生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

待つということ

2017-11-29 20:06:16 | 教会
今日は水曜礼拝の後、駅前に新しくできた土浦図書館に行ってきました。
今迄の図書館が閉館する前に8冊も借りていたので返すのが目的です。借りている期間が図書館移転のため2か月近くあったのですが、半分も読めませんでした。(別の本を読んだりしていたので)

今回は忙しくて2週間後に返せるかわからないので、借りて来ませんでした。

館内は明るくてとても広く、ラウンジもあり、くつろいで本を読んでいる人たちがおられました。児童書のコーナーも広くて、これまでの図書館とはずいぶん違います。

ただ、これまでは家から歩いて10分ほどのところに図書館があったのに、今度は遠くて30分はかかります。自転車でも遠く感じられます。運動になるので通うつもりですが、年明けてからにしようと思っています。

水曜礼拝では「待ち望む心」と題して聖書のルカの福音書1:26~38からメッセージをいただきました。

先日、つくばエクスプレスが20秒早く発車したことを鉄道会社が詫びていましたが、海外メディアから驚きの反応があったそうです。

アメリカでは、20秒遅れたぐらいであやまっていたら、あやまる専門の駅員が必要だと言ったとか……。
時間通りが当たり前の日本と30分ぐらいまでは遅れても気にしない国とでは感覚が違うのでしょうね。

ラインの返事が5分来ないだけでイライラする中高生。現代人は待つということができなくなっていると聞いて、わたしもそうかもしれないと思いました。

知り合いに「あなた、かなり危ない運転をしているね」と言われました。わたしが自転車で走っている時、ちょうど車の中から見ていたそうです。信号がまさに赤になろうとしているときに猛スピードで渡ったり……。

暴走ぶりを見られていたんだ(>_<) でも骨粗鬆症と診断を受けてからは、転ぶのが怖いので無謀なことはしなくなったと思いますが……。


待つということは時間の無駄だと考える風潮がありますね。待っているだけではだめ、自分から行動すべきだと言う人もいます。
なぜ待てないのか……それは恐れに取りつかれているからだそうです。満たされていない思いがあり、自分が不完全な者だと思って恐れるため、待つことができないのです。
また、怒りの感性も待つことから遠ざけています。

でも、待つことのできた人たちがいます。
2000年前、ザカリア、エリザベツ、マリヤ、ヨセフ、シメオン、アンナは待つことができました。救い主がいつか生まれると旧約聖書に預言されていて、イスラエルの民はそのときをずっと待っていました。聖書の人たちは、待つことが、かけがえのない時間と思って待っていました。それはすでに起きている出来事なのだと信じ、今を積極的に待っているのです。

マリヤは神の子を宿していると知り、驚きとまどいながらも受け入れました。そして、胎内で赤子が育まれ、生まれてくるのを待ちました。
より良いできごとが起こると信じ、希望を持って待ちました。

ザカリアとエリザベツは年を取ってから赤子を授かり、生まれるときを待ちました。シメオンとアンナは救い主に会うことを待ちました。

待つことができなくて自分の意のままに操作しようとする人たちがいます。
でも、わたしたちの人生を導いてくださる神様を信頼して待ち望むことが大切だと
教えていただきました。


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決して滅びないもの

2017-11-24 20:36:12 | 家族
昨日は91歳の義母の引っ越しでした。老人ホームに入居するのです。ホームの場所は自宅から車で30分のところです。3人の子どもの家からは、それぞれ2時間以上(わが家からは3時間以上)かかる場所です。

90歳近くになってから、一人暮らしが不安になったようなので、わたしたちはホームを捜し、見学に行ったり、体験入居してもらったりしました。でも、義母は気に入らないようで、入居するとはなかなか言いませんでした。
ようやく決めた理由はわかりませんが、慣れ親しんだ自宅から近いこと。ホームから歩いて10分のところにお墓があることがいちばんの理由かもしれません。

ホームで必要な家具は、ほとんどネットで購入しました。わたしが購入手続きをしたのですが、とても時間がかかりました。

日時指定ができるものが少なかったからです。しかも日時指定ができるかどうかは購入手続きに進んでからでないとわかりません。やっとサイズも色もちょうどのものを見つけてカゴに入れたのに、日にち指定が出来ないことがわかり、カゴの中を削除することの繰り返しです。

自宅に送ってもらうのならいいのですが、ホームに直接送る場合は、日時をそろえたほうがいいと思い、23日の午前中着でなんとか必要な5点を送ってもらいました。同じ店のものを送りたかったのですが、それができず、すべて別の店からでした。それでも間違いなくちゃんと指定通り届いたので感謝しました。
押し入れや部屋のサイズは夫がしっかり測っていたので、ぴったりおさまりました。

午前中は土砂降りだった雨も午後になるとぴたっとやみました。家から運ぶ荷物は義弟の車に積み、4往復もしてくれて、すべて運び入れることが出来ました。その間、わたしはお義母さんとお茶を飲んでおしゃべりしていました。

朝から悲しげな表情をしていた義母ですが、新しい部屋で新品の高座椅子にすわると、ほっとしたようでやっと笑顔を見せてくれました。

義母が「時間がたっぷりあるから絵を描こうかな」と言ったので、「出来上がったら見せてくださいね」と言うと、「でも、どうせ捨てるのよね。今まで作ったものもみんなゴミになるんだから」と悲しそうに言いました。かつては木目込み人形を作っていて、家にたくさん飾っていたのですが、ホームに持ってきたのはひとつだけでした。

わたしも断舎離をしていると、今までやってきたことがすべて無になるような気がして空しくなりました。
「作品がなくなってしまっても、作品を見た人の心に残りますよね。それで元気づけられたりするのです。何よりも作った本人が我が子のように忘れないのだから、これからも描いたり作ったりしてください」と言いました。

本当は「決して滅びることのないものがある」と言いたかったです。
聖書には「この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは、決して滅びることがありません。(マルコ13:31)」とはっきり書かれています。

造られたものはやがて滅びます。こんなに空しいことはありません。でも、神様の言葉は決して滅びることがありません。神を信じる者も滅びることがないのです。


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見えるようになれ

2017-11-21 16:46:44 | 聖書から
このところ忙しくて毎日が矢のように過ぎ去っていきます。感動したことがあっても、書き留めていないと忘却のかなたに流れ去ってしまいます。
すべてを書き記すことはできませんが、今日は少しさかのぼって16日の家庭集会の学びを思い起こしてみます。

聖書には同じ章の中にいくつものエピソードやイエス様の語られたことが書かれています。

ひとつずつ切り離して考えがちですが、全く違うと思われたふたつのことが、実はつながっていたことを教えられました。

ルカの福音書18:31~33に書かれていることは、イエス様が12弟子に言った言葉です。「人の子は異邦人に引き渡され、そして彼らにあざけられ、はずかしめられ、つばきをかけられます。彼らは人の子をむちで打ってから殺します。しかし、人の子は3日目によみがえります。」
人の子とはイエス様ご自身のことで、これから起こることをおっしゃっているのですが、
弟子たちには、これらのことがさっぱりわからなかったようです。

18章35節からは、イエス様がエリコの町で盲人の目を癒されたことが書かれています。
物ごいをしていた盲人は、イエス様が自分のいる町に来られたことを人々の話し声から察し、このかたこそ神の子だと思ったのでしょう。

「ダビデの子のイエスさま、わたしをあわれんでください」と叫び続けました。
ダビデの子とは、神の子という意味です。人々にうるさいと言われようが、迷惑がられようが盲人は叫ぶのをやめませんでした。
イエスさまこそ癒し主、救い主だから今を逃したら一生お会いできないかもしれない。でも、お会いできれば見えるようになると信じたのです。

イエス様は彼を連れてくるように言われました。そして盲人に「わたしに何をしてほしいのか」と尋ねられました。イエス様は、盲人の考えていることをすべてご存知でしたが、あえて尋ねられました。
「主よ。目が見えるようになることです」

何と明快な答えでしょう。この人は少しもひねくれていません。
わたしだったら、「目が見えないことを知っているくせに、なぜわざわざ聞くのですか?」
と言ったかもしれません。


イエス様は「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを直したのです」と言って直してくださいました。
弟子たちは今、目の前で起きている出来事しか見えていなかったので、イエス様の語られたことを理解することができませんでした。

盲人は、目は見えなくても心の目が開かれていたので、イエス様が癒す力を持っていることを信じていました。
「あなたの信仰があなたを直した」と言われて、嬉しかったことでしょう。その後、彼は神をあがめながらイエス様についていきました。
一方、弟子たちはその後、イエス様についていけなくなります。

レジュメには「イエス様についていくためには何が必要でしょうか?」
「何が分かるとイエス様についていくことができますか?」
と書かれていました。



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無理なく自然体で

2017-11-17 15:20:20 | エッセイ
昨日はレストランでの家庭集会でした。いつもは教会で行っていますが、年に2回ほどレストランでさせていただいています。オーナーのご夫妻が同じ教会員なので、家庭集会をしたいと言えば、お店を貸切にしてくださり、おいしいランチをごちそうしてくださいます。

一時間半ほど聖書の学びをしてからランチを戴き祝福された時間を過ごしました。
学びについて書きたいのですが、これから孫たちを迎えに行くので時間がありません。

教会の月報に掲載された家庭集会についてのエッセイを紹介します。

                  無理なく自然体で
                              
家庭庭集会は27年目になりました。土浦に引っ越してから半年後に始めましたが、市内で2回引っ越したので場所が変わり、メンバーも変化しました。

家庭集会を開きたいと思ったのは、同じマンションの人たちに福音を伝えたいと思ったからです。最初に住んでいたマンションは、新しくできたばかりでした。小学生のお子さんのいる家庭が多かったので、当時小学2年生だった長男を通してマンションの方々とおつきあいするようになりました。家庭集会にお誘いすると、初めは10人も集まって驚きましたが、長続きはしませんでした。

その後、クリスチャンの姉妹数名がメンバーになって下さいました。
数年して、隣に高齢のご夫婦が引っ越してこられました。家庭集会におさそいすると、ご夫妻は2年の間、毎回来て下さいました。でも、残念なことにご主人が召され、その後奥様も召されてしまいました。
文京町に引っ越してからは、Sさんが家庭を開放してくださり、新しいメンバーも与えられました。家庭集会のメンバーで2人の方が受洗の恵みにあずかりました。

その後、隣町に引っ越したのですが、数年たつと夫が退職して家にいるようになりました。最初は夫が出かける予定の日に家庭集会をしていましたが、夫の予定が急に変わることがあり、負担をかけてしまいました。これまで家庭を開放してくれていたメンバーも都合でできなくなって、これで文京家庭集会は終わりだと寂しい気持ちでいっぱいでした。

ところが、メンバーのひとりが「教会で家庭集会ができないかしら」と提案してくださいました。それで3年前から教会の和室で行うようになりました。和室の戸を閉めると、なんとそこは家庭の一室のようです。そこでは、聖書を学び、賛美をし、食事を共にし、おしゃべりを楽しみます。また、人にはなかなか言えないような悩みを打ち明け、祈りの場になることもあります。

食べ物のことで気を使わないようにお昼はイオンのお弁当です。年に2回ほどは、ちょっと贅沢してレストランで行っています。できない月はお休みして、無理なく自然体で続けていけたらなあと思っています。



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目に見えない望みを持って

2017-11-09 16:39:10 | 教会
膝が痛くて整形外科に行くと、変形性膝関節症と言われ、9月に装具をつけました。膝につけるのではなく、小さなスリッパのようなものを履くのです。装具には傾きがついていてO脚を矯正してくれ、膝の骨がこすれないようになっています。

装着して一週間ぐらいで効果が表れ、痛みはほとんど感じられなくなりました。
すると右膝も左と同じ個所が痛くなり、また整形外科に行ってきました。
右も装具をつけることになり、慣れないのでアヒルのような歩き方になっています。

紐で調節できる靴ならそのまま履けますが、おしゃれ靴は履けません。ちょっとがっかりです。でも、右も痛みがやわらいできているので、感謝しています。

5日は召天者記念礼拝でした。

今年も故人の写真が映像で流されました。何と懐かしい人たち……。お世話になった人たち……。ほとんどの映像は笑顔です。わたしの両親の画像が写されたときは、また泣いてしまいました。
ふたりとも天国にいるとわかっていても、いつか再会できるとわかっていても、地上では
会えないのです。

愛する者から引き裂かれた悲しみが波のように襲ってきます。
もっと優しく接すればよかった。ああすればよかった、こうすればよかった……と後悔の気持ちで胸が痛みます。

でも、「希望があります。」と牧師先生が言われました。

ローマ人への手紙8:18-19には「今の時のいろいろの苦しみは、将来わたしたちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足らないものと私は考えます。被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。」と書かれています。
希望は、生き抜く力になります。

地上には苦しみがあります。うめいている人たちがいます。でも、希望があります。

「私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。(ローマ8:24)」

目に見えない望みを抱いて歩んでいきたいです。



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成長していく力

2017-11-06 16:57:12 | ティーンズ

3日~4日は教会のティーンズ(中高生)のお泊り会でした。お泊り会は釜メシと呼ばれています。釜飯を食べるわけではありません。同じ釜の飯をいただいて親交を深めるという意味かな(?)
わたしは体力がないので泊らず、通いで奉仕しました。

3日は貝塚公園の広場でフリスビーを使ったスポーツ、アルティメットをしました。フリスビーは飛ばして遊ぶことしか知らなかったのですが、アルティメットという競技があることを教えてもらいました。バスケットとアメリカンフットボールを合わせたような競技です。

フリスビーの飛ばし方や、受け取り方を練習すると、チームに分かれて試合が始まりました。子どもたちは、回数を重ねるほど上達していきました。アルティメットは、ほとんどの子どもが初めてだったので、飛びぬけて上手な子はいませんでした。チームで助け合わなくてはならなかったので、とてもいい試合になりました。子どもたちはチームプレーの大切さを学んだようです
ちなみにティーインズ奉仕者最高齢のわたしは、芝生に座って見学していました。たいしたことをしていないのに、今日は腰痛で半日寝ていました。

教会に戻ると、夕食の準備です。メニューは鶏肉の甘辛焼きとけんちん汁、豆腐入り白玉デザートです。3つのグループに分かれてイオンで買い物しました。

教会のすぐ近くにイオンがあるので助かります。
(イオンやニトリが教会の敷地内にあると勘違いしている人がいるほど……)
家ではほとんど料理をしてない子どもたちなのですが、ちょっとコツを教えると、すぐに覚えました。おいしくいただきました。

翌朝の礼拝では、聖書通読の恵みが語られ、聖書全体像についてレクチャーを受けました。前日遅くまで起きていたのでしょう、居眠りをしている子どもたちが多かったです。そのあと、グループワークです。

私の担当したグループには1時間半で聖書の創世記を調べ、主な出来事を箇条書きにするという課題が出ました。チャペル・ピスガの芝生に場所を移動したら、皆、芝生で寝てしまいました。すぐに声をかけず、待つことにしました。このまま一時間半ずっと寝てしまったらどうしよう……とあせる気持ちを押さえて待ちました。待つこと8分、ひとり、ふたりと起き出し、全員めざめたのでほっとしました。

少し眠ったことが良かったのか、課題への取り組みは男子も女子も意欲的でした。
教師がすべて教えてしまってはダメですが、助言をしないと時間内に終わりません。
でも、子どもたちはわたしが思っていた以上に「聖書を知りたい」という思いが強く、生き生きとして課題に取り組み、発表していました。

ティーンズの教師をさせていただいて8か月になります。小学科が長かったので、つい中高生なのに小学生扱いをしてしまうこともありましたが……。子どもたちの成長していく力を現在進行形で見て、驚きと喜びが与えられています。


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「ヴィーナスという子」を読んで

2017-11-01 16:43:10 | 読書
「ヴィーナスという子・・・存在を忘れられた少女の物語」トリイ・ヘイデン著/入江 真佐子訳(早川書房)を読みました。ノンフィクションです。

これまでも同じ作者の「シーラという子」「タイガーと呼ばれた子」「檻の中の子」などを読みました。でも、この本ほど感動したものはありませんでした。

7歳のヴィーナスは、学校へ来ると石塀の上にのぼってじっとしているだけです。教室に連れて行き、話しかけたり、絵本を読み聞かせても反応がありません。聴覚または脳に問題があるのかと調べましたが、異常はみつかりませんでした。

どうしてここまで心を閉ざしてしまったのでしょうか……。

ヴィーナスを学校に送ってくるのは、ワンダという知的障がいのある姉です。ワンダはヴィーナスのことを「ビューティフル・チャイルド」と言ってかわいがるのですが、ときどきヴィーナスの存在を忘れてしまいます。

トリイのクラスには4人の元気な男の子たちがいて、ちょっとしたことで喧嘩になり、大騒動になります。トリイが明るく歌ったり踊ったり、いろいろ工夫をして、だんだんまとまってきます。でもヴィーナスは、無反応のままです。ほかの子が近づくと、叫び声を上げ獣のようになってしまいます。
そんなヴィーナスには家庭に大きな問題がありました。でも、何度家庭訪問をしても問題は明らかになりませんでした。

トリイの忍耐強さと愛でヴィーナスは次第に心を開き、言葉を発するようになりますが、家庭での問題が発覚して、ヴィーナスの家族はバラバラになってしまいます。

ヴィーナスがワンダに会いたがっていることを知ったトリイは、なんとか終業式のパーティにワンダを連れてきたいと願います。ワンダは50キロも離れた施設に入所していたのですが、車での送迎を頼んで連れてくることができました。ヴィーナスと再会し「ビューティフル・チャイルド」とワンダが言って抱き合う場面は涙があふれました。

人形のように自分の気分でかわいがられ、ときどき存在を忘れられていた少女が、常に変わらず愛されていることを知り、人間らしさを取り戻していく過程が丁寧に描かれています。

常に変わらず愛することはなかなか難しいことです。大恋愛の末結婚したけれど、あっという間に愛がさめてしまったということがよくあります。
人間の愛の限界のような気がします。

聖書には「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに誠実を尽くし続けた。(エレミヤ31:3)」と書かれています。

わたしというのは神様です。神様の愛はヘセドの愛です。人間の愛とは違います。こちらが愛に応えなくても、裏切っても、反抗しても永遠の愛をもって愛してくださる神様のことを想いながら、この本を読みました。



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