生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

足のともしび

2019-04-23 15:02:37 | 日記
19日朝、娘が2人目の子どもを出産しました。2481gの女の子です。予定日より10日も早かったので、驚きました。入院の準備やらレンタルベッドの手配が前日にできたところでした。
夜中に陣痛が来て、家の人を起こすのは悪いと思って、ぎりぎりまでがまんしていたそうです。痛みの間隔が10分になったので、あらかじめ予約しておいたマタニティー陣痛タクシーを呼びました。わたしは娘の電話の声で目が覚ましました。

あわてて着替え始めたわたしに、「ついていかなくて大丈夫だから。ひとりでいくから」と落ち着いた様子でいいました。

娘はわたしが睡眠不足になると、すぐ具合が悪くなることを知っているからです。
娘は笑顔で出かけていきました。それから5時間後、午前9時に無事生まれました。
神様が与えてくださった新しいいのちに心が震えました。

お祈りしてくださった方々に感謝します。

21日はなんとかイースター礼拝に行けました。疲れてふらふら状態で、今にも倒れそうで不安でいっぱいだったのですが、「大丈夫です」という言葉を聞いて、主が御手をさしのべて支えてくださっていることがわかりました。

「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。(詩篇119:105)」


『神様は足元を照らしてくださいます。ずっと道は続いていますが、神様は、一歩踏み出すとその先だけを照らしてくださいます。もっと先を照らさないのは、高慢にならないため、神を忘れないためです。』という牧師先生の言葉に励まされました。




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手をつないで

2019-04-15 11:55:38 | 教会
上の写真は14日(日曜日)の写真です。
雨と風で散ってしまったと思っていたのに、まだこんなに咲いていました。

桜は咲いても必ず散ります。当たり前のことです。散らない桜があったら、それは造り物でしょう。
人間も必ず死を迎えます。死なない人はいません。でも、なぜか死について話す人は少ないです。避けているようにも思えます。

どんなに成功したって、ノーベル賞をとったって、大富豪になったって、人生の最後は死です。
むなしいとは思いませんか? テレビでは、どうしたら若く見えるか、死ぬ前まで健康でいるにはどうしたらよいか? などと、そのようなことばかり言っています。
肝心の死の問題についてまともに語る人は少ないです。それは死を克服していないと語れないことだからです

わたしは中学生のころ、なにもかも空しくなり、最後はどうせ死ぬのだからどうでもいい。と投げやりな気持ちで生きていました。

昨日の教会礼拝でのメッセージでは、まさに死の問題解決について明確に語られました。

旧約聖書創世記を読むと、ノアの洪水以前の人達は、寿命が長く、一番長い人で986歳です。でも、寿命が長いからと言って死なないわけではありません。
寿命が短い人でも聖書には「生んで、生きて、死んだ」と書かれています。人生が「生んで、生きて、死んだ」だけのものだったら、なんとはかないのでしょう。
例外もあります。エノクとエリヤです。

創世記5:24には「エノクは神とともに歩んだ。神は彼を取られたので、彼はいなくなった。」と書かれています。ともに歩んだとは、神と手をつないで歩んだということだそうです。

エノクはなんてすばらしい人生をおくったのでしょう。なんの経歴がなくても、エリヤのようにすごい力を持たなくても、エノクは神様の心と全くひとつになっていたのでしょう。
エノクが神様に近づけたのは、罪の問題が解決していたからです。
もし、解決していなければ神に近づくことができません。

イエス様が、十字架にかかって死んでくださったのは、わたしたち人間のため、あなたのためなのです。神様は、ご自分が造って愛しているあなたが罪のために滅びてしまうことが辛くて助ける方法を示しました。それは神のひとり子であるイエス・キリストを十字架につけて死にわたすことでした。
自分の子どもの身代わりに自分の命を差し出す人はいるでしょう。でも、人のために自分の愛する子を苦しめて死に至らせることのできる方は神様だけです。
イエス様は神の子なので、罪はありません。罪ある人間の身代わりになって罰を受けてくださいました。

イエス様は、神様に従われました。けれども、死んで終わりではありませんでした。
3日目によみがえられたのです。(教会ではこの日をイースターとしてお祝いしています)

そのおかげで誰でもイエス様を信じるだけで罪赦され、永遠のいのちをいただけるようになりました。肉体の死はあっても、イエス・キリストにある者は、決して死ぬことがないのです。

わたしは、このことを信じてから、むなしさがなくなりました。いつまでも残るもののために生かされたいと思います。エノクのように神様と手をつないで。

「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。(Ⅰコリント13:13)」



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お花見日和

2019-04-08 15:31:57 | ティーンズ
桜川の土手の桜が満開になりました。

今年ほど桜が咲くのを待ち遠しいと思ったことはありませんでした。

金曜日は孫を連れてお花見にいきました。このときは五分咲きでした。日曜日は礼拝の後、TEENSの子どもたちと花見に出かけ、みんなでくし団子を食べました。このときはほぼ満開。天気も良く、暑いぐらいでした。

TEENSでは、毎年四月の初めの日曜日にお花見をすることになっていますが、桜の開花がまだだったり、咲いても雨が降っていたり、風が冷たかったりで、花見日和だったことがこの10年ぐらいなかったそうです。

それで担当の先生が最初から花見をあきらめて、室内でのゲームを考えておられました。
ところが、前日に絶好の花火日和になりそうだとわかったので、『ぜひ、お花見しましょう』というメールが飛び交って、花見が実現しました。



人の心を和ませる桜を造ってくださった神様に感謝します。
桜は神様からのプレゼントです。


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生きてていいんだよ

2019-04-03 16:35:06 | エッセイ
桜川の桜はもうすぐ満開になりそうです。お花見はまだ行っていません。寒くて行く気になれないのです。明後日は暖かくなると天気予報で言っているので、期待して待ちます。
娘は臨月を迎えました。孫のソークンはよく食べ、よく笑い、よく遊んでいます。

先日(3/25)の文章を書いた心境について少し書かせていただきます。

わたしは子どもの頃、非常に大きな劣等感を抱いていました。
それは、祖母や両親が厳しく、なかなか認めてもらえず、否定されることが多かったからだと思っていました。人のせいにしていましたが、今思うと、わたしは不器用で、自信がないために一歩ひいてしまうところがありました。

人との付き合いもへたで、学校ではほとんど話をしなかったので、友達が少なかったです。自分から声をかけることができませんでした。中二のときには友達が一人もいませんでした。同じクラスの人に「あの人変わっているね」などと陰口を言われて、心に深い傷を負っていました。

「何もできなくていい。あなたの存在そのものが価値あるのだから、そのままでいいんだよ」と言ってくれる人がいたら、どんなにうれしかったことでしょう。
中二のわたしは、孤独の中で自分の存在とは何か考えました。

わたしは、『どうせ偶然に生まれたのだから、死ぬ時ぐらい好きなようにさせて』と、自分のいのちを軽々しく考えていました。これまで自分一人で生きてきたような高慢な思いを抱いて、両親や周りの人の痛みを考えてもみませんでした。

それでも大いなる存在については何かを感じていました。このみじめな自分をあたたかな目で見つめ、見守ってくれる人がいるような気がしていました。でもそれは勝手な自分の思いに過ぎないのだと打ち消してしまいました。

けれどもわたしを造り、ずっと見守り、愛してくださった方がおられたのです。このことを知ったとき、涙が止まりませんでした。(それを知ったのは20歳を過ぎていましたが……)
「そのままでいいのだよ」と存在を認めてもらって、生きてていいんだ、生かされているんだと思いました。



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