10代のころ、わたしはかなり暗い性格でした。刺繍やパッチワークなどの手芸が趣味でしたが、(今は全くやりません。針を持つことすらまれです)一生懸命作ってして完成したとき、嬉しいというより空しさを感じました。なぜなら、何十年かたてば色あせて捨てられてしまうと思ったからです。新築の建物を見ると、百年もたてば古くなって壊されてしまうのだなあ……。新しい服を買っても、いずれはボロとして捨てられるのだと思うのでした。
そして何よりも空しいと感じたのは、人間はどんな人でも年をとって死んでゆくものだという事実があるからでした。
どんな英雄でも、どんな偉業を成した人でも、長生きしてもせいぜい100年余りしか生きられない。すべては無になってしまうのなら、努力する意味などあるのだろうか?生きる意味はあるのだろうか?
そんなことを考えて、心の中にはいつも冷たい風がふいていました。
みんな年老いていずれは死ぬ。日々一歩ずつ死に向かっているというのに…なぜみんな明るく笑ったり、はしゃいだりできるんだろう?と不思議でなりませんでした。
死のことを口にすると、父は怒りました。「死はずうっと先のこと。そんなこと考えずに何でも一生懸命頑張りなさい。頑張ればきっといいことがある」と言われたのを覚えています。
それからは、死ということを意識的に考えないようにしました。でもふっと空しくなるのです。何かを求めているのにそれが何かわからない。目的地を見失った旅人のような気持ちでした。
なにを探しているのか
なにを求めなにを見たいのか
結局 変わらないものとの出会いではないのか
星野富弘さんの詩です。
変わらないものとは何でしょう? それは、天と地を造られた神さまのことです。神さまは昔も今もとこしえまで変わりません。
星野富弘さんは、体育の先生でした。体操の授業中事故にあい、首から下が動かなくなってしまいました。苦しみの中からイエス・キリストを求め、信じます。星野さんの口に筆をくわえて描いた絵と詩は、多くの人を励まし、力づけてくれています。