生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

会いたかったよ

2011-02-28 21:12:27 | CS(子供伝道)

少し暖かくなってきたと思ったら、今日は雨が降ってとても寒いです。気温の変化についていけないせいか、体調不良で一日ごろごろしていました。

入院している友人のお見舞いに行くつもりでしたが、無理して出かけるとこちらが見舞われることになりそうなので、今日はやめました。
夜になって元気回復してきました。

このところ土、日に出かける用事が2週続けてあったので、ヒックンを呼べませんした。
ヒックンは26日にやってきました。3週間ぶりです。

「会いたかったよ!」って駆け寄って来たのでぎゅっと抱きしめると、
「ずっと会いたかったんだよ。ゆこちゃん(わたしの愛称)は?」と尋ねます。
「わたしもヒックンに会いたかった」と言うとニッコリ笑いました。

「会いたかった」

なんて嬉しい言葉でしょう! ヒックンが帰ってからも、この言葉を頭の中でリピートさせて微笑んでいるわたしです。

昨日は教会学校で暗唱聖句大会が開かれました。1年生から6年生まで、60人以上の子どもたちがゲーム形式で学年ごとに競いました。例年は学年を縦割りにして競っていたのですが、今年は学年ごと(もちろんハンディをつけて)に競いました。

聖句を後半だけ書いたカルタを百人一首の要領でとる競争と虫食いクイズ。そしてそれぞれが覚えてきた聖句の数の平均を分級ごとに出して加算しました。
わたしの担当学年2年生は、1年生にも負けて最下位でしたが、みんなが意欲的だったことが嬉しくて、ひとりひとりに賞をあげたい気持ちです。

個人賞としてはヨハネ15章1-17を覚えるのですが、ひとりの6年生の男子が完全に暗唱できました。拍手!


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重荷を下ろして(その2)

2011-02-25 17:19:59 | 教会

10年ぐらい前のことですが、わたしは人間関係の中で心に大きな傷を受けたことがありました。
そのことを最初は神様にも訴えずに心に閉じ込めていました。苦しくてたまりませんでした。食事ものどに通らないほどでした。早く天国に行けたらいいのにと思いました。

あるとき、思いたって一冊のノートに苦しみを書くことにしました。神様に宛てた手紙のように書きました。ノートの表紙に「悲しみの中から神さまに求めた記録」と題をつけました。

苦しみをすっかり打ち明けたとき、本当に不思議なことに心に平安が与えられました。背負っていた重荷が取り去られて、体も心も軽くなりました。
イエス様が直接心の傷に触れ、介抱してくださったことがわかりました。

乳がんになって精神的に苦しかったときは、泣きながら神様に訴えました。苦しみをすべて吐き出しました。
そのあと、状況は変わらないのに平安が訪れたのは、イエス様がわたしの友となってくださったからです。
友となってくださったイエス様の変わらない愛を深く、深く、感じながらこの讃美歌を味わっています。


原詞と直訳を紹介します


What a friend we have in Jesus

What a Friend we have in Jesus,      
All our sins and griefs to bear!       
What a privilege to carry
Everything to God in prayer!
O what peace we often forfeit,
O what needless pain we bear,
All because we do not carry
Everything to God in prayer.

Have we trials and temptations?
Is there trouble anywhere?
We should never be discouraged;
Take it to the Lord in prayer.
Can we find a friend so faithful
Who will all our sorrows share?
Jesus knows our every weakness;
Take it to the Lord in prayer

Are we weak and heavy laden
Cumbered with a load of care
Precious Savior, still our refuge
Take it to the Lord in prayer
Do thy friends despise, for sake thee
Take it to the Lord in prayer
In His arms He'll take and shield thee
Thou wilt find a solace there


1 
なんというすばらしい友でしょうか、
主イエスが私たちのすべての罪と悩みを負ってくださるとは!
なんという特権でしょうか、すべてを神に祈ることができるのは!
しかし、なんとしばしば私たちは平安を受け損ない、無駄に心を痛めるのでしょうか。
すべてのことを神に告げる祈りをしないからです。

2
試練や誘惑に出会っていますか?
困難がありますか?
失望してはいけません。主に祈りなさい。こんなに真実な友があるでしょうか、私たちのすべての悲しみを感じて下さるという方が?
主イエスは私たちの弱さを全部ご存じです。主に祈りなさい。

3
重荷に弱り、心労に疲れていますか?
貴い主は、私たちの逃れ場です。主に祈りなさい。友に軽蔑され、捨てられていますか?
主に祈りなさい。主は、そのみ腕にあなたを抱き、あなたを守ってくださいます。
そこにあなたは慰めを見出すでしょう。


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重荷を下ろして(その1)

2011-02-24 17:31:21 | 教会
昨日の水曜礼拝は合唱入門2でした。(合唱入門1は2/10に書いています)
楽譜といえば五線譜を思い起こしますが、線のないもの。一本線のもの。曲線グラフのような楽譜があることを教えていただきました。

五線譜の読み方を覚えてから、讃美歌312番「いつくしみ深き」を三部に分かれて合唱しました。

「いつくしみ深き」は世界中で最も愛されている讃美歌のひとつで、作詞者はジョセフ・スクライヴィン、作曲者はチャールス・コンヴァースです。

メロディーは日本では明治43年(1910年)に文部省唱歌『星の界(よ)』として紹介され、その後、川路柳虹の作詞による『星の世界』として伝えられているので、ほとんどの人が知っていると思います。

作詞者のジョセフ・スクライヴィンは、2回も婚約者に先立たれてしまうという大変な試練にあっています。
最初の婚約者は結婚式前日に溺死してしまいました。長い苦しみの後、やっと41歳で新たな結婚をしようとしていたところ、今度はその婚約者が結核で天に召されてしまいました。

2度目の婚約者が召されたとき、失意の中でイエス様の慰めを受け、平安を与えられました。
故郷のアイルランドに住む母親が希望を失っていたので、母親を慰めるため、どんな絶望の中でもイエスを信頼する気持ちを込めて書いた詩が「いつくしみ深き」だったそうです。
歌詞を紹介します




 1 いつくしみ深き 友なるイエスは
  罪とが憂いを 取り去りたもう
  心の嘆きを 包まず述べて
  などかは下ろさぬ 負えぬ重荷を

 2 いつくしみ深き 友なるイエスは
  われの弱さを 知りて憐れむ
  悩み悲しみに 沈めるときも
  祈りにこたえて 慰めたまわん
  
 3 いつくしみ深き 友なるイエスは
  かわらぬ愛もて 導きたもう
  世の友われらを 棄て去る時も
  祈りにこたえて 労りたまわん


1番の歌詞で「罪とが憂い」というのは、罪と、咎(とが)と、憂いのことです。
「などかは下ろさぬ負える重荷を」というのは「どうして背負っている重荷を下ろさないのですか」という意味です。
3番の歌詞で「労(いた)わりたまわん」とは介抱してくださるという意味です。

スイスの宗教改革者カルヴァンは、「人間は、本当の苦しみを自分の中に押し隠し、神にすべてを告白しない本性を持っている」と言っています。

苦しみを自分の中に押し込めて神さま告げないから苦しいのです。
神の前で心の重荷を下ろすのは人間の本性ではないのですね。でも、心を開いて、嘆きを包み隠すことなく神様に言って、重荷を下ろすことが大切です。

そうすれば、神様は変わらない愛をもって導き、イエス様が心の痛手をやさしく介抱してくださいます。

次回は重荷をおろしたときのわたしのあかし(体験談)と「いつくしみ深き」の原文の直訳の歌詞を紹介します。
                        つづく


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「ことば」を住まわせる

2011-02-22 13:07:05 | CS(子供伝道)

教会学校では、来週暗唱聖句大会があります。聖句カードの1ページには5~6の聖句が書かれていてそれがA~Zまであります。

Fまでの聖句(33個)をまず覚えて、意欲のある子どもはZまで順に覚えていきます。その他にヨハネ15章1~17まで覚えると個人賞がいただけます。わたしは3週間で33の聖句とヨハネ15章を覚えたつもりでしたが、頭の中が飽和状態になってしまいました。

ひとつ新しいものを覚えるとひとつ忘れるので困ってしまいます。聖書箇所もなかなか覚えられません。小学2年生の子どもに負けています。(3週間で62個の聖句を覚えた小2の子どもがいます)

先日読書会で読んだ本、「乙女の密告」の中では、ドイツ語を暗唱する乙女たちが出て来ます。「忘れる言葉はその人にとって大事な言葉」というセリフがあって、意味深いなあと思いました。小説の中で乙女たちが覚えていたのは『ヘト アハテルハイス』(アンネの日記)でした。主人公は最後に大切な言葉を自分のものにして語っています。

覚えるためには、繰り返し声に出して読み、何度も何度も口の中で唱え、大変な努力を必要とします。
暗唱するうちに言葉が自分の中に入ってくるのがわかります。
また、暗唱しなければ何度読んでも気づかなかったであろう言葉に出会い、はっとさせられることもあります。

ヨハネ15章に
「あなたがたがわたしにとどまり。わたしがあなたがたの中にとどまるなら……」と繰り返し書かれていいますが、7節だけは、「わたしのことばがあなたがたにとどまるなら」になっています。「ことば」という語が入っているのはなぜでしょう……。

ヨハネ1:1に「ことばは神であった。」と書かれているので、わたし=ことばと解釈できますが、あえて「ことば」と書かれているのはなぜでしょう……。

7節の後半には「何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます」と書かれています。

イエス様ご自身が心に入って下さり、聖書のことばが自分のものになったときには、願い求めることが神さまと同じになっているのではないでしょうか。

名誉欲、金銭欲などのように自分のことだけを考えて求めるのでなく、神様のみこころにかなったことを求めるようになるのではないでしょうか。

だから、「あなたがたのためにそれがかなえられます」と言っているのでしょう。「あなたがたのために」という言葉も意味深いです。

「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えてこれらのものは与えられます。マタイ6:33」
と同じ意味になると思いました。

子どもたちの心の中に、また私の心の中にもたくさんのみ言葉を住まわせることができるように祈り求めます。


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抱いていやし、帰された

2011-02-18 22:05:41 | 聖書から
昨日はJCPの読書会で御茶ノ水まで日帰りで行ってきました。前回の芥川賞受賞作品、赤染晶子著「乙女の密告」(新潮社)を読んで感想を語り合い、意見を交わしました。
自分ひとりで読んでいたら気づかなかったことに気づかされたり、わからなかったことが見えてきたり・・・実りあるひとときでした。


今日はOさん宅で家庭集会でした。
新約聖書ルカの14:1-6からの学びをしました。

イエス様がパリサイ派の指導者の家で水腫を患っている人を癒された箇所です。
パリサイ人は、安息日にはどんな仕事もしてはならないという決まりを作って忠実に守っていました。
安息日の本来の目的は、天地万物を創造された神さまを覚えて礼拝することなのに、パリサイ人は目的をはきちがえていていました。

彼らは、イエス様が安息日に病人を癒すかどうか見てやろうという悪意を持って水腫を患っている人を連れて来ました。

水腫は不治の病気だったそうです。水腫の人は、行いが悪くて神にのろわれたためこんな病気になったのだと思われていました。どんなに辛く苦しい日々を送っていたことでしょう……。
彼はパリサイ人たちに利用されて連れてこられました。

悪意の中にあって、イエス様は平安でした。その日は安息日でしたがイエス様は、「その人を抱いていやし、帰され」ました。

イエス様は病人を癒すとき、色々な方法で癒されますが、ただ触れるだけでなく、抱いて癒されたことに感動します。

このときはひとことも病人と言葉を交わしていませんが、帰されたのは、見世物のようになることを避けるためだったと聞いて涙が出そうになりました。

「イエス様は、その人にあったお取り扱いをされる。」牧師先生が言われました。

水腫の人の癒しを読んで、イエス様の愛が迫ってきました。


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星空の旅

2011-02-16 21:14:56 | 日記

12日に六本木のスカイプラネタリウムにひとりで行ってきました。わたしは、プラネタリウムが大好きで、つくばエキスポセンターのプラネタリウムにもよく行きます。
スカイプラネタリウムは、歩きながら星空を旅するという体験型プラネタリウムだというので、以前から行きたいと思っていました。

先月実家に帰ったときに立ち寄るつもりでしたが、忙しくてその時間がとれませんでした。
今回はJCPの会が延期になり、時間が空きました。雪が積もりそうなら急いで帰らなければなりませんが、幸いみぞれまじりの雨でした。

場所は六本木駅から0分と書いてあるので、すぐにわかると思ったのに駅を出ても何の案内もありません。高層ビルが立ち並んでいる中、おのぼりさん丸出しでうろうろ歩きまわりました。
3回も人に尋ねて、ようやく森ビルのエレベーターを見つけました。会場は展望台のある52階です。

土曜日で、しかも翌日13日までの開催だったので大勢の人が並んでいました。
初めに入った部屋にはオリオン座の模型がありました。

オリオン座は長方形で囲まれた中央部に斜めに三ツ星があるように見えますが、それは地球から見た場合だけです。角度を変えて宇宙から見ると、決してそのようには見えないことがわかりました。
夜空の星は布に貼り付けられているように見えますが、実は奥行きがあるのです。
三次元なので当たり前のことなのですが、三ツ星は隣同士に並んでいるわけではないのです。

視点を変えるとまるで違ったものに見えてきます。ひとつの出来事を辛い出来事としてみていても、角度を変えると貴重な体験と思え、感謝できることがあります。 

ひとりの人間を見るにしても、角度を変えてみると別の性格の人に見えたり……。
神さまの視点から見ると、現代社会は、わたしたち人間は、どんなふうにみえるのでしょう?
色々と考えさせられました。

最新の天文観測データーに基づいて再現された一千光年の宇宙空間が用意されていました。星空の中を歩いているようです。
スクリーンを見ると、137億光年の宇宙旅行をして帰ってきたような感覚になりました。
宇宙の果ては137億光年先にあるそうですが、それは想像もつかないほどの大きさです。果たしてそこに宇宙の果てがあるのかどうか・・・。

地球から見ることのできる星だけではなく、宇宙には数えられないほどたくさんの星があります。その星ひとつひとつを、造られた神さま。宇宙を創造された神さまの素晴らしさ、偉大さを思いました。
ダビデは星を見上げて詩を書いています。



詩篇8篇3-9

あなたの指のわざである天を見、
あなたが整えられた月や星を見ますのに、
人とは、何者なのでしょう。
あなたがこれを心に留められるとは。
人の子とは、何者なのでしょう。
あなたがこれを顧みられるとは。
あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、
これに栄光と誉の冠をかぶらせました。
あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、
万物を彼の足の下に置かれました。
すべて、羊も牛も、また、野の獣も、
空の鳥、海の魚、海路を通うものも
私たちの主、主よ。
あなたの御名は全地にわたり、
なんと力強いことでしょう。


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受け継いだもの(その2)

2011-02-14 21:09:59 | 教会

昨日の続きです

両親から受け継いだ遺産はよいものばかりとは限りません。負の遺産もあります。
パウロ先生には大変な持病がありました。眼病? てんかん?……何の病気かわかりませんが、伝道に差し支えが出るほどの病気で、とげを取り去ってくれるように神さまに必死に祈っています。
しかし、そのとげは取り去られませんでした。

聖書には次のように書かれています

このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。
しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。(Ⅱコリント12:8-9)



「弱さを喜ぶことが大切です。弱さを神にゆだねること。弱さが御手の中で輝きます。
ていねいな心のこもった奉仕に弱さは不可欠です。」

と牧師先生が言われました。

『弱さが神の御手の中に入ったとき輝く』とは、何と嬉しいことでしょう!
わたしは何の自慢できるものがありません。でも、弱さなら自慢できます。気の弱さは世界一。体の弱さも並はずれています。

以前は弱いことが恥だと思っていました。人間の価値は、体の丈夫さによって決まるとさえ思っていました。大きな仕事をなし得る人、何かをやりとげることができる人は、能力とともに体力がある人だと思っていました。わたしのように疲れやすく、すぐ病気になる人は欠陥人間だと卑下し、元気な人と比べて落ち込んでいました。

ところが、この聖書の言葉に出会って価値観が180度変わりました。
神さまが、弱さのうちに完全に現れて下さるのなら、弱い人の方がすばらしいことができるということになります。

弱さが輝くのなら、弱いことを大いに喜べます。喘息になったこと、乳がんになったことも喜んでいます。
神さまの恵みは十分すぎるほどわたしの上に注がれています。

わたしは、大いに喜んで弱さを誇ります。

                 おわり




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受け継いだもの(その1)

2011-02-13 21:05:16 | 教会
11日、12日は都内に出かけ、実家に泊まりました。JCPの童話エッセイの会が延期になりましたが、11日は妹と前から約束があったので出かけました。

天気予報は大雪になるかもしれないとのことで、電車の遅れを心配しましたが、雪はみぞれに近く、ほとんど積もらなかったので、電車も遅れず助かりました。(写真は、昨日訪れた場所から正午近くに撮影しました)

昨日のことを書く前に、今日のメッセージで受けたことを忘れないうちに書くことにします。
先週の日曜礼拝のメッセージは、パウロ先生の両親についてでしたが(2/7に書いています)、今日はパウロ先生が両親から受け継いだものについてでした。


パウロ先生が受け継いだものは、ローマの市民権と職業です。
パウロ先生はローマ市民権があったために難から免れています。

千人隊長が、パウロ先生をむち打って取り調べようとしたとき、パウロ先生がローマ市民であることがわかると、すぐにパウロ先生から身を引きました。(使徒の働き22:24-30に書かれています)
ローマ市民は、刑罰を受ける前に裁判を受ける権利があったのです。

自分のことを「生まれながらの市民」と言っているのは、パウロ先生の両親が市民権を獲得していたことを意味します。

ローマの市民権は、出生地や人種にかかわらず、得ることができました。ローマ市民になるには、次の3つの方法がありました。

①大金を出して買う。(ローマの千人隊長は大金を出して買っています)
②ローマ帝国に貢献した人に与えられる。
③生まれながらの市民。(両親が市民権を持っている)

パウロ先生の両親はどのような方法で市民権を獲得したのかわかりませんが、パウロ先生への大きなプレゼントになりました。
パウロ先生は、この権利を最大限に利用し、ローマでたくさんの人に福音を伝えました。

現代社会でローマ市民権に値するものは、学位、卒業証明書、様々な資格、免許証、などです。
どのように用いられるかわからなくても取得しておけば、のちに神さまが豊かに用いて下さるでしょう。

パウロ先生が両親から受け継いだものの二つ目は、天幕造りの職業です。パウロ先生はおそらく父親からその技術を学んだのでしょう。その技術があったから、経済的自立ができたのです。


「神さまは努力して持ったものを必ず用いて下さいます」
と牧師先生が言われました。


メッセージを聞いて、わたしは神さまに背中を押されたような気がしました。

わたしは、4月から始める学びについて準備をしています。必要な単位が取れれば、卒業証書がいただけます。でも、試験があるので少し不安でした。また、卒業資格を得ても何に用いられるか具体的に示されていないので、卒業する必要があるのだろうか?という迷いもあったのです。

今日のメッセージを聞いて、決心ができました。具体的なことは、試験に合格してからお知らせしますね。                 

                      つづく



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喜びの秘密

2011-02-10 20:47:37 | 教会

昨日、水曜礼拝に行く準備をしていたら、みぞれが降ってきました。
風邪気味でもあったので、お休みしようか迷いました。

でも、せっかく支度したのだからと、傘をさして出かけると、みぞれはどんどん強くなり、コートにしみこんでいくようです。引き返そうと2回ほど思いましたが、そのまま歩いて教会まで行きました。顔はこわばり、足や手は氷のようです。

でも、聖書輪読会に出て、聖書を読んでいるうちに体がホカホカしてきました。

水曜礼拝は、音楽主事の先生による合唱入門。丸く並べられた椅子に座っていつもと違うスタイルで行われました。

ひとりが「ド」の音を出し、もうひとりが一オクターブ上の「ド」の音を出すと、「ソ」の音が聞こえてくるというので『まさか?』と思いました。最初はわからなかったのですが、床から天井にかけてのぼっていくような「ソ」の音の響きが感じられました。目には見えないけれど、聖霊がそこにおられるのがわかったという感じの不思議な体験でした。

フランシス・ハヴァーガルが作詞した讃美歌332(主はいのちを与えませり)を四部合唱で賛美しました。

フランシス・ハヴァーガルはいつも喜び輝いていたので「どうしていつも嬉しそうなのですか?」と人に問われるほどだったそうです。

喜びの秘密について彼女は「イエス様がいのちを捨てるほどわたしのことを愛して下さったからです。」と答えたそうです。

「あなたの喜びの秘密を教えてください」と言われるようになりたいと思いました。

讃美歌332の歌詞の意味を味わいながら賛美すると、心が震えました。


「主はいのちを与えませり」の直訳を紹介します

わたしはあなたに、わたしのいのちを与えました。
わたしの貴い血を流したのは、あなたが贖われ、死から甦るためなのです。
わたしはあなたのために、わたしのいのちを与えました。
ほんとうに与えたのです。
あなたはわたしのために、何を捧げましたか?

わたしはあなたのために、あなたが表現できないほど、苦しみました。
あなたを地獄から救うために、最もむごい苦悩を味わいました。
それはみな、あなたのためでした。
あなたはわたしのために、何を苦しみましたか?

わたしは天の住まいから、あなたに完全な、無償の救いをもたらしました。
わたしは、豊かな賜物を、あなたに与えました。
あなたは、わたしに何を捧げましたか?

*わたしというのはイエス・キリストのことです。讃美歌の日本語の歌詞は「主」となっています。


聖書のことば
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。
(ガラテヤ2:20)」



日本クリスチャン・ペンクラブのHP更新しました。


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心の塀が壊されて

2011-02-09 16:51:27 | 日記

友人の優子さんが2/8の「メメントドミニ」で、童話「わがままな大男」について次のように書いておられます。

この大男の姿は我々人間に巣食らっている本質でもあろう。
童話に登場する両方の手のひらと両足に釘のあとがある「小さな子ども」は、神の子イエス・キリストであり、ワイルドは神の愛によって人間は救われることを述べているのである。

大男の庭は大男の心のありさまであり、しかし、いつしか「自分の心の高い塀に気づき、自らの手で塀を打ち破った」のである。

(ブックマークの「メメントドミニ」をごらんください。)

我が家にある絵本の題名は「わがままな巨人」で、釘あとがあることは省略されていますが、原作にはおそらく書かれていたでしょう。

無意識のうちに自分のまわりに塀をめぐらせることって、結構ありますね。
「わがままな巨人」を読んで父のことを思い出しました。

わたしの父は厳格で頑固な人でした。人の話を聞いていると、いつの間にかお説教する姿勢になっていました。父に逆らったり、口答えすると激怒するので、母もわたしや妹も恐れていました。

父にキリストを伝えたくても、話を聞いてくれないのでどうしようもありませんでした。
父は癌になる数年前に腹部大動脈瘤で緊急手術を受けたことがあります。
「危なかったですよ。もう少し遅ければ、破裂していました」と医師から告げられたとき、「運がよかったんだなあ」と言っていました。

そのときから、父は自分のはりめぐらしていた高い塀に気づき、それを少しずつ打ち壊していたのです。
父が大動脈瘤で入院している時に、三浦綾子さんの本「永遠のことば」を持って行きました。
読んでくれるかどうかわからなかったのですが、少しでも心を開いてくれればと思って祈りつつ渡しました。

数年後に末期がんになったとき、父が「永遠のことば」を熱心に読み、書き写していたことを知りました。
父の心の塀がくずれていたので、わたしが話したイエス・キリストのことやホスピスでチャプレンの先生が語る言葉を素直に聞き、受け入れることができたのだと思います。

巨人が小さな男の子と出会って喜んで天国にいったように、父もイエス様と共に天国へ行ったのだなあと思いました。



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非難されるところのない者です

2011-02-07 20:28:22 | 教会

昨日の礼拝では、パウロ先生の両親について語られました。一部を紹介させていただきます。


聖書にはパウロ先生の両親は登場しませんが、パウロ先生の書いたものから、ご両親がどんな方だったか推測できます。

パウロ先生は自分のことを次のように紹介しています。
「私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。(ピリピ3:5-6)」

パウロ先生の両親が、パウロ先生にユダヤ人であることを自覚させ、子どもに信仰の継承を第一にしていたことが伺えます。


自分のことを「非難されるところのない者です」と言い切るとは、すごいですね。パウロ先生が、両親にしっかり教育されて、子どもの時からユダヤの伝統を守っていたから言えたのだと思います。


パウロ先生はタルソで生まれ育ちました。タルソはギリシャ人の町で、そこに住むユダヤ人はマイノリティでした。
その中で両親はパウロ先生をユダヤ人として教育し、その後エルサレムのガマリエルのところへ留学させてラビ(ユダヤ人の教師)としての教育を受けさせました。そのために大きな犠牲を払ったことでしょう。

「けれども、生まれたときから私を選び分け、恵みを持って召して下さった方が・・・(ガラテヤ1:15)」
とパウロ先生はあかししています。


子どもは親の生きる姿勢を見て育ちます。
生まれた時から教会に連れて行ってもらい、神様のことを伝えられている子どもたちの幸いを思いました。

親がしっかりとした信仰姿勢を示し、神様を喜ぶ生活をすることが大切なんだなあと思いました。



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なつかしい童話

2011-02-04 21:30:42 | 読書
いつのことだったのでしょう。自分で読んだのか、読み聞かせしてもらったのかわかりません。遠い記憶の中に宝物のようにとってある大切な童話がありました。なぜか慕わしくてたまらない童話でした。でも、題名も作者もわかりませんでした。

長い間忘れていましたが、ついこの間、その童話と再会しました。
ヒックンが生まれた年、古本屋で世界名作絵本を数冊買って本棚に入れていました。
先日、ヒックンの昼寝の前に、ふとその中の一冊を手にして読みました。題名は「わがままな巨人」です。読んでいて涙があふれました。ずっと会いたかったなつかしい人に再会したような気がしました。
作者は「幸福の王子」を書いたオスカーワイルドです。読みたかった童話が3年も前から家にあったなんて……。

粗筋を紹介します

巨人が留守をしている間に、巨人の庭に子どもたちが入りこんで楽しそうに遊んでいました。巨人は怒って子どもたちを追い出し、庭の周囲に壁を作って誰にも入らないように立て札をたてました。

その後、巨人の庭は雪でおおわれ、いつまでたっても春になりませんでした。あるとき、少し暖かくなったので外を見ると、雪がとけはじめていました。子どもたちが壁にあいた穴から入って来て、梅の木にのぼっていました。子どもたちの登った梅の木は花を咲かせています。ひとりの男の子が木に登れなくて泣いていたので、巨人は男の子を抱いて木の枝にすわらせてあげました。

巨人は子どもたちが庭に来ることによって春がやってくることに気づきます。今まで自分がわがままだったことを悔い、壁を壊して子どもたちが自由に遊べるようにしました。
ところが、あのときの男の子はそれきり姿を見せません。巨人は男の子に会いたいと思いながらだんだん年をとり、おじいさんになりました。

あるとき、庭にあの男の子の姿がありました。巨人は喜んで会いに行くと、
「あなたがわたしをこの庭で遊ばせてくれたように、きょう私はあなたを私の美しい庭に連れて行って上げましょう。さあ、一緒に行きましょう。わたしはあなたを迎えにやってきたのです。」と男の子が言いました。
 その日もいつものように 子どもたちが学校帰りに巨人の庭にやってきました。
 でも、その日子どもたちがみたものは、真っ白な花に覆われた巨人の息絶えた姿でした。


別訳を調べてみると巨人が男の子に再会したあとの部分に以下の文章が挿入されていました。


そしてその木の下にはずっと会えずに心配していたあの男の子が立っていました。 巨人はうれしくて 急いでその子のそばに走っていきました。
その子に近づいた巨人はギョッとしました。男の子の両手と両足には 釘で刺し貫いた痕があったのです。
「どうしたんだ!! 誰に何をされたんだ! 仕返しして そいつを八つ裂きにしてくれるぞ。」 
そう 怒りに震えてどなる巨人をさえぎって男の子はいいました。
「ちがう。これは 愛の傷なんだよ。」
巨人は びっくりして 男の子をじっと見据え、おそるおそるたずねました。
「あなたは……いったい どなたなのでしょうか?」
男の子は巨人を見つめて優しく微笑むと、まっすぐに手を伸ばし、その小さな手で大きな手をにぎりました。


手足の傷跡……はっきりとイエス・キリストを示しています。絵本では省略されているものが多いようです。
わたしに残っている記憶の中にも男の子の手足の傷の箇所はありませんでした。
でも、巨人がイエス様を示す男の子に出会って変えられ、天国に連れて行ってもらえたことが心に響きます。

ヒックンはこの絵本を気に行って、何度も「読んで」と持って来ました。何度でも読みましょう。ヒックンの記憶に留まるように。

「わがままな大男」という題名でも本が出ています。


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背後にあるもの(その2)

2011-02-02 21:48:28 | CS(子供伝道)
今日はヒックンが熱を出したので一日預かりました。午後には熱が下がって元気になったのでほっとしました。
昨日の続きです。

それに気付いたエステルは、人を遣わしてモルデカイに尋ねさせます。モルデカイは発布された法令の写し渡し、事情を伝えました。そして、王のところへいってユダヤ人を助けるように頼みます。
エステルは、召されないのに王のところに行く者は死刑になるという法令があること。しかし、王が金の笏(しゃく)をその人に差し出せば、殺されないですむことを話し、エステルは30日も召されてないことを告げます。

そのときに語ったモルデカイの言葉は、迫力があります。

聖書には次のように書かれています。
「あなたは、すべてのユダヤ人から離れて王宮にいるから助かるだろうと考えてはならない。もし、あなたがこのような時に沈黙を守るなら、別の所から、助けと救いがユダヤ人のために起ころう。しかしあなたも、あなたの父の家も滅びよう。あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、この時であるかもしれない。」

モルデカイは神が必ずユダヤ人たちを守って下さることを信じています。また、エステルに使命が与えられていることを伝えています。
実の娘のように愛するエステルを危険な目にあわせても使命を全うせよと言うモルデカイの心中はどうだったのでしょう。確固たる信仰を持っていたからこそ言えたのでしょうね。

モルデカイの言葉を伝え聞いたエステルは奮い立ちます。ユダヤ人たちに3日間の断食と祈祷をお願いし、「たとい法令にそむいても、私は王のところへまいります。私は死ななければならないのでしたら、死にます」と言いました。
張りつめた会話がかわされています。



30日のCSのメッセージはここまででした。
「さて、エステルは、ユダヤ人たちは、どうなったでしょうか。続きは来週」と言うと、子どもたちの間で「えーっ!」「続きが聞きたい!」という声が上がりました。


結果は、金の笏が延ばされ、エステルは助かります。ところが、エステルはユダヤ人たちを救ってほしいことをすぐに王に言いません。王とハマンを招いて2回も宴会を設け、2回目のとき、ハマンの悪だくみを訴えるのです。ハマンは王の逆鱗に触れ、木につるされます。ユダヤ人たちは助かります。


エステル記に書かれていることは本当にあった出来事です。
聖書をお持ちの方は、ぜひ旧約聖書のエステル記をお読みください。ひとつひとつの出来事が神の民、ユダヤ人を救うために起こったのだとわかります。背後に神さまの御手が働いているのです。

『もしかするとこの時のため』というのは、現代に生きるわたしたちにも当てはまるのではないでしょうか。

わたしたちは、神様の遠大な御計画の中に組み込まれています。色々なことが起こり、そのときは意味がわからず、嘆いたり、つぶやいたりするのですが、ずっと後になって「もしかするとこの時のため」に起きた出来事であったと気づくのです。

中学生の時、友達がいなかったときの孤独な経験は、童話や児童小説を書く原動力になりました。
乳がんになったことは、HPやブログを通して同じ病気の方を慰めるのにお役に立ちました。
主にあって無駄な経験はありません。辛い経験もよいことに変えられるのです。


「神を愛する人々、すなわち神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(ローマ人への手紙8-28)」


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背後にあるもの(その1)

2011-02-01 21:59:50 | CS(子供伝道)

教会学校小学科では、今月末に暗唱聖句大会を行います。子どもたちがひとつでも多くのみ言葉を覚えられるように指導しています。

わたしは衰える記憶力と戦いながら、一週間で33の聖句を覚えました。あと100ぐらいあるので、家事をしながら一生懸命覚えています。

小学科では5~6人の教師が順に「成長」というテキストからお話ししています。
30日は旧約聖書エステル記のメッセージをさせていただきました。

何か行事があると特別メッセージになるので、テキストから一週ずれていますが、30日がエステル記の前半でした。

わたしは、エステル記が大好きです。「神さま」「主」という言葉は使われていませんが、背後にある神様の働きが実感できます。

このメッセージをするために「もしかすると、この時のため」遠藤嘉信著(いのちのことば社)を再読しました。本を読んでいるうちに熱くなり、作っていたメッセージ原稿を書き直したほどです。
エステル記をご存じない方のために粗筋を紹介します。


イスラエルの国が滅ぼされ、ユダヤ人たちは捕囚としてバビロンに連れていかれました。その後、バビロンがペルシャに滅ぼされ一部のユダヤ人はエルサレムに戻りました。でも、異国の地に住み着いたユダヤ人も大勢いました。
その中にエステルという美しい娘がいました。エステルは幼い時に両親を亡くし、親戚のモルデカイに育てられました。

ペルシャの王、アハシュエロスは大宴会を催し、王妃ワシュティを呼び出しました。王妃の美しさを客人に見せびらかしたかったのでしょう。ところがワシュティは王のもとに来るのを拒みました。なぜ拒んだかは聖書に書かれていません。
しかし、そのことからエステルの出来事が始まっています。

ワシュティは退けられ、新しい王妃を迎えることになりました。そして大勢の娘さんの中からエステルが選ばれ、王妃になりました。モルデカイはエステルにユダヤ人であることを明かさないように命じます。

宮殿にはハマンという大臣がいました。王はハマンを信頼し、高い地位につけました。
宮殿中の者がハマンにひれ伏しました。モルデカイだけはひれ伏さなかったので、ハマンは彼を憎み、彼の民族と共に滅ぼそうと計画し、王に訴えます。

王は、ハマンに指輪を渡し、あなたの好きなようにせよと言いました。ハマンは全てのユダヤ人を殺害するという文章に王の指輪の印を押し、法令を発布しました。王の指輪の印が押された法令はだれも取り消すことができないものでした。

ユダヤ人の町は大混乱になりました。モルデカイも嘆いて着物を引き裂き、荒布をまとい、灰をかぶって門の前にすわりました。

                        つづく


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