姪と過ごす日々はあっという間に過ぎ、今日は帰る日になりました。「もっと泊まっていたかったのに……」と寂しそうに姪が言ったので胸がキュンとなりました。
妹夫婦(姪の両親)が迎えがてらお昼ごろ来て、夜帰るというので、昨日はその準備で大忙しでした。
今日の午前中に教会で「限りある命をおぼえて」というテーマでの婦人修養会があるので、それに出席するため、昨日のうちに料理の下ごしらえをしました。もちろん、姪も手伝ってくれました。今朝は6時に起きて炊き込みご飯をたいて、大急ぎで掃除洗濯をして出かけました。
今年の2月に教会の63歳の婦人Tさんがくも膜下出血で突然召されました。お元気な方で、婦人会のリーダー的存在でした。さまざまな奉仕をしておられました。優しくて誰からも愛されていた方でした。Tさんの突然の死で、ショックを受けた方は多かったでしょう。
今年の修養会のテーマが「限りある命をおぼえて」になったのは、Tさんの死を通して生と死を皆で考えようということになったからです。
Tさんの突然の召天から学ぶこととして3つのことが挙げられました。
1)死は誰も予想できない。自分の死すら予想できない。自分が期待しているように死を迎えられない。
2)防災に備えるように、準備しておかなければならない。遺言状を書くのは、死ぬのが今でないから書ける。書いてから更新していく。
3)自分の考えを書いて残しておく。
2)と3)はクリスチャン・ペンクラブで行っていることです。わたしは、今月迎えた誕生日に遺言状を更新しました。
S牧師の言われたことで印象に残ったことを記します。
・生に対するものとして死を考えるのではなく、生の延長線として死を考えるように。
・死に方、死の様子がその人の人生を決定するものではないので、最期の様子を恐れないように。(アフガンで殺された伊藤さんのように、どんな悲惨な死に方をしたとしても……。)死に方は自分で選ぶことができない。どういう生き方をするのかが大切。
・聖書へブル人への手紙11:13-16を読んで
わたしたちは、地上では旅人であり寄留者。人生は幕屋のようにやがて朽ちるものである。でも、そのことを嘆かないように。神様の約束を信じて、朽ちない体永遠の命に向かって歩んでいるのだから、はかない人生であることを嘆くことはない。
・わたしたちは寄留者で幕屋の生活をしているけれど、神と共に生きている。神様から慰めを受けている。
・自死について「あなたをひとりで逝かせたくなかった」 アルバート・Y. ヒュー著の本より
愛する者が自死をしたとき、なぜ?とその理由を問う。死の理由がわからなくても、理由を知る必要はない。説明を求めているのではなく、実は慰めを求めている。ヒュー氏は、自死遺族の会に行って、そのコミュニティーの中で癒された。
「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。(Ⅱコリント1:4)」
実りある修養会でした。忙しい中でしたが、出席できてよかったです。
大いそぎで帰ると、ちょうど妹夫婦が着いたところでした。楽しくおしゃべりしながら食事をし、今、この生かされている貴重なときを大切にしたいと思いました。
姪が帰ってしまったのでとても寂しいです。