生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

よくなりたいか

2012-06-29 16:44:06 | 聖書から
昨日は日本クリスチャン・ペンクラブ、童話エッセイの会で御茶ノ水まで行ってきました。その前の日は都内の実家に泊まりました。

明日は昼から夜8時までCS教師研修会、来週はOBIのサマー・スクーリングに出かけます。
わたしが夕飯を作れない日が多いので、主人と娘に分担してもらいました。(お弁当を買う日や主人と娘で外食という日もあります)


新約聖書ヨハネの福音書5章には次のようなことが書かれています。

エルサレムにあるベテスダの池には、多くの病人が集まっていました。(み使いによって水がかき回されたとき最初にとび込んだ人は病気が治るという伝説があったからです。)そこに38年間も病気の人がいました。この人には友達がいなかったようで、いくら池の水が動いたとわかっても、いちばんに池にとびこむことができませんでした。

その人のところにイエス様は来て下さいました。イエス様はその人に「よくなりたいか」と尋ねます。38年も患っている人に対してそのように尋ねるとは、酷ではないかと思いました。なぜそのような質問をイエス様がされたのか……。ずっと疑問でした。聖書学者たちがどのように解釈しているか調べていました。


・メリル・テニイ
「イエスが「よくなりたいか」と言われたのは、病気を癒してもらおうという意志を持っているかどうか尋ね、この人の内なる心をしらべるためだった。」『新約聖書注解 ヨハネによる福音書』(聖書刊行会)

・CL・アレン
「イエスがこの病人に「なおりたいのか」と尋ねたのは本当によくなりたいのかという意味で重要な質問である。キリストのこの質問は、いやしの可能性があることを意味している。』『イエスの奇跡物語講解」 (聖文舎)

・カルヴァン
「イエスが「よくなりたいか」と尋ねたとき、この病人は自分の考えに従って、神の限界づけをしていた。しかし、キリストは彼の不完全さを多目にみている。」『カルヴァン新約聖書注解 ヨハネ福音書上」(新教出版社)


24日の礼拝では、「よくなりたいか」というのは「文字通りの質問ではない」と牧師先生が言われました。イエス様は病人を見て、彼が長く病んでいるのを知っていました。よくなりたいと思っていることは確かです。

でも病人は的外れな答えをします。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。(ヨハネ5:7)」と、自分のみじめな境遇をしみじみ訴えたのです。
イエス様は病人の答えにかかわらず癒しています。

「イエス様が質問したわけは、病人の悩みを聞き、心の痛みに触れるためだった」と牧師先生が語られたとき、わたしは涙があふれました。聖書学者たちの書いたことより心にぴたっときたのです。

病を抱えている人は、病気自体の苦しみに加え、精神的な苦しみも、心の傷も抱えていて、健康な人には理解してもらえない悲しみ、言葉にならないうめきのようなものがあるのです。その悩みを聞いてほしい、理解してほしいと求めているのです。
イエス様は、病人が心の悩みを訴えることを求めて、あえてそのような質問をされたのですね。

イエス様は、悩みを見、叫びを聞き、痛みを知るために来て下さいました。(前回書いたティータイムのお話しとつながっています)



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共に生きる

2012-06-25 16:59:29 | 乳癌
先週の金曜日に乳がん術後の検査結果が出ました。術後8年半たっています。
前回から電話で結果を教えていただけることになったので、とても助かります。異常がなければ病院へ行かなくてもよいのです。

今回エコー検査を受けたとき、いつもより念入りに調べられました。とても長い時間に感じられました。集団検診のエコー検査で乳がんとわかったときも長い時間調べられ、ひとり2分ぐらいで終わるところをわたしだけ10分近くかかっていたことを思い出しました。
そんなことを思うと、恐ろしくて電話をかける手が震えました。コール音を聞いていると胃が痛くなってきます。

「貧血はありますが、エコー検査、腫瘍マーカーには異常ありません」という医師の言葉を聞いた時、ほっとして体の力が抜けました。貧血は鉄剤を処方されているので心配ありません。神様によって与えられているいのちを抱きしめるような思いで感謝しました。



土曜日は教会のティータイムでした。ティータイムとは、手作りのお菓子をいただいてお茶を飲みながら音楽に耳を傾けたり、お話しを聞く集会です。
お話しの一部を紹介させていただきます。


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心配ごとがなくなることが幸せと思う人が多いです。でも、問題がなくなることが幸せをもたらすのではなく、悩みがある中で絶望しない力が与えられることが大切です。

大野勝彦さんは、44歳まで元気に農業の仕事をしていました。ところが、事故で両腕をなくしてしまいました。トラクターを洗っているとき、誤って回っているシャフトに両腕が巻き込まれ、両腕が引きちぎられてしまったそうです。義手で絵画や書の創作活動を始め、その作品が多くの人たちに励ましを与えています。
大野さんは「自分は何の役にもたたない。人の世話になるしかない。だったら、せめて機嫌よくしていよう」と言ったそうです。

星野富弘さんは中学校の教師でしたが、クラブ活動の指導中、頸髄を損傷して首から下の自由を失ってしまいます。口に筆をくわえて詩画をかき、それが多くの人に生きる力を与えています

この人たちに共通していることは、自分に寄り添ってくれる人を発見できて、その人に感謝する思いを与えられ、それによって生きる力が与えられていることです。

旧約聖書出エジプト記3:7には、「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている」と書かれています。

神様は、エジプトの地で奴隷として苦しめられていたイスラエル人の①悩みを見、②叫びを聞き③痛みを知っていました。イスラエル人は430年もの間苦しめられましたが、その間神は共にいて下さいました。そして、神はイスラエル人を救い出し、よい地を与えると言って下さるのですが、その地を得るためには困難があると言っています。

『①悩みを見、②叫びを聞き③痛みを知る』この3つが共に生きること、寄り添うことです。寄り添う生き方の反対は、問題解決することで必死になることです。

神は問題解決を目的に存在するのではありません。もし、そのために存在するなら、問題のない人には神は不必要です。

問題解決こそが大事だと思っていると、自分が解決できないことには無関心になります。

問題解決に目を奪われていると、ほんとうは解決していないのに解決した気になってしまいます。

本当に問題解決したいという者の姿勢は、悩みを見、叫びを聞き、痛みを知る姿勢になってきます。

人を通して神の愛を受けることができるので私は生きるのです。
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「悩む人に寄り添って共に生きる者とならせてください」と祈りました。



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なくしたものが見つかりました!

2012-06-22 11:41:28 | 日記
先日のブログにメールデーターを紛失してしまったことを書きました。(アドレス帳は大丈夫でした)そのことと、次に書いた礼拝メッセージの内容と関連性を持たせていたわけではありませんが、関連しているような結果になりました。

(わたしはふたつのアドレスを使い分けていて、ウインドウズメールで使用しているbiglobeのメールを見失ってしまいました。もうひとつのgooメールは、ネット上に保管されているので、大丈夫です)

ブログをアップしてから、なくしたメールデーターをパソコン内で捜していました。検索機能を使っても出てきません。

検索機能を使うと、メールに書いた言葉ひとつを入力するだけでそのメールが出てきます。そのメールの保管場所がわかれば他のメールも見つかると思ったのに……なぜか検索機能ではひとつも見つかりません。
Cドライブ容量を少しでも増やすため、試行錯誤していたので、メールデーターのファイルを削除してしまったかもしれないと、いちどはあきらめました。


昨日、PCの前で消えたメールを嘆いてため息をついていました。
何をしていたときメールが消えてしまったのか考えていると、デスクトップ上にあるファイルをいくつか外付けハードディスクにコピーしてから削除したことを思い出しました。PC知識の乏しいわたしです。そのファイルがどんなファイルなのか、また、移動してよいものなのかどうかわからずにやってしまったのです。

コピーしたはずだったけれど、コピーせずに削除したのかもしれないと思いました。ごみ箱は空にしてしまったし、復旧させるためにはソフトを購入しなければならないらしく、やり方も難しそうで、わたしの手に負えることではありません。絶望感でいっぱいになりました。

わたしのことを熱心に捜し出してくださった神様のことを考えて祈っていると、『メールデーターはきっと見つかる』という思いが心の中にわきあがりました。

わたしも熱心に捜してみよう。でもどうやって……? 神様、知恵と力を与えてください。

自分がしたことをやり直してみようと思い、ハードディスクにコピーしたファイルをデスクトプ上にもどしました。それからファイルをひとずつ開いてみました。そうしたら、あったのです! 4年分のメールデーターが!

これをウインドウズメールに移すにはどうしたらいいのでしょう。そうそう、インポートです。インポートのやり方はマイクロソフトのサイトで調べて……。

バンザーイ! 127通のメールが戻りました! 


わたしはたくさんあるメールすべてを捜していましたが、神様はたくさんいる人の中からたったひとりを捜し出してくださいます。

メールが戻ったとき、とても嬉しかったように神様もわたしが戻ってきたことを喜んでおられるのだろうなと思いました。

ところで、Cドライブの容量が少なくなった問題はどうなったかというと……。
それも一応解決しました。筆王を主人の新しいPCに入れて、ビスタに入っていたものをアンインストールしたら、増えてきました。それでも49.9G中残り9.7Gなので少ない方だと思います。(この間は、残り1.27Gまでになっていました)

ネットにつないでいると勝手に新しい更新プログラムをインストールしてしまうため容量が減っていくのです。ストップする方法はないのでしょうか……。まだ、愛着のあるビスタをもう少し使っていたいのです。



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捜し出されて、いまここに

2012-06-19 20:36:35 | 教会
4年ほど使っているPC(vista)のCドライブ容量が一割を切ってしまいました。急に動かなくなることがあると聞いて、ディスククリーンアップやアンインストールなどしましたが、限界に近いです。作成したデーターは外付けハードディスクに全部入れています。

必要なものまでアンインストールしたのに少ししか容量が増えません。Dドライブはまだたくさんあるのに……。色々さわっていたらメールデーターをすべて紛失してしまって……ショックです。解決法はないのでしょうか……?


先日の礼拝では新約聖書ルカ15章からメッセージが語られました。
イエス様は2つのたとえ話をされました。

ひとつめは100匹の羊を飼っていた人が、1匹の羊をなくしたので、99匹を野原に残して捜し、見つけた話です。
もうひとつは、10枚の銀貨を持っていた婦人が一枚をなくし、家を掃いて念入りに捜し出した話です。

「このふたつのたとえは、『悔い改め』を意味しています」と牧師先生が言われました。

悔い改めと聞くと、自分の間違えに気づいて反省し、心を入れ替えるという意味だと思っていました。でも、そうではないと聞きました。
以下、青字は牧師先生の言葉です。

いなくなった羊もなくした銀貨も持ち主のところに帰りました。悔い改めとは『本来のところに帰る』という意味で、つまり人間回復なのです。

このたとえ話から、本来のところへ戻そうとする所有者の熱心を思います。
1匹の羊をなくした人は、99匹の羊を野に置き、危険にさらしてまでもその1匹を熱心に捜ししました。銀貨をなくした婦人は、それが見つかるまで一生懸命捜し、見つかると大喜びしました。

ふたつのたとえ話の後に放蕩息子のたとえ話が書かれています。


放蕩息子の話とは、自由にあこがれた息子が、父に財産を分けてもらって遠い国へ行き、そこで放蕩の限りを尽くしてすべてを失ってしまう物語です。食べるにも事欠くようになって息子は父の家を思い出し、雇い人になる覚悟で故郷に帰ることにしました。父親は、遠く離れているときから息子をみつけて抱きしめ、温かく迎えました。

このたとえも、お父さんがいなくなっていたと思った息子を見つけ出したという意味で同じことを言っています。
息子は、「天に対して、またあなたに対して罪を犯しました。あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にして下さい」と言おうと考えて帰ります。
でも、お父さんは最後まで言わせませんでした。それを聞く必要がなかったからです。失ったと思った息子が帰ってきたのですから、その喜びが大きかったのです。

熱心に捜すのは、失われたものが、かけがえのないものであるからです。
神にとってわたしたちはかけがえのない人です。他の人と比べてではありません。愛は比較を越えます。神様は、「他のすべてのことにかえてでもわたしはあなたを捜す」と言ってくださるお方です。
まだ出会っていない人は、出会ってください。神様はあなたを捜しに来ておられるのですから。


さまよっていたわたしも神様に捜し出されて、今ここにいます。
神様の深い愛に触れて涙が出ました。



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ブレイクタイム

2012-06-16 21:01:50 | 日記
孫のヒックンと遊んでいると、わたしの精神年齢もヒックンと同じ5歳になっています。車が大好きなヒックンは、車のおもちゃをたくさん持っていて、我が家にも20台ぐらい置いています。

最近、わたしと遊ぶときは、決まって『車ごっこ』です。先日の遊びを紹介します。頭を柔らかくして読んで下さいね。


お気に入りの青いレーシングカーがヒックンで、赤いレーシングカーがわたし。カッパくんとミジュマル(ポケモンのキャラクター)の人形も仲間です。

「早く、ホテルへ行こうよ」
と青いレーシングカーのヒックン。
「行きましょう。ホテルに行って何するの?」
と赤いレーシングカーのわたし。
「温泉に入るんだよ」

空き箱で作った車庫に2台の車がカッパくんとミジュマルを乗せて向かいます。
「わーい、わーい、温泉だ!」
みんなで温泉に入ります。
「上がってお部屋に行こう」
と青いレーシングカー。
「もう上がるの? わたしはもうちょっとつかっている。」
「だめだよ。温泉が冷たい水になっちゃうよ」
「あーホントだ。ブルブル、ハークション! 」
「早く上がっておいで」
「はーい」
「部屋をあったかくしておいたから、だいじょうぶだよ」
「ありがとう」
「ああ、おなかすいた」
「ハンバーグランチ、頼もうか」
「いいね」
ハンバーグランチが部屋に運ばれてきて……。
「いただきます」
「むしゃむしゃ。おいしいね」
「あれっ、カッパくんとミジュマルがいないよ」
「さっきホテルのお庭で遊んでいたのに……」
「うん、どこへ行ったんだろう」
「あっ、悪者がどこかへ連れて行っちゃったみたい」
「えっ! パトカーに知らせなくちゃ」
青いレーシングカーはパトカーを呼んで、ものすごい速さでカッパくんたちを見つけました。このときのヒックンの顔は真剣そのものです。
犯人はモグラでした。
「ごめんなさい。悪いことはもうしません」
モグラくんがあやまって、カッパくんとミジュマルがもどってきました。よかった、よかった。


こんな遊びをしています。
「悪者がつかまるまでが早すぎる」とわたしが文句を言うと、
「早くつかまえないとカッパくんとミジュマルがかわいそうだよ」
と、泣きそうな顔で言います。

仮面ライダーごっこやゴーバスターズごっこをするときも、悪者は一瞬のうちにつかまえられて、闘いのシーンはありません。
優しくて平和が好きなヒックンです。


「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから(マタイ5:9)」

この聖書の言葉のようにヒックンが平和をつくる者になってほしいと願わずにはいられません。


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病気になったら

2012-06-14 15:37:58 | 読書
今月の水曜礼拝では、牧師先生方が良書を紹介してくださっています。昨日は、晴佐久昌英(はれさく まさひで)神父の著書を紹介していただきました。

晴佐久神父はAD/HD(注意欠陥/多動性障がい)のため子供のころから居場所のない状態だったそうです。

大腿骨に腫瘍ができ、癌だったら足を切断しなければならないと医師から告げられ、腫瘍を取り除く手術を受けました。癌ではなかったのですが、癌病棟に入院されました。

そのときに書かれた詩、「病気になったら」が多くの病人を慰めています。
水曜礼拝では、「恵みのとき」(サンマーク出版 晴佐久昌英著)から詩の朗読を聞きました。

書き写すことができなかったので、インターネットで調べると、わたしがよく訪れているサイト「仙台いたみのクリニック」の祈りのページに掲載されていました。

晴佐久昌英著「だいじょうぶだよ」(女子パウロ会)からの引用なので、「恵みのとき」に掲載されている詩と少し異なっているかもしれませんが、紹介させていただきます。
               

病気になったら               晴佐久昌英 

病気になったら どんどん泣こう

痛くて眠れないといって泣き

手術がこわいといって涙ぐみ

死にたくないよといって めそめそしよう

恥も外聞もいらない

いつものやせ我慢や見えっぱりを捨て

かっこわるく涙をこぼそう

またとないチャンスをもらったのだ

自分の弱さをそのまま受け入れるチャンスを

病気になったら おもいっきり甘えよう

あれが食べたいといい

こうしてほしいと頼み

もうすこしそばにいてとお願いしよう

遠慮も気づかいもいらない

正直に わがままに自分をさらけだし

赤ん坊のようにみんなに甘えよう

またとないチャンスをもらったのだ

思いやりと まごころに触れるチャンスを

病気になったら 心ゆくまで感動しよう

食べられることがどれほどありがたいことか

歩けることがどんなにすばらしいことか

新しい朝を迎えるのがいかに尊いことか

忘れていた感謝のこころを取りもどし

この瞬間自分が存在している神秘

見過ごしていた当たり前のことに感動しよう

またとないチャンスをもらったのだ

いのちの不思議を味わうチャンスを

病気になったら すてきな友達をつくろう

同じ病を背負った仲間

日夜看病してくれる人

すぐに駆けつけてくれる友人たち

義理のことばも 儀礼の品もいらない

黙って手を握るだけですべてを分かち合える

あたたかい友達をつくろう

またとないチャンスをもらったのだ

試練がみんなを結ぶチャンスを

病気になったら 必ず治ると信じよう

原因がわからず長引いたとしても

治療法がなく悪化したとしても

現代医学では治らないといわれたとしても

あきらめずに道をさがし続けよう

奇跡的に回復した人はいくらでもいる

できるかぎりのことをして 信じて待とう

またとないチャンスをもらったのだ

信じるよろこびを生きるチャンスを

病気になったら 安心して祈ろう

天にむかって思いのすべてをぶちまけ

どうか助けてくださいと必死にすがり

深夜 ことばを失ってひざまずこう

このわたしを愛して生み 慈しんで育て

わが子として抱きあげるほほえみに

すべてをゆだねて手を合わせよう

またとないチャンスをもらったのだ

まことの親に出会えるチャンスを

そしていつか 病気が治っても治らなくても

みんなみんな 流した涙の分だけ優しくなり

甘えとわがままを受け入れて自由になり

感動と感謝によって大きくなり

友達に囲まれて豊かになり

信じ続けて強くなり

自分は神の子だと知るだろう

病気になったら またとないチャンス到来

病のときは恵みのとき



病気になると早く治そうと、そのことばかり考え必死になります。
「痛い」「辛い」なんて言ったらいけないと思い、ぐっとがまんし、努力して何とか治そうとします。でも、がまんしないでいいのですね。どんどん泣いていいと言われてほっとしました。

世間では、病気はマイナスだと考えている人が多いです。病弱な人より、元気な人、体力のある人が人間として優れているという考えが一般的になっています。
だから、病を隠して人知れず悩んでいる人もいます。

でも、なぜ神様は地上から病気を消してしまわないのでしょう……。それは、病気がマイナスではないからです。人間にとって、ときには病むことが必要だからだと思います。
病気が与えられたら、それはまたとないチャンスなのですね。

元気だと日々の生活に忙しく、立ち止まって色々なことを深く考える暇もありません。病気のときは、病気のときにしか感じ得ないこと、考え得ないことを体験できるのですから、病気は決してマイナスではないですね。

「病のときは恵みのとき」心からそう思います。



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予定とは別の方向へ…

2012-06-11 19:43:51 | 教会
昨日の礼拝は、使徒の働き16章からメッセージが語られました。一部を紹介させていただきます。いつものように青字が牧師先生の言われたこと、緑字が聖書の言葉、茶色字がわたしの感想です。


ルカは教養ある医師で、ルカの福音書と使徒の働きを書きました。
第二次伝道旅行でパウロの一行は、予定していた場所へ行くことができませんでした。聖書には「アジヤでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤの地方を通った。(使徒16:6)」と書かれています。

それからピテニヤの方に行こうとしたら、再びそこへ行くことを禁じられ、トロアスに向かうことになりました。

トロアスへの道のりは80㎞もあり、20日以上かかります。パウロは悩みながらトロアスへの道を歩いたことでしょう。

トロアスでパウロは幻を見ました。ひとりのマケドニヤ人が、マケドニヤに来て私たちを助けて下さいと懇願している幻です。(このマケドニヤ人がルカだという説があります。そうかもしれません。ルカがパウロに自分の故郷に来て福音を語ってくださいと懇願したのかもしれません)
パウロはトロアスから海路でマケドニヤに向かいます。

トロアスに行くまでは、なぜ予定していたアジヤに行けなかったのかと悩んだことでしょう。でも、このときパズルの最後のピースがはまったような気持ちになったのではないでしょうか。


わたしにもそんな経験があります。わたしは子どもたちに福音を伝えるために小学生向けのファンタジー童話を書いていました。それ以外の創作をするつもりがありませんでした。ところが、中高生向けにリアリズムの作品を書くことを示されて「リピート・シンドローム」を書くと、それが不思議な導きで本となって出版されました。

こだわりを捨てなければ書けなかった作品です。自分で考えてよいと思った方へ歩んで行っても、神さまの介入があって、方向を変えるように示されることがあります。そのとき理由はわからなくても、素直に従えるようになりたいです。


使徒16:10から突然主語が「私たち」になっています。ということは、マケドニヤに出かけるとき、使徒の働きの筆者であるルカがパウロの一行に加わったことを意味しています。
その後、パウロは捕えられてローマに護送されますが、その旅にもルカが同行しました。

ルカはパウロとトロアスで出会ってからずっと共にいたのです。
パウロは「私の愛する医者ルカ」「私の同労者ルカ」と書き、軟禁されているときには「ルカだけは私と共にいます」と書いています。

パウロにとって、海を渡ってマケドニヤに行くことは、自分の経験外のことでした。越境を意味しました。でも、越境を繰り返してキリスト教は全世界に広まったのです。


いつの間にか自分で境を築いて、そこから出たくないと思っているわたしです。でも、パウロがマケドニヤ人の幻を見て越境したようにわたしも神様から示されたら越境する勇気が与えられるようにと祈りました。



日本クリスチャン・ペンクラブのHP更新しました。私の書いた400字エッセイも掲載しています。
ぜひごらんください。




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人とは何者なのでしょう

2012-06-08 09:50:57 | その他
今月は病院通いで忙しいです。
内科と外科と婦人科にかかっていて、先日の婦人科では6時間も待たされてしまいました。ある程度元気じゃないと病院へは行けませんね。
今日は午後から久しぶりの外科に行きます。乳がんの手術後8年半たったので、検査の日にちを決めるため、受診予約しました。予約していてもいつも3時間ぐらい待たされます。バッグには分厚い本を2冊入れました。

一昨日は太陽を金星が通過するのが見えるという稀な日だったのに、あいにくのお天気で見ることができませんでした。
惑星が地球と太陽の間を通過するという稀な配置になる可能性があるのは、地球よりも太陽に近い水星と金星だけだとか。金星のトランジットは、400年以上前に天体望遠鏡が発明されて以降、わずか6回しか起きていないと聞いて驚きました。
 次に金星が太陽表面を移動するのが観測されるのは、105年後だそうです。


宇宙のことを考えるとワクワクします。こんなに科学が発達している現在でも謎がたくさんあります。謎があるということは、空想の余地があるということです。宇宙人がいないという証拠はありません。人類と遭遇していないだけかもしれません。
CSルイスの本にこんなことが書かれていました。



「懐疑的な人は、神がこのちっぽけな惑星にだけ【下ってきた】というようなことをどうして信じられるのか、と問う。(中略)

宇宙は全然救いを必要としない幸福な生物で満ちているかもしれない。あるいはまた、われわれには想像もできないような、彼らの状態にふさわしい方法で救われた生物が、宇宙を満たしているかもしれない。

いや、われわれと全く同じ方法で救われた生物が宇宙を占めているのかもしれない。それとも、われわれには関心がないが、神には関心のある、生命とはまったく違ったものが宇宙に満ちあふれているのかもしれない。

ともあれ、地球のようなちっぽけで無価値なものが創造者の愛を受けるに値するとは思えない。キリストが人間のために死んだのは、人間が本質的にそれに価したからではなく、キリストが本質的に愛であり、従って、無限に愛する者であるからである。」
『奇跡…信仰の論理』 CSルイス著 柳生直行訳(みくに書店)



わたしはこのページに「この考え方素敵!」と鉛筆で書きこんでいました。
英国の神学者、英文学者で「ナルニア」の作者であるルイスだからこその発想です。

『われわれには関心がないが、神には関心のある、生命とはまったく違ったものが宇宙にはあふれている』かもしれないと考えると、なんだか嬉しくなりますね。

広大な宇宙を想うとき、「人とは何者なのでしょう……」と書いたダビデに共感します。宇宙を想ったら、地球、そしてその中で暮らしている人間などはちっぽけな存在です。神の愛に値するものだとは思えません。

それなのに神様は惜しみなく愛を注いで下さいました。
広大な宇宙を創造された神が、罪を犯して、魂が滅びるしかないわたしたち人間を顧みてくださって、救うためにひとり子イエスさまのいのちを与えてくださったことがどれだけ素晴らしいことか……。雄大な自然、宇宙の神秘にふれるといつも思います。



あなたの指の業である天を見、
あなたが整えられた月や星を見ますのに、
人とは何者なのでしょう。
あなたがこれを心に留められるとは。
人の子とは、何者なのでしょう。
あなたがこれを顧みられるとは。(詩編8:3、4)





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今日のわたしのしたことは・・・・・・

2012-06-04 21:00:59 | 

今日は調子が悪くて予定していたことの半分もできませんでした。
一日中頭がぼんやりして、失敗ばかりしていました。

なくしものを探すのに半日も費やし、
やっとみつかったのに
何のために必要だったのか忘れてしまう始末……。

でも今日、わたしは友のために祈りました。
悩みの中にあって苦しんでいる人のために祈りました。
病の床に伏して涙している人のために祈りました。
今夜は眠れない人のために祈りましょう。

大きなことは何もできないけれど、
祈りが全知全能の神様のみ手を動かすのだから
祈ることは、いちばん大きなことなのかもしれません。



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どんなときにも気力を失わないで

2012-06-01 15:39:51 | 教会
わたしの通っている土浦めぐみ教会は、コイノニアと称して、韓国の大方(デバン)教会と友好関係をもっています。

コイノニアでは、幅広い年齢層の方々との交わりがあります。今年は夫人の方を中心に25名の方が来日されました。27日の礼拝では、旧約聖書ゼパニヤ書3:14-20から『絶対に気力を失わないで下さい』という題で大方教会の牧師先生がメッセージをしてくださいました。一部を紹介させていただきます。


************************************************************
神さまは私達に「恐れるな、気力を失うな、諦めるな、落胆するな、元気をなくしてはならない。」と言われます。

この言葉が語られたのは、悪政の続くユダ王国が希望をなくしていたときでした。そのようなときに神様は、預言者のエレミヤとゼパニヤを通して希望のメッセージを語られました。

今、わたしたちが生かされている時代は、元気をなくすような時代です。韓国も政治的に混沌としていて、経済的に苦しく、日々の生活が心配な状態です。
さまざまな事故が起き、災害が起きています。こんな時代にあって、わたしたちはみ言葉を聞くことが必要です。

ゼパニヤ書には「喜び歌え」、「喜び叫べ」、「恐れるな、気力を失うな」と書かれています。なぜそれが可能なのでしょうか。

神が共にいてくださるから。

「主はあなたのただ中におられる。(ゼパニヤ3:17)」とあります。神は暮らしの中におられ、あなたの困難を見ておられ、すべてご存知です。

神の救いがあるから。

神様は、困難、苦難……逆境に出会うたび助けてくださいます。

神が愛してくださるから。

神はわたしのことを考えるだけで、喜びを抑えることができません
「主は喜びをもってあなたのことを楽しみ……(ゼパニヤ3:17)」

神様は、ひとり子を地上におくって、あなたの罪を赦してくださいました。あなたを愛し、あなたに良いものを与えたいと思っておられ、最後まで責任をとってくださいます。

神が祝福してくださるから。
「その愛によって安らぎを与える。(ゼパニヤ3:17)」

世界のどこにも全き平安はありません。真の平安は神の中にあります。その神があなたを祝福したいと思っておられるのです。

さあ、胸を張り、頭を上げ、堂々と生きてください。神さまの祝福、愛、救い、力、そして神さまご自身があなたと共におられますから。

**********************************************************

神様がわたしのことを喜んでおられる。楽しんでおられる……何ということでしょう!!
困難があったり、苦しい目にあったりすると「神様、どうしてですか?」と泣きながら訴えていたわたしでした。

長い間、自分を否定し続け、欠けのある自分のことを受け入れられませんでした。
でも神様は最初からわたしを受け入れていてくださったのです。そして、わたしの存在を喜び、楽しんでくださっていたのです。

ひとりぼっちだと思って泣いていたときも、神様が共にいてくださったのでした。

「主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる(ゼパニヤ3:17)」
と書かれています。神様の歌声はどんなにすてきなのでしょう……歌詞はどんな歌詞なのかな……と想像して、うっとりとしています。



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