のネタをいくつも考えて学校へいくと、さやかは学校にきていなかった。今まで休んだことがなかったのに。

 放課後、亜佐美はさやかの家に向かった。商店街の外れの細い路地裏をいくと、トタン屋根の平屋が並んでいた。一軒の家から五歳ぐらいの男の子が泣きながらとびだしてきた。

「待て、こら。逃げる気か」
 耳が痛くなるほどの声がして、父親らしき男が追いかけてきた。片手に酒瓶を持っている。亜佐美は思わず電信柱の陰に隠れた。
 男の子は顔をひきつらせてじっとしている。男は、子どもの襟首をつかんだ。

「やめて!」
そのとき、聞き覚えのある声がした。さやかだ。さやかが裸足でとびだしてきて男の子をかばうように抱くと、
「お父さん、サトルは悪くないでしょ」
といって、父親から酒瓶をとりあげ、男の子と一緒に家の中にもどった。

「こら、酒持っていくな!」
 父親の叫ぶ声のあとに、ケタケタケタとさやかのいつもの笑い声が響いてきた。

「アーハハハハハ、酒瓶がころがってる」
「ハッハッハッハッ」
「フフフフフ」

 父親と男の子の笑い声も聞こえた。亜佐美は声も出なかった。しばらく玄関の前に佇んでいると、さやかが気づいて顔を出した。
「亜佐美……」
 さやかはきまり悪そうな顔をした。
「今日休んだから、どうしたかと思って」
「ちょっと待って」
 さやかはくつをはいて出てきた。ふたりは日の当らない路地を並んで歩いた。

「母さんが家出してから、父さんはお酒を飲むたびにサトルをたたいたり突き飛ばしたりするの」
さやかは下唇を噛んで地面をみつめた。

「わたしが面白いことをみつけて笑うと、父さんやサトルも笑って、平和になるんだ」
「それじゃ、学校で大笑いしてたのは……」
「つらいことを忘れるためだったの。ほんとはちっともおかしくなかった。でも、笑ってないと不安でたまらなくなるから……」
さやかの目からポロッと涙がこぼれ落ちた。
「……ごめん。王女の役はあたしがやるよ。死ぬ気でやればできるさ。ハハハ」
 亜佐美は作り笑いをした。

「そんな笑いじゃだめ。こうするの。ワーハハハハハ」
さやかはおなかをかかえて笑った。

「あっ、笑っちゃった。わたしの負けだね。劇に出るよ。出たら、心から笑えるようになれるかもしれないし」
といってまた笑った。
亜佐美もつられて笑った。心の棘が溶けていくような気がした。

                          おわり



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笑い上戸(その1)

2014-06-13 17:08:45 | 童話
久々に創作童話を掲載します。
原稿用紙7枚の作品を2回にわたって連載します。
感想を聞かせてくださると嬉しいです。


          
笑い上戸(その1)

                                            土筆文香

アーハッハ イーヒッツヒ ウーフッフ
今朝も五年三組の教室は笑い声にあふれていた。さやかはハンカチで涙を拭きながら、おなかをかかえて笑っている。
「何がそんなにおかしいんだよ?」
 遅れて登校してきた亜佐美が、さめた目でさやかをみた。
「えっと、何がおかしかったんだっけ……忘れちゃった。アーハハハハ」
 
さやかは忘れたことがおもしろくて、また笑った。亜佐美はあきれながらも自然に顔がほころんでくるのを感じた。
さやかは一日に何回大笑いするんだろう。鉛筆が転がっただけで笑うのだからおめでたい性格だ。きっと何の悩みもないんだろうな。
亜佐美はいつも怒っていた。何をしていても両親から「勉強は?」といわれる。いい返せば「いいかげんにしなさい」としかられる。ちっとも話を聞いてもらえないのでふてくされ、まるで心に棘が生えたようになってしまった。
 秋の学芸会で三組は劇をすることになった。

 脚本は作家志望の棚橋さんが書いた『ジャックと笑う王女さま』笑い上戸の王女が主人公で、王女の笑いを止めた男が王女と結婚できるというストーリーだ。

 亜佐美は、笑い上戸の役にさやかを推薦し、クラス全員が賛成した。
「それでは、王女の役は柿本さやかさんに決定しました。柿本さん、いいでしょうか」
 学級委員の中本君がいった。 
また大笑いするだろうと、亜佐美は隣の席のさやかを横目でみていた。さやかは笑わなかった。こわばった顔で返事もせずにじっと机の角をみている。こんな顔のさやかをみたのははじめてだ。

「返事しなよ。さやかにぴったりの役だよ」
亜佐美がささやくと、さやかは口を一文字に結んで首を横にふった。
「どうする、大木亜佐美。柿本がやらないなら、お前やれよ」
「何であたしがぁ。じょうだんじゃない」
 亜佐美はげんこつで机をたたいた。
「推薦したんだから、責任持てよ」
 中本君がいうと、

「そうだ、そうだ。柿本がやらないんだったら、大木がやればいい」と声が上がった。
「それでは、主役は大木さんがいいと思う人」
 いっせいに手が挙がった。
「多数決で主役は大木さんに決まりました」
「多数決で決めるなんて、反対」
 亜佐美が中本君をにらんだ。

「やりたくないんなら、柿本を説得しろよ」
 中本君がいうと、また「そうだ、そうだ」の声が上がる。
「みんなもそう言ってるから、決定します」

大勢の人の意見が正しいとは限らないのに何でも多数決で決めるやり方に亜佐美は腹を立てた。
こうなったら何としてもさやかに主役をやってもらうしかない。

 次の日、亜佐美はさやか顔をみて驚いた。唇がへの字になっている。笑ってないときでも、いつも微笑んでいたのに……。
「さやか、劇に出たら学校中の人気者だろ」
亜佐美は一生懸命さやかをおだてた。
「さやかほどいい笑い方をするヤツはいないよ。いつもつられて笑っちゃうし」


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選びとは

2014-06-10 16:43:07 | 聖書から
キリスト教では、「信仰を持つようになったのは、神様がわたしを選んでくださったからです」と言うのをよく耳にします。

たくさんある宗教をひとつひとつ詳しく調べて、どれがよいか自分で選んでキリスト教を信じることにしましたと言って洗礼を受けた人の話は聞いたことがありません。

選ばれるとはどういうことなのでしょう。選ばれなかった人はどうなるのでしょう。果たして自分は選ばれた人なのでしょうか……。と疑問を持つ人もおられるでしょう。

聖書を読んでいると、神様はご自分をあらわす(啓示する)神様だということがわかります。神様はご自分のことを「わたしはある」と自己紹介されました。

「わたしは、『わたしはある。』という者である。」(出エジプト3:14)

つまり、神様は存在する者であるということ。そして、アブラハムを選んで声をかけられたように、選びの神様であることがわかります。

「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。(ヨハネ15:16)」

けれども、自分が素晴らしいから神様が選んでくださったと思ったとしたら、それは大きな間違えです。

アブラハムもモーセも神様から選ばれた者ですが、彼らの能力や性格によって選ばれたわけではありません。
むしろ、選ばれるのに値する人間ではないのに選んでくださることがすごいことだと思います。
そして、選んだ人が失敗したり、間違った道を歩んでしまっても神様は決して見捨てないと約束してくださっているのです。

わたしは「こんな弱くて、何のとりえもないわたし、どうしようもないわたしを選んでくださってありがとうございます」と神様に言っています。

ブログを読んでくださっているあなたへ

神様はあなたのことも選んでおられます。神様はあなたのことを愛しておられるからです

日本クリスチャン・ペンクラブのHP更新しました。ぜひご覧ください。



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神様は不公平ですか?

2014-06-06 15:44:28 | 聖書から
音をたてて雨が降っています。暑い日が続いていたので、嬉しい梅雨入りとなりました。

「信仰を持つとはどういうこと?」と聞かれることがあります。
水曜礼拝で、「神の語りかけを聞いて応答することが信仰を持つということです」と教えていただきました。

神の語りかけとはどういうことでしょう。信じている人には神の声が聞こえるのでしょうか……。そうではありません。
それなら、どのようにして神様は語りかけてくださるのでしょうか。そして、応答するとはどういうことなのでしょう。

人が生まれつき備わっているものや、自分で選んだり変えたりすることができないまわりの環境が、神からの語りかけになっているそうです。
この時代に日本人として生まれたこと、女性であること、両親、容貌、生まれつきの性格など……。

かつてわたしはすべてがいやで文句ばかり言っていました。とくに体が弱いことが不満でした。聖書に書かれている神の存在は知らなくても、大いなるものの存在は感じていましたから、そのお方に不平を言っていました。
他の人と比較して、自分が持ってない健康、容貌、能力が羨ましいと思い、「神様は不公平だ」言っていました。

聖書に示され、わたしを造ってくださった神様がどんなお方かわかったとき、神様はわたしにふさわしい要素を生まれる前から備えてくださったのだと知りました。どんな要素にも目的と意味があるのです。
たとえば、生まれつき体が弱いことは、じっとして体を休める時間が長いことによって、物事をじっくり考える習慣がつく。神様のしてくださったことをゆっくり思いめぐらすことができる。

いろいろな病気で苦しむことによって、病で同じような苦しみの中にある人を慰めることができるなど……。
神様は、マイナスと思われる要素でさえ、よいことのために備えてくださっているのです。

「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。(エペソ2:10)」

置かれた環境や毎日起きる色々な出来事、ほんのささいな日常の出来事の中にも神様からの語りかけがあります。
それを見逃さないようにしてしっかりと聞き、応答していきたいなあと思いました。

「それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。私は感謝します。あなたは私に、奇しいことをなさって恐ろしいほどです。私のたましいは、それをよく知っています。私がひそかに造られ、地の深いところで仕組まれたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。(詩編139:13-16)」



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わたしの自分史

2014-06-03 16:18:21 | 日記
真夏のような暑さが続き、もはや夏バテしています。

31日は神楽坂で児童文学者協会の総会があって、児童文学の友人と出かけました。
友人と自分史を書くことの意義について話しました。友人は「波乱万丈の人生を書くなら読者も惹かれて読むかもしれないけど、平凡な人生を書いて何になるの? それに詳しく書くと差支えのある人が出てくるかもしれないし……。」と言いました。

朝日新聞で連載されている林真理子氏の小説「マイストーリー(私の物語)」は、自費出版社の編集者の目から書かれています。死ぬ前に自分が生きた証として自分史を書き、本を作って遺したいという人が増えているそうです。

本が完成すると子や孫、知人、親戚、友人に配りますが、売れるということは少なく、余った本はいずれは捨てられてしまうそうです。
子や孫に伝えるという意味では出版価値はありますね。

『自分史とは何を書くのか?』というところから考えてみたいと思います。
生れてから現在に至るまでに起きた出来事を書いていくだけなら、それは記録にすぎません。

旧約聖書の列王記には、王の名が次々書かれています。その中には敵国と戦って勝ち、領土を広げたとか、水道を引いたなど功績をあげた王がいます。
王として君臨した期間はそれぞれで、たった数か月の王や50年も王座についていた人もいます。でも、聖書には王座についていた期間や、功績は重要視せず、その王が神様に対してどういう態度をとったかを中心に書かれています。
長く即位した王も短い期間王だった人も、その一生は数行で終わります。王が、律法(神様の教え)に忠実だったかどうか書かれているのです。

一昨日の礼拝メッセージでは「自分史」を書くように勧められました。使徒の働き26章1-23はパウロの自分史です。クリスチャンを迫害していたパウロがキリストに出会って変えられ、神から使命をいただいて福音を伝える者となったことが書かれています。
「自分の人生は神の愛の見本です」
と牧師先生が言われました。

神様がわたしの人生にどのように働いてくださったか、神様によってわたしがどのように変えられたか記すのが、わたしの自分史です。

2007年に日本クリスチャン・ペンクラブで10代~40代の自分史を書きました。
その自分史は、母に対する思いが神様によって変化したことをメインテーマにして書きました。50代はまだ書いていませんが、神様がますますわたしのことを愛してくださり、導いてくださっていることを書きたいと思っています。

「しかし、そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです(Ⅰテモテ1:16)」


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