生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

真珠商人

2017-09-27 15:52:18 | 教会
日曜日は洗礼式でした。5人の方が洗礼の恵みに与かりました。今回は若い人ばかりで、5人の中の3人は青年、2人は中学生でした。

マタイ13:45-46の箇所からメッセージをいただきました。新約聖書の福音書にはたとえ話が書かれています。イエス様が当時の人たちにわかりやすいようにたとえで話されました。

「また、天の御国は良い真珠を捜している商人のようなものです。すばらしい値打ちの真珠を一つ見つけた者は、行って持ち物全部売り払ってそれを買ってしまいます。(マタイ13:45-46)」


この商人は、その真珠がとても価値ある物だと知っていました。それで、その真珠を得るために全財産を投げ打ったのです。

「天の御国はそこまでして手に入れてもなお余りある物です。何にも代えがたい価値をもっています。手に入れるためには何を差し出せばよいのでしょう。」と、牧師先生が言われました。

わたしたちは、ひとりひとりが真珠商人のような者です。真理を探し求めています。洗礼をうけた人たちは、真理を見出したのです。

神様もまた、真珠商人といえます。ヨハネ15:16には「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。」と書かれています。

神様は、自分の本当の価値を知らずに生きていたわたしたちを見いだし、救い上げてくださったのです。
神様は、わたしたちの失われたいのちを取り戻すため、イエス・キリストを遣わしてくださいました。神様は、イエスという代価を払ってわたしにご自分のいのちを与えてくださったのです。

わたしたちにつけられた値札には「イエス・キリスト」というタグがついているのです。


初めて「あなたがわたしを選んだのではありません」と書かれている聖書箇所を読んだとき、変だなあと思いました。
たくさんある宗教の中からわたしがキリスト教を選んだのに……と思ったのです。
でも、そうではありませんでした。

広い世界の中で、神様はわたしを選び、救い上げてくださいました。罪のためにドロドロに汚れた服を着、世の中に絶望し、あてもなくさまよっていたわたしに光を当ててくださいました。

自分なんか何の価値もないと思っていたわたしに「あなたは高価で尊い」と言ってくださいました。
そして、このままでは魂が滅びてしまうわたしのために、ご自分のひとり子、イエス様のいのちを差し出してくださったのです。

神様は、ドロドロに汚れた服を脱がせ、真っ白な衣を着せてくださいました。だから、わたしの衣には「イエス・キリスト」のタグがついています。


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何をして待つ?

2017-09-23 16:18:45 | 聖書から
一昨日は久々の家庭集会でした。教会の和室に8人の方が集まりました。
久しぶりだったので、まずは近況報告。そのあとで聖書から学びました。

わたしたちは、待たされることが多いと思います。病気が治るのを待つ。苦難が過ぎ去るのを待つ。誰かが来てくれるのを待つ。助けを待つ。主を待つ。

待つことの意味と、待っている時にすべきことを教えていただきました。

旧約聖書のイザヤ書40:30-31には次のように書かれています。
「若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。
しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、
鷲のように翼をかって上ることができる。
走ってもたゆまず、歩いても疲れない」


*『たゆむ』とは勢いが弱まるという意味です。

人生の中でいちばん力のある若者。しかし、若者でも倒れることがあります。若者が疲れてしまっても、「主を待ち望む者は力を得」と書かれています。

神様が疲れ果てた者に上から力を与えてくださるので、もういちど新しく力を得ることができます。

それでは、どうすれば神様から力をいただけるでしょうか? 唯一の条件は主を待ち望むことです。
聖書には何か所にも「待ち望め」と書かれています。

待ち望めとは、具体的にどういうことでしょうか。神を信じていても、時として失望することがあります。
自分の祈りは届いているのか? 神様が生きて働いているというのは本当か? など、不安になることがあります。信仰の偉人は、『待つことによってクリスチャンの信仰が成熟していく』と言っています。

パプアニューギニアの牧師先生から聞いた「待つ」(wait)ことの4つのポイントを教えてくださいました。

①W:WORK(働く)
すわって待つのではなく働きながら待つ。自分は何ができるのか考えて、今できることをしながら待つ。奉仕を忠実に行いながら待つことができる。

②A:CARE(世話をする)
周りの人を助けながら待つ。周囲を見回すとCareを必要としている人に出会う。Careしながら待つとき、神様は驚くことをしてくださる。

③I:LISTEN(聞く)聞きながら待つ。

「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。
(へブル4:12)」


聖書のことばは生きています。生きているみことばを聞くことが大切です。みことばは動機の裏に何があるか教えてくれます。

④T:TRUST(信頼する)
信頼とは、より頼むこと。

実現が遅れていても、拒絶にあっても変わることのない神様が、人生に最も良いことをしてくださると信じてより頼むことです。

スポルジョンの言葉
「神は今も、なお必ずあなたを助ける。あなたを助ける神は、すでにあなたのために買って置いたものを与えている。あなたが千倍もの欠乏を感じているとしても、神はそれを与える。しかし、あなたは神が与えようとしているものを遥かに少なく要求している。自分では多く求めているように思っても、与える神にすればなんでもない」


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ひとつひとつの出来事が…

2017-09-22 16:54:25 | 乳癌
昨年から右肩が痛くて日常生活に支障をきたすようになりました。ふつうの肩凝りとはちょっと違うようなので整形外科に行くと、五十肩といわれました。(六十肩ではありません)5か月間リハビリに通いましたが、少ししかよくなりません。

6月末に娘が出産のため実家に戻ってきたので、完全には治っていなかったのですが、リハビリを終わりにしました。医師が腕を持ち、後ろに回しました。かなり痛かったのですが、「痛くありません」と嘘をついて無理やり終わりにしたのです。
 
家で肩こり体操を一生懸命したせいかどうかわかりませんが、その後、肩はどんどんよくなってきました。その代り腰痛、めまい、膝痛など、次々に起こりました。骨量を測ってもらうと、骨粗鬆症と言われました。しかも5段階に分けると、下から2番目に悪いと聞いて驚きました。8年前外科で測定したときは、「骨量は若い人並です」と言われたのに……。

薬を処方され飲み始めましたが、数値はよくならず横ばい状態です。長い期間飲まなくては効果が出ないそうです。
これまでよく骨折しなかったと思いました。また、五十肩になって整形外科に行ったから骨粗鬆症であることがわかって、治療を始められたので助かったのです。骨粗鬆症は症状が現れないので、治療を受けないまま最後の段階までいってしまったら、治る可能性が低いのだそうです。
ひとつひとつの出来事が、主のみ手の中にあって守られていると感じます。

なぜ骨粗鬆症になったのか……と考えていたら、8年前、乳がんの再発転移を抑える薬フェマーラを飲み始めたことを思いだしました。フェマーラを飲む前に同意書にサインをしたのです。この薬を飲むと関節痛が出たり、骨粗鬆症になったりすることがあると説明を受けました。

そのときは骨量が多かったので骨粗鬆症にはならないだろうと勝手に思っていました。むしろ関節痛になったら、ピアノが弾けなくなるかもしれない。PCのキーボードを打てなくなるかもしれないと恐れました。当時、教会学校で奏楽をしていましたので、友人にも祈っていただきました。

5年間フェマーラを飲みました。果たして関節痛は起きませんでした。けれども、いつごろからかわかりませんが、骨粗鬆症になりました。
でも、いまのところ乳がんの再発転移はありません。

膝痛でまた整形外科に通うことになりました。歩き過ぎと言われました。歩くときは8千歩から1万歩ぐらい歩いていると言ったら、多すぎると言われました。一日5千歩でいいのだそうです。健康のために一日一万歩と厚生労働省が大々的に掲げていましたが、いったいなんだったのでしょうか? 整形外科医からみると、一万歩も歩くとかえって健康によくないのだそうです。

 適度なウォーキング、適度な運動とはどれくらいでしょう? 年齢や体力によって人それぞれ違うので、自分にあったものを考えないといけないですね。


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二人称で書く

2017-09-19 16:09:52 | 日本クリスチャン・ペンクラブ
16日は日本クリスチャン・ペンクラブ(JCP)の65周年記念の集会でした。40人の方が参加して、祝福あふれる会になりました。

講師としてお迎えしたF先生の「書くこと、話すこと、伝えること」と題したメッセージの一部を紹介させていただきます。

(先生の言葉は、青字。わたしの感想は茶色。聖書の言葉は緑で書いています。)

マルティン・ブーバーは、その著『出会い』の中で、「問いと答え」と題する非常に印象的な文章を書いています。
1914年の5月、第一次世界大戦がまさに始まろうとしていた時、友人の老牧師ヘヒラーから、「愛する友よ、われわれはある重大な時代に生きています。どうか言って下さい。あなたは神を信じますか?」と、彼は尋ねられました。
駅に老牧師を送って行く途中、暗い路地の角でのことでした。ブーバーは、ヘヒラーを安心させようと思って、「このことについて、私のことを心配される必要はありません」と答えて、彼を駅に送り列車に乗せました。
ところが、帰りにその角まで来た時、ブーバーは正しい答えを見出すまでは一歩も進むまいと決心して、長いことそこに立ち止まっていた、と記しています。

そしてブーバーの到達した答えは、「もし、神を信ずるということが、第三人称で語ることを意味するならば、私は神を信じていない。もし、神を信ずるということが、彼に向かって語りうることを意味するならば、私は神を信じている。
すなわち信仰は、三人称ではなく、二人称……あなたとわたしの関係で向かい合う世界だと、ブーバーは語っています。


「Aさんは、敬虔なクリスチャンです。」
「Bさんは、すばらしい賜物を持っていてたくさん奉仕しています。」
「Cさんは心からイエス様を信じています」
と書いただけでは、人を感動させることができません。

「あなたはどうなのですか?」「あなたはどのようにイエス様を信じているのですか?」
と問われたように思いました。

聖書にはイエス様が弟子たちに「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか?」と問いかけ、ペテロは「あなたは、生ける神の御子キリストです。(マタイ16:16)」と答えてイエス様に褒められたということが書かれています。





最後にあかし文章を書く者たちへの勧めをしてくださいました。


何を書くか、何を伝えるかが大切です。あかしの文章を書き、それを人に伝えるには、自分の言葉でほんとうに信じていることを書くことです。真実を追求し、美しい日本語で書くことです。聖書の言葉を現代生きている人にわかるように書くことです。言葉は人を変えるのです。 

JCPのHP更新しました。ここをクリックしてご覧ください。


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言葉の力

2017-09-15 16:44:16 | 聖書から
わたしが語った言葉に励まされたと言ってくれる人もいれば、わたしの言葉に腹が立ったとか傷ついたと言ってくる人がいます。
言葉を放った本人は、相手がどう受け取ったのかも気づかずに、何を語ったかさえ忘れていることがあります。


先日は、言葉について考えさせられました。
水曜礼拝では、十戒の学びをしています。
十戒とはイスラエルの民に授かった神様からの律法で、十の戒めです。

9番目に「あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない」と書かれています
それは、言葉によるものを戒めています。
聖書における偽りの証言とは、人が言葉によって犯す、すべての罪を示しているのだそうです。

言葉によって犯す罪と聞いてドキッとしました。わたしは今までどれだけ言葉で罪を犯してきたでしょうか。
もしかしたら、何十年も前に放ったわたしの言葉に、今でも苦しんでいる人がいるかもしれません。

20年近く前ですが、「あなたの言葉に傷ついた」と言われたときは、ひどく落ち込み、もう人を傷つけることがないように、ずっと沈黙していようと思ったほどでした。

でも、そのように言ってくる人はまれで、わたしに傷つけられても黙っている人が多いのだと思います。逆にわたしも人の言葉に傷つけられました。でも、それはほとんど忘れてしまいました。

人を傷つけないためになるたけ言葉を発しないというのは、極端な思いですね。それは神様を喜ばせることではありません。


人は本来、神様を賛美し、祝福となるように言葉が与えられたのです。

箴言には「穏やかな舌はいのちの木。偽りの舌は魂の破滅。(箴言15:4)」と書かれています。この聖書箇所では、言葉と舌は同義語とみなします。

舌はいのちにもなり、魂を破滅させるものにもなります。
『舌は剣より多くの人を殺す』とも言われています。

わたしは、いまだに恐れています。わたしの言葉が誰かを傷つけないかと。

『言葉による罪を犯さないようにするには、言葉の本来の目的の通りに言葉を使うことです』と牧師先生が言われました。

言葉は本来、神様を賛美し、祝福するものです。神様をほめたたえ、神様を証しするために言葉を使えば、人を傷つけることがないでしょう。

「ですからあなたがたは偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい。私たちはからだの一部分として互いにそれぞれのものだからです。(エペソ4:25)」

教会で一緒に長い間奉仕していた方が入院しています。脳梗塞のため言葉が出なくなってしまったと聞きました。声は出るのに言葉にならないそうです。言葉で伝えたいと思っても伝えられないもどかしさを感じておられるでしょう。言葉が戻るように祈ります。

言葉が与えられていることを感謝して、語れるうちに語り、書けるうちに書いていきたいです。
『ペンは剣よりも強し』ですから。



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ひとりの人を

2017-09-12 15:26:37 | 教会
先日の日曜日は、横浜からK先生が来られてメッセージしてくださいました。
K先生とはお目にかったことはなかったのですが、K先生の教会の執事のIさんを知っていたので、K先生が来られると聞いて驚きました。もしかしたら先生と共にIさんも来られるかもしれないと思って、お会い出来たら本を差し上げようと、クリスチャン・ペンクラブで出版した「山川草木」を持って出かけました。朝3回礼拝があり、わたしはTEENS奉仕をしているので、いつものように第1礼拝に出ました。
第1礼拝で紹介された新来者の中にIさんの名はありませんでした。

K先生のメッセージが心に響いてきました。
イエス様が最後の晩餐の日、弟子たちの足を洗ったことは知っていました。
でも、イエス様がどのような気持ちで洗われたのか深く考えていませんでした。



その時は、イエス様がもうすぐ十字架につけられるという時でした。愛する弟子たちと食事をしながら(最後の晩餐)、イエス様は弟子たちに愛を残ることなく示されました。
悪魔はすでにイスカリオテのユダの心に働いていました。イエス様はそのことを知っておられました。
夕食のあと、イエス様は弟子たちがびっくりするようなことをなさいました。立ち上がって、たらいと手ぬぐいを用意し、弟子たちの足を洗い始めたのです。当時、足を洗うことは奴隷の仕事でした。それなのに黙々と弟子たちの足を洗うイエス様の姿を見て、ペテロは「決して私の足をお洗いにならないでください。」と言います。

イエス様はなぜ弟子たちの足を洗ったのでしょう……。人に仕えることが大切だと、行動を持って弟子たちに教えたのです。
イエス様はしもべとしての生涯、謙遜の生涯を歩まれました。

Ⅰヨハネ3:18には次のように書かれています。
「子どもたちよ、わたしたちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実をもって愛そうではありませんか。」
口先で『愛する』と言うだけで、実践が伴わなければならないことを教えられました。

能力、才能のある人が用いられることがありますが、私たちは仕える者として召されています。わたしたちは、弱い者ですが、弱さの中にこそ、主が力を与えてくださいます。

わたしたちは、地上にいる間は、完全に聖(きよ)いわけではありません。足は汚れているのです。イエス様に洗ってもらわなくてはなりません。でも、イエス様がペテロに言ったように、足以外は汚れていないのです。それは、わたしたちは赦された罪人だからです。

わたしたちは、弱さを持っていますが、弱さを知って、互いに足を洗いあうとき、キリストの愛により、互いにに結び合わされるのです。
イエス様は、弟子たちの足を洗うことで、模範を示されたのです。

認知症らしき高齢者の方が迷子になっていたとき、教会に連れてきてもらい、最後までめんどうをみたという話を聞いて、イエス様は、ひとりの人をどこまでも大切になさって、愛を示されておられたことを思い起こしました。へりくだってキリストの愛を示すこと、これが神様がわたしに求めておられることなのだと示されました。

午後に教会全体の修養会がありました。修養会の場であかしをしてくださった方がおられました。その方がIさんでした。お目にかかるのは10年ぶりぐらいです。
休憩時間にご挨拶すると、「土筆文香さん」と呼んでくださり、わたしのこと覚えていてくださいました。感激の再会でした。



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「走れ、走って逃げろ」を読んで

2017-09-09 16:12:43 | 読書
先日、児童文学者協会茨城支部の集まりがありました。茨城支部では毎回課題本を読んで、感想を分かち合っています。

今回は「走れ、走って逃げろ」ウーリー・オルレブ作 母袋夏生訳 岩波少年文庫でした。わたしの感想文を紹介させていただきます。

第二次世界大戦下、ナチスドイツ占領下のポーランド。8歳のユダヤ人の少年スルリックは、ゲットー(強制居住区)のなかで家族とはぐれてしまい、一人で壁の外へ脱出します。
執拗に追いかけてくるドイツ兵から逃れ、働く場所を転々と移り、つかまりそうになると森へ逃げていました。森には恐ろしい獣や毒蛇などいたことでしょうが、スルリックは恐れることなく木の枝の上で眠るのです。そのたくましさに圧倒されます。

貧しい人の家に行けば助けてもらえると聞いて、お金持ちでなく貧しい家を訪れます。
特別親切にしてくれたおばさんは、スルリックに誰かに尋ねられた時の答えを教えてくれます。ユダヤ人であることがわかると殺されてしまうからです。

スルリックは名前を変え、逃亡生活を送るうちに、自分の本当の名前を忘れてしまいます。
後に父親と再会を果たしますが、そのときが父親との別れになりました。

父親は「自分の名前を捨てろ。記憶から消すんだ。だが、全部忘れても、父さんや母さんを忘れても、自分がユダヤ人だということは決して忘れちゃいかんぞ。」
と言いました。アイデンティティーを確立するように言ったのでしょう。

父親はスルリックを逃がすためにおとりとなって殺されました。

読んでいてスルリックを応援したくてたまらない気持ちになりました。

スルリックが歯車に巻き込まれて腕を失ったことはショックでした。ユダヤ人だからといって診察してもらえず、病院の廊下に放っておかれ、壊疽を起こして切断となってしまったこと。腕を失っても、片腕でできることを自分で考え、生きることに必死になる少年の姿に涙しました。

これは本当にあった話で、大人になったスルリックから聞いた話をもとにして書かれた小説です。情景描写が少なく、心理描写も少なく淡々と書かれています。


ホロコーストについて知らない人にはちょっと難しい内容です、中高生向きです。

*アイデンティティーとは、自分が何者か認識することです。



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自分の生まれた日をのろった人

2017-09-06 16:39:42 | ティーンズ
前回の記事に9月1日前後は自殺者が多いと書きましたが、今年も高校生、中学生が自らの命を絶ったニュースが流れてきました。

3日のTEENS礼拝では「いのちはどうして大切なの?」と問いかけがありました。
その後、旧約聖書のヨブ記が紹介されました。

ヨブは神様を信じる正しい人でした。子どもや孫たちに恵まれ、たくさんの財産を持ち、裕福で幸せな生活を送っていました。
ところが、ヨブの息子、娘たちが集まっていると、突然シェバ人が襲ってきて若い人たちが剣で殺されてしまいました。その報告がなされているうちにに天から火が下り、羊と若い者たちが焼き尽くされたという知らせが届きました。その間にカルデヤ人がらくだを奪い、若い者たちを打ち殺したという知らせがありました。その間に大風が吹いてきて家が倒れ、息子娘たちが全員死んでしまうという知らせが届きます。

次から次へと信じられないような災難に見舞われますが、ヨブはそれを聞いて、「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。(ヨブ記1:21)」と言って、神様を恨まず、かえって主をほめたたえています。

その後、ヨブ自身にも禍が降りかかります。ヨブは病気(重い皮膚病)になって、土器のかけらで身をかきながら灰の中に座っていました。
そのとき、ヨブは「自分の生まれた日をのろった」のです。

すべてを失ったのに神を恨むことなかった信仰深いヨブがなぜ? と思いますが、神を呪って当然のような状態です。

生まれなければ、こんなひどい目にあうこともなかったのに……と思ったことでしょう。
ヨブの災難を聞いて慰めに来た三人の友人は、あまりにもひどいヨブの様子をみて、しばらく誰も言葉を発しませんでした。
こんなときは、どんな慰めも励ましもかえって痛みになります。

かゆい、激痛がある、呼吸が苦しいときなどは一刻も早くこの苦しみを取り去ってほしいとしか祈れません。
苦しみは、肉体的苦痛だけではありません。なぜ、自分だけがこのような目にあうのかと精神的苦しみが加わります。

正直に生きていれば、幸せになり、悪いことをしたり欲深い人は不幸せになるという考えを持っている人は現代にもいますが、紀元前1500年頃にもそのように考えていた人たちがいたようです。
慰めるつもりで見舞いに来た友人たちが、ヨブに罪があるからそうなったのだと言い始め、ヨブはそれに答えていくうちに意固地になっていきます。

ここまでは、わたしのヨブ記理解です


以下はメッセージの一部です。
人は自分に与えられているものによって支えられています。それをすべて失ったとき、生きる力が与えられるのでしょうか? 

生まれた日をのろったヨブを他人事のようには思えません。いろいろなことを投げやりになったり、自分の環境をのろったり、自分の容姿がいやだ、もっと能力があったらよかったのにとのろうことがあります。

いのちに対していい加減な気持ちを持っているからのろうのです。
生まれた日をのろうということは、自分なんかいなくてもいい、存在しなくてもいいと思ってしまうことです。
「いのちはあなただけのものです」と言った人がいますが、それは違います。いのちはあなたのものではなく、いのちを与えてくださった神様のものなのです。
いのちを与えることができるのは神様だけです。与えられたいのちを生かしてくださるのは神様です。人間の価値を決定するのは神様です。


簡単に「死にたい」なんて言えないですね。


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