生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

話を聞いてください

2011-07-28 15:42:12 | 教会
明日からCS小学科夏期キャンプです。1泊2日で教会に泊まります。雨が降っても困りますが、炎天下もタイヘン……。
1年でいちばん体力の必要とするときです。去年は具合が悪くて奉仕できませんでした。今年は参加できることを喜んでいます。


昨日は水曜礼拝でカウンセリングにおける傾聴についてお話を聞きました。

ギリシャ哲学者ゼノンは「神が人を造られたとき、口はひとつ、しかし耳は2つ造られた。口は閉じることができるが、耳は開いたままである」と言ったそうです。

お茶の水聖書学院のサマースクーリングでも黙って聞くことの大切さを教えていただきましたが、昨日もまた教えられました。
わたしは、友人の話を聞くことはできても、夫や娘の話を真剣に聞くことができていません。娘からは「お母さん、さっき言ったのに……」と何度も言われて反省しています。

傾聴が大切なことを綴った詩を紹介します。




「話を聞いて下さい」

私の話を聞いて下さいと頼むと

あなたは助言を始めます

私は そんなことを望んではいないのです

私の話を聞いてくださいと頼むと

あなたはその理由について話し始めます

申し訳ないと思いつつ

わたしは不愉快になってしまいます

私の話を聞いて下さいと頼むと

あなたはなんとかして私の悩みを解決しなければ

という気持ちになります

おかしなことに それは私の気持ちに反するのです

祈ることに慰めを見いだす人がいるのはそのためでしょうか

神は無言だからです

助言したり調整しようとはしません

神は聞くだけで 悩みの解決は自分にまかせてくれます

だから あなたもどうか

黙って私の話を聞いてください

話したかったら 私が話し終わるまで少しだけ待ってください

そうすれば私は必ず あなたの話に耳を傾けます

(作者不詳)



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死を迎えるとき考えること

2011-07-27 17:01:25 | 聖書から
人が死を迎えるとき考えることは何でしょう? 死ぬ時には、今までの人生が走馬灯のように思い起こされると聞きますが、たとえ100歳ぐらいまで長生きしたとしても、あっという間の人生だったと思うことでしょう。

クリスチャンは天国へいけるという確信がありますから、死は恐ろしいものではないと思います。
でも、イエス・キリストを知らない人は、死と向き合ったとき何を思うでしょう……。
人生の中で犯した過失を思い出し、良心の呵責に苦しむ人もいることでしょう。

わたしの父は死を迎える数週間ほど前よりホスピスに入院していました。医師、とチャプレン(病院の牧師)に2時間ずつぐらいシベリヤで捕虜になっていたときの話をしました。どういう内容だったのか詳しくはわかりませんが、苦労話だけでなく、戦争中に犯した自らの罪も語ったのです。死を迎える前にどうしても告白しておかなければならないと思ったのでしょう。

話した後、力尽きるようにして意識が遠のき、その数日後に召されました。
キリストのことは伝えてあったので、父の長い間抱えていた罪の問題が解決されて召されたのだと思います。

イエス・キリストは神様のひとり子ですので罪のないお方です。そのお方が罪ある人間の代わりに罰を受けて下さいました。それが十字架です。
キリストは十字架にかかって死にましたが、3日目によみがえりました。このことは、わたしたちの罪が赦されたという証拠です。


先日の礼拝メッセージで「『罪の赦し』これこそ良心の呵責に苦しむ人類へのプレゼントです。」と牧師先生が言われました。

聖書の『使徒の働き』には、パウロたちがニュースを伝えるために命がけで旅をしたことが書かれています。
命をかけてまで伝えたかったこととは何でしょう?
それは、イエス・キリストの十字架の死と復活のことです。この方によって、罪が赦されることを使徒たちは伝えているのです。

罪の赦しは私たちの信仰や努力にあるのではなく、イエスの十字架の死と復活にあります。すでに用意していただいているので、ただ受けるだけでいいのです。
イザヤ43:25には「わたし、このわたしは、わたし自身のために、あなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。」と書かれています。


わたしはときどき過去の失敗や過失を思い出して心が疼くことがあります。そんなときはこの聖句を読んで、『神様が思い出さないと言って下さっているのだから、いつまでもこだわることはないんだ』と思って安心するのです。

「もう思い出さない」と言って下さるとは、何と嬉しいことでしょう。
『罪の赦しはすでに備えられている』このことをひとりでも多くの人に知っていただきたいです。



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勉強の動機

2011-07-25 16:18:48 | 日記
今日は朝からぼーっとしています。しなければならないことはたくさんあるのに何ひとつ手につきません。

金曜日から昨日までの密度の濃い3日間を思えば、今日はゆっくりしていてもいいかなと思います。

22日は、朝からお茶の水聖書学院(OBI)に出かけました。卒業研究のための資料としてOBIで東京キリスト教学園から本を借りてくださったので、それを閲覧するためでした。
夏休みなので誰もいない教室を貸していただいて本を読み、必要なところを書き写すという作業を5時間近く続けました。

コピーをとってはいけないと言われたので、一本のボールペンを頼りにひたすら書き写しました。

その日は都内の実家に泊まることにしていたので、時間はたっぷりとれました。いつもなら、「3時のお茶の時間までには来てね」と母に言われるのですが、今回は娘がお菓子を買って3時までに母のところへ行き、夕飯の支度も手伝うことになっているので、わたしは夕飯までに行けばいいのです。

家事いっさいから離れて勉強できて、何て幸せなんだろう。何て楽しい時間なんだろうと思いました。
考えてみると、わたしが勉強を楽しいと感じるなんて不思議です。

なぜなら、高校生まで学校の勉強が大嫌いだったからです。わたしは作文と国語のテストが苦手でした。数学もあまり好きではありませんでした。高校では赤点をとることの恐怖から勉強していたようなものです。唯一好きだったのは物理でした。実験のレポートを書くのが楽しかったのです。

そのころは、勉強して何の役に立つのだろう? 何のために勉強するのだろう?という疑問があり、勉強する動機がはっきりしていなかったので、頑張ろうという気持ちになれなかったのです。

今は、動機がはっきりしています。聖書のこと、イエスさまのことをもっと知りたいという気持ち。それだけです。

自分ではどうすることもできない罪の問題を解決してくださったイエス・キリスト。
いつもうつむいていたわたしに生きる喜びを与えて下さったイエス・キリストのことをもっと知りたい。そのことがわたしを駆り立てています。

翌日の土曜日は日本クリスチャン・ペンクラブの例会に出席しました。喜怒哀楽で400字エッセイを書いていますが、今回は最後の『楽』でした。ぎりぎりまで推敲をくり返していましたが、タイムアウトになり、完成とはいえないかたちで持って行きました。
グループに分かれての合評で推敲のヒントをいただけたのでよかったです。

そして昨日は夕方まで教会でした。
この数日の涼しさは神様からのプレゼントのようでした。




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人は変わる(その2)

2011-07-21 20:39:23 | 教会
昨日の続きです。
マルコは裏切り者と言われるようなことをしてしまいましたが、変えられました。


「日常生活でも仲間から失望させられたり、裏切られたりすることがあります。でも、人は変わるのです。
自分もその人と同じような過ちを犯すことがあるかもしれません。それなのに人は、他人の欠点を見つけるとなぜすぐに断罪してしまうのでしょう。

神様が明日、その人を変えて下さらないと誰が言えるでしょう。
どんな状態になっていても、神様が明日相手を変えて下さるかもしれません。相手だけでなく私を変えて下さるかもしれません。神には人を変え、人を成長させる力があります。」

と牧師先生が言われました。


かつてわたしは卑怯者と言われても仕方ないことをしました。自分が悪く思われないために嘘もつきました。
そんなわたしを見て絶望した人もいたでしょう。傷ついた人もいたでしょう。

でも、神様はこのようなわたしを見捨てずにわたしが変わることを望んでおられました。
わたしは変わりました。いえ、わたしの力で変わったのではありません。神様が変えて下さったのです。

こんどは、わたしが過ちを犯した人を赦し、その人が『明日変わるかもしれない』と信じて、その人のために祈る者になります。このわたしが変わったのですから人は誰でも変わり得るのです。

おわり




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人は変わる(その1)

2011-07-21 20:27:20 | 教会
立派な人、正しい人がクリスチャンであると誤解している人が多いと先日(16日)書きました。自分のどうしようもなさに気づいている人がクリスチャンであるなら、クリスチャンどうしで対立したり反目しあったりすることはないのでは?・・・と思っている人がいるかもしれません。実は、以前わたしもそう思っていました。

同じ考えを持つ者だから反目することはない。誤解することもされることもないと思っていたのですが……いえいえ、そんなことはありませんでした。

同じクリスチャンでも、育ってきた生活環境が違うのですから、感じ方考え方がそれぞれ違うのは当たり前です。ときには意見が対立することもあります。


17日の礼拝メッセージでは、パウロとバルナバの対立のことが語られました。
使徒の働き13:13には、パウロの一行が船出してペルガに渡ったとき、マルコ(ヨハネ)は一行から離れてエルサレムに帰ってしまったと書かれています。
ヨハネとも呼ばれるマルコは、バルナバの甥です。なぜマルコが一行から離れてしまったのでしょうか……。
困難な旅が予想されるのでこわくなってしまった。あるいは伝道旅行のリーダーシップが叔父のバルナバからパウロに移ったのでそれを不満に思った。など推測できますが、聖書には書かれていません。

それから数年後、マルコのことでパウロとバルナバが対立してしまいます。
「ところがバルナバは、マルコとも呼ばれるヨハネをいっしょに連れていくつもりであった。しかし、パウロはパンフリヤで一行から離れてしまい、仕事のために同行しなかったような者はいっしょに連れて行かないほうがよいと考えた。(使徒15:37.38)」と書かれています。

ここで使われている「離れる」という言葉は『離脱』であり、英語では「見捨てる」「脱走する」の意味があるそうです。
教会では派遣式が行われ、パウロ、バルナバ、マルコは送り出されたのに、マルコが勝手にエルサレムに帰ったことは、仲間を見捨てることであり、裏切りと受け取られても仕方ない行為だったそうです。

マルコのことでパウロとバルナバは対立して、別行動を取ることになりました。バルナバはマルコを連れてキプロス島へ行き、パウロはシラスを連れてシリヤ、キリキヤ方面へ行きました。


「どちらが正しいかと問うのは、意味のないことです」
と牧師先生が言われました。
結果的には2つのルートで伝道されることになりました。聖書にはパウロの足取りしか書かれていませんが、バルナバの一行もキプロス島でよい働きをしたのでしょう。

ところが、それで終わりではありませんでした。パウロはその後、ローマで軟禁状態になりますが、そのとき書いた手紙の中に「マルコを伴って、いっしょに来て下さい。彼は私の務めのために役に立つからです。(Ⅱテモテ4:11)」と記されています。

パウロがこのように書いたのは、マルコがその後、立派な奉仕をしてパウロに認められるようになったことのあかしです。

マルコは変わったのです。パウロはマルコのことで失望し、マルコを弁護するバルナバと反目してしまいましたが、のちにマルコを認め、赦しています。


マルコが変わったのはなぜか書かれていませんが、わたしの想像では、マルコは自分のとった行動のためにパウロとバルナバが反目してしまったことに心を痛めていたのではないでしょうか。
神様のみこころに従わないで自分の思いで行動してしまったことを悔いていたのでは……と思います。
そして神様に祈ったことでしょう。神様はそんなマルコのうちに働きかけて下さり、マルコを忠実な働き人に変えて下さったのだと思います。
             
つづく



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再会

2011-07-18 17:02:01 | 教会
昨日は第1拝に出るため朝8時過ぎに家を出て、家に帰って来たのは夕方の4時半でした。

いつもは教会学校の奉仕が終わってから第3礼拝に出るのですが、昨日はどうしても第1礼拝に出る必要がありました。なぜなら、第3礼拝の時間帯(11時半~12時半)に行われている成人科にN先生が来られて講義をしていただくと聞いていたからです。

N先生には、以前お茶の水聖書学院(OBI)の通信講座で、2年間お世話になりました。インターネットを通してレポート提出したのですが、レポートには赤字でびっしり書き込んで下さり、丁寧に教えて下さいました。
お目にかかったのは一度だけ、3年ぐらい前でしょうか……JRお茶の水駅前でした。

成人科では、わたしが学んでいたのと同じ本「わかりやすい旧約聖書の思想と概説」を使って学んでいたそうです。わたしは成人科に出たことがなかったので、そのことを知りませんでした。

成人科でこの本の著者であるN先生からお話しを聞きたいという声が上がり、今回お招きすることになったそうです。
N先生宅に成人科の方が車で迎えに出かけ、奥様もご一緒に来ていただきました。

N先生は、旧約聖書が果たしている役目についてと、旧約聖書が編集されたいきさつを篤く語って下さいました。酸素吸入をされながらの講義でした。

講義の後、あいさつをすると、JRお茶の水駅前でお会いしたことも覚えていて下さいました。わたしの書いた本、「リピート・シンドローム」を2回も読んで下さったと聞いて、嬉しかったです。昼食は奥様の隣の席でいただくという光栄にもあずかりました。

80歳になられるN先生は、酸素ボンベを持ち歩きながら現在もOBIで週に一度教えておられるそうです。「今のいちばんの仕事は、その日に体調が整えられるように日々過ごすことです」と奥様が言われるのを聞いて胸が篤くなりました。


13時半からは教会学校教師会に出席しました。今月29、30日に低学年キャンプを行うのでその打ち合わせです。
泊まるのは教会ですが、1日目は東京キリスト教学園を見学に行きます。

わたしは去年の7月はずうっと具合が悪かったので、キャンプも参加できませんでした。今年は参加するつもりですが、この暑さで体力がもつかどうか不安を感じます。

でも、きっとだいじょうぶ。主が必要な体力を与えて下さることを信じて備えます。
礼拝メッセージについては次回書きますね。



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クリスチャンって立派な人?

2011-07-16 11:57:15 | 聖書から
クリスチャンというと、真面目とか立派とか品行方正という言葉を思い浮かべる人が多いようです。

かつてわたしは(こんないい加減なわたしがクリスチャンといえるだろうか……わたしがクリスチャンだと知ったら、みんなつまずいてしまう)と恐れ、クリスチャンであることをまわりの人に言えませんでした。
でも、その考えは間違っていました。


家庭集会では『 神の熱心 』 (朴永善著 モリソン社)から アブラハムについて学びました。
アブラハムが信仰の父と呼ばれるのにふさわしい人物であったかどうかについて問題提起しています。

アブラハムといえば、「ひとり息子のイサクを捧げよ」という神の命令に忠実だった信仰深い人を思い浮かべます。
でも、最初から信仰深かったわけではありません。

神様は、偶像礼拝の盛んな町ウルに住んでいたアブラハムにカナンの地へ行くように言われます。
アブラハムは信仰深かったので、神様から選ばれたのだ。そして信仰によって神様の言葉に従ったのだと思いがちです。実際わたしもそう思っていました。

でも、その時点では、アブラハムも父テラに習って偶像を拝んでいました。偶像礼拝は罪深いことです。

『アブラハムは罪深い者であったけれど、神様はそこから連れ出された』
と聞いて自分が誤解をしていたことに気づきました。

アブラハムの前に主が現れ、アブラハムは主の声を聞いてウルから出て行きます。ひとりでではなく、父のテラと親族一同が一緒でした。

神様はカナンへ行くように言われましたが、アブラハム一行はカナンではなく、カランの地まで行ってそこに住みつきます。(創世記11:31)

カランはメソポタミア文明圏のさいはての地だそうです。彼らがカランより先に行けなかったのは、当時の社会において自分の財産と命を守るため文化圏を越えられなかったからなのだそうです。
越えられなかったということは、テラにもアブラハムにも信仰と呼べるものがなかったことを意味します。宗教的な恐れからカランまでやってきたにすぎなかったのです。

テラがカランの地で死んだ後、神様は再びアブラハムに現れ、アブラハムにカランから出て示す地に行きなさい。そうすれば祝福しますと言われます。そしてようやくアブラハムはカランから旅立つのです。


『アブラハムが祝福されたのは、そうなるだけの然るべき理由が彼にあったはずだと思ってしまうことが問題である』

と聞いて、わたしの中にもなんとなくそう思っていた自分がいたことに気づきました。
テキストには「すべての結果には原因が必要だと考えることは不信仰です」と書かれていました。

アブラハムが正しくて立派だったから神様が選ばれたわけではないことを思うと、クリスチャンは正しい人、立派でなければいけないという考えは間違っていることになります。



『クリスチャンとは正しい人ではなく、自分のどうしようもなさに気づいている人である』
と牧師先生が言われました。その通りです。


「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。(ローマ3:24)」




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残されるもの

2011-07-13 20:51:07 | 聖書から
毎日暑いのですが、元気でいられることが嬉しいです。明日は我が家での家庭集会。10人以上の方が来て下さいます。
教会の帰りに自転車に積みきれないほど買い物をして、汗だくになりながら掃除と明日の昼食の下ごしらえをしました。掃除が充分でないけれど、それは暑さのせいということにして目をつぶってもらいましょう。


教会で水曜礼拝の30分前に聖書輪読会を行っています。聖書を一節ずつ交代で読み、気づいたことや受けた恵みや感想を言い合います。

現在メンバーは3人しかいませんが、何年も続いています。
1回に1章しかすすまないので遅々とした歩みですが、今までに新約聖書2回通読し、今日は旧約聖書の出エジプト記9章を読みました。
ちょうど個人的なデボーションでも出エジプト記を読んでいるところなので、理解が深まるような気がします。

9章はエジプトで奴隷のようにこきつかわれていたイスラエル人の叫びが神様に届き、モーセに率いられてイスラエル人がエジプトを脱出する直前のところです。

エジプトの王パロは、頑固でなかなかイスラエル人を行かせようとしません。それで10の災いがふりかかります。パロの心をかたくなにしたのは主であることが心に留まりました。

9章では家畜の疫病、人と獣につく腫物、雷と雹の災いが起きます。パロはそのたびに「おまえたちを行かせよう」と言うのですが、災いが過ぎ去ると、イスラエル人を行かせないようにしました。
雷や雹が降ったとき「建国以来エジプトの国中どこにもそのようなことのなかった、きわめて激しいものであった(24節)」と書かれているのを読んで、今回の大震災のことを思いました。いままで起きたことがない災害が起こったのですから……。


「主は時を定めて(5節)」
という言葉が印象に残ったとNさんが言いました。神様は災いを下すのに時を定めておられるのですね。そして、神様の主権のもとでそのことが起きたのです。

最初に生まれた子どもが死ぬという10番目の災いで、パロはイスラエル人がエジプトを出ることを許可しますが、なぜ最初からその災いを下さなかったのか。最初から下せば、9つの災いは必要なかったんじゃないかと思いました。でも、聖書をよく読んでみると、災いを10も下す意味があったのだと気づかされました。

雹を降らせると予告したとき、「パロの家臣のうちで主のことばを恐れた者は、しもべたちと家畜を家に避難させた(20節)」と書かれています。エジプト人の中でも神様の言葉を信じた者たちがいたのですね。

また、雹によって作物がだめになってしまったけれど全滅しませんでした。
「亜麻と大麦は打ち倒された。……しかし小麦とスペルト小麦は打ち倒されなかった。これらは実るのがおそいからであるー(31.32節)」

これらのことを考えると、神様はエジプトの人たちのことも愛しておられたことがわかります。作物が全滅したら、ひどいききんが訪れることになります。神様はすべてを滅ぼさず、必ず残されるものを備えて下さいます。

神様は、なんとかエジプトの人たちにもまことの神の存在を信じてもらいたいと思って10の災いを下されたのかもしれないねと、Nさんと話しました。


*10日にJCP(日本クリスチャン・ペンクラブ)のHPを、昨日わたしのHP「生かされて・・・土筆文香」を更新しました。



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サマースクーリングの恵み(3)

2011-07-09 11:55:22 | お茶の水聖書学院
今年のサマースクーリングについて書くのは今日で最後になります。今日はフリータイムのときのことを書きます。
サマースクーリングは朝の7時からの礼拝で始まって、夜8時半まで、びっしりのスケジュールでしたが、2日目の午後はフリータイムでした。

観光に出かける方、近くを散策される方、同窓会に出られる方、部屋で休む方とそれぞれでした。
F先生から、通信の学生で卒業研究やレポートの書き方等について質問がある人はこの時間に来るように言われました。

わたしは卒業研究の取り組み方がわからなかったので、この機会にぜひ教えていただきたいと思ってF先生のところへ行きました。

卒業は1年以上先になる予定ですが、早くも卒業研究の準備をするように言われ、テーマは決めたもののどのようなアプローチをしたらよいか悩んでいました。
質問といっても、何を質問したらよいかわからない段階でしたが、とにかくアドヴァイスを求めて行きました。

すると、具体的なことを丁寧に教えていただいて、何をどのように調べたらよいのかわかり、ほっとしました。本当に貴重な時間でした。


それが終わって部屋に戻ろうとしていると、同室の方に出会い、
「いまから内村鑑三の石の教会と白糸の滝に行くのでご一緒しませんか」と誘われました。

内村鑑三と聞いて、ぜひ行きたいと思いました。でも、車に分乗して行くので、行く人はあらかじめ申し込んでいるようでした。

わたしは申し込んでいなかったのであきらめようとしていると、「ひとりぐらい増えても乗れるかもしれないから、集合場所まで行きましょう」と言われ、わたしは皆さんから少し離れた場所に立っていました。

すると、「15人まで車に乗れるのですが、あなたは16人目ですので……」と申し訳なさそうに言われました。
ちょっとがっかりしましたが、神様が部屋で休むように言っておられるのだなと思って部屋に引き返しました。

しばらくして、同室の人が三階の部屋まで来て、「もう一台車出してもらえることになったので、一緒に行きましょう」と言って下さったのです。
部屋は集合場所の玄関から遠く、エレベーターもなく、階段を何段も上ったところにあるのに、息を切らして迎えに来て下さいました。

わたしは、感激して胸がいっぱいになりました。もう一台車を出してくださったのもわたしを乗せるためだったようです。

行く資格のない者が無償で資格を与えられました……。ここでも神様の愛を実感しました。

上の写真は内村鑑三の石の教会です。オーガニック建築で、自然の一部になったような何物にもしばられない自由を意味する建物なのだそうです。礼拝堂は撮影禁止だったので写真が撮れなかったのが残念ですが、とてもすてきでした。



資料館には内村鑑三自筆の書がありました。




最後にもうひとつおまけの恵みを書きます。

3日目の昼食時に講師の先生の向かいの席に座り、個人的にお話しする機会が与えられました。
「祈りは神様への請求書よりも領収書が多くなければならない」とお話ししてくださいました。講義の中で言い忘れたそうで、同じテーブルの者だけが聞くことができた言葉でした。
請求書とは、神様に願い事を訴えること。領収書とは、いただいた恵みを思い出し、感謝することです。

あっという間の3日間でした。わたしは、たくさんの領収書を携えて日常に戻ってきました。

                 おわり



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サマースクーリングの恵み(2)

2011-07-08 16:12:37 | お茶の水聖書学院
イエス様が弟子たちに「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか(マルコ8:29)」と尋ねたとき、ペテロは「あなたは、キリストです。」と正しく答えていますが、そのときのペテロはイエス様の十字架と復活の意味を理解できていませんでした。

その証拠にその後、イエス様に「下がれサタン」といさめられています。
そのときのペテロは、ぼんやりとしか目が見えていなかったのです。
のちに復活の主に出会ったペテロはすっかり目が見えるようになり、喜びをもってイエス様に仕え、大伝道者となります。

わたしたちも日ごとに朝ごとに復活のイエス様に出会うならば、罪赦されていること、永遠の命が与えられていること、神の子とされていることを実感し、喜びが湧き上がってきます。そのために必要なことは祈りです。

神との親密な交わりである祈りは『愛の深呼吸』だと教えていただきました。
「祈りは、神様に訴えるだけでなく、沈黙して、みこころを求めて神様に聴くことが大切です。祈りには沈黙のときが必要です」と聞いて、自らの祈りを顧みました。

わたしは祈るとき、沈黙することがほとんどありませんでした。朝の限られた時間にたくさんのことを祈るので、早口になりがちです。
内容は教会の先生方のこと、次週の礼拝のために、附属幼稚園と、教会のディーサービスにために。病気の方々の癒しのために。教会学校の子供たちのために。友人、知人のために。家族のために毎日祈っています。

でも、これでは神様がわたしに語りかけられたとしても、わたしはそれを聞くことができません。
なんということでしょう。自分の訴えや願いの祈りはほとんどしていなかったとはいえ、祈りの姿勢としてはよくなかったのです。

「主よ。お話ください。しもべは聞いております」というサムエルの祈りをしてから聖書を読み、とりなしの祈りをしようと思いました。

そしてさっそく6日の朝からそれを実行しました。
サマースクーリングの最初の朝はどしゃぶりの雨でしたが、翌朝は快晴でした。早く目覚めたので外に出て、自然の中でデボーションをしました。
「主よ。お話ください。しもべは聞いております」と祈ってから聖書を読みました。

毎日読んでいるところの続き、出エジプト記26章です。エジプトを出て荒野を旅するイスラエルの人々に幕屋の作りかたを細かく指示した内容で無味乾燥とも思われる箇所でした。

エジプトから逃げるようにして出て来て荒野にいるイスラエルの民にアカシヤ材や金や青銅を使って作れと言われるのは、少し酷なのではないかとさえ思えます。いままでは、このような箇所はなぜ書かれているのか意味がわらないので目で文字を追っていくだけでしたが、はっと気づいたことがありました。

エジプトを出ていく時、神様はエジプト人がイスラエル人に好意を持たせるようにして、金や銀の飾り、着物などをはぎ取るように言ったことが聖書(出エジプト3:21、22)に書かれていたのを思い出したのです。エジプト人から得た物で神様から示されたとおり幕屋を作ることができたのでしょう。

神様は不可能なことを要求されることはない。必要な物をあらかじめ備えてくださる。そう示されて、わたしの心に光が差し込んだように明るくなりました。

イエス様はときどき、わたしができないと思われる大きなことをするように言われます。でも、そのために必要なことはすでに備えられているのだと気づいたのです。

現在も重荷を背負って、その重荷に喘いでいたのですが、イエス様が重荷をすべて取り除いて下さったことを感じました。背中が軽くなって、心に喜びがあふれてきました。
イエス様は生きておられます!

M先生が言われました
「イエス様が『わたしが生きるのであなたも生きよ』とおっしゃるので、わたしは生きる。わたしの命は復活のキリストの命に支えられている。」

                     つづく


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サマースクーリングの恵み(1)

2011-07-07 20:56:06 | お茶の水聖書学院
サマースクーリングでは講師のM先生が「霊性を深めるために」と題して90分×5回のメッセージをしてくださいました。

書き留めたノートは20ページにもなります。すべてを紹介することができませんので、
メッセージを聞いて感じたことを中心に書かせていただきます。

まず驚いたのは、M先生の熱意と若さです。81歳になられるそうですが、背中をまっすぐ伸ばされ、力強いメッセージをしてくださいました。


霊性を深めるためにはまず、生活の中でイエス・キリストの恵みと愛の豊かさを味わうことです。
そのためには毎朝の静思のときに、イエス様が次の3つのことをあなたに言っておられることを確認します。

①あなたの罪は赦されています。
②あなたは私の愛する子です。
③今日も私はあなたと一緒にいたいのです。

このとき、イエス様はこのわたしとも一緒にいたいと思われるのだろうか? わたしは例外じゃないだろうか?と疑いが起こることがあります。

イエス様が取税人ザアカイに語りかけた言葉は次のようでした。
「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」新共同訳(ルカ19:5)

「嫌われ者のザアカイの家に泊まりたいと言って下さるイエス様です。あなたの家に泊まりたい。あなたと一緒にいたいと思わないはずがありません。」
と言われるのを聞いて、イエス様はこんないい加減な人間のわたしの家にも泊まりたいと言って下さっているのだなあと思い、涙が出そうになりました。

心の中に喜んでイエス様をお迎えすればいいのです。そうすれば、イエス様が心の中に住んで下さいます。なんと嬉しいことでしょう。

また、「大切なことは十字架につけられたままの復活のイエス様に出会うことです。」とM先生が言われました。

最初、「十字架につけられたままの・・・」とは、どういうことなんだろう? と思いました。
ガラテヤ3:1に「十字架につけられたイエス・キリストが・・・」とありますが、文語訳では「十字架につけられ給いしままのキリストが」と書かれているそうです。

わたしたちの罪が赦されるためにキリストは十字架にかかって死んでくださいました。復活されたということは、罪の赦しが有効になったということです。

十字架のイエス・キリストだけを思っていたら、自分の罪深さを思い、自分のせいでキリストが十字架につけられたのだと自分を責めてしまい、落ち込んでしまうことがあるかもしれません。

罪深い者だったけれど、キリストによって赦された。新しい人になったと確信するためには、復活のキリストに出会わなければならないのです。

「あなたの罪は赦されています」と言うために、復活のキリストは来てくださったのですね。

「わたしはキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きているのです。」(ガラテヤ2:20)


                        つづく



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サマースクーリング

2011-07-06 20:15:15 | お茶の水聖書学院
4日からお茶の水聖書学院(OBI)のサマースクーリングで軽井沢へ行き、今日帰ってきました。
先日も書いたように昨年はサマースクーリングに申し込んでいたのに当日の朝、熱を出して行けなかったのです。

実は、今年も熱が出るのではないかという恐れがありました。でも、祈っているうちにきっと行けるという確信に変わっていきました。
そして当日の朝、元気に目覚めたときは、喜びが湧き上がってきました。感謝の祈りをして出かけました。

参加者名簿を見ると、スタッフの先生以外は知っている方がひとりもいませんでした。
行くときは孤独で、とても緊張していました。

けれども、軽井沢恵みシャレーに着き、同室の方と自己紹介をしたとたん緊張はほどけました。

わたしが名前を言うと「去年熱出して参加できなかった方ね」と、覚えていて下さったのです。ただ覚えておられただけでなく、去年スクーリングの間ずっと祈っていて下さったと聞いて、胸が篤くなりました。
神様はすでに主にある友人を用意して下さっていたのです。

同室の4人とはすぐに打ち解けて、会話がはずみました。同室の方だけでなく、食事の折、同じテーブルに座った方(そのつどメンバーが代わりました)と親しくなりました。

「教会はどこですか?」「土浦めぐみ教会です」「あの有名な土浦めぐみ教会!」
という会話から始まって、気がつくと教会の自慢話をしているわたしでした。

(そういえば、S先生も他の所へ行かれると、教会の自慢話ばかりしているとおっしゃっていました)

学びはとてもすばらしかったのですが、次回紹介させていただきます。

今回のサマースクーリングでは、前回行けなかった分と合わせて2倍の祝福と恵みをいただけたようです。

お祈りして下さった方、ありがとうございました。



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あきらめないで(その2)

2011-07-02 11:02:07 | CS(子供伝道)
前回に続き、教会学校小学科(低学年)でお話ししたことを紹介しています。実際に話した言葉とは少し違っているかもしれません。


次にイエス様は、わたしたちのお祈りに応えてくださる神様がどんなお方か教えて下さいました。
自分の子どもがパンを食べたいと言うのに石を与えたり、魚が食べたいというのに蛇を与えるお父さんはいますか?そんな人はいませんね。

人間のお父さんでも自分の子どもには良い物を与えるのですから、それ以上にわたしたちを愛してくださっている天のお父様は熱心に求めるわたしたちに喜んで良い物を与えて下さいます。

求めても願っていた物が与えられないことがあります。
たとえば、小さな子どもがお父さんやお母さんに「ナイフちょうだい」と言ったらどうでしょう。あげる親はいませんね。ナイフは危ないので代わりの物をあげるでしょう。
神様はわたしたちにとっていちばん必要な物を必要な時に与えて下さいます。

わたしは、子どものころからお話しを作るのが好きでした。イエス様を信じてからは、神様の愛を伝えるために童話を書きはじめました。

キリスト新聞社でクリスマス童話を募集していたので、年に1回クリスマス童話を書いて送っていました。入選するようにと祈って送ったのにいつも落選でした。9年祈り続け、応募しましたが、9回とも落選でした。そのたびに落ち込んでいました。10回目も応募する気持ちでいたのに募集が終わりになってしまいました。

そのころ事件が起こりました。今まで書いてきた童話のデーターが全部消えてしまったのです。今までがんばってきたことの意味はなくなってしまったように思え、がっかりしました。
でも、その事件によって、何のために書いているのかをもういちど考える機会が与えられました。

そんなときクリスチャン新聞で小説を募集していることを知って、わたしは祈りました。
「神さま、いままで入選したいとばかり願ってきましたが、間違っていました。いま、『書くこと』をあなたにお捧げします。『書くこと』があなたのみ心にかなっていないのなら、書くことをやめます。でも、もしみ心にかなっているのでしたら、それを用いて下さい」

このように祈って小説を書き応募すると、思いもかけず入選し、新聞に連載されました。9年前のことです。

クリスマス童話は入選しなかったのですが、神様は小説を入選させて下さいました。神様は願っていたこととは別の物を与えてくださいました。

その後はクリスチャンでないところに小説や童話を応募し続けて、そしてまた落選し続けています。でも、祈り求めることが前と変わりました。

前は入選させて下さいと祈っていましたが、今はそう祈っていません。神さまの栄光をあらわすような作品が書けますように。神様がいちばん良いと思われるとき、神様の方法で用いて下さいと祈っています。

だから落選してもがっかりしなくなりました。前は、落選するとしばらく落ち込んで書けなかったりしましたが、今は落選がわかったその次の日に新しい童話を書いたりしています。

神様はいちばん良いときにいちばん良いものを与えて下さいますから、祈りがかなえられないといって簡単にあきらめたりしないようにしてほしいです。


このことを話した後、「わたし、先生がお話ししてくれた『くしゃみ大将』覚えています。とってもおもしろかったです」と分級を一緒に担当しているEちゃんが声をかけてくれました。

Eちゃんは大学一年生。Eちゃんが小学生のときクラスを受け持っていました。
わたしが受け持ったクラスの子どもたちは、へたくそな童話を聞かされて迷惑だったんじゃないかな……と不安を感じていたのでしたが……喜んでくれていて、ずっと覚えていてくれたことを約10年後に知らされて感激しました。


「あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見だそう。(伝道者の書11:1)」


クリスマス童話にだけ応募していたのではないので、落選は9回どころか30回ぐらいしています。入選した後の分も入れると落選回数は数え切れないほどです。その分、打たれ強くなっているかもしれません……。

詳しくはHP HP「生かされて・・・土筆文香」のエッセイの部屋「書くこととわたし4」に記しています。

                おわり



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