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生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

心のすき間が埋められて(その4)

2005-12-13 11:17:04 | エッセイ

 
三浦綾子の小説「積み木の箱」を次に読んだとき、ハンマーで頭をたたかれた気持ちになりました。教師である主人公の悠二は、正しいと思って一郎を指導してきました。でも、それは一郎の心を傷つけるものでした。「真に自分を支えるものが、自分自身のなかにはひとつもないことに気づいた。(略)この弱い自分を導いてくれる確固とした真の教師が欲しい。初めて悠二はそう思った」というのを読んで、(わたしは間違っていた)と思ったのです。
いままで、母親や友達とよく議論をしましたが、口では負かされても(自分は正しい)といつも思っていました。
同僚と園長や先輩の悪口をいっていたけれど、もしかして自分の方が悪いのではないかと思えてきました。罪に気づいたのです。
 そして日毎に苦しくなり、このままではいけない。教会にいかなくてはという思いがつのってきました。

 神戸は教会の多い街です。わたしの住んでいた地区に3つのプロテスタント教会がありましたが、そこへは行かず、地図を見て電車でひと駅ほど向こうの教会へひとりで行きました。雨の降る6月のことでした。
暖かく迎えられ、ぎすぎすした人間関係の中で疲れていた心が癒されるような気がしました。夏に1泊でもたれた修養会にも参加しました。クリスチャンの人たちは、みんな明るく輝いて見えました。わたしもあの人たちのようになりたいと思いました。
その年の12月に牧師先生から「洗礼を受けませんか」と言われました。「私、受けられるんですか?」と驚いて尋ねると、先生は黙ってうなずかれました。
 洗礼を受けたら、イエス様の十字架の血によって、罪を赦していただける。新しく生まれ変われる。そのとき、わたしが知っていたのはそのふたつだけでした。自分の心がみにくいことに気づいていたので、洗礼を受けたいと心から思いました。
 洗礼を受けたら、教会の人たちのようになれる。自分が変わる。自分のわがままな性格が嫌でたまらなかったので、洗礼を受けて変わりたいと思いました。
 母に相談すると、反対しました。結婚できなくなるというのが大きな理由のようでした。でも、私は親に指図されるのはもういやだと思っていました。
「自分のことだから。自分でもう決めたのだから、洗礼受けるよ」と、宣言すると、母はあっさりとあきらめ、「受けてもいいけれど、お父さんには絶対に言わないで」と、約束させられました。
 洗礼のための学びもなく、証しをすることもなく、教会に通い始めて半年で父親に内緒で洗礼を受けました。22歳の時でした。


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