生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

クリスマスの赤い星(その4・最終回)

2007-11-29 14:02:21 | 童話
クリスマスの赤い星(4)


六)かいばおけのイエスさま

少年を先頭に小屋の中に入ると、プーンとくさいにおいが鼻をつきました。うすぐらい小屋のまん中にかいばおけがあって、その中に布につつまれた赤ちゃんがねむっていました。
 コウタとエリは赤ちゃんの顔をのぞきこみました。なんて小さいのでしょう。なんてかわいいのでしょう。
 
赤ちゃんの体をつつむ布はうすく、ほし草がチクチクはだをさしているように思えました。
「イエスさまはこんなところで生まれ、こんなベッドに寝かされているんだね」
コウタの心はイエスさまを思って悲しみでいっぱいになりました。
「イエスさまのベッドはふかふかじゃないのね。やわらかいおふとんをしいてあげたい……」
エリは、イエスさまが気持ちよくねむれるように願いました。

少年がかいばおけの前にひざまずいて祈りはじめました。
コウタとエリもひざまずきました。
「イエスさま、こんなところに生まれてきて下さったのですね。干し草がチクチクしませんように」
「イエスさま、わたしのために生まれてきて下さったのですね。このかいばおけが、あたたかくてやわらかなベッドになりますように」

ふたりは祈ってから、そっと目を開けました。イエスさまをつつむ布のまわりにフワフワしたものがあるのに気づきました。それは、水色とピンクと黄色の三色の綿でした。

「ありがとう。イエスがよくねむれるようにやわらかくてあたたかいものでつつんでくれたのね」
お母さんのマリヤがほほえみました。
「あれがきっとぼくたち3人の心なんだよ」
少年がいいました。

そのとき、イエスさまが目を開けてコウタとエリと少年を順にみつめました。
「イエスさまは、わたしたちのプレゼントを喜んで下さっているのね」
エリがニッコリ笑いかけると、赤ちゃんイエスさまが笑ったような気がしました。

小屋の外へ出ると、赤い星がさっきの倍くらいの大きさになっています。光がどんどん強くなり、まぶしくて目を開けてられなくなりました。
「きっと家に帰らせてくれるんだ」
コウタはエリの手をぎゅっとにぎりました。
「さ・よ・う・な・らー」
羊飼いの少年の声がだんだん遠のいていきました。

七)ふたりだけのひみつ

「ただいま。おそくなってゴメンネ。ケーキ買ってきたわ」
お母さんの声がして、目を開けるとふたりはリビングのツリーの前に立っていました。電気もテレビもついています。
お父さんも帰ってきて、家族4人でクリスマスのおいわいをしました。

「ねえ、わたしのいろえんぴつ、ふたりで使おう」
「ぼくのなわとび、こうたいで使おう」
ふたりは、今日のできごとをふたりだけのひみつにしようとやくそくして、2かいにかけ上がっていきました。

          
   おわり

クリスマスの赤い星(その3)

2007-11-27 13:27:18 | 童話
クリスマスの赤い星(3)


四)ひつじかいの少年

「お兄ちゃん、ここどこ?」
エリはコウタの手をぎゅっとにぎりしめました。
「知らないよ。どうしてこんなとこへきちゃったんだろう……」
後ろからパタパタと足音が聞こえてきました。ふりかえると、コウタと同じ年ごろ、7さいくらいの少年が歩いてきます。
「こんばんは。きみたちもおいわいにいくの?」
少年がたずねました。
「おいわいって?」
「何いってるんだよ。すくいぬしがお生まれになったというのに……」
「えっ、すくいぬしって、イエスさまのこと?」
エリが聞きました。
「きまっているじゃないか。さっき天使たちの歌声を聞かなかったの? すっかりおそくなちゃったけど、これからおいわいにいくんだ」
「おいわいって、ベツレヘムにかい?」

コウタは教会学校で聞いた話を思い出しました。すくいぬしイエスさまは、ベツレヘムのうま小屋で生まれたと先生がいっていました。
「この道をまっすぐいったところがベツレヘムだよ」
イエスさまの生まれた場所と時代にやってきているようです。

五)プレゼント

「おいわいするっていっても、何もないわ」
エリがポケットをさぐっています。ティッシュペーパーの切れはししか入っていません。
「お兄ちゃん、今日もらったプレゼントを持ってくればよかったね」

「きみたち、何も持ってなくても大丈夫だよ。ぼくもてぶらなんだ。兄さんたちはひつじをプレゼントするっていって、こひつじをかかえておいわいにいったけどね」
「きみの兄さんはひつじかいなの?」
コウタは草原にある岩のようにみえていたものがひつじだということに気づきました。

「ぼくだって、ひつじかいだよ。でも、ぼくは自分のひつじを持ってないんだ。プレゼントするものがないから、おいわいにいけないと思ってたんだよ。そしたら、おじいちゃんがお前の心をプレゼントしなさいって。それがいちばん喜ばれるっていってくれたんだ。だからぼくはこの心をプレゼントする。きみたちもそうしたらいいよ。いっしょにベツレヘムへいこう」

少年はふたりのまん中にきて、コウタとエリの手をつなぐと、歩きはじめました。

コウタは考えていました。自分の心ってどんな心だろうって。エリのプレゼントをうらやましがり、エリに意地悪してしまった心をさし上げてもイエスさまは悲しむだけじゃないかな?

エリも考えていました。自分の心ってどんな心だろうって。お兄ちゃんのプレゼントをうらやましがり、お兄ちゃんに意地悪してしまった心をさし上げてもイエスさまは悲しむだけじゃないかしら?

赤い星がいっそう赤くなり、そのかがやきがじゅうじかの形にみえました。
(そうだ、ぼくのつみのためにイエスさまはいのちをなげ出して下さったんだ)
(わたしのわがままな心のためにイエスさまは死んで下さったんだわ)
ふたりの目になみだがあふれてきました。

「ごめん、エリ」
「ごめんなさい、お兄ちゃん」
ふたりは同時にいいました。そのとき、3人はちょうどうま小屋の前に立っていました。
         
 
        つづく

クリスマスの赤い星(その2)

2007-11-26 12:56:40 | 童話

一昨日はクリスチャン・ペンクラブ(JCP)のクリスマス会でした。同じ教会のOさんと一緒に行けたので嬉しかったです。M姉が書かれたクリスマスの童話のパネルシアターを上演しました。7人の方が交代で朗読され、わたしは絵を動かしました。はこぶねクラブのクリスマス会のために作ったパネルシアターでしたが、JCPクリスマス会でも用いていただけて感謝でした。

昨日は礼拝のあと、教会学校クリスマス会のスライド劇の練習と教師会もあって大忙しでした。昨日の午後は眠くてたまらなかったので、コーヒーを3杯も飲んでしまいました。

夕べ、疲れているのに頭が冴えて眠れなかったのは、たぶんカフェインの取りすぎでしょう。気をつけなくてはと思いました。

それでは、童話の続きを。

クリスマスの赤い星(2)


二)ていでん 

お父さんとお母さんが仕事に出かけていきました。ふたりとも口をきかず、午前中はべつのへやで冬休みの宿題をやり、午後からは友達の家に遊びに行きました。プレゼントはそれぞれのベッドに置いたままです。
夕方になって、お母さんから帰りが少しおそくなると電話がありました。外はもうまっくらです。ふたりはキッチンで顔を合わせましたが、おたがいぷいと顔をそむけて口を開きません。

エリは牛乳を飲むと、かいだんをのぼっていきました。コウタはリビングでテレビをみていましたが、急にぷつんとテレビも電気も消えてしまいました。
「あれ?ていでんかな」
コウタはてさぐりでかいちゅうでんとうをさがしてつけました。

「えーん、えーん、こわいよう。お兄ちゃん」
2かいからエリの泣き声が聞こえてきます。
コウタは急いでかいだんをのぼりました。
「エリ、だいじょうぶか?」
かいちゅうでんとうの丸い光が顔を照らすと、エリはにっこりほほえみました。
「どうしてまっくらになっちゃったの?」
くらいのがにがてなエリは、寝るときはいつも小さなランプをつけているのでした。
「ていでんだよ。すぐ電気つくよ」
「電気つくまでお兄ちゃんといっしょにいる」
なまいきなエリのことをにくらしいと思っていましたが、こんなときはかわいくてたまらない気持ちになります。
「下へいこうか」
「うん」

かいちゅうでんとうで照らしながら階段をおりていくと、リビングのドアのすきまから明かりがもれています。その明かりはついたり消えたりしていました。
「何の明かりだろう?」
コウタがリビングのドアを開けました。リビングの電気は消えていましたが、クリスマスツリーにかざられている赤、青、緑のランプがチカチカ光っていました。
「ツリーのランプは消えなくてよかった」
エリがうれしそうに手をたたきました。
「まてよ。おかしいぞ。これだってコンセントにつながっているのに……」
コウタはリビングの電気のスイッチをおしました。電気はつきません。
「へんだなあ。どこかに電池が入っているのかな?」

三)赤い星

コウタがランプをツリーからはずして調べていると、エリが大声をあげました。
「星がひかってる!」
エリの指さすほうをみると、天井に大きな赤い星がひとつまたたいていました。
「あんな星のかざりあったけ」

星をみていると、それはどんどん明るくなって、まぶしくて目を開けていられなくなりました。コウタはとっさにエリの手をつかみました。

しばらくすると、ひんやりとした風が感じられました。目を開けると、ふたりは外にいます。夜の草原に立っていました。建物はなにもみえません。空をみあげると、あの赤い星がひかっていました。

             つづく


クリスマスの赤い星(その1)

2007-11-23 09:59:18 | 童話

久々に低学年向けの童話を書きました。
クリスマス会で歌うWhen I Kneel at the Manger Tonightという曲を練習していたときに生まれた童話です。
When I Kneel at the Manger Tonightは、今晩飼い葉桶にひざまずくときという意味です。


クリスマスの赤い星(1)


一)サンタさんからのプレゼント

「なーんだ」
「あーあ」
という声が2だんベッドからどうじに聞こえてきたのは、クリスマスの朝でした。
上にいるエリは、プレゼントのつつみをあけてふくれっつらをしています。
下ではコウタがため息をついています。
「お兄ちゃん、サンタさんからのプレゼント何だった?」
エリがはしごをおりてコウタのベッドをのぞきこみました。コウタはあわててプレゼントをふとんの中にかくしました。
「う、うん。おまえのは何だったの?」
「お兄ちゃんがみせてくれたら、みせてあげる」
エリはパジャマの下にかくしたプレゼントをぎゅっとおさえました。
「よし、どうじにみせあおう」
「いち、にのさん!」

ふたりはそれぞれのプレゼントを目の前にさし出しました。
 コウタはカウンターつきなわとび。エリは外国せいのいろえんぴつです。
ふたりともおもわず「いいなあ」といおうとして口をおさえました。
外遊びが大好き、なわとび大好きなエリは、カウンターつきのなわとびがほしいと前から思っていたのです。
家の中で本を読んだり、絵をかくことの好きなコウタは、新しいいろえんぴつがほしいなあと前から思っていました。
でもふたりは、思っていることと反対をいいました。
「いろえんぴつか。ぼくのレゼントの方がよぽっどいいな」
「あたしの方がずっといいわ」
「絵がへたくそなエリにはもったいないな」
「何よ、なわとびへたくそなお兄ちゃんが使ったって、しょうがないんじゃない。わたしにかしてよ。100回カウント出してみせるから」
コウタよりなわとびが上手なエリは、じまんげにいいました。

「かすもんか。お前にかしたらこわされちゃうもんな。それより、いろえんぴつかしてくれよ。すごい絵をかいてみせるから」
「かさないわ。お兄ちゃんにかしたらへっちゃうもん」
ふたりはぷりぷりしながらきがえて、リビングにいきました。

「プレゼント何だったの?」
お母さんがニコニコして聞きました。
「なわとび」
「色鉛筆」
ふたりがうつむいて答えました。
「エリが色鉛筆で、コウタがなわとびか。サンタさんは、ふたりにふさわしいものをくださったんだなあ」
お父さんがいいました。
ふたりとも(どうして?)とくびをかしげましたが、口には出しませんでした。

つづく

もしや希望があるかもしれない

2007-11-21 17:26:07 | 
旧約聖書の哀歌を読んで書いた詩です。試みの中にあるMさんのことを想いながら書きました。

もしや希望があるかもしれない

何とかなると思っていた
こんなはずじゃなかったのに……

自分の力では どうすることもできなくて
立ちすくんでしまった

アリジゴクの巣に落ちた
小さな虫のように
もがけばもがくほど
深い穴に落ち込んで 
どうしても出られない

長い間 穴の中にいたら
助かりたいとさえ思わなくなった
すべてが物憂く
怒りも悲しみも 感じられない

生きる気力が失われかけたとき

「もしや希望があるかもしれない」
という声が聞こえた

希望……久しく聞いたことのない言葉…… 
それは どこにあるの?
教えて!
もしあるのなら、下さい

暗闇の中から 大声で叫ぶと
「恐れるな」
確かに聞こえた この耳に
「わたしはあなたを贖った」

そのとき
引き上げてくださる手が
最初から伸ばされていたことを知った


哀歌3:25-33、57-58

主はいつくしみ深い。
主を待ち望む者、主を求めるたましいに。
主の救いを黙って待つのは良い。
人が、若い時に、くびきを負うのは良い。
それを負わされたなら、
ひとり黙ってすわっているがよい。
口をちりにつけよ。
もしや希望があるかもしれない。
自分を打つ者に頬を与え、
十分そしりを受けよ。
主は、いつまでも見放してはおられない。
たとい悩みを受けても、
主は、その豊かな恵みによって、
あわれんでくださる。
主は人の子らを、ただ苦しめ悩まそうとは、
思っておられない。

(中略)

私があなたに呼ばわるとき、
あなたは近づいて、
『恐れるな。』と仰せられました。
主よ。あなたは、私のたましいの訴えを弁護して、
私のいのちを贖ってくださいました。


生きる目標

2007-11-19 14:14:38 | 教会

16日、家庭集会。17日、はこぶねクラブクリスマス会の練習。そして昨日はCSメッセージ、礼拝、午後から教会大掃除。そして今日はJCPクリスマス会で行うパネルシアターの準備に全力投球です。

写真は昨日の夕焼け。あまり綺麗なのでベランダから写しました。神さまの描く夕焼けは毎日違っていて実にすばらしいですね。

昨日の礼拝メッセージで印象に残ったことを書きます。

私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、すべてのものはこの神から出ており、私たちもこの神のために存在しているのです。また、唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、すべてのものはこの主によって存在し、私たちもこの主によって存在するのです。  
 (Ⅰコリント8:6)



この文章は対になっており、何度も唱えられてきたので美しい文章です。
リビングバイブルでは、神は、人間をご自分のものとして造られた私たちに命を与えて下さる。と書かれており、別訳では万物すべてが神から出、神を目指して生きていると書かれています。
他人との関係ではなく、状況や持っている能力に関係なく、神との関係において、生きる究極の目的が、神を目指して生きることです。


生きる目的がわからなかったとき、わたしの魂はさまよっていました。何かに夢中になって、一時的に燃えても、しばらくすると空しくなってきます。目指すものがはっきりしていなかったので、いろんなことを頑張ってやっても、それこそ空を打つようなものでした。
人に評価されることを求め、人が自分のことをどう思っているか気にし、まわりで起こってくる状況に心は嵐の海に浮かぶ小舟のように揺れていました。
人の言葉に翻弄され、傷つき、身体をこわすほど思い煩いました。


でも、今は忙しくしていても、心は波立っていません。人の言葉も、人からの評価も気になりません。
すべてのものが神から出ていること。神さまによってわたしが存在していること。目標は、神さまを目指して生きることであると知ったとき、やっと魂があるべきところに帰ってきたという気がします。 

それでも、目の前で起こってくる思いもかけない出来事に動揺したり、胸が張り裂けそうになったりすることがあります。弱い者です。目に見えるものだけ見、すぐ先のことだけ考えていると絶望しそうになります。
でも、そんなときこそ目に見えないものを見、はるか先にある希望の未来をみつめたいです。

メッセージを聴いて、生きる目標を再確認しました。


わたしは求めます

2007-11-17 10:28:23 | 聖書から

昨日は我が家での家庭集会でした。先生と6人の方が来て下さいました。
ルカ11章5-3の学びをしました。イエスさまが弟子たちに「主の祈り」を教えてから、次のようなたとえ話をされました。


友達が真夜中に来て、「パンを三つ貸してくれ。友人が旅の途中にわたしの家にきたけれど、出してやるものがないのだ。」と言いました。「夜中だし、めんどうをかけないでくれ」と断られますが、あくまでも頼み続けたら、その人は必要なものを与えてくれるでしょう。
というたとえ話の後、有名な聖句が書かれています。


求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。(ルカ11:9.10)



このたとえ話のテーマは祈りについてです。祈りの姿勢として、求め、捜し、たたきなさいとイエスさまが言われているのです
と教えていただきました。

神さまはわたしたちに必要なものをご存知で、それを与えて下さるお方です。それなら、求めなくてもいいのに……と思ってしまいがちですが、決してそうではなく、積極的に求めなさいと言っておられるのです。
レジメには、「必要あるものを求めたり問題の解決法を捜したり、自分がゆくべき道が開かれるように門をたたいたりしなさいというわけです。」と書かれています。


「求めない」(加島 祥造著)という詩がベストセラーになっていると聞きました。その本には、すべてが「求めない」で始まる詩約100篇が収録されています。
求めなければ、悩みも少なく、平安に過ごせるということなのでしょう。
反目している人がいたとして、その人が変わってくれることを求めると、結局のところ和解するのが難しくなります。富や地位を求めると、それが得られないとき不満を持ちます。最初から何も求めなければ、不満がなくなるということで「求めない」といっているのでしょう。

でも、イエスさまは逆に「求めなさい」と言われます。ここで大事なことは『誰に求めるのか』ということです。加島 祥造さんは、人に対して求めないと言っているのでしょうが、聖書では人にではなく、神さまに祈り求めなさいと言われているのです。


それなら、神さまに祈り求めたら、すぐに何でもかなえられるのでしょうか? そうとはかぎりません。それは何故でしょう?

あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。(ルカ11:11.12)

と聖書に書かれています。神さまは、父親のようなものだといっているのです。

もし、子どもがよくないものを求めたら、父親は与えません。時期を見て、後に与えることもありますが、その子供にふさわしい別のものを与える場合もあります。
それと同じように神さまは祈りに答えて下さらなかったり、祈り求めたものとは別のものを与えてくださったりすることがあります。


でも、友人がパン三つ下さいと具体的に求めたように、神さまはわたしたちに具体的に祈り求めることを望んでおられます。

すぐに答えが得られなくても、祈ったとき確かに神さまは聴いておられ、良いものを必ず与えて下さいます。だからわたしは、積極的に求めていきたいです。


困難に直面して、ときには祈れないこともあります。そんなときでも言葉にならない祈りをもって神さまに向かっていきたいです。どんな試練でも、必ず意味があること。祈りがきかれなくても、神さまの深いご計画の中にあることを信じ切ることができれば、心は平安です。

こんなふうに祈る対象を知っていて、全幅の信頼をもって祈ることのできるわたしは何て幸いなのでしょう!!

エステル記を読んで

2007-11-15 13:50:12 | 聖書から

今度の日曜日に教会学校でエステル記のお話をするので、聖書や解説書を繰り返し読んでいます。エステル記は、旧約聖書歴史書の最後に位置しています。
エステル記の粗筋を書きます 聖書をお持ちの方は、聖書の方をお読み下さい。


ユダヤ人エステルは早くから両親を亡くして親戚のモルデカイに育てられ、多くの娘の中からペルシャのアハシュエロス王のお后に選ばれました。エステルは、モルデカイに命じられて自分がユダヤ人であることを隠していました。

王様の家来のハマンが城の門を通ると、みんながハマンにひれ伏しましたが、モルデカイだけそうしませんでした。ひれ伏すというのは礼拝するという意味がありました。モルデカイは本当の神さまを信じるユダヤ人でしたので、人間の前にひれ伏すことができなかったのです。

そのことに腹をたてたハマンは、ユダヤ人を皆殺しにしようと王に提案し、王が承諾したのでアダルの月13日にユダヤ人を殺せという法令を出しました。その命令には王様の指輪の印が押されていました。その印が押されている法令は取り消すことができません。

モルデカイはエステルに王様にこの命令を取り消すように頼んでほしいと伝えました。エステルはためらいました。お后とはいえ、呼ばれてもないのに自分から王のところに行くと死刑になるという恐ろしい決まりがあったからです。
王様が金のしゃくを伸ばしたときだけ助かるのですが、もし伸ばさなければ殺されてしまいます。エステルは、この1か月王様に呼ばれていませんでした。

このとき、モルデカイはエステルに「あなたがこの王国に来たのはもしかするとこの時のためであるかもしれない(エステル記4:14)」と言っています。

エステルは3日間断食して祈りました。ユダヤ人達も同じように祈っていました。
「私は、死ななければならないのでしたら、死にます」と言って、エステルが王の前に出ると、王は手に持っていたしゃくをエステルの前にすっと伸ばしました。
 
エステルは自分の開く宴会にハマンと共に来て欲しいと王に頼みます。王とハマンがやってくると、もう一度宴会にさそいました。なぜすぐユダヤ人を助けて下さいと言わなかったのかわかりません。
2回目の宴会でエステルは自分がユダヤ人だとあかし、ユダヤ民族が根絶やしにされようとしていることを告げます。その首謀者がハマンだとわかると、王はハマンを死刑にしてしまいます。さらに王はユダヤ人虐殺が行われる日にユダヤ人は身を守るために戦ってもいいという法令を出しました。
その日にはユダヤ人に害を及ぼそうとする者が大勢殺され、ユダヤ人は守られたのです。
このできごとからプリムの祭りが毎年行われるようになりました。


エステル記には神、主という言葉は書かれていません。でも背後で働かれる神さまのみ手が見えます。
遠藤嘉信先生の本「もしかすると、この時のため」(いのちのことば社)には、
背後ですべてを支配しておられ、ある人を召し、ある人を必要な場に配置し、そうやって愛する民を勝利や祝福へと導くお方の存在が意識されているということです
と書かれています。

エステル記には奇跡のような不思議な出来事がいくつも起こっていますが、決して偶然ではありません。そのタイミングといい、人の配置といい、すべてが背後で働いておられる神の業です。

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべての事を働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(ローマ8:28)

という聖書の言葉が真実であることがわかります。

歴史を動かし、支配しておられる神さま。エステルの時代に働かれた神さまは今も生きておられます。善意に満ちた神さまは、わたしのように小さな者のうえにも働いて下さっています。

わたしが、今回教会学校でエステル記のお話をするようになったことも神さまの導きです。エステル記を学んでどれだけ励まされ、勇気をいただいたことでしょう。心配事があっても希望を持つことができました。
どんなに困難があっても、先が見えなくても、神さまが必ず最もよい方向に導いて下さるという確信を持てました。

「私は、死ななければならないのでしたら、死にます」と言って王様の前に勇気をもって出ていったエステルを見習いたいです。

水野源三さんの詩集から

2007-11-13 17:15:57 | 読書

今朝は目覚ましの鳴る1時間前に起きたので、たくさんのことができるとはりきっていました。朝から忙しくバタバタ部屋の片づけをしていたのですが、急に疲れてきてこたつに入って一休みすると、目眩がしてそのまま動けなくなってしまいました。

今週は家庭集会の準備と、CSメッセージの準備があるので、早く済ませて創作の時間を作ろうと計画していたのですが、うまくいきませんでした。なかなか、計画通りにはいかないものです。
立ち止まってゆっくりすることも必要ですね。水野源三さんの詩集「こんな美しい朝に」(いのちのことば社)を開きました。


源三さんは、一遍の詩を書くのにたくさんの時間をかけなければならなかったのです。忍耐が必要だったことでしょう。書きとめる義妹さんも大変だったことでしょう。最初はお母さんが書きとめておられ、お母さんが亡くなられてから義妹さんが引き継いだのでしょうか。

水野源三さんの詩と短歌を紹介します。


しゃべれない書けない

私のまばたきを見て
一字一字拾って
詩を書いてもらう
一つの詩を書くのに
十分 二十分 三十分
義妹(いもうと)の愛と忍耐によって
一つ二つ三つの詩が生まれる

神さまに愛されて
生かされている
喜びと感謝を詩に歌い続ける


短歌

生きている生かされている歯が痛き手足がかゆき咳が苦しき

木枯らしの吹くまま木の葉舞い落ちぬわれも生きたしみ心のまま

ひさびさに晴れし窓べにキリストを仰ぐがごとくチューリップの花


源三さんは重い障がいを持っていましたが、心の中はなんと明るく生き生きとしていたのでしょう! 生かされている喜びを感じながら日々過ごしていたことが伝わってきます。歯が痛むことも手足がかゆいことも、それを嘆くのではなく、生きているあかしとして喜んでおられることが素晴らしいと思いました。

障がいとは……(その4)

2007-11-11 17:55:45 | 社会

昨日、今日と嬉しいことがありました。はこぶねクラブに双子の姉妹MちゃんSちゃんが来たのです。MちゃんSちゃんが2年生の時、お父さんが肺癌で亡くなりました。お父さんが入院している間、主治医で教会員の方の紹介によりふたりが教会学校へ来はじめ、半年ぐらい日曜毎に通っていました。わたしはそのとき2年生のクラス担当をしていました。

お父さんは病床洗礼を受けて、30代の若さで召されました。その後、土浦から少し離れたH市に引っ越したので、めぐみ教会には来ることができなくなってしまいました。お母さんは仕事で送っていけないのですが、2人は教会学校がとても気
に入って、また行きたいと思い続けているようでした。

それから2年間、わたしは教会学校で担当している子供とともにふたりの名前も挙げて毎朝祈っていました。

そうしたら、最近H市に越してきて、ご一家でめぐみ教会に来られるようになったNさんがふたりを連れてはこぶねクラブに来てくれたのです。Nさんのお子さんと、Sちゃんが同じクラスになったそうです。SちゃんがMちゃんとともにめぐみ教会に通っていたことを知ったNさんは、『連れて行かなくては』と思ったそうです。

背が伸びてすっかりお姉さんになったMちゃんSちゃんと2年ぶりに会って感激です。ふたりは、今日の教会学校にも来てくれました。神さまの恵み、その計らい、そしてNさんに心から感謝しました。

そして、もうひとつ。今日ヒックンが、ママと一緒に教会学校のワンツークラスに初めて参加しました。昨日から息子一家が泊まっていたのです。なんと嬉しいことでしょう!!


前回の続きです。
多くの作業所では、精神障がい者が自立し、社会復帰することを目指して訓練させます。
ところが、この「自立」と「社会復帰」ということが、精神障がい者にとって重荷となっているのだと気づかされました。
「自立」と「社会復帰」は、常に健常者を基準にしています。病気を治すこと、幻覚や妄想を取り除くこと、立派な人間になって一人前に働くことがイメージされています。
病気を治せといっても、精神病はなかなか治らない病気です。それを治すようにと言われることは、「病気であってはいけない」と言われているようなものです。
精神科医の方が、「精神病は病気なのだろうか? 精神病というレッテルを貼ることは差別になるのではないか?」ということで議論したことがあるとおっしゃっていました。


「悩む力」(みすず書房)斉藤道雄著には、

(精神障がい者が)病気を治せ、健常者になれと言われつづけることは、すなわちその人が一生「いまのあなたであってはいけない」と言われつづけることになる。そうではなく、病気があろうかなかろうが、「そのままでいい」という生き方があるのではないか。
と書かれています。そして、ベテルの家では「そのままでいい」というメッセージが常に発信されているそうです。
どんなに大きな罪を持っていても、そのままの状態で贖ってくださるというキリストの教えと似ていますね。


このことは、精神病でなくてもいえます。
わたしは3歳のとき小児喘息になり、高校生のころ一時的に治っていたのですが、大人になってから再び喘息が出るようになりました。
かつては、喘息を恥だと思っていたので誰にも言えませんでした。学校では健全な魂は健全な肉体に宿ると言われました。「病気の人の魂は病んでいる」と言われているようです。

わたしは喘息を忌み嫌いました。ゼロゼロと胸の音が聞こえるとぞっとしたものです。高校生の時ようやく治ったと思って喜んでいたのに、大人になって再び喘息が出たときは、なんとかして治したいと必死に治療法を捜しました。

しかし、大人の喘息は完治というのは難しいそうです。幸いなことに子供のころにはなかった予防の吸入薬が作られていました。それで発作を予防することができるので、発作からは解放されたのです。わたしは今でも毎日予防薬を吸入していますが、ここ数年一度も喘息の発作が起きていません。一生吸入薬を使い続けないといけないかもしれませんが……。
また、4年前に乳癌になり、リンパに転移があったので、完治したかどうかわからない状態になっています。

でも、教会で「病んだままでいい」というメッセージを聞いてから、病気は治らなくていいんだと思い、気が楽になりました。喘息も乳癌も受け入れられるようになったとき、病気のことを誰にでも話せるようになりました。

           

                  おわり

障がいとは……(その3)

2007-11-09 13:13:38 | 社会

今週の祈祷会で「ベテルの家」について学んだことを紹介します。

ベテルの家とは、北海道の浦河にある精神障がい者のコミュニテーィです。150名近くの精神障がい者と20名のスタッフが活動を行い、地域の人々の協力を得て商売を展開しているそうです。年間1億円近い売り上があるというのは、驚きです。

ベテルの家の理念は以下のようなものです

・三度の飯よりミーティング 
・そのまんまがいいみたい 
・安心してサボれる職場づくり
・弱さの情報公開 
・偏見差別大歓迎 
・公私混同大歓迎 
・苦労を取り戻す 
・昇る人生から降りる人生へ 
・それで順調 
・弱さを絆に 
・べてるに来れば病気が出る

常識をくつがえすものばかりです。


向谷地生良(むかいやち いくよし)さんは、「ベテルの家の特徴は、管理の行き届かないところです」と言われます。ベテルの家には管理や規則がありません。
『ベテルの家の本』には、もし、管理上の規則があったら、すべてが「規則にこう書いてあるから」と片づけてしまい、ひとりひとりの自由闊達な意見や発想が埋もれていくような気がしたのです。と書かれています。

家庭が規則によって成り立っていないように、ひとりひとりが自由闊達な意見や発想をもち、問題があればそれを「ぶつかりあいと出会い」によって解決していく。というベテルのやりかたに新鮮なものを感じました。


実際規則を作らずにどうやって運営していっているのだろう? と不思議に思います。
しかし、現実に「ベテルの家」では、排除しないことと利益を上げるという矛盾する2つのことを両立させています。

一般社会では、規則や決まり事を作り、それを守れない人を排除していくという傾向があります。でも、障がいを持っている人たちは、規則を守れない方が多いのです。「管理の行き届かないところ」は理屈ではなく、障がい者が生きていくうえでの死活問題でもあると本に書かれています。

あえて、規則を作らない。問題が起こらないようにするのではなく、問題が起きるのは当然で、問題が起きたときにひとりひとりがどう対処するか、問題をどう生きるかが問われているという考えに深く共感しました。


             つづく

障がいとは……(その2)

2007-11-07 17:05:01 | 社会

障がい者を見て、「何かのたたりだ。先祖が悪いことをしたのだろうか?」と思う人が現代にもいるということは、悲しいことです。イエスさまの時代にもそういう人たちがいました。

ヨハネの福音書9章には、イエスさまの弟子が質問しています。

またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。 弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」
イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。


神のわざがこの人にあらわれるためとは、何と喜ばしいことでしょう。



障がいは、その人、または両親(もちろん先祖も含めて)が何か悪いことをしたせいではないこと。
障がいは、神さまが人間を造るとき間違えて(失敗して)しまったのでは決してないこと。
障がい者も神さまによって造られた尊い人間であること。
障がいを持って生きることに使命があるということ。
障がいは、神さまの栄光をあらわすために与えられたのだということ。


これらのことを日本中、いや世界中の人たちが知ってほしいと思います。

障がいを持った子供が普通学級で過ごすことによって、周りの子供たちの心に優しさが生まれたと聞きました。
障がい者と共に過ごすことによって、他者に対して配慮することを学びます。優しさが引き出されます。
本来の人間らしさがあらわれてくるのです。


瞬きの詩人水野源三さんの詩を紹介します。

有り難う

物が言えない私は
有り難うのかわりにほほえむ
朝から何回もほほえむ
苦しいときも 悲しいときも
心から ほほえむ


 水野源三さんは、9才のとき、赤痢の高熱で全身マヒの体となり、言葉を話すこともできなくなりました。12才のとき初めて聖書に触れ、13才で洗礼を受けクリスチャンになりました。母の手助けで、50音図を瞬(まばた)きで指定する方法で、多くの詩を作りました。水野源三さんの信仰と、すなおで感謝と喜びに満ちた詩と、障がいのゆえの苦痛と戦って勝利した人生の姿に多くの人が感動しています。これからも折をみて、源三さんの詩を紹介していきたいです。


今日は、精神障がい者のコミュニティー「ベテルの家」について学びました。これまでの常識をくつがえすような理念に目が開かれた思いです。今日の学びについては、後日書かせていただきます。

                  つづく

障がいとは……(その1)

2007-11-06 11:57:04 | 社会

先週祈祷会で障がい者福祉の学びがあり、自閉症の息子さんをもつKさんのお話を聞きました。

お話を聞いて、「障害」という言葉の意味について考えさせられました。今まで「障害」という言葉を深く考えずに使っていたのですが、害という文字を使うことが差別につながると思いました。

障害という言葉を広辞苑で調べると、「さわり、さまたげ、じゃま、―を乗り越える。身体器官に何らかのさわりがあって機能を果たさないこと」と出ています。

それなら、人間だれでも障害者ということになります。たとえばわたしは、身体が弱く疲れやすい。左手で重い荷物を持てない。(乳癌手術の際左側の腋下リンパ節切除しているため)ので障害者です。また、どんなに健康な人でも年をとれば障害者ということになります。


そもそも障がいとは「障碍」あるいは 「障礙」という字だったそうです。当用漢字が制定されたときに碍、礙の字がなかったため、害が使われたようです。それなら仮名にした方がいいですね。


「人間の尊厳ということを考えると、障がい者を“さわり”のある者として区別することはおかしなことです」
とKさんが言われました。その通りだと思います。
Kさんは絵画教室を開き、3人の自閉症の子供たち描いた絵の展覧会をして、その映像を見せて下さいました。すばらしい色づかい、のびのびとした絵が素敵でした。彼らの絵を見て、他の人が見えないものが見えている。他の人が感じないことを感じていると思いました。

日本の社会は、障がい者、高齢者が生きにくい社会だといわれています。それは、障がい者に対する考え方がネガティブだからでしょう。

「人に迷惑をかけてはいけない」という教えが根強くて、障がい者になったり、年をとって身の回りのことができなくなったとき、誰かの世話になることをいけないことだと考えている人たちが多いのです。
誰かの世話になることは、迷惑をかけることではないのです。たとえ相手が迷惑だと感じたとしても、弱い人を助けるのはあたりまえのことなのですから、申し訳なく思うことはありません。
また、世話をする人は、世話をされる人より優位な立場にあるわけではありません。世話をすることによって、多くのことを学んだり、心のケアーをしてもらったりします。

でも子供のころから「人に迷惑をかけてはいけない」と言われて育った人にいくら話しても、なかなかわかってもらえません。


また、一昔前は、障がいを恥と考えて隠そうとしていました。今は大部改善されましたが、それでもまだ偏見を持っている人がいます。
友人は、子供に障がいがあることがわかったとき、「うちの家系にそんな者はいない」と姑に言われ、深く傷ついたと言っていました。

障がい者に対するいじめの問題は深刻です。子供だけでなく、大人にもいじめが起こっています。職場で知的障がいの人に重い荷物ばかり運ばせたりするのだそうです。悲しいことですね。

                  つづく

微笑みながら振り返りたい

2007-11-04 17:31:10 | 教会

昨日は主人と霞ヶ浦水郷公園にウォーキングに行ってきました。写真は公園にある風車を後ろ側jから写したものです。サルビアの花壇のある正面より、色づいたガマの葉が茂っているところが気に入りました。


今日、教会では召天者記念礼拝が行われました。亡くなった方々の写真の映像を見て、故人を偲びました。わたしは父の写真を今回初めて出しました。やはりつらいですね。涙があふれてきました。
地上では2度と会うことができません。声も聞けないのです。でも天国で再会できるという希望があります。

牧師のS先生は神の約束を再確認して勇気を得ることが召天者記念礼拝の目的ですと言われました。
パウロは迫害され、自らの死が迫っていることを自覚しながら、テモテへ手紙を書き送っています。

私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは義の栄冠が私のために用意されているのです。(Ⅱテモテ4:7.8)



この聖書の言葉を読んだとき、パウロは自信に満ちた人なんだなあと思いました。わたしだったら死を前にしてこんなことは言えない。おそらく悔恨の気持ちでいっぱいになるんじゃないかなと考えていました。そして、わたしはとても義の栄冠を神さまから戴くことができないと思っていました。

でも、義の栄冠は、主を慕い、信頼している者にはだれにでも与えられると聞いて嬉しくなりました。
長寿をまっとうした人はいいとして、突然召されてしまった人、病と闘って若くして召された人、志半ばで亡くなった人……本人も、周囲の人も納得のいかない死だったとしても、『走るべき道のりを走り終えた』と言えるのだそうです。
どんなにもっと生きたいと願っても、人は自分の命を一秒も延ばすことができないのです。命は神さまの御手に握られているのですから。死が訪れたとき、それが突然のように感じても神さまの側からすれば、ご計画であったわけです。
S先生は、故人の写真を見て悲しみに浸っている人たちに向かって言われました。


わたしたちは、今生きているという事実のゆえに感謝しましょう。走り続けられます。成長できます。赦すこと、愛することができます。
わたしたちの前には走るべき道のりがあります。それは、たった一度だけの道のりです。人生の最後に振り返ったとき、どのような思いが沸いてくるでしょうか?微笑みながら振り返れたら幸いです。


微笑みながら振り返れたらいいですね。いつも死を意識して生きることによって、それが可能になるような気がしました。

祈りと賛美の会社「五つのパン」の紹介

2007-11-02 13:06:16 | あかしの紹介

「特定非営利活動法人(NPO法人)Five-breads」の「五つのパンデザイナーショップ」から2008年のカレンダーの案内が送られてきました。五つのパンさんと関わりを持たせていただいて1年以上になります。

今年の3月にはオーナーのIさんとお目にかかり、3時間近くお話ししました。その信仰の素晴らしさに心打たれました。

Iさんは商社マンでしたが、一切を捨てて献身され、教会の宣教を支えるキリストの証人となられました。2004年にFive-breadsを設立され、障がいや弱さを持った方々の就労を助け、ゆとりとやすらぎの場を備える活動をされています。現在、地域作業所を計画されているそうです。

「五つのパンデザイナーズショップ」では、カレンダーの他、ポストカード、しおり、シール、デザインTシャツなどが販売されています。
インターネット販売もしていますから、ぜひ「五つのパンデザイナーズショップ」のHP
をご覧下さい。カレンダーの画像もはっきり見ることができます。

このブログでは、宣伝をしない方針ですが、カレンダーの案内状が届いたとき、何かわたしにできることはないかと思いました。カレンダーをまとめて買うことも、賛助会員になることもできませんが、祈っているうちにわたしのブログで紹介させていただこうという思いが与えられました。

「五つのパン」の働きのためにずっと祈ってきた結果、ひとりでも多くの方に紹介させていただきたいと思ったのです。
「五つのパン」のHP  もご覧下さい。

拍手ボタンです

web拍手