生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

試練の多い人

2016-01-28 20:58:13 | その他
「試練が多い人はなぜだと思いますか?」
と友人に問いかけられました。

確かに試練が多い人と少ない人がいるように思えます。試練の内容も重く、耐えがたいものから、気分のいい時は忘れているくらい軽いものまであります。

他人の試練はたいしたことなく思え、自分ばかり重い試練を負わされていると感じる人は多いのではないでしょうか。

わたしもそうでした。3歳から何十年も喘息で苦しみ、喘息が治ったと思ったら、47歳のときに乳がんになりました。

喘息発作の苦しみは体験した人でないとわかりませんね。

予防薬もなかったころのことですから、発作が起きそうだとわかっていてもどうすることもできません。水槽から出された金魚のように苦しみます。
気道が細くなっていて、まともに呼吸することができないのですからたまりません。一呼吸に全身の力を振り絞り、それが何時間も続くと、エネルギーを使い果たしてしまうのです。

しかも発作は夜中の3時~4時ごろ起きることが多く、途方もなく長い時間格闘し、朝になってようやく病院へ行っていました。(子どものころは夜中に夜間診療へ連れて行ってもらっていました)

注射で一時的に発作が治まると、ひどく肩が凝っているのに気づきます。呼吸して肩凝りするとは……。

中学生のころは、ステロイドを飲まなくては治らないほどひどい発作を起こすようになっていました。ステロイド剤によってさらに発作が起きやすくなってしまい、発作が起きるとまたステロイドを飲んで……と悪循環でした。
こんなに辛い病気を経験したのだから、自分はもう大きな病気はしないだろうと思っていました。

ところが乳がんになって、これはどういうことだろうと考えずにはいられませんでした。

試練は、病気だけではありませんでした。中学生のとき関東から関西に引っ越して、学校でいじめられ、友だちが一人もいなくなってしまったことがありました。

そのころ、「世の中ではもっと辛い思いをしている人がいるよ。あなたは両親がいて、おばあちゃんがいて、経済的心配もなく、幸せじゃないの」
と言われました。

「もっと辛い目に会っている人がいるから、自分はましだと思いなさい。」とも言われましたが、それは慰めにはなりません。
人と比較しての試練ではないからです。

わたしは、この試練の中で神様に出会いました。あまりにも辛くて「イエス様!」と叫ぶしかなかったのです。

わたしには辛すぎると、そのときは思いましたが、あとで思い返すと、神様はわたしのためにわたしに耐えられるような試練、わたしに必要な試練を与えてくださったのだなと思いました。

喘息は癒されたのですが、その後、聖書を読んでいても、祈っていても思いが千々に乱れ、神様に焦点があっていないような生き方をしていました。そのようなとき乳がんになって、イエス様にしっかり焦点を合わせるようになりました。

イエス様に焦点を合わせると、神様がどれだけ素晴らしいお方かわかってきます。また、どれだけ愛のお方かわかってきます。
神様は、わたしに試練を与えるけれど、それには目的があってのことです。

神様は、いたずらに人を苦しめたりするお方ではありません。
辛くて泣いているときは、一緒に涙してくださいます。
神様は、わたしのことを特別愛しておられるのではないでしょうか……。

「試練の多い人は、神様に特別愛されている人」
というのが、わたしの答えです。

You're loved especially.


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理不尽な出来事

2016-01-26 16:05:06 | 聖書から
先週は木曜日に教会での家庭集会があり、土曜日はクリスチャン・ペンクラブの例会でお茶の水まで行ってきました。教会までの20分、駅までの30分は歩いています。寒さの中でも健康が守られていることを感謝しています。

最近、酷いニュースばかりとびこんできます。テロ事件やバスの横転事故。
「神さまはどうしてこのような事件が起きるのをゆるしておられるんだろう。どんな意味があるのかな」とクリスチャンの友人が言いました。

児童文学の仲間は、
「『いいことをすれば幸せになり、悪いことをすれば不幸になる。』のなら、神様はいると思う。でも、現実はそうじゃない。むしろ誠実に生きている人に次々と不幸な目にあうように思える。だから、神様はいないと思う」
と言いました。

そう思われるのは、もっともです。

「なぜあんなにやさしい人が病気で苦しんで死ななければならなかったのか? 神様は本当にいるのか?」
そのように尋ねられたことがあります。

そんなときわたしは、「理由はわかりません」と答えます。そう答えるしかないからです。

理不尽なことが起きたら、神様がいないことの証拠になるのでしょうか。

聖書のヨブ記には、不条理の苦難について書かれています。ヨブのことは以前もブログに書きましたが、改めて書かせていただきます。

昔ヨブという人がいました。神様を信じ、決まりを守って生きる正しい人でした。奥さんと10人の子どもたちに恵まれ、たくさんの召使と家畜を持っていました。
ある日神様のところへサタンが来て言いました。ヨブは信仰深いけど、それは恵まれているからじゃないか? もし持っている物すべてを取り去られたら、神様をのろうかもしれないと言ったので、神様はヨブに不幸が訪れることをサタンにゆるしました。

ヨブは一日のうちに子どもたちと家畜、召使たちを失いました。
そのときヨブが言った言葉は「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」でした。

主とは神様のことです。子どもたちや召使、家畜はみんな神様から与えられたもの。だから神様が取られても当然のことだ。といって、神様をほめたたえています。

その信仰には驚きます。そのあとでヨブ自身がひどい皮膚病になり苦しみます。そのようすを見てヨブの奥さんは「神をのろって死になさい」と言いました。

ヨブは、それでも文句はいわなかったのですが、3人の友人が見舞いに来てくれ、ヨブに向かってこのようになったのはヨブに罪があるからだなどと言い始めました。友人の言葉に反論しているうちにヨブは自分の生まれた日をのろい、神様に文句を言い、どうしてこんな目に遭わせるのかと理由を尋ねます。
それが聖書の何章にもわたって書かれています。

最後に神さまはあらしの中からヨブに答えて「知識もなく言い分を述べて、摂理を暗くするものは誰か?」と言われます。神さまのことばは、ヨブの疑問に対する答えになっていません。神さまは天上でのサタンとのいきさつについては説明しません。でも、ヨブは説明を求めていたのではありませんでした。

ヨブは、神の栄光に接し、その偉大さに触れ、自分の罪を認め悔い改めます。
「ああ、私はつまらない者です。あなたに何と口答えできましょう。私はただ手を口に当てるばかりです(40:4)」
ヨブは自分の無知、弱さを認め、神の全知全能に触れて、神さまのなさることは人間の知識では、はかることができないと思ったのです。

そして神様はヨブを癒し、子どもを与え、財産を倍にしてくれます。


ヨブ記を読むと、どんなことが起きても、神様に「なぜ?」と聞く必要はないのだと思わされます。どんなにむごいことが起きても、それは神様の御手の中で起こったことなのです。

現在と過去のことしかわからないわたしたちです。将来のことは少しもわからない者にとって、勝手に意味づけすることはできません。
神様は、ご自分がお造りになった生物(どんな人間でも、動物でも)をとても大切に思っておられるので、たとえ肉体が死んでも魂をねんごろに取り扱ってくださる。どんな死に方をしても天国で採算があうようにしてくださると、わたしはそのように思っています。



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いのちの光をもつ

2016-01-20 15:51:16 | 教会
今日は冷たい北風が吹き荒れています。自転車だと倒れそうになるので突き刺さるような寒さの中、教会まで歩いて行ってきました。
月曜は都内ではかなり雪が降ったようですが、こちら(茨城県土浦市)は雪は降らず、大雨でした。

日曜日の礼拝メッセージは、今年の教会の年間聖句ヨハネ8:12から語られました。
年間聖句は、先日も書きましたが「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです(ヨハネ8:12)」です。

いのちの光を持つとはどういうことか教えていただきました。

ヨハネ9章には生まれつきの盲人が出てきます。生まれつきですから、物を見るとはどういうことかわからないし、色もわかりません。ひとりで物乞いをしていたと書かれていますから、親兄弟を憎んでいたかもしれません。心にも闇があったのです。

生まれつき目が見えないという悲惨な状況の原因は何か、親にあるのか、この人にあるのかと弟子たちがイエス様に問いかけます。

イエス様は不幸の原因を探るなと、きっぱり言われます。

「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです(ヨハネ9:3)」

イエス様は盲人の目に泥を塗り、「シロアムの池で洗いなさい」と言われました。

盲人はイエス様の言葉を疑いもなく信じ、池に行って洗ったら、見えるようになりました。

この人はどんな気持ちだったでしょう。今まで、目が見えさえすればどんなにいいかと何度も何度も思ったことでしょう。あきらめかけていたかもしれません。

見えるということは、どんなに素晴らしいことか……。最初から見えている人よりずっとずっとたくさん、見えることの喜びを味わったことでしょう。
キリストが癒してくれた、いのちの光を与えてくれたと喜んだことでしょう。

「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です(Ⅰヨハネ5:14)」

生まれつきの盲人が見えるようになるなんてありえないと思い、見えるようになったこの人を別人だという人が現れました。
盲人だった人は「わたしがその人です」とはっきり告白します。が、そのために町を追放されてしまいました。

イエス様は、追放されたその人を見つけ出してくださいました。その人は、イエス様を見ていないので、最初はわかりませんでした。癒してくれたのが目の前にいるイエス様だとわかると、「主よ。わたしは信じます」と信仰告白をしました。

「この人はクリスチャンのモデル(手本)です。光を与えられて見えるようになった者のモデルです」と牧師先生が言われました。

神はいないという世界に生きていた人が、生ける神がいるという世界に入れられました。闇の中を生きていた人にいのちの光が与えられました。


わたしも盲人と同じように闇の中を歩いていました。人の目ばかり気にし、人を恐れてはっきりとものも言えない人でした。でも、いのちの光に照らされて、変えられました。どんなに暗い闇でも、光が差し込むと、そこは闇ではなくなります。



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「鹿の王」読みました

2016-01-16 12:50:28 | 読書
昨日は日本児童文学者協会茨城支部の例会がありました。6人が集まりました。
例会では毎回課題本が挙げられ、午前の部はその合評を行っています。

今まで挙げられた本の中で、2作品がテレビドラマ化されたのでびっくりしています。
中脇初枝の「わたしをみつけて」と昨日から始まった「わたしを離さないで」(TBS)です。
「わたしを離さないで」の著者は、長崎県出身の日系イギリス人作家、カズオ・イシグロです。

今回の課題本は、国際アンデルセン賞をとられた上橋菜穂子氏の「鹿の王」。これは本屋さん大賞をとった作品なので、知っておられる方も多いことと思います。

鹿の王はテーマが重く、登場人物が多くて難しかったです。それでも、夢中で読みました。
病気をモチーフにしているところに興味をひかれました。

感染症にかかった獣に噛まれた人たちはほとんど死んでしまうのですが、ヴァンとユナだけなぜか生き残ります。それには理由があったのですが……これからこの本を読もうと思う方のためにあらすじを書くのはやめておきます。

上橋氏と、神様のカルテの作者、夏川草介氏との対談記事がHPにありました。興味のある方は下記アドレスをクリックしてお読みください。
http://www.excite.co.jp/News/column_g/20141009/Davinci_004983.html

その記事から書かせていただきますね。

上橋氏は、わたしと同じように子どものころから体が弱かったそうで、それで心ではなく体の側から命を捉えてみたいと思ったそうです。

「感染症にかかる人とかからない人がいる。あるいは治る人と治らない人がいる。どうしてなのか、正直いまだにわからない」と感染症専門の医師が言っていたそうですが、同じ条件でもなぜ人によって違うのか、正直解らないと医師である夏川氏も言っています。

神観については、上橋氏も夏川氏も聖書の神様を知らないので語っているのですが、『絶対的な存在がいたらいいけれど、いないから人が人を救うのだ』という結論に達しています。

夏川氏は、死の間際で救いを求めている患者さんに「天国へ行けますよ」と言ってあげたいけれど、説得力がないと言っています。
聖書の神様を知らず、天国のことも知らなければ当然そうなります。惜しいです。

午後の合評では、4作品が提出されました。
わたしは、約一年ぶりに作品を出しました。原稿用紙3枚半ほどの小品で、笑い話です。皆が笑ってくださったので、まずは成功かな?



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嬉しいことふたつ

2016-01-12 17:27:19 | 教会
連休にまたまたヒックンとナルクンがやってきました。(こちらが招いたのですが……)
1歳9か月のナルクンは、お兄ちゃんのまねばかりしています。ヒックンが麦茶をなみなみとついでしまったので、口飲みをすると、その飲み方を何度もまねします。

ヒックンが卓球をするのを見て、おもちゃのラケットを構えます。なかなかかっこいい構え方です。玉は飛ばずに、ぽろっと落ちるのですが、そんなこと気にしません。

 バッグを持って歩くのが大好きで、ママのバッグを肩からかけて得意そうに歩きます。
食事のときは大変です。赤ちゃんの椅子には座らず、大人の椅子に登って、立ち上がり、手づかみで食べます。すごい食欲で、7歳年上のヒックンと同じぐらいの量をぺろっとたいらげてしまいます。

 ちょっと目を離すと台所に入って、いたずらをしています。本当に油断も隙もありません。 

 ヒックンはカルタやトランプ、ボードゲームをしたいのに、ナルクンがいるとできなくて、ちょっとストレスを感じているようです。
今回は、ナルクンをおじいちゃんにみてもらって、わたしと一時間ほど遊びました。あとわずかな期間なのかもしれませんが、ヒックンに「ゆこちゃん(わたしの愛称)と遊びたいんだ」と言ってもらえて、嬉しくてたまらないわたしです。


10日の礼拝メッセージは、「闇の中を歩まず」という題のメッセージを聞きました。
印象に残ったことを紹介させていただきます。

教会の今年の年間聖句は、
「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです(ヨハネ8:12)」です。

「闇の中を歩む」とはどういうことでしょう。闇というと、嘘、偽り、詐欺など罪や犯罪に結びつくことを考えます。

「闇の中を歩む」とは、悪い行為をすることで、逆に「闇の中を歩まない」とは、罪を犯さないことです。

Ⅰヨハネ3:9には、
「だれでも神から生まれた者は、罪のうちを歩みません。なぜなら神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪のうちを歩むことができないのです。」と書かれています。

わたしは、以前この聖書個所を読んだとき、自分は神から生まれた者ではないと思ってしまいました。イエス様を信じ、洗礼を受けた後でも罪を犯すからです。
わたしの罪とは、心の深いところにある自己中心からきています。人を愛すると言っておきながら、まず第一に自分の保身を考えてしまうような、愛に欠けた者です。

でも、「イエス様を信じる者は、神から生まれた者です。」
というなら、信じているのに罪を犯してしまう自分は何だろう……と悩みました。


尾山令仁先生の現代訳聖書とリビングバイブルには、「罪の中を歩み続けることができない」 と現在進行形で書かれています。

クリスチャンは、罪を犯すことがないのではなく、罪を犯し続けることができないといっています。

聖書はギリシヤ語で書かれているのを日本語に訳したのですが、ギリシヤ語では現在形と現在進行形の区別がないので、前後の文脈から推し量るしかないそうです。それで現代訳聖書とリビングバイブルでは、現在進行形として訳されたようです。

リビングバイブルには、「神様の家族の一員として新しく生まれた人には、神様のいのちが宿っているので、もはや罪を犯す習慣はありません。新しいいのちに支配されているので、罪を犯し続けることができないのです。(Ⅰヨハネ3:9)」と書かれています。

『罪を犯してはいけません』と言っているのではありません。

「罪を犯す習慣がありません。」「罪を犯し続けることができません。」と言っているのです。

努力しなくても、自然に罪から遠ざかるのです。新しいいのち(神の種)が宿っているからです。これは、神の恵みで、喜びの約束です。

「闇の中を歩むことがない」
という意味がはっきりわかって、嬉しくなりました。





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感謝感激

2016-01-07 16:18:28 | CS(子供伝道)
1月3日にした教会学校のお話は、ルカ2:40-52 12歳になったイエス様が両親と共にエルサレムの神殿に行ったときの出来事です。
子どものころのイエス様のことが書かれている記事はルカ2章だけです。これまで教会学校で話したことのない箇所でした。

ユダヤの人たちは、過ぎ越しの祭りに毎年礼拝するためにエルサレムに向かいます。親戚や近所の人たちとグループに分かれてぞろぞろ歩いて行くそうです。

ヨセフとマリヤも毎年過ぎ越しの祭りにはエルサレムに出かけていました。イエス様が12歳になった年もイエス様を連れて5日ぐらいかけて歩いていきました。
神殿で礼拝を捧げ、帰り道につきました。一日かけて道を進んだ後でヨセフとマリヤはイエス様がいないのに気づきました。

「どうしましょう。どこかではぐれてしまったのかしら」
「とにかく戻って探そう」
ふたりは、みんなと別れてエルサレムまで戻ってきました。

ようやくイエス様をみつけたのは、3日後でした。なんと、イエス様は神殿で偉い学者さんたちと話をしていたのです。
イエス様の知恵があまりにもすぐれているので、学者の先生たちや聞いていた人たちは、びっくりしていました。
ヨセフとマリヤは驚きました。
マリヤは「まあ、あなたは私達になぜこんなことをしたのです。見なさい、父上も心配してあなたを捜しまわっていたのです」と言いました。

すると、イエス様は、驚いているお父さん、お母さんを不思議そうに見ていましたが、やがて、
「どうしてわたしをお捜しになったのですか。わたしが必ず自分の父の家にいることをご存じなかったのですか」と答えました。

父の家というのは、父なる神様の家、神殿のことを言っています。イエス様は神様の子どもなので、そのように言うのは、当たり前のことなのです。

そのとき、ヨセフもマリヤもイエス様の言葉の意味がわかりませんでした。でも、聖書には「母はこれらのことをみな、心に留めておいた」と書かれています。

心に留めるとは、どういうことでしょう?
宝物のようにして心の中に置くことです。たくさんの出来事が起きると、すべてを覚えていられなくて忘れていきます。でも、マリヤは、意味はわからないけれど、このことは大切だからしっかり覚えておこうと思ったのです。
その前にもマリヤが「心に納めて」と書かれている聖書箇所があります。イエス様が生まれて、羊飼いたちが礼拝に来たとき、天の軍勢が現れた話をしました。それらのことをマリヤは心に納めたのです。

お話はここまでですが、イエスさまはなぜ神殿で学者さんたちと話していたのだろうかと思いました。
正確なことはわかりませんが、ひとつは、ヨセフとマリヤにイエス様が神様の子どもであり、救い主であることを思い出させるためではないかと考えました。
ふたりともイエス様が生れる前に天使から告げられて神の子だと知っていました。生まれた後は、羊飼いの話した言葉の中にイエス様が神の子であることを聞いていました。

でも、それから12年もたっています。普通の子どもとして育っているイエス様をみて、両親はイエスが神の子であると意識していなかったのではないでしょうか。

なので、神の子なのだということをふたりに思い起こさせる必要があったのかもしれません。

大人の礼拝では、次のみ言葉が示されました。
「事実、いま私たちは神の子どもです。(Ⅰヨハネ3:1)」

イエス様は神の子だとわかるけど、わたしたちも神の子とは、どういうこと?と不思議に思われるかもしれません。

「イエス様は、神の子となる資格のないわたしたちを、神の子としてくださったのです。いかに大きな事実を与えてくださったのか、感謝せずにはいられません」と牧師先生が言われました。

そうです。罪のため、神様と断絶状態になっていた者なのに……キリストによって神の子としていただいたのです。感謝、感激です。




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新年早々・・・・・・

2016-01-05 16:18:02 | 日記
みなさま明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

昨年母が召されたので年賀状は出しませんでしたが、イエス・キリストにあって喪に服するということから解放されていますので、「おめでとう」と言っています。

昨年の暮れから娘夫婦、妹一家、息子一家が次々と来てにぎやかでした。おせち料理もたいして作らないと言いながら、ついはりきって何品も作りもてなしました。

数日前から風邪気味だったのですが、たくさんおしゃべりしているうちに声がかすれてきました。
これは大変と、31日は早めに休みました。(3年生のひっくんは12時まで起きていました)

年が明けて、声が全く出なくなりました。2日は主人の実家に行くことになっていたのですが、主人ひとりだけいってもらうことにしました。

2日の午前中に最後に来た息子一家が帰ったのですが、帰った後、どっと疲れが出て横になると7時間も寝てしまいました。
夕方の5時に起きて朝5時と勘違いして、あわてて教会へ行く支度をするところでした。

3日の日曜日は教会学校でわたしがメッセージ担当でした。

ルカの福音書2章からイエス様の少年時代を語るのです。随分前にお話の原稿を作り、PPTで画像準備をしていました。でも、前日夜から咳がひどく出始め(気管支が弱いので、咳が出ると止まらなくなるのです)、声は出ないし……どうしようかと思い、必死に祈りました。

その夜遅く、わたしが寝ている間に、娘が婿の実家から自宅に戻る途中でお土産を届けに家に寄ってくれました。食卓の机の上に咳止めのパウダーが置いてあり「お母さん、がんばりすぎです。あんなにたくさんの人が集まったんから、もっと買ってきたものとか並べると良いかと思われます。お大事にね!」というメモ書きがありました。
鼻の奥がジーンとしました。

朝になって、低い声ですが、声が出るようになっていました。お話の直前に娘からもらった咳止めを飲んでお話ししたら、咳は出ませんでした。

お話の前に司会の先生が、「文香さんは風邪をひいて小さい声しか出ません。みんな静かに聞いてください」と言ったら、誰一人おしゃべりする子どもがいなく、シーンとして聞いてくれました。

イエス様が傍らにいてくださったのがわかりました。


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