昨日は日本クリスチャン・ペンクラブ、童話エッセイの会で御茶ノ水まで行ってきました。その前の日は都内の実家に泊まりました。
明日は昼から夜8時までCS教師研修会、来週はOBIのサマー・スクーリングに出かけます。
わたしが夕飯を作れない日が多いので、主人と娘に分担してもらいました。(お弁当を買う日や主人と娘で外食という日もあります)
新約聖書ヨハネの福音書5章には次のようなことが書かれています。
エルサレムにあるベテスダの池には、多くの病人が集まっていました。(み使いによって水がかき回されたとき最初にとび込んだ人は病気が治るという伝説があったからです。)そこに38年間も病気の人がいました。この人には友達がいなかったようで、いくら池の水が動いたとわかっても、いちばんに池にとびこむことができませんでした。
その人のところにイエス様は来て下さいました。イエス様はその人に「よくなりたいか」と尋ねます。38年も患っている人に対してそのように尋ねるとは、酷ではないかと思いました。なぜそのような質問をイエス様がされたのか……。ずっと疑問でした。聖書学者たちがどのように解釈しているか調べていました。
・メリル・テニイ
「イエスが「よくなりたいか」と言われたのは、病気を癒してもらおうという意志を持っているかどうか尋ね、この人の内なる心をしらべるためだった。」『新約聖書注解 ヨハネによる福音書』(聖書刊行会)
・CL・アレン
「イエスがこの病人に「なおりたいのか」と尋ねたのは本当によくなりたいのかという意味で重要な質問である。キリストのこの質問は、いやしの可能性があることを意味している。』『イエスの奇跡物語講解」 (聖文舎)
・カルヴァン
「イエスが「よくなりたいか」と尋ねたとき、この病人は自分の考えに従って、神の限界づけをしていた。しかし、キリストは彼の不完全さを多目にみている。」『カルヴァン新約聖書注解 ヨハネ福音書上」(新教出版社)
24日の礼拝では、「よくなりたいか」というのは「文字通りの質問ではない」と牧師先生が言われました。イエス様は病人を見て、彼が長く病んでいるのを知っていました。よくなりたいと思っていることは確かです。
でも病人は的外れな答えをします。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。(ヨハネ5:7)」と、自分のみじめな境遇をしみじみ訴えたのです。
イエス様は病人の答えにかかわらず癒しています。
「イエス様が質問したわけは、病人の悩みを聞き、心の痛みに触れるためだった」と牧師先生が語られたとき、わたしは涙があふれました。聖書学者たちの書いたことより心にぴたっときたのです。
病を抱えている人は、病気自体の苦しみに加え、精神的な苦しみも、心の傷も抱えていて、健康な人には理解してもらえない悲しみ、言葉にならないうめきのようなものがあるのです。その悩みを聞いてほしい、理解してほしいと求めているのです。
イエス様は、病人が心の悩みを訴えることを求めて、あえてそのような質問をされたのですね。
イエス様は、悩みを見、叫びを聞き、痛みを知るために来て下さいました。(前回書いたティータイムのお話しとつながっています)
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明日は昼から夜8時までCS教師研修会、来週はOBIのサマー・スクーリングに出かけます。
わたしが夕飯を作れない日が多いので、主人と娘に分担してもらいました。(お弁当を買う日や主人と娘で外食という日もあります)
新約聖書ヨハネの福音書5章には次のようなことが書かれています。
エルサレムにあるベテスダの池には、多くの病人が集まっていました。(み使いによって水がかき回されたとき最初にとび込んだ人は病気が治るという伝説があったからです。)そこに38年間も病気の人がいました。この人には友達がいなかったようで、いくら池の水が動いたとわかっても、いちばんに池にとびこむことができませんでした。
その人のところにイエス様は来て下さいました。イエス様はその人に「よくなりたいか」と尋ねます。38年も患っている人に対してそのように尋ねるとは、酷ではないかと思いました。なぜそのような質問をイエス様がされたのか……。ずっと疑問でした。聖書学者たちがどのように解釈しているか調べていました。
・メリル・テニイ
「イエスが「よくなりたいか」と言われたのは、病気を癒してもらおうという意志を持っているかどうか尋ね、この人の内なる心をしらべるためだった。」『新約聖書注解 ヨハネによる福音書』(聖書刊行会)
・CL・アレン
「イエスがこの病人に「なおりたいのか」と尋ねたのは本当によくなりたいのかという意味で重要な質問である。キリストのこの質問は、いやしの可能性があることを意味している。』『イエスの奇跡物語講解」 (聖文舎)
・カルヴァン
「イエスが「よくなりたいか」と尋ねたとき、この病人は自分の考えに従って、神の限界づけをしていた。しかし、キリストは彼の不完全さを多目にみている。」『カルヴァン新約聖書注解 ヨハネ福音書上」(新教出版社)
24日の礼拝では、「よくなりたいか」というのは「文字通りの質問ではない」と牧師先生が言われました。イエス様は病人を見て、彼が長く病んでいるのを知っていました。よくなりたいと思っていることは確かです。
でも病人は的外れな答えをします。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。(ヨハネ5:7)」と、自分のみじめな境遇をしみじみ訴えたのです。
イエス様は病人の答えにかかわらず癒しています。
「イエス様が質問したわけは、病人の悩みを聞き、心の痛みに触れるためだった」と牧師先生が語られたとき、わたしは涙があふれました。聖書学者たちの書いたことより心にぴたっときたのです。
病を抱えている人は、病気自体の苦しみに加え、精神的な苦しみも、心の傷も抱えていて、健康な人には理解してもらえない悲しみ、言葉にならないうめきのようなものがあるのです。その悩みを聞いてほしい、理解してほしいと求めているのです。
イエス様は、病人が心の悩みを訴えることを求めて、あえてそのような質問をされたのですね。
イエス様は、悩みを見、叫びを聞き、痛みを知るために来て下さいました。(前回書いたティータイムのお話しとつながっています)
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