生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

海のエジプト展に行ってきました

2009-06-28 16:45:08 | 日記

朝日新聞のアスパラクラブで海のエジプト展の特別招待券が当たり、開催前日の26日にパシフィコ横浜まで行っていきました。

海底遺跡と聞くだけでぞくぞくします。昔、水中で息ができる人がいて、海中で暮らしていたのでは?と果てしない空想をしてしまいます。そんな小説を書いているので、海のエジプト展にはぜひ行きたいと思っていました。

これまで何かに応募して当選するということがめったになかったので、ペアーチケットをもらって大喜びで娘と出かけました。

横浜へ行くのは随分久しぶりです。みなとみらい線に初めて乗りました。
義母と母と子どもたちで横浜旅行をしたのはもう12年も前のことです。当時はまだみなとみらい線はありませんでした。

みなとみらい駅で降りると、パシフィコ横浜は目の前でした。展示場には大勢の人がいました。1600人招待と書かれていましたが、アスパラクラブ以外で招待された人もいたようです。


海底に沈んだアレクサンドリア、ヘラクレオン、カノープスという3つの古代都市で発掘されたものが展示されていました。

5メートルもの巨大な石造に圧倒されました。どうやって海中から引き揚げ、日本まで運んだのだのでしょう……。

それにしても神々の像が多いのには驚きです。

人間はなぜ像を作って拝みたがるのでしょう。
本当の神は、唯一で目に見えません。目に見えないと本当に存在しているのか不安になるのかもしれませんね。

でも、人の手で作られるものが神だとしたら、信じる価値があるでしょうか? たくさんの神々がいるのだとしたら、どの神を信じたらよいのでしょう……。ヒンズー教徒の多いネパールから来た神学生が「国の人口より神々の数が多いのはおかしいと思った」と言っていました。

聖書では偶像礼拝を禁止しています。

人間は弱い者ですから、目の前に神と称する像があると、それを拝みたくなってしまいます。ソロモンは1000人もの妻とそばめがいたそうです。その中にエジプトの女性もいて、その人たちが持ってきた偶像を礼拝するようになり、まことの神様から心が離れてしまいました。そのせいで、ダビデがせっかく作りあげた王朝が、ソロモンの子供の時代に南北に分裂してしまいます。

エジプト展を見ながら、そのようなことを考えていました。

帰りに中華街へ寄ってお昼を食べました。


写真は花茶です。

その後三鷹の実家へ向かい、翌日は御茶ノ水でJCPの童話エッセイの会に出て昨夜帰ってきました。祝された2日間でした。

雨の日もまた楽しからずや

2009-06-25 12:39:02 | 日記

雨の多い季節。雨が降らなくても湿度が高いため体がだるく、落ち込みそうになります。
そんなときは、あえて梅雨時を楽しく過ごしたいと考えて色々工夫しています。

昨日、教会へ行くときはかなり雨が降っていました。歩いていくしかないので、履き代えの靴下、タオル、デジカメを持参し少し早めに家を出ました。

雨の日にしか見たり聞いたりできないものを発見しようと、目を皿のようにして歩きます。アジサイやハイビスカスの色の鮮やかなこと。柿の木には青い実がなり、葉は水を滴らせています。溝にはアメンボが雨をも気にせずすいすい泳いでいます。

桜川にかかる学園大橋を渡るときには、シラサギの群れが見えます。去年より増えて100羽ぐらいが茂みに羽を休めたり、とびまわったりしています。

シラサギは雨なんかおかまいなしに悠々と翼を広げて飛びます。
ツバメは空をふたつに切り裂くように素早く飛び、雀はさかんにパタパタ羽を動かして鳴きながら飛んでいます。

土手を歩いて行くと、名も知らない野の花に出会います。葉についた水滴の美しいこと。
カメラをかまえたのですが、鳥や小さな花の写真は、良くとれませんでした。葉についた水滴の写真は、まあまあ……。写真の撮りかたを研究しなければ……。

車や自転車だったら見つけられないようなものをたくさん見つけて嬉しくなりました。


めぐみの階段では、宿題で提出したわたしのあかし文章を朗読するように言われました。他の人のも次々朗読するのだと思っていましたが、今回はわたしだけでした。
喘息や乳癌をとおして、神様の善意を信じられるようになった経緯を書いたものでした。書いているときは苦しかった当時のことを思い出して辛かったのですが、読んでいるときは平静でした。生存確率の低い癌になったのは誰かしら?と、ほかの人のあかしを読んでいるような気持ちでした。

読み終わった後、3分間ぐらい沈黙のときがあったので、なぜ誰も何も言わないのかな? と少し不安になりました。


明日から出かけますのでコメント停止にさせていただきます。27日夜には再開予定です。

父の日に

2009-06-22 22:15:51 | 日記

昨日の午後は、教会学校教師会が4時過ぎまであって、家に帰ったら5時でした。今日は疲れて一日ぼおっとしていました。


昨日、一昨日は主人が、実家に泊まりがけで行って手伝いをしてきました。義父は90歳、義母は82歳で、ふたりで暮らしています。義父は、27年前に脳溢血で倒れました。退職直後でした。足が不自由になったものの元気になり、去年までは趣味の油絵を描いたりしていました。

90歳を超えたころから、昼間もベッドでうとうとしていることが多くなり、足もずいぶん弱ってきました。寝たきりではありませんが、お風呂に入るのは一苦労です。浴槽から上がれなくなって春には2回も消防署の人に助けられたそうです。そのたびに義母は腰を痛めています。

バスリフトという介護用品があることをネットで調べ、レンタルするように知らせました。バスリフトを取り付けてから楽にはなったようですが、風呂場に行くまでも大変になってきています。

ヘルパーさんに来てもらうのをいやがるので、ほとんど義母ひとりで介護しています。

主人の実家は土浦から片道3時間近くかかるので、頻繁には行けません。でも、せめて1か月に1度でも行って、義母のお手伝いをしたいと思うのですが…わたしが行くと、逆にいたわられてしまいます。買い物に一緒に行っても、重い物を持ってはいけないからと言って、持たせてくれません。わたしが乳がんになったため、身体を気遣ってくれてのことです。


5年半前、義母が2週間ほど入院していたことがありました。わたしは一日おきぐらいに病院に通っていたのですが、そのときすでに検診で乳がんの疑いがかけられていました。でも、市の定期検査だったので、乳がんと診断がつくまで時間がかかりました。

義母が元気になって退院してから、わたしが乳がんの手術を受けることになりました。義母は自分の看病疲れでわたしが癌になったのだと思い、「申し訳ない」を繰り返しています。

癌は、すでに1.5センチだったので、何年も前から癌になっていたのだということをいくら説明してもわかってもらえません。

その後、わたしが元気になって手伝いに行くと、「疲れるからゆっくりして」と休ませてくれ、御馳走してくれます。優しすぎるほど優しい義母です。
これでは、助けになるどころか、かえって義母に大変な思いをさせてしまいます。どうしたらよいか考えて、主人が行って掃除や草取りなどしてくればいいのだと思いつきました。

主人に話すと、喜々として出かけて行くようになりました。
自分の息子になら義母も気を使うことなくいろんなことを頼めるでしょう。主人も仕事が忙しいので毎月というわけにはいきませんが、2か月に一度ぐらい泊まりがけで行って、手伝ってきます。

昨日はちょうど父の日だったので、義父にポロシャツをプレゼントしました。

明日はそのシャツを着て病院へ行くと言って喜んでいるそうです。
義父が出かけるのは、週に一度のリハビリと1か月に一度の病院だけですが、新しいシャツを着るのが嬉しいと感じてくれるうちは元気な証拠と安心しました。

義父母のうえに主の守りがありますように。

家庭集会の恵み

2009-06-20 17:25:55 | 教会

昨日は我が家での家庭集会でした。家庭集会の準備は大掃除から始まります。掃除が苦手で、いつも大ざっぱなので、人を招くとなると大変です。

冷蔵庫掃除から始まって、台所レンジ周りや流し台、壁、床みがきなど、月曜日から場所を決めて掃除します。2か月に一度でも家庭を開放することがなければ、我が家はどうなってしまうのだろう…・・・と思うほど、汚いところだらけです。掃除が大変なので、日ごろもっと掃除をしていればよかった…・・・と反省しますが、家庭集会が終わるとそのことをすっかり忘れてしまいます。

準備は5日前からでは間に合わないのですが、前日になるとあきらめて掃除を打ちきり、買い物と、昼食の下ごしらえをします。

 当日は朝早く起きて、いつもより祈りの時間を長くし、家庭集会に備えます。子どもが小さい時は、幼稚園バスに乗せるため送りにいっているうちに家庭集会の時間になり、準備が整わないうちに訪れる人があったりで大慌てでしたが、今は主人が定刻に出勤してくれれば十分間に合います。

昨日は牧師先生と5人の方が来て下さり、祝されたときを過ごしました。

我が家で家庭集会を始めて18年になります。乳がんになったときと引っ越しのときは2・3か月お休みしていますが、よくここまで続けさせていただいたと神様に感謝しています。

体がきつくて、辛い時もありましたが、当日急にできなくなったことは一度もありませんでした。

教会の月報に「家庭集会の恵み」として昨年書いたものがありましたので、一部書き直して掲載いたします。


           家庭集会の恵み

我が家で家庭集会をさせていただいてから17年になります。我が家に訪れた方は、訪問者数約40名、延べ人数約1.100人になります。計算してみて自分でもびっくりしました。17年の間に3人の方が受洗され、2人が召されました。

土浦に越してきて最初に住んでいたマンションの住人は、ほとんどが転勤族でした。当時小学生だった長男を通して同じマンションの方々と親しくなりましたが、それぞれに問題を抱え、孤独な気持ちを抱いているようでした。この方たちに福音を伝えたいという思いが日に日に募っていきました。

ひとりではとてもできないのでK姉に応援を頼みました。K姉は10年以上、祈り手、助け手として奉仕して下さいました。最初の家庭集会は、K姉とわたし以外はみなノンクリスチャンでした。マンションから9名もの方が来てくれました。

そのころは月に2回、お昼は出さずに10時から12時まで行っていました。新しい人たちは、回を重ねるごとにひとり減り、ふたり減りして、数か月後には誰も来なくなってしまいました。

その後、クリスチャンの姉妹数名がメンバーになって下さり、隣に住んでおられた年配のご夫婦が来て下さるようになりました。年配のご夫婦は、2年ぐらいの間毎月喜んで来て下さったのですが、ご主人が病気で召され、その一年後に奥様が召されてしまいました。受洗には至らなかったのですが、心の中ではキリストを信じ、受け入れていたに違いないと思っています。

B町に越してからは、S姉が強力な助人になって下さいました。S姉と隔月に家庭集会をするようになって、新しいメンバーも与えられました。
数回来て、遠のいてしまった方はたくさんおられますが、神さまはその方たちにも働きかけておられます。

最初の家庭集会に来てくれた方で、今は他府県に住んでいる友人と久しぶりに会いました。友人が「家庭集会がなつかしい」と言ったので驚きました。友人はわたしのブログをずっと読んでいてくれました。友人と会話をかわすうちに、彼女の心に家庭集会で蒔かれた種が根付いているのに気づき、嬉しく思いました。いつか芽が出て成長することを祈っています。

S D G

2009-06-18 16:44:25 | 教会

昨日は、「めぐみの階段」がお休みだったので、水曜礼拝に出席しました。
めぐみの階段と水曜礼拝が同じ時間に教会の別の場所で行われているので、しばらく水曜礼拝には出ていませんでした。
水曜礼拝では、ハイデルベルグ信仰問答の「主の祈り」の最後の部分についてのメッセージがありました。

「主の祈り」とは、イエス・キリストが弟子たちに教えた「祈り」のお手本です。たいていどの教会でも日曜礼拝で毎週祈られています。教会学校の子どもたちも暗唱しています。ご存じない方のために聖書に書かれている主の祈りを紹介します


天にいます私たちの父よ。
御名があがめられますように。
御国が来ますように。
みこころが天で行われるように地でも行われますように。
私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。
私たちの負いめをお赦しください。
私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。
私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。
国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン
マタイ6:9~13


主の祈りでは6つの願いをしていますが、最後の願い『私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください』についての説明を聞きました。


私たちはあまりに弱く、ほんのひと時立っていることもできません。そのうえ、私たちの敵である悪魔やこの世、自分自身の肉(罪)が攻撃を仕掛けてきます。それらに激しく抵抗し戦っていかなくてはならないのです。それらの戦いに完全に勝利することができるようにという祈りです。


悪い誘惑にあったり、攻撃されることがないようにという意味だと思っていたのですが、そうではなく、それらに戦って勝利するようにという意味なのですね。

確かに誘惑は絶え間なく襲ってきます。いちばん怖いのは、自分の中にあるものです。内側から攻撃してくるもの……神様に逆らおうとする気持ちが起きてくるのを認めざるをえません。


それに勝利するには祈りしかないと牧師先生が言われました。


自分の力ではとても勝てません。でも、祈ることによって主の助けが与えられ、勝利できるのですからありがたいです。


イエス様にも誘惑がありました。荒野で悪魔の試みにあっています。ゲッセマネでは、苦しみもだえて祈っておられます。
ゲッセマネでイエス様は十字架の苦しみからのがれたいという思いから勝利されました。イエス様は「わたしはすでに世に勝ったのです(ヨハネ16:33)」と宣言されました。

そして、主の祈りの最後には「国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。」と祈ります。あなたというのは神様のことです。
祈るのは、自分の欲を満足させるためではなく、すべてが神様の栄光のためにという意味です。


バッハは自分が作曲した楽譜にSDGとサインしたそうです。Soli Deo Gloriaのことで、「ただ神の栄光のために」という意味です。

わたしも、エッセイや小説、童話を書いたらSDGとサインしたいです。そしてこのブログにも……。

主の食卓に招かれたら

2009-06-15 21:43:10 | 教会

梅雨に入って湿度が高くなったせいか、一時的におさまっていた薬の副作用による関節痛がぶり返してきました。でも、強い薬を飲むのはあと少しなのです。来月から薬が変わるので、期待しています。

昨日も今日も夕立ちがあって、雷が鳴るのでそのたびにPCを消しています。中断ばかりで落ち着きませんが、昨日は停電したのでPCを消していて正解でした。


昨日は年に一度の親子礼拝でした。0歳児から小学6年生までの子どもと父母が共に礼拝を守りました。
広い会堂はいっぱいで(300人ぐらいいたでしょうか?)椅子が足りなくて立っている父母もいました。


メッセージではK先生が本物のパンとぶどうジュースを持ってきたので、子どもたちは興味津津でした。
「イエス様は一緒に食事をしましょうと、あなたを招いてくださっています。一緒に食事をすると親しくなるし、楽しいですね。」
と言ってK先生はパンを手に取りました。

「パンの気持になって考えて下さい。」
と言ってパンをちぎりました。
「パンはどんな気持ちでしょう?」
「おいしそう」
と答えた子どもがいました。
「それは、きみの気持ちでしょ。パンはどう思う?」
「痛いよ」
「イエス様は『わたしはいのちのパンです』とおっしゃいました。それは、イエス様の体がこのパンのように十字架の上で裂かれたからです。」
今度は、ぶどうジュースを手にして、
「ここにぶどうジュースがあります。ぶどう酒はどうやって作られるか知っていますか?」
 
ぶどうを酒ぶねに入れて足でふんでいるVTRを見せて、
「ヨーロッパではこうやって作る国があります。ぶどうはどんな気持ちでしょう」
「踏んづけられて痛い」
「イエス様は、鞭打たれ、十字架で肉を裂かれ、血を流して下さいました。そのおかげで私たちの罪は赦されました。イエス様はぶどう酒を『これはわたしの血です』と言われました」

イエス様に食事に招かれたらあなたはどうしますか?
用事があるから、行きませんと断る人がいます。私は罪深い人間なので一緒に食事などできませんと断る人もいます。どちらも悪い例です。
そんなこと言わずに「はい、喜んで」とイエス様の招きにこたえましょう。あなたの罪はもう赦されているのですから。


幼子のように素直な心でイエス様の招きに応えたいと思いました。

だいじょうぶ!

2009-06-13 09:39:48 | 日記

ラッセル・ケルファーについて調べていて、わたしのブログにたどりついたという方からコメントをいただきました。
2006年3月に書いた「だいじょうぶだよ」という詩に慰め励まされましたとコメント下さって、感謝しています。その詩を自分では忘れかけていました。

 
「だいじょうぶ」という言葉を聞くと、思い出すことがあります。
友人の娘さんが高校受験の前、ストレスで胃に穴があきそうになっていたときのこと、クリスチャンであるお母さんは心配して娘さんを励まそうとしたそうです。
そのとき、娘さんは「心配しないで」と言って、学校で書いた作文を見せたそうです。
作文のテーマは「私の好きな言葉」でした。
娘さんが選んだ言葉は「だいじょうぶ」でした。お母さんは、それが聖書のみ言葉でないので最初はがっかりしたそうです。でも、その作文を読んで感動し、主に感謝したといいました。


娘さんの作文には、『胃が痛くなるほど緊張しても、だいじょうぶだよという声が聞こえてきます。それは、志望校に合格するからだいじょうぶなのではなく、どんな結果になってもだいじょうぶだよという意味です』というようなことが書かれていたそうです。
 
作文には聖書の言葉も神様という言葉も出てきませんが、信仰がなければ書けない文章です。神様によって守られていること。主権が神様であることを認め、どの学校に入ってもそれが主にあって最善なのだと娘さんは告白しています。


ラッセル・ケルファーは、一日を始める時、このように告白したそうです。
「私の人生は主のものであり、私は主だけに仕えます。」
わたしもそのように祈って一日を始めたいです。

ラッセル・ケルファーの詩を紹介した記事はこちらです。
「だいじょうぶだよ」の詩を掲載した記事はこちらです

降りる階段

2009-06-11 16:35:52 | 日記

一昨日、友人に誘われて、おにぎりを持ってウォーキングに行ってきました。ウォーキングといってもたいした距離を歩いたわけではありません。目的地まで友人の車に乗せてもらって行ったのですから、ありがたいことです。

写真はつくばの万博記念公園です。緑が目にしみるようでした。梅雨直前のよいひと時を過ごせました。


昨日はクリスチャンの成長プログラム「めぐみの階段」の日でした。「めぐみの階段」が始まってから1週間が飛ぶように過ぎて行きます。毎週宿題レポートがあるのでパソコンで書く作業が増えています。ときどきは外に出て歩かないと体調が整いません。

「めぐみの階段」は登る階段ではなく、降りる階段です。それは、信仰者は成長すればするほど謙遜になるということを示しているのだそうです。

わたしは、自分がどれだけ高慢な者であるか気づいてから、少しでもへりくだった者になりたいと思いました。

本当に謙遜な人は、たとえ批難されても落ち込まず、傷つかないのだと思います。
わたしは、まだ謙遜になっていない証拠によく傷つきます。

主人が何か用事をしているときわたしがウロウロしていると「じゃま!」と言うことがあります。『どいて』という単純な意味なのですが、無口な主人がぼそっと一言いうので、わたしの存在そのものがじゃまだと言われた気がして傷つきます。
でも、最近は「そんなふうに言われると傷つく」と主人に抗議しています。抗議できるようになってから少し心が解放された気がしています。


 昨日、JCPのHP更新しました。わたしの書いたエッセイも掲載していますのでご覧ください。
 

あいうえお クリスチャン(その2)

2009-06-08 17:04:35 | 教会

理想のクリスチャン像を「は行~わ行」で書いてみました。(ま行は逆です)わ行は理想像というより、今の心境です。
理想と現実の自分の姿のギャップに心がヒリヒリしています。

でも、具体的に理想像をはっきりさせることは、理想に向かって成長の歩みをし始めていることでしょうか?

理想像を書くことによって、理想に近づくにはどうしたらよいか少しわかってきました。

わたしは、子どものころから理想を追い求めていました。
明るく、積極的で誰からも好かれる人、こんな人にわたしはなりたいと。

でも、あまりにも理想とかけ離れている自分に絶望感を募らせるばかりでした。また、理想像が具体的ではなかったので、目指すべき目標が定まらず、理想に向かって成長するということもありませんでした。

イエス・キリストという最高の理想像を知って、ゴールが定まりました。



キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。(ピリピ3:14)              


ハ レルヤと主をほめたたえ           
ひ とを愛し                  
ふ せいなことをせず
へ いあんに満たされ              
ほ められても高ぶらない人        

キリストを も とめ
キリストを め ざし
キリストに む かい
キリストの み くにを想い
キリストを ま ち望む人    ↑

や すらかに召され
ゆ めにみた天国に入り
よ くやったとほめられる人

ら くなことより苦を選び
り んじんを愛し
ル ツのように従順で
れ いに満たされ
ろ うじんになっても主に従い続ける人

わ たしほどひねくれた人間はいないと思っていたこの者
を 救ってくれたイエス様にか
ん しゃ

             
おわり




あいうえお クリスチャン(その1)

2009-06-06 09:47:58 | 教会

昨日は病院に行ってきました。乳がんの術後5年の検査です。もう5年半たっているのですが……。腹部、胸部エコー検査、レントゲン、そして血液検査を受けました。苦痛が伴う検査ではないのですが、もし再発か転移していたらどうしようと……不安がよぎります。結果を聞くのは、注射を打つ関係で1か月半も先になります。
もし異常があれば病院から連絡があるはずですから、恐れないで結果を待つことにします。


毎週水曜日に教会で行われているクリスチャンの成長のための学び「めぐみの階段」が始まって3回目になります。毎回宿題が出されるのですが、前回はおもしろい宿題が出ました。理想のクリスチャン像をあ~わ行のどれかを使って5行詩のような形で書くという課題です。

考え始めるとおもしろく、次々浮かんできます。夜寝ていてもはっと目覚め、アイデアが浮かぶと携帯メモに記していきました。わ行まで10個作ってしまいました。楽しかったのですが、寝不足です。

先日全員の書いたものが発表されました。皆さんよく考えておられ、感心する作品ばかりでした。ここでは他の方の作品を紹介できませんので、わたしの拙作を紹介させていただきます。

今日は『な行』まで紹介します。(さ行は逆になっています)


あ いされていることを 喜び
い かされていることを 喜び 
う らみつらみが消えたことを 喜び
え いえんの命がいただけることを 喜び
お それを取り除いてもらった 喜びでいっぱいの人


か なしんでいる人を慰め             そ んすることをいとわずに
き の弱い人に勇気を与え            せ んとうきって前進し
く じけそうになった人を励まし          す なおな心で
け んかする人に平和を与え           し ゅに従う人
(御)こ とばに従って生きる人        ↑ さ すがです



た えず祈り                 な にがなんでもと言わないで
ち の塩世の光となり              に っこり笑ってゆだねている
つ らいことが起こっても            ぬ かるみにはまっても
て んを見上げ、キリストに           ね むれぬ夜が続いても 
と どまり続ける人                の ぞみを抱き続けられる人


                
つづく

グリーン・ジョイフル(その3)

2009-06-04 12:17:18 | 日本クリスチャン・ペンクラブ

研修会では5-6人のグループに分かれて、それぞれが「私と聖書の人々」というテーマで書いてきたあかし文章を発表し、批評しあいました。

以下はグループでの学びのあとでI先生がおっしゃった言葉です。


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批評されることによって、第三者の目で客観的にみてもらえる。
愛がなければ批評ができない。ほめられることも大切。
ベテランになればなるほど車検のように点検と集中的検査をする。
神様はどんな拙い文章でも用いて下さる。
自然に感動が伝わるように書く。(伝えようと思うとダメ)
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『神様はどんな拙い文章でも用いて下さる。』という言葉にほっと胸をなでおろしました。

最後にグリーン・ジョイフルの閉会礼拝のメッセージを紹介します

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詩篇119編は次の節で終っています。
「私は滅びる羊のように迷い出ました。どうかあなたのしもべを捜し求めて下さい。私はあなたの仰せを忘れません。(詩編119:176)」

この聖書の言葉は、信仰の主体性はわたしではなく、神であることを示しています。
信仰は、何年信じてきたか、どれだけ奉仕してきたかではないこと。
信仰とは、わたしが信じているのではなく、信じさせて下さる神様がおられる。わたしを捜し求めておられる神がおられるということです。
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自分には信仰があると思った瞬間、不信仰になって揺らぎます。不安で心の中は嵐の海のようになっています。そして、どこへ向かっていけばよいかわからずに羊のように迷い出てしまう自分を思いました。


祈り
神様、どうかわたしが信仰歴や奉仕を誇り、高ぶることのないようにしてください。しばしば迷い出る者ですが、見つけ出して懐に抱いてください。

                おわり

グリーン・ジョイフル(その2)

2009-06-01 16:30:01 | 日本クリスチャン・ペンクラブ

JCP研修会のグリーンジョイフルで「わたしの文章作法」としてお話をさせていただいたことの一部を紹介します。 


わたしは中学生のころ、むなしさを感じて死にたいと思っていた時期がありました。自分の存在価値、生きる意味がわからず、気力を失っていました。
もし創造主である神様のことを知っていて、神様の愛を伝えられていたら、ずいぶん違っていたでしょう。

現代を生きる子どもたちの中にもわたしと同じような思いを抱き、死を望んでいる子どもがいるのではないかと思います。その子どもたちに何とか神様の愛を伝えたいと願い、児童伝道に重荷をもつようになりました。
そのためにわたしができることとして考えたのが、童話や児童小説を書くことでした。

映画や物語が子どもたちの心にどれほどの影響を与えているかご存知でしょうか。
大人は物語の世界と現実を区別して考えます。でも、子どもは強烈な印象を受けた物語を頭の中で何度も繰り返すのです。

12年前、娘が小学生のとき、宮崎駿監督の映画『もののけ姫』が公開されました。
「隣の席の男子が授業中に『もののけ姫』のテーマ曲をずっと口ずさんでいて、うるさくてしょうがない」と娘が言いました。その男子はテーマ曲を口ずさみながら映像やストーリーを頭の中で何度も繰り返していたのでしょう。

また、子ども家庭集会で訪れた家の子どもは「千と千尋の神隠し」の絵本を持ってきて、その内容を一生懸命説明してくれました。「千と千尋」は八百万(やおよろず)の神を描き、「もののけ姫」は自然のものに精霊が宿るという思想です。

子どもに観せてはいけないと言っているわけではありません。聖書物語を聞いて育った子どもたちは、大丈夫だと思います。でも、聖書の神様を知らない子どもたちは、間違った神観が植えつけられてしまいます。

アニメではありませんが、去年公開された「ライラの冒険」を観にいって驚きました。原作はフィリップ・プルマンの「黄金の羅針盤」というファンタジー小説です。そのテーマは神に対する反抗で、神に反抗するサタンが正しいという見解で書かれています。

子どもたちはエキサイティングな物語展開、映像に惹きつけられて観ます。テーマはわからなくても伝わってしまいます。そのような物語を繰り返し頭の中でシミレーションしている子どもたちのことを思って心が痛みました。

CSルイス原作の「ナルニア国物語」が映画化されたときは嬉しくて2作とも映画館で観ました。強調する場面は原作と異なっていましたが、しっかりテーマは伝えられていました。

子どもたちに植えつけられた間違った神観、価値観を覆すには、聖書信仰に基づいた子ども向け小説や映画がどんどん作られることです。

聖書信仰を土台とし、子どもの心を惹きつけるストーリーで、文学的にもすぐれた作品が書きたい……と願いますが、説明は簡単にできても実際に書くとなると、とてつもなく大変なことだのだと最近思い知らされました。

わたしは、童話を書き始めて15年になりますが、まだまだ暗中模索の段階です。
2年ほど前からファンタジーの長編に取り組んでいます。昨年秋のオータムジョイフルで「書くことの原動力」と題して書いたエッセイに


【「神の国とその義とをまず第一に求めなさい」のみ言葉から小説の書き方を学ぶより、まず神様のことを第一に求めるべきなのだと考えて、御茶ノ水聖書学院通信科で旧約聖書の学びを始めました。学びを通して神様がどれだけわたしのこと愛しておられるかがわかって、胸が熱くなりました。この思いの高まりが書くことの原動力となって、書き上げることができたのです】
と書きました。

その後、書き上げた小説を娘に読んでもらいました。
「信仰という縦糸はしっかりしているけど、技術的な横糸がヘロヘロだから、作品としてはまだまだね」と手厳しい批評を受け、がっかりしていると、

「でもね、お母さん。ひとつだけ成功したことは、いつもキリストを示す登場人物を前面に出していたので、読んでいるとテーマを押しつけられているように感じたけど、今回はそれを感じなかったよ。うまく隠されていて、神様の愛が伝えられているよ」
と、娘が励ますようにいいました。その言葉を聞いてとても嬉しく思いました。

その後、児童文学者協会の講師の先生に小説を見ていただきました。「ストーリーはいいが、技術的にまだまだ……。説明が多すぎる。説明でなく臨在感のあるものとして書くように」と言われました。

それから4か月かけて推敲をしました。大がかりな全体的推敲は3回目です。原稿用紙200枚弱だったのが248枚に増えていました。
そして再びこれを児童文学者協会へ持っていくと、一生懸命書き直した努力は認めてもらったものの構成の面で問題があって、またまた書き直しになりました。

少し時間を置いて寝かせてから書き直したいと思っています。完成まで何年かかるかわかりませんが神様が書きあげる力を与えて下さると信じて……。

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