このごろPCの調子がいいのでほっとしています。
昨日は梅雨らしい天気でした。大雨の中、歩いて教会に行きました。どしゃぶりの雨の中を歩くとウキウキします。わたしって、変わっているのでしょうか? 梅雨の季節を喜んでいるのです。
体長20センチもあるミミズが道をはっていたり、木の葉からどさっと水が落ちてくるのを眺めたり、幾筋もの水が流れる土手を降りていくのは、楽しいです。(まるで子どものようですね)おかげで教会に着いたときは、靴も靴下も服もびしょぬれでしたが……。
聖書について書きます。
『聖書はBC1500年からAD100年の間に約40人の手によって書かれました。』と前回書きましたが、その40人はお互いに連絡をとることもなく、それぞれ違った場所、異なる時代で書かれました。にもかかわらず、あたかも一人の著者によって書かれたかのように、完全な調和と統一がとれています。
だから本当の著者は神様と言えるのですね。
聖書は、旧約聖書と新約聖書のふたつに分かれています。約というのは契約の約で、翻訳の訳ではありません。
神様はイスラエルの民を選び、契約を結んでくださいました。神様の契約は人間の契約とは違います。人間の契約は2人の合意のもとでかわされます。ところが、神の契約は神様から一方的に与えられます。
大洪水の後、神様は空に虹をかけてノアと契約を結ばれました。もう二度と洪水によっては滅ぼさないという一方的な約束です。
アブラハムには、アブラハムを通して地上のすべての民族を祝福すると約束されました。モーセ、またダビデとも契約を結ばれました。
「きょう、私が命じておいた主のおきてと命令とを守りなさい。あなたも、あなたの後の子孫も、しあわせになり、あなたの神、主が永久にあなたに与えようとしておられる地で、あなたが長く生き続けるためである。(申命記 4:40)」
旧約聖書には上記のように『主のおきてと命令を守れば、あなたはしあわせになる』という内容が繰り返し書かれています。
ところが、人間は神様との契約をやぶってばかりいました。旧約聖書は失敗の歴史ともいえます。
新約聖書の時代になると、イエス・キリストが古い契約を新しいかたちに更新してくれました。色々な決まりごとを守ることによって救われるのではなく、(キリストがわたしたちの罪を贖(あがな)って下さったので)、キリストを信じることによって救われるというのが新しい契約です。
聖書を理解する鍵は、契約と贖いという思想であると聞きましたが、初めて聖書を読もうとする方にとって、契約や贖いという言葉はなじみ深くない言葉ですね。また旧約聖書にはイスラエルの歴史が書かれているので、自分とは関係がないと思うことでしょう。わたしもかつてはそうでした。
神様がイスラエルの民を選ばれたのは、イスラエルが特別すぐれていたからというわけではないそうです。ひとつの民族を選び、その民族からメシヤ(救い主)を誕生させるというのが、大昔からの神様のご計画であったのです。
イスラエルを自分に置き換えて聖書を読んでみると、神様の愛に圧倒されます。
「主はご自分の地をねたむほど愛し、ご自分の民をあわれまれた。(ヨエル 2:18)」と書かれていますが、ねたむほど愛するとは、どれほど強い愛なのでしょうか……。..
最近わたしは、聖書は神様から人類に向けた熱烈なラブレターだと気付きました。旧約を読んでも、新約を読んでも『愛しているよ、愛しているよ』と迫ってくるものを感じます。もちろん、難しくて意味のわからない箇所も多いです。すべてを理解するのは、わたしなら一生かかっても無理でしょう。でも、神様が人類に宛てた熱烈なラブレターを読まずにはいられません。聖書の深い意味を知れば知るほど、もっと知りたくなります。
現代においても世界では迫害にあい、自由に聖書が読めない人々が大勢おられるそうです。
日本では聖書を自由に読めるのですから、そのことを感謝してもっと熱心に聖書を読みたいと思いました。
聖書については、書くことがたくさんありすぎてまとまりません。また、日にちをあけて書いていく予定です。