生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

アークがラウンドとなるとき

2015-01-29 12:44:42 | その他
ブログにはふつう最新の話題を書くのでしょうが、わたしは数日前のことを書くことが多いです。
出来事や、聞いた話、読んだ本や新聞記事などのことで心に留まるものがあると、心の中であたためてから書くので遅くなります。あたためすぎて書く機会を失ってしまうものも多いです。
今日は、1/24の朝日新聞Beの記事からの話題です。
日野原重明先生の「103歳 私の証 あるがまま行く」は、毎回楽しみに読ませていただいています。記事の一部を紹介させていただきます。

「地上では欠けた弧 天上では全き円」。
詩人ロバート・ブラウニング(1812~89)の詩の一節です。一日、また一日と生きる間、人はみな「弧(アーク)」、つまり不完全な存在です。不完全な円は次の世代、また次の世代によって、ようやく「円(ラウンド)」となり、完成するのでしょう。
この一節を思う時、私はなぜか「青空に欠けた弧がいくつも浮いていて、見上げる私の心の中に集まってきたそれらが一つになり、完全な円となる」というイメージが浮かびます。103歳の今も、父に教わったこの言葉を胸に、謙虚に生きていこうと思っています。


103歳になられる日野原先生は、ご自身も不完全な存在であると言っておられます。その謙虚さに惹かれます。

虹は本当は完全なる円ですが、地上ではふつう上半分しか見えません。
虹のように地上で生きている人間は、どんな人でも完全ではありえないのだと思います。自分自身の努力で完全な円になれなくても、神様が青空に浮かぶ欠けた弧を補ってくれていつか完全な円になるのでしょう。

ロバート・ブラウニングの詩、英文では

On the earth the broken arcs; in the heaven, a perfect round.

となっています。天国に行ったときは完全なる円になるのですね。
失敗ばかりしてちょっと落ち込んでいたわたしでしたが、明るい気持ちになりました。

記事の横には不完全なアークを掲げた日野原先生の周りにかわいい天使たちが小さな三日月のようなアークを持って集まっているイラストがあります。



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心新たに

2015-01-27 12:35:58 | 日本クリスチャン・ペンクラブ
先週の金曜日は土浦で行われた児童文学者協会茨城支部の例会に出席しました。午後の合評中に中座して15時発の電車で実家の三鷹に向かいました。三鷹で一泊して翌日土曜日は日本クリスチャン・ペンクラブ(JCP)例会に出席して土浦に戻ってきました。
昨日は疲れが出て体調不良だったのですが、今日は快復しました。

JCPの礼拝で語られたことの一部を紹介させていただきます。

2015年、JCPの年間聖句はイザヤ40:8です。

「草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ」

永遠に立つとは、死なないこと、生き生きとしたいのちがあるということです。

神様はことばによって天地を創造されました。

わたしたち人間は、神にいのちをふきこまれて生かされています。人間は、受動的な存在で、神なくしては一日も生きられない存在です。

ヨハネ1:1には「初めに、ことばがあった」と書かれています。

また1:4には「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった」とあります。
ことばは神(イエス・キリスト)のことで、ことばにいのちがあり、ことばは人の光なのです。
わたしたちは、イエス様の十字架の贖罪により、永遠の命が与えられました。

神はわたしたちに人格を与え、自由に生きる特権をお与えになりました。
人生の山坂を苦闘しながら生み出されるのがあかし文章です。
主の恵み、キリストの光を信仰感性によって生み出していくのがあかし文章です。


>人間は、受動的な存在で、神なくしては一日も生きられない存在です。
ということばが心に留まりました。

かつてわたしは自分の力で生きていると思っていました。誰かに頼らなくたっていいと思い上がっていました。
でも、JCPの例会に参加することも条件が整わないと不可能になります。健康、安全、家族の健康、台風や大雪、大地震、事故などから守られて初めて参加が可能になるのですね。また、生きていることも多数の条件が整えられて、生きられるのです。まさに神様の手の中で生かされている存在です。

苦難の中で泣き叫び、のたうちまわりながら、その中で表された主の業(わざ)を書いていくことが使命のように思えました。
昨年は「春夏秋冬」というあかし新書がJCP関東で出版されましたが、ことしからは「山川草木」というテーマで書いていきます。
時間がないから書けないという言い訳はやめて、細切れの時間をつなぎあわせてでも書いていきたいと心を新たにしました。



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わたしの思いではなく

2015-01-20 16:22:39 | 日記
先日の家庭集会の学びで考えさせられたことがまだありました。
『祈りの中で「わたしの願い」と「父のみこころ」が占める割合は、どの程度でしょうか』という質問がありました。
かつては、何が何でも自分の願いどおりになることを神様に望み、祈っていました。
今は、神様に委ねられるようになってきたと思っていたのですが、そうでもないことに気づかされました。

昨年の暮れ、母と衝突してしまいました。
母は土浦の老人ホームへの入所を決意し、3月には入所すると言ったので、ホームへ足を運んで説明を受けたり、提携病院を調べたりしていました。

実家へ泊ったときは、押し入れや物置など少しずつ片づけていました。ところが、母が急に5月の連休が明けてから入所すると言い出したのです。
理由を尋ねると、「4月末に友人たちと旅行に行くから」というのです。

「旅行ならホームに入ってからも行けるでしょう。せっかくいい部屋が空いているのに……なくなっちゃうよ」と言うと、「そのときに空いている部屋ならどこでもいいから。空いてなかったら空くまで延ばせばいい」と答え、譲りません。

実家との往復で疲れがピークに達していました。3月までなら持ちこたえられると思っていたのに、2か月も延びてしまうなんて……。
悲しくなって二階に駆け上がって泣きました。

「母が考え直してくれるように」と一生懸命祈りました。
祈っているうちに自己中心の祈りだと気づきました。自分の都合で3月にと思っていたのでした。

50年近く住んでいた家を離れ、遠い土地の老人ホームに入る決心をすることだけでも大変なことです。何よりも親しい友人たちと離れ、慣れ親しんだ土地を離れるのは辛いことでしょう。一大決心をして土浦へ行くと言ったけれど、時期はもうすこし後でもいいと思うのも無理のないこと。
そう思えてきたのですが、母の病気のことが心配になってきました。母は手術をしたのですが、癌が広がっていて、とりきれなかったのです。すでに転移もしているのです。

今は調子が良いのですが、いつまた具合悪くなるかわかりません。
そう思うと、体調の良い時に入所してほしいと思います。

でも、それはわたしの思いです。この先に起こることが何一つわかっていない浅はかなわたしの願いです。

神様は、母の体の状態、わたしの体調、母のイエス様を求める気持ちなど、すべてをご存知です。神様が最善を成してくださるのだから、いちばんよい時期に入所することになるでしょう。

そのように思えたら、絶対3月でなくてはならないという思いが消え、肩の力が抜けました。
気が付くと「わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」と祈っていました。

その後、妹も交えて入所時期を話し合って、4月半ばにということで母は納得しました。
でも、母が引っ越す前にまだ困難なことがあります。

たといこの決定が覆っても、平安でいられるように
わたしの思いではなく……と改めて祈ったのです。



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心は燃えていても・・・・・・

2015-01-17 15:12:36 | 聖書から
一昨日は家庭集会でした。教会で行ったので、正確には家庭集会といわないのでしょうけれど……。
家庭集会は、我が家とあと2軒の家で行っていましたが、一軒の家でできなくなり、我が家で行うのも難しくなりました。

母のことがあって、土浦と東京の二重生活をしているので、準備ができません。さらにマンションは工事中で、音がうるさいこと。主人が仕事をやめて毎日家にいるようになったこと。という3つの障害があります。
24年続いた家庭集会ですが、このへんで終わりにしてもいいかな……と思っていたら、ぜひ続けてほしいとの声がいくつも上がりました。

教会には喫茶店のような雰囲気のトレーラーハウスがあります。そこを借りて行うことにしました。そこは、険しい道のりを歩いてきた登山者が、一休みしてほっとできる山小屋のような空間です。

マタイ26:36~46からイエス様がゲッセマネで祈っている箇所を中心に学びました。
イエス様が十字架につけられる前のことです。イエス様は弟子のペテロとヤコブとヨハネを連れて祈るためにゲッセマネに行かれました。

イエス様は苦しみもだえ始め、「悲しみのあまり死ぬほどです」と言われました。
情けないことに、こんなにイエス様が苦しんでおられるのに弟子たちは眠ってしまいます。(まるで自分の姿を見ているよう……)

「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」と祈るイエス様。杯にはすべての人類に対する神の裁きが入っています。

杯を受けるとは、十字架につけられて殺され、神様からも見捨てられることを意味します。イエス様でさえ、できればその苦しみを避けたいと思われるほど、過酷なことでした。

イエス様はさらに祈られます「しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください」

『最もつらいとき、このように祈ることができるでしょうか?』と問いかけられました。

つらいときは、そのつらさを取り除いてくださいと、そればかり祈ってしまいます。
でも、自分の願いより神様のみこころを優先させることの大切さを教えられました。

イエス様がみこころを優先させて十字架にかかってくださったからこそ、わたしたちは救われ、決して神様から見放されることがなくなったのです。

この聖書箇所を読んで、イエス様の苦しみもだえる姿を初めて見たかのようにはっとさせられました。この箇所は何度も読んでいるのに、イエス様の苦しむ姿をドラマの一場面を見るかのように距離を置いてみていました。そして心を痛めることなく弟子たちのように眠りこけていました。

『ごめんなさい。この杯の中にはわたしの汚い心が入っていて、それを受けるのにこんなに苦しんでくださっているのに、わたしは眠っていました。』これは、わたしの祈りです。

イエス様は、弟子たちに言われました。「あなたがたは、そんなに、一時間でもわたしといっしょに目をさましていることができなかったのか。誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」

「心は燃えていても、肉体は弱いのです。」なんという愛とやさしさに満ちた言葉でしょうか。
イエス様は、わたしたちの肉体の弱さに同情されないお方ではないのです。
すべてをご存じで、「目をさまして、祈っていなさい」と言われたのです。

目をさまして祈っていられるように。自分の願いでなく、神様のみこころを優先させることができるように。このふたつを今年の目標にします。


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虹の約束

2015-01-10 16:20:11 | 日記
6日から母と共に2泊3日で熱海旅行に行ってきました。
妹一家と主人と娘、母を入れて7人で出かけるのは久しぶりです。

出かけるときは、旅の途中で母の具合が悪くならないだろうか…と、不安でした。
新宿で11時ごろ妹一家と待ち合わせたのですが、車が走り出してすぐ雲行きが怪しくなり、雨が降り出しました。風も強くて、銀杏の葉がバラバラと音を立ててフロントガラスにぶつかってきました。

海老名サービスエリアで虹がかかっているのをみました。こんなにはっきりとしたアーチ型の虹を見たのは何年ぶりでしょう。
神様が旅の祝福を約束してくださっているようで、嬉しくなりました。

ホテルに着くと温泉に入って、食事をいただきました。母の隣に座ると、「お祈りするんでしょう」と言って、手を合わせてわたしが祈るのを待っているので驚きました。
 


実家でわたしがいつも食前の祈りをすると、母は手を合わせて目を閉じています。アーメンと言うと、「ありがとうございます」と言って食べ始めていました。

家にいるときと同じようにしているので、感動しました。大きな声では祈れなかったので、耳の遠い母はよく聞こえなかったかもしれませんが、祈りはじめるときと終わるときを体の動きで察知していたようでした。

刺身と生野菜は避けましたが、それ以外は何でも食べらます。母は「おいしい、おいしい」と言ってたくさん食べていました。

母はわたしより体力があります。1日に2回お風呂に入り、夕方はカラオケ、夜は皆でトランプをして11時ごろ寝ていました。

わたしは、長時間車に乗って腰を痛め、温泉は1日1回入っただけで疲れ、ホテルではずっと横になり、夜は9時半に寝てしまいました。



2日目に沼津港深海水族館に行ってきました。珍しい深海の生物を見て、嬉しくなりました。神様は、光の届かない深海をも見ておられるのだなあと思いました。



冷凍保存のシーラカンスは、ここでしか見ることができないそうです。

自動車の安全も守られて8日に無事戻ってきました。

神様が天の窓を開いて、あふれるばかりの祝福を注いでくださったように思いました。


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いのちを得るために

2015-01-05 20:08:49 | 教会
明けましておめでとうございます。本年も「生かされて」をよろしくお願いいたします。

暮れに実家に行き、帰ってきた日にヒックンが泊まりに来て、31日から2日まで息子一家が泊まっていました。
今年は、息子夫婦がおせち料理を作ってくれました。ローストビーフや鯛の昆布締め、エビの姿煮、筑前煮など9品も重箱に詰めて持ってきてくれました。
ハイハイで動き回って一時も目が離せないナルクンがいるのに、よく作ったと驚きました。

3日は主人の実家に行ってきました。母は年末から妹宅に泊まって元気で過ごしています。

忙しい中にあっても、元旦礼拝と4日の礼拝に出席できたことが大きな喜びです。

「この2015年、元旦に生きて礼拝できることを感謝します」と祈られましたが、ほんとうにそうだなあと思いました。
今、生きているということは、すごいことです。来年の元旦も生きているという保証は何もありません。

暮れに「あなたの余命は3か月です」と医師に言われた夢を見ました。とても疲れていたからそのような夢を見たのかもしれません。乳がんの手術を受けて間もないころは、そのような夢を繰り返し何度もみました。はっと目覚めて、夢でよかったとほっと胸をなでおろしたものです。

「わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。(ヨハネ10:10)」

今年の年間聖句です。
わたしというのはイエス様のこと。羊はわたしたち人間です。
イエス様は、いのちを奪うために来られたのではなく、いのちを与えるために来てくださったのですね。

わたしたちがいのちを豊かに持つために来られたと言うのです。
「豊かさとは、感動する豊かさ、体験する豊かさ、人との出会いの豊かさです。」と牧師先生が言われました。

八木重吉の詩が紹介されました。

とにかくすすんでゆきたい。あゆんでゆきたい、
かぎりなく 澄んだこころ
かぎりなく あたたかいこころをもとめて
            『神をおもふ秋』より


八木重吉はわたしの大好きな詩人です。幼子のように純粋な心を持っているように思います。かぎりなく澄んだ心、かぎりなくあたたかい心を求めて新しい年を歩んでいきたいです。



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