生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

受難週に向かって(その6)

2007-03-29 07:53:41 | 聖書から
今日はこれから東京三鷹の実家に行きます。土曜日に帰ってくる予定です。


昨日に引き続きミッシェル・クオストの「神に聴くすべを知っているなら」をもとに藤川長喜神父の書かれれた「十字架の道行き」の祈りで特に心打たれたものを紹介します。


弟十一留 十字架に釘付けられる


主よ あなたは 十字架いっぱいに手足をひきのばされました
きっちりと 十字架いっぱいに

主よ わたしも
十字架いっぱいに わたしの手足をのばさなければなりません
それに わたしがその上で苦しむ材木を
自分で選ぶことはできません
わたしの十字架は わたしにあわせて もうできているのです

弟十二留 十字架の上に息絶えられる


あと数時間 あと数分間 あと数秒間
生まれて このかた 三十三年
主よ あなたは一分のむだもなく生きてこられたのです
今や あなたの人生のおわり あなたの道の終点を
もはや さけることが できなくなりました

主よ あと一息です
人々は わけもわからず その救い主の叫びを待っています
父なる神は すでに そのみ手を のべて
あなたを むかえようとしておられます
主よ わたしたちを このわたしたちを救って下さい


聖書の言葉
私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。(Ⅱテモテ4:7-8)


受難週に向かって(その5)

2007-03-28 17:44:24 | 聖書から

今日は祈祷会に行ってきました。祈祷会では
「十字架の道行き」
を教えていただきました。

「十字架の道行き」
とはカトリック教会で行われる儀式で、キリストの受難と復活までの15場面を個々の場所や出来事に心を留めて祈りを捧げます。カトリック教会の聖堂では、壁にキリストの捕縛から埋葬まで14の場面の聖画像が掲げてあるそうです。
聖地巡礼で祈祷しているのをテレビで見たことはありましたが、詳しくは知りませんでした。

ミッシェル・クオストの「神に聴くすべを知っているなら」をもとに藤川長喜神父の書かれた弟一留から弟十四留までの祈りが朗読されました。(また、涙、涙……)その中で特に心打たれた祈りと聖書の言葉を紹介します。


弟二留 十字架をになわれる



主よ ほら あなたの十字架です
あなたには 十字架なんか いらないのに
あなたは わたしたちの十字架を になうために
この世の罪の重荷を一つ一つご自分の上につみあげられました

主よ あなたは だまって歩かれました
語るに時あり 黙するに時ありとは このことですか
戦うに時あり 黙して 人の罪を になうに時ありとは
主よ このことですか


聖書の言葉
彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが口を開かない。ほふり場に引かれていく小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。(イザヤ53:7)



弟三留 ひとたびころばれる


イエズスは おころびになった
一瞬よたよたして ばたりと倒れられた
神の子が ほこりを かぶられた

主よ わたしも このとおり 自信にみちて でてきたものの
今まで 何回も ころびました
わたし自身 徹底的に あなたに捧げたつもりでいましたのに
道ばたの 草花に目をうばわれてしまいました


聖書の言葉
信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。(ヘブル12:2)


A先生も「ライフライン」を見て下さった!

2007-03-27 13:33:13 | 日記
桜川の土手の桜が咲き始めました。

放送から一週間が過ぎて、続々と嬉しい便りが届いています。メールやコメントは放送当日と翌日に集中しましたが、手紙や葉書は先週末から届きはじめました。メールも嬉しいのですが、ポストから手紙を受け取ることのワクワクした気持ちはたまりませんね。

わたしは13歳から24歳まで兵庫県神戸市に住んでいました。父の転勤で24歳で東京にもどりましたが、間もなく結婚し、埼玉県久喜市に9年間住んでいました。
学生時代の友人はほとんどが関西在住なので、放送前にテレビに出ることをお知らせする葉書を送っていました。短大のときの先生にも、母教会の牧師先生にも、学生の時文通して下さったA先生(テレビの再現ドラマでやっていた先生です)にも送り、久喜の友人や、茨城県内にいてもしばらく会っていない友人にもお知らせしました。


中でも、A先生にいちばん見てもらいと思っていました。年賀状だけのやりとりですが、36年も続いています。今年はこちらから喪中の葉書を送ったので、年賀状はいただけませんでした。去年の年賀状にお体の具合が良くないということが書かれていたので、心配し、お祈りしていました。放送の後、『A先生は見て下さったかなあ?』と気にかかっていました。


そうしたら、昨日「拝視聴しました」とお便りを戴きました。感激です!!一部を紹介させていただきます。

先日はサンテレビで「ライフライン」拝視聴、ありがとうございました。貴女の女流作家女史の風格、感服いたしました。病苦の心情、老生(七十三歳)にも体験がありまして「生かされていること」、共感をおぼえました。

と書かれていました。A先生はクリスチャンではありません。


先生、わたしは女流作家といわれるような者ではありませんよ。共感してくださって嬉しいです。もしかしてあのとき、先生が手紙のお返事を下さらなければ、わたしは自殺していたかもしれないのです。先生は命の恩人です。
先生は、公立の中学教師で忙しい働きをされていたとき届いた一通の手紙を大事に扱って下さいました。担任の生徒でもなく、同じ学校でもない見知らぬ中学生のために貴重な時間をさいて下さったのです。
自分の時間を与えるということは、犠牲を払うことに他なりません。そして、犠牲を払うことこそ愛の神髄なのです「人生を導く5つの目的」(リック・ウォレン著)に書かれています。
先生が愛の実践をしてくださったおかげで、いまのわたしがあります。本当に、本当に有り難うございました。


テレビ放送をごらんになっていない方は、わたしのHP(ブックマークにあります)のエッセイの部屋「書くこととわたし」をご覧下さい。A先生との文通のことを詳しく書いています。


それから、母教会の日本キリスト住吉教会の方から、とても素敵な天使の絵が描かれた絵葉書を戴き大変嬉しく思いました。お名前がなく、教会学校教師と書かれているだけですのでお返事は出しませんが、もしこのブログを読んでおられましたらこの場を借りて御礼申し上げます。感謝!!


昨日の礼拝で

2007-03-26 13:18:04 | 教会

昨日は教会学校教師任命式でした。
任命式は毎年春に礼拝の中で行われます。わたしは13回目になりました。
去年の任命式の時、ブログに次のように書いていました。


牧師先生から祈っていただいている間、足が震えていました。子供に教えるのにふさわしい者なのだろうか?と考えると、とてもそのような者でないことに気づきます。
また、この1年間健康でいられるのかと心配になります。具合が悪くなって教会学校の奉仕ができなくなるのではないかとおそれます。
そのとき、礼拝堂にいる人がみんな心を合わせて教師達のために祈って下さっていることを感じ、胸が熱くなりました。弱い者であるからこそ祈っていただく必要があるのです。
私自身も祈っているうちに、神さまはふさわしくない者をふさわしくして下さる。必要な体力を与えて下さるのだという確信が持てるようになりました。


今年も同じ気持ちです。去年と違うことは1年間健康が守られたのだという感謝の気持ちが沸き上がったことです。この1年は、1度も体調を崩して欠席することがなかったのです。やむおえない用事で休んだのも2回だけです。これからの1年もお守り下さい。今年は夏期学校にも行かせて下さいと祈りました。


昨日のメッセージは慰めに満ちたものでした。聖書に不信者とつり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません(Ⅱコリント6:14)と書かれていますが、それは、クリスチャンがクリスチャンでない人と結婚することを禁じているという意味に受け止めていました。わたしは長い間うしろめたいという思いをひきずっていました。


しかし、そこには未信者ではなく、不信者と書かれています。未信者と不信者は違うのだと教えていただきました。

「クリスチャンでない人との結婚は罪ではない。神のご計画の中で未信者の配偶者は聖別されている」
というメッセージを嬉しく聞きました。
聖書の別の箇所には次のように書かれています。
信者でない夫は妻によってきよめられており、また、信者でない妻も信者の夫のよってきよめられているからです。(Ⅰコリント7:14)



受難週に向かって(その4)

2007-03-24 15:44:05 | 聖書から

キリストの十字架の意味をどれだけ説明しても、すべての人に理解してもらうことはできません。
理論的に説明のできることではないからです。理屈ではないのです。
大人より子供の方がしっかり理解しているのかもしれません。
シンガポールに住む6歳の男の子S君のお母さんのmixi日記を読んで感動しましたので、了承を得て紹介させていただきます。


S君が友だちから意地悪な言葉を言われ続け、しょんぼりして家に帰ってきたときのお母さんとS君の会話です。

母  「それで、S君はその子に何て言い返したの?」
S君 「悲しいから悲しい顔になっちゃったけど、何にもいわないで我慢した」
母  「よく我慢したね。偉いねS君は」
S君 「だってイエスさまも我慢してくれたから」
母 「…………」


息子さんを励ますつもりが逆に励まされたとS君のお母さんは書いておられます。


S君の心に、わたしたちの罪を赦すために十字架でじっと痛みをこらえ血を流して死んで下さったイエスさまのことがしっかりと刻まれているのです。S君は、イエスさまの十字架の愛を知って、それを実践しているのです。
わたしは、愛の実践ができているのだろうか?と考えてしまいました。S君を見習いたいです。


しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。(イザヤ書53:5)

受難週に向かって(その3)

2007-03-23 13:02:11 | 聖書から

『なぜ2千年も前にイエスが十字架につけられたことが、自分とかかわりがあるの?』と思っておられる人は多いでしょう。わたしも以前はそう思っていました。
「あなたの罪のためにイエス・キリストが十字架にかかってくださったのですよ」といわれても、『自分はそんな悪いことしたかなあ? それに十字架は2千年前の出来事。そのとき自分は生まれていなかったのに、なぜ?』と疑問を抱きました。


「罪人、罪人」というからキリスト教は嫌いだと言う人もいます。罪とは何なのでしょう?
法に触れるような犯罪をしなければ、罪がないといえるのでしょうか?


教会学校では子どもたちに「罪というのは、神さまに喜ばれないことをしたり、言ったりすることです」と教えます。そして具体的に「罪とは、嘘をついたり、意地悪をしたり、悪口を言ったり、あの人なんかいない方がいいと思ったりすること」と説明します。子どもたちはそれを聞いただけで、自分には罪があると自覚して、悲しい顔つきになります。


でも、罪の話しをはじめて聞いた当時19歳のわたしは、
『えーっ、心の中で思っただけで罪になるの? 嘘なんか誰でもついているし、悪口だってみんな言っているのに』と思いました。
みんなが言っているから罪にならないということはありません。聖書には、すべての人が罪を犯したのでと書かれています。
「人間みな罪人だっていうなら、どうしたらいいのさ」
と開き直って、それでも解決を求めておられる方、最後まで読んで下さい。


神さまは人間の罪を「まあ、いいから」とあいまいにされるかたではありません。罪の報酬は死であると書かれているように魂の死という罰が与えられます。すべての人が罪人であるなら、人間の魂がみんな滅びてしまうことになります。人間を造った神さまは、人間ひとりひとりをとても大切に思い、愛してくださっています。だから滅びなくてすむ方法を用意して下さいました。(最初の人アダムが罪を犯したとき用意されていたのです)



神さまはご自分のひとり子イエス・キリストに罰を与えました。イエスさまは、神の子ですから罪がありません。すべての人の罪の赦しのために身代わりとなって十字架上で罰を受けて下さったのです。それは、罪のない者でしかできないことでした。神さまはご自分の愛する子が苦しむのをどんな気持ちでごらんになったでしょうか。イエスさまの十字架は、イエス以前に生まれた人、その後に生まれた人、すべての人のためだったのです。


神は実にそのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子(みこ)を信じる者がひとりとして滅びることなく永遠の命をもつためである(ヨハネ3:16)


受難週に向かって(その2)

2007-03-22 13:20:26 | 聖書から
昨日は千葉県の主人の実家に行きました。義父の米寿を祝うためです。義弟、義妹一家あわせて総勢12人が集まりました。義父は足が不自由ですが、車椅子で中華料理屋さんまで行くことができ、祝された時をすごしました。


先週、家庭集会で聖書ルカの福音書23:32-43の箇所から学びまました。キリストは2人の犯罪人と共に十字架につけられましたが、犯罪人のひとり(左にいた人)はイエスさまをののしり、ひとり(右にいた人)はイエスさまが神の子であることを信じました。そのふたりにスポットをあてて考えていきました。


信じた方の犯罪人は、イエスさまに「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」と言われています。死の直前に信じた者でも救われるのだということを示されましが、今までこの人が信じたことを特別なことだとは思っていませんでした。

でも、学んでいくうちに、『この人は十字架につけられ極限状態にありながら、よく信じることができたなあ……』と驚きの気持ちに変わりました。
十字架刑というのは極刑ですから、殺人や暴動を起こすなど、重罪を犯した人が受ける刑罰です。イエスさまは罪がないのに十字架につけられましたが、2人の人は『やられたら、やりかえす』というような、人を憎んだり傷つけたりするのが当たり前の世界に生きていました。


ふたりは十字架上で話すイエスさまの言葉を聞いていました。
「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」
イエスさまはなんと、自分を十字架につけた人のために祈っているのです。父なる神さまにお赦しくださいと、とりなしているのです。

これは、あくまでもわたしの想像ですが、右にいた人はこの祈りを聞いて、びっくり仰天したのではないでしょうか。いままで自分の敵のために祈っている人など見たこともなく、そのようなことを考えたこともなかったのでは……?彼はイエスさまが十字架につけられてからのようすをずうっと見ていたので、その態度にも心を動かされていたのかもしれません。そして、イエスさまの祈りを聞き、このかたこそ神の子なのだと思ったのでしょう。同時に自分の犯した罪の大きさに気づいたのす。


左側の犯罪人は、同じようにこの祈りの言葉を聞いていましたが、心動かされなかったのです。そしてイエスさまをののしっています。すると、右側の人はそれをたしなめて言いました。
「われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は悪いことは何もしなかったのだ。」
そしてイエスさまにはこう言っています。
「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出して下さい」

当時のユダヤ人たちはイエスさまが政治的な意味での指導者(王)となって独立国家を築いてくれるのだと期待していました。でも、そうはならなかったので憎しみを抱くようになります。十字架のまわりにいた群衆やローマの兵隊たちはイエスさまをあざけっています。そんな中で、右側の犯罪人が信じたということは奇跡に近いといえるかもしれません。

2千年もの前に十字架につけられたイエスを神の子と信じ、十字架が自分の罪のためであることを認めている者たち(わたしをふくめてクリスチャンの人たち)の存在も奇跡だと思うのです。

受難週に向かって(その1)

2007-03-20 12:56:27 | 聖書から

今年は4月8日がイースター【復活節】です。イースターとはイエスさまが十字架で殺されたあと、3日目によみがえった日を記念する祭りです。
イースター前の1週間を受難週といいます。英語では「Passion」。情熱という意味ではなく、「受難」という意味です。パッションという映画がありましたね。一昨年だったか教会で見ましたが、十字架につけられる場面以降は目を開けられませんでした。


先週の祈祷会でキリスト受難の名画を見ながら、聖書とウォルター・ワンゲリンの「小説イエス」(徳間書店)が朗読されるのを聴きました。映画を観たときより強烈なものを感じました。

映画は目を閉じて音声だけ聞いていたので、インパクトは小さかったのです。ちゃんと目を開けて見るべきだったと……今、後悔しています。
今回は小説の文章に心打たれ、その場面を想像していたら涙が止まらなくなってしまいました。

「小説聖書」は持っていますが、「小説イエス」はまだ読んでいませんでした。どうしても読みたいと思ったので、さっそくネット書店で中古を買い求めました。
昨日メール便でその本が送られてきました。ムチ打たれる場面を紹介します。


わが主のななめ後ろに立っている軍団兵は右手にむちの柄をにぎっている。彼は手首をひねる。むちの先端部と金属の爪が空中におどると、ヘビのような音がする。

それから軍団兵は急に走り、腕を頭の上にふり上げ、跳びあがってイエスのそばをかすめ飛び、いきおいよく身をかがめた囚人の背中に金属の爪をふりおろし、彼の肉は肩から腰までけずられる。イエスは身をよじり、そのために皮膚は広がり、傷がぱっくり開いて、中には歯のように白く、石灰岩のように乾いた骨がのぞく―それから血が長い傷を走って流れ出す。

最初に打たれたとき、イエスは何の声も発しない。たじろいで身をよじるだけだ。頬は木にこすりつけられている。彼は眉をしかめる。小さな悲鳴ももらさない。

(295ページ)

多くの祈りに支えられ

2007-03-19 13:17:39 | 日記

文香さん、『ライフライン』拝見しましたよ!!
経験した者でしか語りえない文章とお話に感動しました。
不安や恐れなど揺れ動く気持ちを正直に語っておられる文香さんから、神さまのメッセージが流れていました。きっと多くの人たちの心に浸み込んでいったことでしょう。


親友の優子さんがブログにこのように書いて下さいました。優子さんのブログ名は「メメントドミニ」です。『汝の主を覚えよ』という意味だそうです。信仰あつい優子さんの文章は生きる力を与えてくれます。ブックマークにもありますから、ぜひご覧下さい。


このブログを立ち上げて間もないころ、「希望の風さん」と「優子さん」がブログを開設しました。3人は共に日本クリスチャン・ペンクラブ(JCP)のメンバーではありますが、それまではそれほど親しい間柄というわけではありませんでした。優子さんは関西在住なので、一昨年近江八幡でJCPの夏期学校があったときお会いしただけ(しかも挨拶をかわしただけ)です。

ところが、毎日ブログを訪れているうちに昔からの親友のように思えてきました。ネットの世界では珍しいことかもしれないと思います。
わたしたちはお互い祈り合っています。そのことが絆を深めているといえるでしょう。

現在ネットが使えなくなっている希望の風さんからは
「テレビどうでしたか?感動でしょう」
とケイタイにメールが入りました。気にかけて祈ってくださっているのです。希望の風さんのところではテレビ放送が入らなかったのだそうです。

落ち込んでいるときは励ましあい、過ちを犯したときは教えあい、危機的状況のときは祈りに祈り、嬉しいことがあったときは共に喜び 、悲しいときには共に涙を流しています。


今回、テレビ撮影のときも、放送されるときも祈って戴きました。このおふたりだけでなく、教会の方々、友人たち、JCPの仲間たち、ネットで知り合った方々が祈って下さったことでしょう。多くの方の祈りに支えられているのを感じました。


また、番組の感想コメントやメールをたくさんいただいて大変嬉しく思っています。
『「弱さを誇る」というところに心が動かされた』と書いてくださった方が何人もおられたので本当に不思議です。あの箇所はわたしを支えてきた聖句のひとつですが、取材を受ける前まではそのことをお話しする予定はなかったのです。
でも、撮影の数日前、自分の弱さをとことん感じるような出来事があったので、あのように語れたのだと思います。

支えて下さったみなさま、有り難うございました。


はからずも、デボーションの冊子、デイリーブレッド今日の日付の聖書箇所を読むと、このみ言葉が書かれていました。


もし、どうしても誇る必要があるなら、私は自分の弱さを誇ります。(Ⅱコリント11:30)  

ライフラインの放送

2007-03-17 10:47:45 | 日記

「ライフライン」の番組を見ました。(こちらはチバテレビが入ります)自分の映っている番組を見るのは、なんと照れくさいことでしょう……。アップの画面には思わず手で目をふさぎました。

とても不思議で、自分ではないような気もしました。1か月半ほど前に連絡をいただくまでは、自分がテレビに出るなんて想像すらしていなかったのですから。
テレビ局の方がなぜわたしのHPを見て番組を作りたいと思われたのか疑問に思っていました。「出演する人を探していたのです」とお聞きしましたが、クリスチャンのHPやブログは星の数ほどあるのに……。


先日ディレクターのH氏からメールをいただきました。

今回なぜホームページを見て番組にと思ったのか、あまりよくわかりません。……
ですからそこに神様の導きを感じています。そして、番組が出来上がって、今、確かに神様の導きだったと思っています。

と書かれていたのを読んで感動しました。


わたしも神さまの導きにほかならないと思いました。色々なHPと比較検討して選ばれたのではないのです。決して内容が優れていたからというわけではありません。
神さまがイスラエルの民を選ばれたように、なんの取り柄もないわたしを選び、この者が神さまに用いられるためにHPを番組にして下さったのです。
電話で依頼を受けたとき、「強制ではありません。いやなら断ってもいいです」と言われました。そのとき一瞬迷ったのです。でも、『このことは神さまからきたことなので断ってはいけない』という思いが与えられ、お引き受けしたのでした。


20分弱の放送でしたが、撮影には4~5時間かかりました。緊張しましたが、撮影の間中平安がありました。
編集にはどれだけの時間がかかったのだろうかと思います。膨大なHPの記事を読み、再現ドラマも制作し、映像を組み合わせ、ナレーションを入れて作られるのですね。今までぼんやりテレビを見ていましたが、初めて作る側の大変さに思いを馳せました。
 
 番組の中で、わたしがいちばん言いたかったことが表現されていたので嬉しかったです。村上先生のメッセージもわかりやすかったです。神さまと番組を制作して下さったかたに心から感謝しました。

テレビ放送、いよいよです!

2007-03-16 07:46:46 | 日記

いよいよわたしの出演するテレビ番組「ライフライン」が明日、または明後日に放送されます。完成したものを見ていないので、どのように編集されたのかとドキドキしています。

丸々と太って映っていますが実物はもう少し細いです。(もしかしてそう思いこんでいるだけなのかも?)

PCのキーボードをたたいている場面があるかもしれませんが、実は10年以上ずうっとカナ入力をしていました。(最初は一太郎を使っていたので……。今はワードと両方使っています)

半年ほど前に「どんなパソコンでも使えるようにローマ字入力をやるべきだよ」と言う息子の言葉に従ってローマ字入力に変えたのです。最初は時間がかかって大変でしたが、慣れるとカナ入力よりやりやすいことに気づきました。そんなわけで、PC歴10年以上になる割にはキーボード操作が遅いです。

なんせテレビ出演というのは生まれて初めてのことです。撮影当日緊張していたので何を話したかよく覚えていません。口癖の「あのー」「えーとー」ばかり言ってしまった気がします。とにかく、放送の入る地域にお住まいの方は是非ご覧下さい。
放送日時をお知らせします。


北海道テレビ18日5:00am    青森テレビ17日6:00am
福島放送17日6:00am     新潟放送17日5:30am
群馬テレビ18日7:00am     テレ玉17日8:00am  
テレビ神奈川18日 8:30am   チバテレビ17日7:00am
静岡第一テレビ17日5:00am  
びわ湖放送 18日8:30am    サンテレビ18日7:00am

ライフ・ラインhttp://www.pba-net.comPBA太平洋放送「ライフライン」のHPです。
ブックマークにも入れています。こちらもご覧下さい。

テレビに映るということは、ネットの世界から飛び出していくことなので、内心怖いです。面識のない方で、今までブログやHPを読んで下さった方々が、『イメージと違う』とがっかりされるのではないかな……?と心配したり、責められるのではないかと恐れたり……。

一昨日祈祷会で友人が「神さま、あなたが盾となって守って下さい」と祈ってくれました。次の聖書の言葉を思い出して平安が与えられました。

アブラハムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい(創世記15:1)


盾となって下さる神さまが、いつも共におられるから大丈夫と思えたのです。


今日は我が家での家庭集会で、これからその準備を始めます。主がともなってくださいますように。



花かんざしの花のように

2007-03-12 13:07:11 | 日記

今回、実家にいる期間が長かったので、本、原稿用紙、画用紙と色鉛筆を持って行きました。
本を読む時間は眼科の待合室で充分ありました。実家にパソコンがないので(父の使っていたワープロはありますが、使い方がわかりません)創作をしようと原稿用紙を持っていきましたが、一字も書けませんでした。画用紙と色鉛筆は「はこぶねクラブ」の紙芝居を描くためです。場面毎に描いていったので絵は15枚にもなりましたが14枚描き上げました。絵はテレビがついていても、母と喋りながらでも描けます。どうしても描けないところは残しておいて、娘に手伝ってもらいました。


母が紙芝居に興味を示したので、童話を読んで聞かせました。だいぶ前に書いた物ですが、わたし自身気に入っている作品で、聖書を舞台にしたイースターのお話です。

娘は9日にやってきました。数日前、連絡がつかなくて随分心配しました。学校の教室にこもって絵を描いていたというのでほっとしましたが、連絡くらいとってほしいというのが親の気持ちです。

娘と話していておもしろいことに気づきました。わたしは家から娘に電話するとき、長くなるのでアイロンかけや絵を描くなど片手でできることをやりながらします。娘も電話を受けるとき、たいてい絵を描いているというのです。娘とわたしは性格がまるきり違うと思っていましたが、似ているのかもしれませんね。


今日、難病の方の証を読ませていただきました。真実な証に心打たれました。肉体的な苦しさより、不自由さや苦しみをひとりで抱えるという孤独感がいちばん大きな苦しみだと書いておられますが、共感しました。

誰かにわかってもらいたいという思いは、癌患者も同じです。わたしも乳癌でリンパ転移がわかったときは苦しみました。今、わたしの心は主にあって平安ですが、再発転移の恐怖がなくなったわけではありません。周囲には「大丈夫よ」と励ましてくれる人はたくさんいます。でも、この思いを完全に理解してくれる人はいません。イエス・キリストだけが完全な理解者です。

その方もイエス・キリストと出会って慰めを得られました。障害や難病を与えられて苦しんでいる人たちにみことばが届けられるようにご自分を用いてくださいと祈っておられる姿に感動しました。

写真の花は花かんざしです。去年買い求め、花が終わってから、ほとんど枯れたようになっていました。寒いところに置きっぱなしにしていましたが、暖かくなって去年の倍も花を咲かせました。キリストを信じる人がこの花のように増え、多くの人の心に花を咲かせますように。


ただいま

2007-03-10 21:33:20 | 日記

今日実家から戻ってきました。5日間も留守にしたので大量のメールが届いていました。
メールの返信をし、たまっていた洗濯をし、掃除をし、夕飯の支度と大忙しです。

母の白内障の手術は両目とも成功し、経過は良好です。生活に不自由するのは手術日当日だけでした。その日はテレビもあまり見られないので、テープを一緒に聴きました。

PBAでいただいた聴覚障害者のためのカセットテープ「めぐみの声」やノンクリスチャン向けのメッセージテープなどを聴きました。聴き終わると母が「仏教とかキリスト教とか関係なく、創造者なる方がいると感じる」と言いました。

父の前で初めて祈ったとき、父も同じようなことを言ったのですが、母がそう言ったのには驚きでした。母は昔から「神はいない」と言い切っていたからです。なんと嬉しいことでしょう。

神さまは人に創造者を感じる心、永遠を思う心を与えられたと聞きましたが、本当のことなのですね。


写真は実家の庭の早咲きの桜です。

神さまがいちばん

2007-03-06 11:29:44 | CS(子供伝道)
明日母が白内障の手術(右目)を受けるので、今日からまた三鷹の実家に行きます。今回は娘も来て三鷹に泊まるので嬉しいです。娘はとっくに春休みに入っているのに忙しいからとまだ帰省していません。メール送っても返事がなく、電話もなかなか出ないのでやきもきしていました。あまり干渉してはいけませんが、ときどきは連絡をとりたいのです。


4日の教会学校では、教育主事のI先生が子どもたちに特別なメッセージをしてくださいました。先月17日に教会で「子供の発達とメディア」の講演会がありました(2月19,20日に書いています)が、その内容を受けてのメッセージです。「ゲームやビデオが悪い」というのではなく、子どもたちに考えさせるような内容だったので紹介させていただきます。


1)やりすぎはよくない
大好きなケーキを食べるのはよいことです。でも、食べ過ぎるとおなかをこわしてしまいます。走ることが好きでも、一日中走っていると疲れてしまいます。よいことでもやりすぎると、よくないことになります。

2)神さまがいちばん
新車を買って夢中になると車が気になって、車からから離れられなくなります。大切な宝物が人の心を奪ってしまうことがあります。
神さまのことをいちばん大切にすると、必要なものは神さまが与えて下さいます。

3)よいことを見分ける心を持とう
よいい物を悪いことに使ってしまうことがあります。家にある物、学校にある物、教会にある物を考えてみましょう。

聖書の言葉

すべてのことがわたしには許されたことです。しかし、すべてが益になるわけではありません。(Ⅰコリント6:12)


神さまはわたしたちに自由を下さいました。その自由をよいことのために使いましょう。


大人にも言えることですね。いえ、大人こそ気をつけなければならないことです。
子供は、親によってゲームの時間を制限されたり、よくないことをしようとしたとき、ストップしてもらえます。でも大人は、何かに心を奪われたとしても、誰にもとがめられないので、それが悪いことだと気づかないことさえあります。

わたしは凝り性なので、ひとつのことをやり始めると時間を忘れてし続けてしまうことがあります。最近は、意志的に時間をきめて中断していますが、以前はパソコンの前に何時間もすわっていたり、ピアノを弾き続けて体をこわしていました。
心の中を占めているものは何だろう? と考えたとき、いつも神さまがいちばんになっているようにしたいです。

臆病風にふかれたときは……

2007-03-05 12:40:57 | 聖書から
テンプレート新しくすると同時に今まで書いてきた記事を整理しました。HPに掲載しているものなど削除しました。削除の際、みなさまからいただいたコメントも消えてしまったので申し訳ありませんが、こちらではバックアップをとっています。


昨日、牧師先生が礼拝の報告でわたしがテレビに出ることを皆に伝えてくださいました。(千葉テレビでは17日(土)am7:00~7:30です)
Ⅰ~Ⅲ礼拝で伝えられたので300人近くの人が聞いたことになります。すべての人が番組を見るわけではないでしょうけれど、「うわー、どないしよう」というのが本心です。
取材をお引き受けした時点では土浦、つくばでは放送されないと思っていたのです。


カタツムリになりたいと思いました。誰かと出会ったらすぐに殻の中に閉じこもれるからです。ダンゴムシでもいいです。ビー玉のように丸くなりコロコロころがってあるけたらどんなにいいでしょう。(笑)


こんなこと、考えてはいけませんね。神さまは、わたしをカタツムリでもダンゴムシでもなく、ご自身のかたちに似せた人間として造って下さったのですもの。かたちというのは外見ではなく性質のことです。

(カルバンによると神のかたちとは、*神を知る知識*義を求める知識*聖を求める知識の3つだそうです。動物にはない人間だけに与えられた性質です)



聖書にも気の弱い人がたくさんでてきます。
イスラエルの初代王に任命されたサウルは、戴冠式のとき荷物の間に隠れていました。エジプト脱出のリーダーとしてたてられたモーセは、「口下手なので」と何度も神さまに断っています。ミデヤン人と戦ってイスラエル人を助けるように言われたギデオンは恐怖にとりつかれました。


しかし、聖書には次のように書かれています。

神が私たちに与えて下さったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。(Ⅱテモテ1:7)


臆病風にふかれたとき、この聖句の歌を繰り返しうたっています。


番組を通して神さまの栄光が現れますように!

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