生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

こんなはずじゃなかった

2014-05-29 16:02:39 | 教会
昨日は水曜礼拝でした。
出エジプト記を学んでいますが、聞いたことをそのまま書くと原稿用紙20枚分ぐらいの長さですので、その中で特に心に残ったことだけを書くことにします。

モーセのミデヤンでの40年を歌ったもののようだとして、「生きる」の歌詞が紹介されました。

          生きる

「こんなはずじゃなかった」と思うときは生きるのがつらい
花を咲かそうと焦ってみても つぼみのひとつも開きはしない
生きる喜びも悲しみも すべてのことは神様から
無意味な時などひとつもなく 無駄な人生はどこにもない

「これでよい」と思えるとき 生きる喜びがあふれてくる
固く閉ざされた土の下にも 気づかないうちに根が伸びてる
生きる喜びも悲しみも すべてのことは神様から
無意味な時などひとつもなく 無駄な人生はどこにもない


この「生きる」という歌は、めぐみ教会オリジナルソングで牧師夫人のM・H先生が作詞作曲されたものです。土浦めぐみ教会のHPから曲が聴けますので、ここをクリックしてください。


人生の中でこんなはずじゃなかったと思うことが起こりますね。
「子育てに振り回されて自分の時間がなくて、やりたいこともできない時期が続き、ようやく子どもが大きくなって、自分の時間が持てたと思った矢先に……」「会社のために身を粉にして働き、やっと退職してこれからゆっくり好きなことをしようと思った矢先に……」
事故にあったり、癌になったり、予想もしない出来事に見舞われると、精神的に病んでしまうことが多いそうです。
精神科医の柏木哲夫先生はそれを「矢先(やさき)症候群」と名付けています。

イスラエル人でありながらエジプトの王子として育てられたモーセは、正義感からイスラエル人を虐待していたエジプト人を殺してしまいました。
そのことでエジプト人社会からもイスラエル人の社会からも拒絶されて、仕方なしにミデヤンの地に逃げて行きました。そこで40年も羊飼いとして過ごしました。
最初は、「生きる」の歌詞のように「こんなはずじゃなかった」と思ったことでしょう。

「こんなはずじゃない」という人生を歩んでいるというのは、「自分の人生」をまだ肯定できていない、また自分の現在の姿を受け入れられない状態のことです。
それに対して「これでいいんだ」という人生は、今の自分に対する恵みを十分に感謝できている状態のことです。
と牧師先生が言われました。

モーセはミデヤンの地で暮らす間に「こんなはずじゃなかった」から「これでいい」と思える人生に変えられたのです。
ミデヤンの地で40年過ごしたころ、モーセは不思議な現象を見ました。柴が燃えているのに燃え尽きないのです。その現象はほかの羊飼いたちも見ていたはずですが、見に行くために山に登ったのはモーセだけでした。

「なぜ柴が燃えていかないのか、あちらへ行ってこの大いなる光景を見ることにしよう。(出エジプト記3:3)」と聖書に書かれています。
モーセは、不思議な現象として見たのではなく「大いなる光景」として見たことから神との出会いにつながったのです。

神との出会いは「不思議さ」に鍵があるのではなく、人が不思議な現象の中に「大いなる光景」を見いだせるとき、神との出会いの糸口が生まれるのです。


「こんなはずじゃない」と思っているうちは、神様と出会う可能性があっても、気づかずに過ごし、機会を失ってしまうような気がします。
どうしてもこうありたいという願いを強く持っていて、それが叶えられないかもしれないと思ったとき、「こんなはずじゃない」と怒りに似た感情を抱いてしまいます。そういうときは、見るべきものが見えていません。何かに囚われていて心に余裕がなく、神と出会うチャンスがきているのに失ってしまうのです。

でも、「これでよい」と思えたときは、心に余裕がもてます。自分ばかり見つめるのでなく、周りを見る余裕ができるのです。そんなとき、大いなる光景を見出し、神との出会いの経験をすることができるのだなあと思いました。




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新しい力

2014-05-27 12:41:25 | 日本クリスチャン・ペンクラブ
この前の日曜日に息子一家が来ました。
ヒックンだけ土曜日から来て泊まりました。

土曜日、わたしはクリスチャン・ペンクラブの例会でお茶の水へ行っていたので、ヒックンは半日おじいちゃんとふたりで過ごしました。イオンに連れて行ってもらい、お昼を食べ、クレーンゲームをやって筆箱が取れたと大喜びしていました。

翌日は、生後2か月になるナルクンがきました。連休に会ったばかりですが、ひとまわり大きくなったように感じました。顔つきもしっかりして、呼びかけに反応するようになっていました。機嫌のいい時は声を出します。

夜、ヒックンが87歳のひいおばあちゃんに電話しました。おばあちゃんにナルクンの声を聞かせたいと言って、受話器をナルクンの口元に持って行くのですが、タイミングよく声が出ません。

「ナルクンの声を聞かせるのは、もう少し大きくなってからね」とわたしが言うと、ヒックンは「おばあちゃん。ぼくが代わりにナルクンの声出すね」

と言って、「アー、アー。アウー、アウ」とナルクンのまねをしました。
みんな大笑いです。

おばあちゃんは、ナルクンの声を聞かせようとしたヒックンのやさしさに感動して「元気が出たわ」と言いました。そのことをヒックンに伝えると、「おばあちゃん、元気がなかったの?」と心配そうにしていました。
人の心を思いやる子どもに育っていることを感謝しました。
ヒックンは「ああ、楽しかった。また来るからね」と言って帰って行きました。

帰った後はどっと疲れが出ます。疲れるということで、クリスチャン・ペンクラブで聞いた話しを思い出しました。一部紹介させていただきますね。

聖書には次のように書かれています。

「あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。 疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。(イザヤ40:28-31)」

年をとると「疲れた」というのが口癖になります。疲れを知らなかった若いころが懐かしく思えます。
でも、聖書には「若者も疲れる」と書かれています。それは、神からの慰めです。
「主を待ち望む者は新しく力を得……」
と書かれていますが、主を待ち望む者とはイエス様によって、新しく造られた者、すなわちクリスチャンをさします。

わたしたちは年をとって死ぬことが決まっています。裁きを受けることも決まっています。イエス・キリストにある者は、キリストの十字架と復活によって新しく力を与えられ、永遠のいのちを与えられると約束されています。その神の約束は、わたしたちの問題とは関係がありません。

『神の約束が先行している』と聞いて嬉しくなりました。
クリスチャンは、死に向かって歩いているけれど、復活の力に預かっているのです。
神様は「鷲のように翼をかって上る」ことができるほど、新しい力で生かしてくださるのです。




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何のために生きているのか

2014-05-23 16:28:41 | 聖書から
昨日は我が家での家庭集会でした。先生と6名の方が来てくださいました。

「人生を導く五つの目的」(リック・ウォレン著 パーパス・ドリブン・ジャパン)の3日目を学びました。

この本は何度も読んでいたのに、久しぶりに読むと、すっかり忘れていて新鮮に感じました。

あなたの人生を動かしているものは何か?と問われました。

『多くの人は、罪責感に駆り立てられたり、怒りと憤りに駆り立てられたり、恐れに駆り立てられたり、受け入れられたいと言う必要に駆り立てられて生きている。』と書かれています。

確かにそうですね。
わたしは罪責感や恐れに駆り立てられて生きていました。恐れは振り払っても、振り払っても追いかけてきます。

『恐れとは、神が意図しておられる者となることを妨げる、自分で作り出した牢獄のようなものです』

冷静に考えれば恐れる必要はなく、恐れたからといって何のメリットもないことがわかっていても、自分の力では恐れを振り払うことができません。
わたしは、恐ろしくなったとき、いつも思い出す聖書の言葉があります。

「神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。(Ⅱテモテ1:7)」

このみ言葉は「その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた」(創世記2:7)とリンクしていると教えていただきました。

神様は人を造られたとき、いのちの息を吹き込まれました。いのちの息とは霊のことです。神様から霊を吹き込まれたのに、人は罪を犯して神から背を向けてしまったため、臆病の霊を持つようになりました。でも、神との関係が回復して臆病の霊が取り除かれ、力と愛と慎みの霊が宿ったのです。

『最大の悲劇は死ぬことではありません。何のために生きているのかわからない人生ほど辛いものはないのです』

と書かれています。

生きる目的を持たないと、何のために生きているのかわからなくなります。
『目的を知ることによって、人生の焦点が定まる』のです。

わたしは、洗礼を受けた後、誤解していたことがあって、教会を離れてしまいました。その後結婚して子どもが与えられましたが、空しさを感じていました。
幼子を抱いて、この子が大きくなったとき、わたしの生き方を知ったらどう思うだろうと不安になりました。クリスチャンなのに教会へも行っていない自分。神さまの存在を信じているのかどうかもわからない状態で、何かあると柳の木の枝のように心が揺れていました。これではいけないという思いが募ってふたたび教会へ通うようになったのでした。

教会の婦人会の学びで「あなたの人生の目的は何ですか」という質問をされ、答えられませんでした。目的がわからないので空しかったのです。
「人生を導く五つの目的」には『人生の目的は永遠への準備をするため』と書かれていました。

また、神様の御前に立たされたときされる二つの質問が書かれていました。
ひとつは、『イエス・キリストに対してあなたはどのような態度をとりましたか。』です。
信じる前はイエス・キリストに背を向けていました。信じて間もないころも顔をそむけていました。でも、今はイエス様なしでは生きられません。

もうひとつの質問は、『わたしがあなたに与えたものを、あなたはどう活用しましたか』です。

これは答えに窮します。賜物を生かしきれているかどうかわからないからです。しばらくは賜物が何かわかりませんでした。書いて伝えることだとわかっても、十分活用しているか問われると自信がなくなります。

でも、与えられている肉体のいのちには限りがあるのですから、できるだけのことをしたいと思いました。永遠への準備という目的を持って。

「神は人の心に永遠を与えられた。(伝道者の書9:11)」


写真は家庭集会のメンバーのひとりが丹精込めて作られた薔薇


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偶然ではなく

2014-05-20 16:48:58 | 日本クリスチャン・ペンクラブ
わたしが所属している日本クリスチャン・ペンクラブでは年に数回ニュースレターを発行しています。
ペンクラブ会員、クリスチャン用に出しているというより、外へ向かって発信しています。

今回は「救いの証」特集です。どのようにしてキリストを信じるようになったかを10数名が書いています。

人それぞれ違った道をたどってキリストに導かれました。信じるに至ったいきさつは、まわりの人も本人も予想できなかったことではないでしょうか。偶然のように導かれていくのですが、それは偶然ではなく神様があらかじめ計画されていたことだったと後で気づくのです。神様の必然といえるでしょう。

わたしの文章も掲載されています。わたしは誰かに誘われたのでも、誰かに伝えられたのでもなく、三浦綾子の本を読んで教会へ導かれました。

でも、本を読んだだけで教会へ行けたのは、その前に伏線が敷かれてあったからです。そして、おそらくミッションスクールの先生もわたしの救いのために祈っていてくださったことでしょう。

クリスチャン・ペンクラブは今年で62年目に入りました。初代会長が「花子とアン」の村岡花子だということに喜びを感じます。
そのことについても詳しく書かれていますので、ぜひペンクラブHPを開いてニュースレターをお読みください。


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「助けて!」と叫ぶだけで

2014-05-16 16:50:29 | 教会
水曜礼拝で出エジプト記を学びはじめました。

出エジプト記のテーマは「神による救い」です。
「救いとは何か」について教えていただきました。

イスラエルの民はエジプトで奴隷として苦しい生活をしていました。奴隷生活からの解放が救いなのですが、エジプトを出るということは、荒野を旅すること、先住民のいる土地にのぼっていくことでした。救いには苦労があるということを示しています。

救いとは、『悩まなくてよくなる』、『心配事がなくなる』、『病が治る』ことを約束しているわけではないのです。
苦労はあるけれど、その中で神と共に歩むことを救いというのだそうです。

「信仰を持つということは、神と共に生きる中で神に叫ぶ(祈る)ことのできる人生です。本当の不幸は、神と共にいる実感がないことです。」
と聞いて、その通りだと思いました。

わたしは乳がんになって、もうすぐ死んでしまうかもしれないと思ったとき、不安に押しつぶされそうになりました。でも、神様が共にいてくださるという実感があったので、ぎりぎりのところで支えられ、暗闇の穴から引き揚げられました。
人一倍心配性で、マイナス思考で、悪い方悪い方へと考えてしまうわたしです。もし、信仰をもっていなければ、暗闇をさまよい続けていたでしょう。

祈れないときは神様に向かってわめいたらいいのです。「助けて!」とひとこと叫ぶだけでいいのです。
叫ばなくても神様はすべてご存じで救いを備えてくださっているのですが、叫び声を聞いてくださる神様がおられることを心から嬉しいと思います。

エジプトで苦しんでいたイスラエルの民の叫びを神様は聞いてくださいました。

「イスラエル人は労役にうめき、わめいた。彼らの労役の叫びは神に届いた(出エジプト記2:23)」
このようにわたしたちの叫びも神様に届いています。


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大いなるしかし

2014-05-12 20:06:26 | 教会
昨日は洗礼礼拝でした。3人の方が洗礼を受けました。
メッセージはイエス様が十字架につけられ、息を引きとられる前に言われた言葉の意味について語られました。

イエス様は「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。の意)(マタイ27:46)」と叫ばれました。

この言葉は難題聖書箇所と言われているところで、色々な解釈がなされています。

「イエス様が何のために世に来てくださったかを考えると、本当の意味がわかってきます。」と牧師先生が言われました。

イエス様は罪人であるわたしたちのために身代わりとなって罰を受けるために来てくださいました。
わたしたち人間は、良いことをしたくてもできず、悪いことをすると隠します。生まれながらの罪人です。

この罪によって、神様から永遠の刑罰を受けることになっていました。
へブル9:27には「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように」と書かれています。

人は皆、神の裁きの座に立たされます。そして、すべての人が有罪になります。
有罪判決を受けたら「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ぶしかなくなります。

ところが、イエス様はわたしたちが受ける裁きをわたしたちに代わって受けてくださいました。「わが神……」と叫ばなくてはならないほどの苦しみを味わってくださいました。
おかげで私たちは、「わが神……」と絶叫する必要がないのです。

「私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって(略)生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かしーーあなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。ーー(エペソ2:3-5)」

このしかし大いなるしかしというのだそうです。

「信じた私たちは安息にはいるのです。(へブル4:3)」これを救いといいます。

イエス様のしてくださったことを信じるだけで救われます。

ただ恵みにより救いにあずかったのですから感謝ですね。
イエス様のしてくださったことの大きさを改めて知らされて心があつくなりました。

写真はヒックン&ナルクンママから母の日のプレゼントです。



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そのままでいい

2014-05-10 16:49:55 | 日記
昨日は児童文学者協会茨城支部の例会でした。

これまで生涯学習センターの講座室を借りて例会を開いていましたが、同じビルに市役所が入るので、改築のため講座室が一年間使用できなくなってしまいました。

神立に住むメンバーのひとりが家に招いて下さり、そこで例会を開くことができました。
午前中は報告と課題本の合評。午後からは作品の合評です。お昼は掘りたての筍で作ってくださった筍ごはんや山菜の天ぷらをいただいて、おしゃべりに花が咲きました。

児童文学の仲間ではクリスチャンはわたしひとりですが、『そこにいるだけでいいと言ってもらいたい。そのままで愛される者になりたい』というテーマの詩を書いた方がいて、心打たれました。

わたしは、「子どもたちに伝えたいと思っているテーマがこれなんです」と言うと、「子どもだけでなく、誰でもそう思っているよ。特に高齢者の方はね。」と聞いてその通りだなあと思いました。

午後になって急に雲行きが怪しくなってきました。竜巻注意報の放送が流れ、どきっとしました。2年前につくばを襲った竜巻の被害が思い出されます。スマホで雨雲の動きをリアルタイムでみながら、竜巻が発生したら、この辺が通り道になるかも……。そうしたらみんなで(オズの魔法使いの)ドロシーのように旅をしましょうと冗談を言っていました。

合評を始めると、竜巻の恐れは消え、雷鳴や稲光、強風、雨音も気にならなくなり、作品からちょっとそれたおもしろい話にお腹を抱えて皆で笑いあいました。

いつの間にか雨が上がっていたので、その間に車に乗せてもらって帰りました。土浦駅で雨に降られましたが、買い物しているうちに雨が上がり、風もおさまっていました。


日本クリスチャン・ペンクラブのHP更新しました。


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宇宙の意志

2014-05-08 17:13:01 | 読書
連休に息子一家が来ました。ヒックンの弟、ナルクンは生後一か月になり、我が家を初めて訪れました。一か月で1キロ近く体重が増え、目で動く物を追うようになっていました。ヒックンは、ナルクンにほっぺをすりよせてかわいがっています。
「早く遊べるようになればいいな」と言っていますが……。

友人に勧められて「生命の暗号」村上和雄著 サンマーク出版を読みました。
興味深く読ませていただきました。筆者の村上先生は遺伝子工学の世界的権威者です。
人間は約60兆という数の細胞から成り立っていて、その細胞のひとつひとつに約30億の遺伝情報がしまいこまれているそうです。

遺伝子にはオン、オフの作用があって、よい遺伝子をオンにし、悪い遺伝子をオフにすれば、人は変われるのだそうです。確かに潜在能力というものがあって、自分では気づかない能力を発揮させることは可能だと思います。

「今、人類はその全知能をかけて遺伝子を読み取ろうとしている。私は、遺伝子の暗号を読んでいて、その精緻な働きに驚嘆した。しかし、もっとすごいことに気がついた。それは暗号を書いたものが存在するということだ!」著者はその存在をサムシング・グレートと呼んでいます。

科学を極めようとすると、必ず理論的に解明できない部分が出てくるといわれています。
世界の始まりはビッグバンといわれていますが、ビッグバンの最初の3分間がわからないと宇宙物理学者の先生がおっしゃっているそうです。
ビッグバンの最初の一瞬に何が起こったのかわからないというのです。爆発のタイミングがほんのわずかでも狂っていれば、いまの宇宙、地球、生命はあり得ないというのです。
「偶然ではなく宇宙の意志を感じる」と言われたそうです。

「宇宙と遺伝子は意味ある相似形を描いている。体外宇宙と体内宇宙は呼応しながらつながっており、その起源も同じ。ある同一の意思から発せられたのではないか。その意志を発した主体こそが宇宙の生命のみなもとであるサムシング・グレートである。」と書かれています。

わたしは、そのことに驚きません。なぜなら、この世界を造ったお方は創造主なる神で、そのお方はわたしたち人間を造ってくださったお方なのですから、当たり前のことです。

世界の始まりに爆発が起きたかどうかわかりませんが、3分間の謎は、聖書の創世記の記事によって解き明かされる時がくると思います。
聖書には神は6日かけて天地を造られたと書いていますが、この1日は24時間という意味ではありません。3分という時間も比喩的な意味であらわしていることは明らかです。

わたしが驚いたのは、遺伝子工学の先生や宇宙物理学者がサムシング・グレートの存在を認めていることです。それが聖書に書かれている神なのだと気づいてほしいです。

そういえば、ダーウィンやパスカルもクリスチャンでした。キリスト教信仰は科学と矛盾しないのです。


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もう時間がない

2014-05-03 20:47:20 | 読書
「トムは真夜中の庭で」フィリパ・ピアス作 高杉一郎訳 (岩波書店)を読みました。
イギリスのファンタジーの古典といわれる作品です。小学生のころ読んだ記憶があります。

児童文学者協会茨城支部の課題本になったので図書館で借りてきて読みました。岩波少年文庫で出ていますが、図書館には「世界児童文学集」のケース入りのものしかありませんでした。

時計が13回鳴ったとき、不思議な庭園に導かれるという設定。時計と庭園、ハティと同じスケート靴をはいてスケートをする場面は覚えていましたが、そのほかのことは覚えていませんでした。

作者のフィリパ・ピアスは、以前このブログでとりあげた「まぼろしの白い犬」の作者でもあります。「まぼろしの……」はファンタジーではありません。
トムを読んでいたら、わくわくして夢中になってしまいました。最後の場面では涙が出ました。

以前読んだときは気づかなかったのですが、聖書のカインとアベルの話や黙示録に書かれている言葉が出てきたので嬉しくなりました。
黙示録10:6の「もう時間がない」がキーワードになっています。

新改訳聖書では「もはや時が延ばされることはない」と書かれ、共同訳では、「もはや時がない」となっています。

このはギリシャ語でクロノス、経過する時間としての時をあらわします。もはやこれ以上、時間、クロノスは存在しない、つまり終わりが来たということです。

それではいったい何の終わりなのでしょう。
世の終わりのときです。またそれは、あらゆる民族がキリストにあってひとつにされる時です。つまり教会の完成、天にある祝福の時がもはや延ばされることはないというのですから、大いなる慰めと喜びの知らせです。

「トムは真夜中の庭で」の中での「もう時間がない」は、ハティと過ごす時間が少なくなっているという意味だと思いますが、作者は作品を通して聖書の真理を伝えたかったのかもしれません。

わたしはずっと以前からファンタジーの長編を書きたいと思っていました。実際何作か書きました。でも、読者に伝わらないのでした。想像力、表現力の乏しさに限界を感じ、しばらくの間ファンタジーを書くのをやめていました。

ファンタジーは歴史小説のように膨大な資料を調べたりする必要がないので簡単なように思えますが、頭の中で描いた世界を文字を使って読者に同じような情景を思い浮かべてもらうためには、リアリズムの作品より技術が必要なのです。その技術が不足しているため、ひとりよがりの作品になっていました。

わたしは頭の中で映像でファンタジーの世界を見ているのですが、それをどのようにして書き表わしたらよいかわからないのです。
でも、祈りながら書き続け、神さまが力を与えてくだされば、いつかは書けるかもしれないと希望を持っています。



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