生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

今年を振り返って

2016-12-28 17:05:03 | 日記
今年もあとわずかになりました。
冬休みで9歳の孫(ヒックン)がひとりで泊りに来ています。ヒックンはおじいちゃんに映画を観に連れて行ってもらい、その間わたしは水曜礼拝に出ました。お昼にイオンで待ち合わせして、昼食を食べ、買い物をして帰ってきました。

水曜礼拝では、今年あった教会の出来事を映像で観て、この一年を振り返りました。
どんな出来事の中にも主の恵みがあふれていることに気づき、感謝しました。

わたしの一年は、旅の多い一年でした。春には佐渡、新潟。夏には軽井沢。秋には秋田、白神山地。そして晩秋は学生時代の友人と高山と白川郷へ行けました。

また、今年は母を偲ぶ一年でした。母が召されたのは一昨年になりますが、そのあとクリスチャン・ペンクラブで書いたエッセーは、ほとんどが母のことでした。

妹と姪の3人で秋田のお墓へ行って、ついでに白神山地まで行って来ることができたのは母のおかげだと思っています。

来年は、母を卒業して一歩踏み出さなければ……。どんな一年になるのか、主に頼り、主を見つめながら歩んでいきたいです。



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クリスマスの不思議(その2)

2016-12-23 20:38:26 | CS(子供伝道)
クリスマスの不思議について考えてみました。子どもたちと一緒に考えたことを記します。
これが正解ではありません。推測です。本当のことは、神様しかわからないのです。でも、考えていくうちに、新しい発見があり、クリスマスの出来事がどれだけすばらしいかわかりました。

①なぜ神様はマリヤを神の子の母とされたのでしょうか。
→マリヤはまだ15歳か16歳ぐらいの少女でしたが、素直な心で神様を信じていました。神の子を身ごもっていますとみ使いに言われたときはとまどいますが、受け入れ、神様を賛美します。マリヤがこのようにまっすぐな心の少女だからこそ、神様が選んだのではないでしょうか。

②なぜイエス様はベツレヘムの家畜小屋で生まれたのでしょうか。
→マリヤとヨセフはナザレに住んでいましたが、ローマ皇帝のアウグストが、すべての人に自分の生まれた町に帰って住民登録をするようにという命令を出しました。マリヤはおなかが大きくなっていましたが、ロバに乗ってヨセフと共にベツレヘムに向かいました。やっとの思いでベツレヘムに着きましたが、町は人であふれており、宿屋はどこもいっぱいでした。

家畜小屋ならあいていると言われ、家畜小屋で泊ることになりました。
マリヤは家畜小屋で出産し、幼子を布にくるんで飼い葉おけに寝かせました。
イエス様が家畜小屋で生まれてくださったおかげでどんなに貧しい人でも、身分の低い人でもイエス様に会うことができます。もし宮殿で生まれたら、お金持ちや身分の高い人しか会えなかったでしょう。

なぜベツレヘムなのか。それには理由がありました。旧約聖書ミカ書の5:2には次のように書かれています。
「ベツレヘム・エフラテよ。ああなたは氏族の中で最も小さい者だが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る」

エフラテとはベツレヘムのことで、ダビデはベツレヘムで生まれています。
このように旧約聖書には、救い主についての預言が書かれた箇所がたくさんあります。それは、イエス様誕生の何百年も前に書かれたものでした。


③なぜいちばん最初に救い主誕生の知らせが羊飼いに届けられたのでしょうか。


→羊飼いは、ユダヤ人の社会から疎外されていました。羊を飼って生活していたので、安息日に礼拝を守れなかったからです。このように貧しく、社会から疎外されていた人に救い主誕生の知らせがいちばんに告げられたのは、意味深いことです。

④なぜ東方の博士たちは長い旅をして救い主を拝みにやってきたのでしょうか。
→救いが外国の人たち(日本人もユダヤからみると外国の人)にもあるという意味です。

⑤なぜイエス様がこの世界に来てくださったのでしょうか。

→わたしたちは、罪を持っています。罪のためにこのままでは天国へ行くことができません。罪が赦されれば、天国へ行き、永遠のいのちをいただけます。
神様は、わたしたちを深く愛しているので、わたしたち人間が滅びてしまうのがつらくてたまらなかったのです。
それで、罪のないひとり子のイエスをわたしたちの身代わりとして十字架につけるためにこの世界にイエス様を誕生させてくださったのです。

イエス様を誕生させることは、神様の何千年も前からのご計画でした。神様のご計画は、途中で変更されたり中止になったりすることはありません。神様の深い愛と熱心によって、イエス様が誕生しました。このすばらしいできごとを思うとき、喜びが湧き上がってきます。

イエス様が生まれてくださったおかげで、イエス様を信じるだけでわたしたちは神様の子どもにしていただけるようになりました。ハレルヤ!!


聖書の言葉 「この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。(ヨハネ1;12)」
特権とは、特別な権利のことです。イエス様を受け入れ、信じた人は、神様の子どもにしていただけるということです。

                     おわり



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クリスマスの不思議(その1)

2016-12-22 17:00:18 | CS(子供伝道)
18日に教会学校のクリスマス会が行われました。低学年(1~3年生)は『クリスマスの不思議』というテーマで発表しました。

わたしはその日、義父の7回忌で主人の実家に行かなければならず、小学科クリスマス会に参加できなくて残念でしたが、10月末から子どもたちと一緒に準備してきました。

低学年の子どもたちに「これからクリスマスの準備を始めます」と言うと、「クリスマスのお話、全部知ってる」「つまんない。サンタさんが来るのはうれしいけど……」という声が聞こえてきました。

なぜクリスマスにお祝いをするのでしょう……。
イエス様が生まれてきてくださったからです。クリスマスの本当の意味は何でしょう……。
本当の意味を知ったら、心が喜びであふれ、祝わずにはいられません。
本当の意味を考える前に、クリスマスの不思議なことについて考えてみましょう。

クリスマス物語は多くの人が知っていますが、不思議なことがたくさんあります。
子どもたちと話し合って出てきた疑問はこんなにありました。

①なぜ神さまはマリヤを神の子の母とされたのでしょうか。

②なぜイエス様はベツレヘムの家畜小屋で生まれたのでしょうか。

③なぜいちばん最初に救い主誕生の知らせが羊飼いに届けられたのでしょうか。

④なぜ東方の博士たちは長い旅をして救い主を拝みにやってきたのでしょうか。

⑤そして、なぜイエス様がこの世界に来てくださったのでしょうか。


これ以外にもまだまだたくさんありますが、これらの意味を考えてみました。

つづく

感激旅行記ーおまけの旅

2016-12-15 15:33:35 | 日記
名古屋でろっちの旅は終わりましたが、MOちゃんとわたしは名古屋でもう一泊することにしていました。おまけの旅です

旅の2日目が日曜日だったので、どこかで教会の礼拝に出席できないかと思っていました。クリスチャンは日曜日に必ず礼拝しないといけないという決まりがあるわけではありません。
ただ、日曜に神様をほめたたえたいという気持ちがあるので、礼拝に出たいと思ったのです。

旅行の日程表が送られてきたとき、名古屋で19時に解散することを知り、名古屋で夕拝をしている教会をネットで探しました。そうしたら、一件ありました。そこが以前土浦めぐみ教会でお世話になったH先生の教会(名古屋福音伝道教会)だったのです。
まさに備えられていた!』のです。

名古屋福音伝道教会は、大須の商店街の中にある小さな教会です。商店街の中にある教会は、日本で唯一だそうです。

MOちゃんもわたしにつきあって一緒に礼拝に出ると言ってくれました。
雨が降っていたので名古屋駅でタクシーに乗るのに待たされ、タクシーの運転手さんが道を知らなかったのでちょっと迷って、着いたら7時半近くになっていましたが、温かく迎えていただき、ほっとしました。


礼拝が終わってティータイムにも出させていただきました。翌日、牧師先生ご夫妻がこのあたりを案内してくださるということで感謝しました。

ホテルでは、オートロックなのにカギを持たずに部屋の外に出てしまい、あせりました。
「ふたりいれば、なんとかなるよ」と言うMOちゃんの言葉に目がうるうるしました。

翌日H先生ご夫妻と大須商店街を歩きました。歩いていると、いろいろな人がH先生に声をかけ、先生は手を振って答えておられました。(まるで映画を見ているよう)

大須観音のある町なのに、教会の牧師先生がこんなに受け入れられているとは、すごい!と、神様が生きて働いておられることを目の当たりにして感激しました。

H先生は9月に土浦めぐみ教会に来られて、メッセージをしてくださいました。その時の感想を9/14のブログに下記のように書いています。

『商店街で「金の大玉祝祷祭」が開催されるとき、祈祷をしてほしいと頼まれて、引き受けたというのを聞いて驚きました。金の玉を拝むのではなく、そこに集まる人、通る人たちに神様の祝福があるようにと祈られたそうです。
宗教観、価値観の違う人たちに対して、拒否するのではなく、また妥協するのでもなく、人が作ったものに対して祈るのではないことを、地元の人たちに説明しながら、キリスト教の祈りをするとは、なんと大胆な、そして柔軟な対応なのでしょう。』




大須観音の境内では市が開かれていました。

さて、この旅行でろっちの仲間の温かな人間関係を改めて感謝しました。学生時代からそうだったのですが、わたしたちは仲間うちで喧嘩したことがなく、悪口も言ったことがなく、ひとりがつらい思いをしたら、みながつらくなり、ひとりが喜んだら、みなで喜ぶような関係です。
聖書には「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。(ローマ12:15)  」とあります。

人見知りで引っ込み思案だったわたしは、子どものころ、自分から友達を作ることができなくて誰かに誘ってもらうのを待っていました。いつも受け身でいやなときでも拒否できず、空気が読めず、人間関係を築くのが苦手でした。今だったら、心療内科に行けば立派な(?)病名がついたことでしょう。
そんなわたしが、10人の友達を得たということは驚きです。前にも書いたように「ろっち」に入ってから人格が形成されたように思います。

ろっちの仲間には、つらい時は「つらいんや」と言え、こんなこと言ったらばかにされるかな? という心配はしなくていいのです……。
この旅行で、何年も会わなくても、住んでいる場所が離れていても、友情は変わりないことを再確認しました。

さて、思い出は語り合いましたが、未来の夢は語りませんでした。60歳にして夢を語る? と思う人がいるかもしれません。でも、老人は夢を見ていいのです。「青年は幻を見、老人は夢を見る。(使徒2:17)」

わたしは6年前に書いた友への便りで「ファンタジー小説を書いて、それがアニメーション映画になって多くの子どもや若者たちに見てもらうこと。物語を通して、あなたの存在は高価で尊いのだということ。あなたは愛されるために生まれたということを伝えたいのです。」と夢を書きました。それはまだ実現していませんが、まだその夢を持って書き続けています。

年をとっていくばかりで、外側は衰える一方ですが、心はいつも若々しくありたいです。
「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。(Ⅱコリント4:16)」
                                  おわり


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感激旅行記(その4)

2016-12-12 12:32:56 | 日記

旅の2日目は雨が降っていましたが、高速バスで白川郷に向かいました。





合掌造りの家が立ち並んでいました。山は霧が立ち込め、幻想的でした。

「合掌造り」とは、木材を梁(はり)の上に手の平を合わせたように山形に組み合わせて建築された、勾配の急な茅葺きの屋根を特徴とする住居です。勾配が急なのは、屋根に積もった雪が自然に重力で落ちるためなのだそうです。

白川では「切妻合掌造り」といわれ、屋根の両端が本を開いて立てたように三角形になっているのが特徴です。積雪が多く雪質が重いという白川の自然条件に合った構造になっています。
また、建物は南北に面して建てられています。これは白川の風向きを考えて、風の抵抗を最小限にするとともに、屋根に当たる日照量を調節して、夏は涼しく、冬は暖かくなるように工夫されているそうです。


二階に上がって屋根裏が見学できました。屋根裏部屋が作業場になっているそうです。そこで蚕が飼われていました。

いつ、誰によって、この白川の地で合掌造りの家による集落ができたのか謎なのだそうです。
伝説によると平氏の落ち武者が白川郷に住みついたとも言われていますが、定かではありません。忍者が隠れ住んだとか、浄土真宗の信者が集まって秘境文明を作ったなどと推測されているそうです。もしかして隠れキリシタンの村だったかもしれませんね。
謎ということで、なんだかわくわくしました。

それにしても、今でも人が住み続けているとは驚きました。人が住まなくなると、家は荒れ、崩れてしまいます。昭和初期の合掌造りの家で暮らす人たちの映像を見ましたが、郵便を受け取りに行くのに3日かかり、市場に出かけるのに片道3時間もかかるので、暮らしは不便で大変だったようです。
村を出て行ってしまう人もいたそうですが、ここまで守られてきたのですね。かつてここに住んでいた人たちが、世界遺産になったと知ったら喜ぶことでしょう。家々が天を仰いで祈っているように感じました。


白川郷で食べた五平餅。美味しかったです。

さて、旅は終わりに近づいてきました。3時過ぎ、高速バスに乗って白川郷から高山駅に戻り、ビュー高山で名古屋に向かい、名古屋で解散です。
帰りは7人と2人で車両が分かれてしまいました。残りの時間、車両を行ったり来たりしながら時を惜しむようにおしゃべりしました。

                                           つづく


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感激旅行記(その3)

2016-12-07 20:35:11 | 日記
不思議なことは、学生時代の友人と久しぶりに会ったのに、昨日まで毎日会っていたかのように話せることです。いちばん長く会っていなかった人とは10数年ぶりの再会。最近会った人でも6年ぶりです。
みんな変わっていません。しゃべり方も、笑い方も、声も、性格も。みんなと会うと実家に帰ったようにほっとします。

わたしと横浜に住んでいるMOちゃん以外は関西在住なので、卒業後定期的に会っていたそうです。でも、阪神大震災のときは、3年ぐらい会わなかったと言います。家族で亡くなった方はいなかったそうですが、精神的な痛手が大きかったのでしょう。

MOちゃんは実家が神戸なので、里帰りするときに皆と会えたようですが、わたしは関東に引っ越してから36年の間に数回しか関西に行っていません。
でも、みんなが定期的に会っていてくれたおかげで、何かあるとわたしにも連絡が入りました。
そして、みんなが還暦を迎えるときは、還暦旅行をしようねと数年前から約束していました。還暦なんて、ずっと、ずっと、ずーうっと後のことだと思っていたのですが、とうとうそのときがきたのです。


みんなで温泉につかり、おいしい飛騨牛のしゃぶしゃぶなどいただきました。
みんなは元気で、食後にまたお風呂へ行くと言いました。わたしは、とてもその体力がありません。部屋で待っていようと思いました。

すると、Oちゃんが久しぶりのアルコールで気分が悪くなり、横になりたいというので、わたしが付き添うことになりました。みんなが2回目のお風呂に行っている間、わたしもOちゃんの隣でうとうとしました。なんせ朝4時半に起きていますから、眠くてたまらなかったのです。

学生時代、合宿や泊りがけで巡業したとき、いつも先に寝てしまうのがOちゃんとわたしでした。あのときとまた同じだと思うと、笑みがこぼれました。
少し寝たおかげで、夜のミーティング(?)では目が冴えました。Oちゃんも気分がよくなってミーティングに参加できました。

ミーティングは「人形劇部の思い出を語る」です。
「人形劇部の思い出を語る」わたしの書いたものを一部紹介させていただきますね。

人形劇部(ろっち)の思い出はたくさんありますが、卒業して40年経った今、わたしにとって『ろっち』はなくてはならないものだと実感しています。
短大に入学したとき、いちばん盛んな部活に入ろうと思いました。それは、引っ込み思案で人前に出ることが大嫌いだったので、自分を変えたいと思っていたからです。
いちばん盛んな部活はなんといっても、人形劇部でした。見学に行ったとき(MYちゃんと一緒に行ったような気がします)「これだ!」と思ったのです。(略)
人形劇は黒子をかぶってします。客席から動かしている人の顔は見えません。スポットライトが当たるのは自分でなく、人形だと思うとうれしかったのです。
夜遅くまで学校に残り、のこぎりでべニア板を切ったり、ガスバーナーでパイプを曲げたり、不馴れなことをするのは大変でしたが、わくわくしていました。

人形が出来上がると、オリジナル台本で練習します。人形を動かしながらセリフを言うのは意外と難しく、声が出ないことも……。しゃがんだ姿勢で歩くので足が痛くなります。
 中庭でよく「アエイウエオアオ」と言いながら中腰で歩くアヒル体操をしたものです。
今やったら「ハーヒーフーフー バタリ」でしょう。若かったねぇ。
 休みの日には人形、大道具、小道具を持って幼稚園や施設に公演に行ったり、淡路島や米子まで巡業に出かけました。「ようやったね。好評やったでー」と自画自賛。

合宿や巡業で宿泊するのも楽しみでした。ろっちの仲間と一緒に過ごしたのは、たった2年間だったのですが、濃厚でかけがえのない時間でした。
無口で、人前で声を上げて笑ったこともなかったわたしが大声で笑うようになって、S子に「グリム。いま、人格が形成されようんちゃう?」と言われました。(このことはS子は全く覚えていませんでした)

発達心理学か何かの授業で、子どもの人格の形成について習っていた時のことです。ほんまにその通りです。遅ればせながら18歳過ぎて、人格の形成がはじまったのでした。
人形劇部に入る前のわたしは、殻の中に閉じこもっていて、人前で自分を出すことができない者でしたが、ろっちの仲間と過ごすうちに、殻が少しずつ溶けていったのだと思います。

人形劇をしていて、よく覚えているのは、なぜか失敗したことです。さるかに合戦では、わたしは臼の役と柿の木を操作する役目でした。柿の木は、緑の葉だけのものが、裏でひもを引っ張るとたくさんの実をつけたものにパッと変わるというしかけがしています。
 「早く実がなれ柿の種、ならぬとハサミでちょん切るぞ」とかにの兄妹が言ったら、ひもを引っ張るだけなのですが……ひもの端についたリングが指にからまって、はずれなくなってしまいました。うたい終わったのに、実がなりません。
「お兄ちゃん、なかなか実がならないね」「そうだね。もういちどうたってみよう」
NちゃんとOちゃんのアドリブで何とかつなぎます。こちらは、からまったものがとれなくて必死です。ひもが切れてもいいと思い「えいっ」と力まかせに引っ張ると、ぱたりと木の上の部分が開いて、たくさんの柿の実が出てきました。
「ひーふーみーよー、とうとうなったね」
というセリフに込められた思いに舞台裏にいる全員がひとつ思いとなり、ほっと胸を撫でおろしたのでした。

失敗といえば、「しげるちゃんのいちにち」で、パトカーの音が出なくて、Oちゃんがひっくり返って腹を押さえながら「ピーポーピーポー」と言ってくれましたね。(略)

卒業公演では、ムーミンのエンディングの曲が流れなかったことが残念でならなかったです。でも、今から思うと、失敗したからこそ思い出として、それも極上の思い出として残っているのです。

卒業公演では司会進行役をS子とふたりでやらせてもらいました。わたしは、ヒデキの歌をうたう音痴なおばあさん役でした。かつらはつけていましたが、黒子をつけずに舞台に出たのです。
ろっちの仲間のおかげで、わたしにとって黒子はもう必要なくなっていたのでした。
                         

S子とHちゃんの思い出も聞きました。
気づいたことは、同じ経験をしても、人によって記憶にしっかり刻みつけられているところと、ぽっかり穴の開いたように忘れているところが違うということです。

S子にBGMを苦労して一緒に選んだねと言われましたが、わたしの記憶には全く残っていません。でも、電車乗り越し事件と、Tちゃん置き去り事件は、全員が覚えていました。
今回も同じような失敗をしないよう、電車ではみんなが降りる駅に気をつけ、ときどき人数点検もしていたことがおもしろかったです。

今回の旅行では、2人参加できませんでした。ひとりは病気治療のため、ひとりは忙しくてです。楽しんでいる旅の間も、参加できなかったNちゃんとK子のことを想っていました。

H子が気をきかせて絵葉書を買ってきました。切手も用意してくれていたのでハガキにみんなでサインして旅行中に2人に便りを出しました。
Nちゃん、K子、次は一緒に行こうね。



夜1時半ごろまで話し込んでいたのに、朝早く起きて朝市へいきました。

                     つづく

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感激旅行記(その2)

2016-12-05 21:02:55 | その他

名古屋からワイドビューひだに乗りかえます。名古屋で神戸からの4人と、姫路からの3人と合流することになっていたのですが……ハプニングが起こりました。

神戸からの4人とは出会えました。ところが姫路からの3人がいません。

「新幹線乗り間違えた」と姫路組からメールがあったと聞いて驚きました。
一台早い新幹線に乗ってしまったそうです。早い新幹線に乗ったのに、遅れて着くらしいです。3人もいるのにどうして間違えたのでしょう。

でも、「3人だから大丈夫やね」と笑いました。

わたしたちには昔からハプニングがつきものでした。
学生時代、東加古川の幼稚園に招かれて人形を持って11人で電車に乗り込みました。
電車の中で話に夢中になっているうちに、ふと気づくと加古川駅でした。ひとつ乗り越してしまったのです。あわてて加古川で降り、上り電車が来るまでの間真っ青になっていました。幼稚園ではわたしたちが現れないので、駅でずっと待っていてくださったようです。15分遅れぐらいで到着して、迷惑をかけてしまいました。

また、別の日、公演が終わったとき駅まで車で送ってもらったのですが、メンバーのひとりがトイレに入っていたのに気づかず、おいてきぼりにしてしまいました。途中で気がついて、戻ってもらったのです。

その後は、かならず人数点検をするようになりました。携帯電話のないころのことです。
皆、そのことを思い出していました。
とにかく、高山で無事合流できました。荷物を預けてから高山の町を歩きました。



可愛いサンタクロースが迎えてくれました。


町屋格子のお店が連なっていました。お団子とソフトクリームを食べながら歩きました。





鍛冶橋に手長足長の像がありました。足長像と手長像は夫婦だそうです。(足長が夫、手長が妻)


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                              つづく

感激旅行記(その1)

2016-12-01 16:16:46 | 日記
学生時代の友人11人で旅行することが決まったのは2か月前でした。11人のうち2人は都合が悪くて参加できなくなってしまいましたが、9人で高山(岐阜県)に行ってきました。

友人たちは、神戸の保育科の短大で同じ人形劇部(ろっち)のメンバーでした。手作りの棒人形を持って、保育園、幼稚園や施設などへ出向いて演じてきました。巡業の旅といって、淡路島や米子までも行きました。

苦楽を共にしたメンバーは、特別の結びつきがあります。卒業して40年たった今もお互いに連絡を取り合っています。

ただ、わたしともうひとりは関東、ほかのメンバーは皆関西に住んでいるので、全員で集まるということはめったにありませんでした。(関西組では年に2回ぐらいはずっと集まっていたそうです)

卒業してすぐ京都に旅行に行き、子育てがひと段落するころ(15年後くらい?)に六甲アイランドでお泊り会をしました。今回はそれ以来の旅行で、旅行のほかにも2~3回は、わたしが関西に行った時に会いましたが、10年、20年ぶりの友人もいました。

でも、会わないでいた月日の長さを感じないほど、学生時代のままの気持ちでおしゃべりしました。

名古屋で待ち合わせをしたので、東京発7時台の新幹線に乗るために、わたしは4時半に起きました。以前の旅行のとき、新大阪で皆と待ち合わせをしたとき、常磐線が遅れて、新幹線に乗り遅れてしまったことがありました。それで、30分前に着くように早めに家を出ました。

ちゃんと時間通り新幹線に乗れるかが最大の心配です。
もうひとりの関東の友は新横浜から乗ってくることになっています。友人は遅れずにやってくるでしょうか。

新横浜に着いたとき、友人が現れました。この友人ともずっと会っていなくて15年ぶりぐらいですが、すぐにわかりました。
まずはほっと一息です。いいお天気で富士山がきれいに見えました。

                               つづく



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