生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

見たまま、聞いたまま、自分の言葉で

2018-05-29 16:48:36 | 日本クリスチャン・ペンクラブ
先週の金曜日は児童文学者協会茨城支部の例会でした。支部長が欠席だったので、久しぶりに司会をさせていただきました。
10人のメンバーのうち6名が参加。
このところ全員出席が多かったので少し寂しいかなと思っていましたが、しゃべりだしたら止まることを知らないわたしたち。昼休みを切り上げての合評となりました。

わたしのほかは詩の作品が多かったので、作詩の極意を詩人のFさんに尋ねると、
「見たまま、聞いたまま、自分のことばで書く」と教えていただきました。

このことは、簡単なようで難しいです。たとえば花を見て、きれいと思ったので『きれいな花』と書いても読者には伝わりません。どこがどのようにきれいなのか、花を見たとき自分はどう感じたかを自分だけしか書けない言葉で書くということです。
なかなか奥が深いですね。

翌日はお茶の水で行われた日本クリスチャン・ペンクラブの例会でした。例会の中でKさんのお祝いをしました。
米寿を迎えられたということと、国から叙勲されたので、皆で寄せ書きをして渡しました。Kさんは30年の間クリスチャン・ペンクラブの活動に参加し続け、皆勤賞だったというので驚きでした。

奥様を亡くされた後も毎日計画を立てて時間通りに聖書を読み、祈り、学び、研究し、家事もこなしておられます。
ときどきクリスチャン・ペンクラブのHPに掲載させてもらっているKさんの詩は、心の奥底に響いてきます。

翌日は日曜で、午後からは孫たちがきました。3日続きで忙しかったので、昨日は疲れ休みの日にしました。やっと充電されたようです。



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弱くてもろい体

2018-05-22 16:47:35 | 教会
わたしの通っている教会は、朝の礼拝が3回あります。8時半、10時、11時半からの約一時間礼拝です。どんどん人が増えてきているので、どの礼拝でも満席に近いです。わたしはティーンズの奉仕をするようになって、毎週第一礼拝に出るようになりました。別の場所で10時からティーンズ礼拝があるからです。

朝早く自転車を走らせていると、息切れ状態で教会に着きます。
讃美歌をうたおうとしても声がほとんど出ず、立っているのもやっとで、椅子の背もたれに手をかけて倒れないようにしています。

でも、ティーンズ礼拝になると、声がだんだん出てきます。分かち合いの時間には元気になっています。
それでも常に肉体の限界を感じています。体の弱さに嘆き、泣きたくなるようなときもあります。
一昨日の礼拝では、弱さに嘆くこの者が大いに励まされました。

ピリピ3:20には、
「私たちの国籍は天にあります。」と書かれています。私たちが帰っていくところに国籍があるというのです。
 
私はこの聖書箇所を読むとうれしくて涙が出そうになります。『天に本当のふるさとがあるのだよ』と言われている気がするからです。
天に国籍があると思うと、苦しみに耐えることができます。

私たちは、罪が赦されたという救いの確約がありますが、完全ではありません。
現実は弱さの中で苦しみ、うめいています


「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。(ローマ8:18)」

将来受ける栄光のことを思うと、このような苦しみはたいしたことがないとパウロは書いています。

そのうち完全な救いが来て、栄光の体に変えられます。栄光の体に変えられることを栄化といいます。
今は弱さともろさにうめいていますが、完全な体になります。


自分の努力でそうなるのではなく、神様が私たちを救い主の栄光の姿と同じにしてくださるのです。
病で苦しみうめいていても、弱くもろい肉体であっても、将来は完全な体にしていただけると思うと、希望が与えられます。何があっても、神は生きておられ、善意をもって導いてくださることを信じて前に向かって歩んでいきたいです。


写真はつくばのバラ園


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もう泣かないで

2018-05-14 20:39:07 | 教会
昨日の礼拝ではH先生が詩編8篇よりメッセージをしてくださいました。

あなたの指のわざである天を見、
あなたが整えられた月や星を見ますのに、
人とは、何者なのでしょう。
あなたがこれを心に留められるとは。
人の子とは、何者なのでしょう。
あなたがこれを顧みられるとは。
詩編8編3~4


これは、旧約聖書に出てくるダビデが書いた詩です。
月や星の美しさをほめたたえているのではなく、それを造られた神をほめたたえています。
「人とは何者なのでしょう」というのは、自分の存在が弱くてもろいと気づき、神との隔たりを感じたときの言葉です。

その隔たりを超え、弱くてもろい人間に神の方から近づいてきてくださるのです。
『顧みる』とは、神が関心を持って近づくという意味だそうです。
裸の自分の姿を知る人に神が働きかけるようすがみられます。


わたしはこの詩が大好きです。満天の星を見て、ダビデが詩を書いている姿が見えてくるようです。

人とは何者なのか……なぜ自分が存在しているのか、存在していいものなのか

中学生の頃、考えていました。誰に顧みられず、心を留められず、ひとりぼっちだったわたし。本当はひとりぼっちではなかったのですが、神様の存在に気づかなかったのです。
天の父なる神様がこのわたしを顧みてくださっていることを知ったら、どれほどうれしかったでしょう。

欠点や失敗がどんなにたくさんあっても関係なく、神様は顧みてくださるのです。おそれ多くて近づくこともできないでいると、神様の方から近づいてきてくださるのです。
いま、神様に顧みられているわたしは、幸せです。人生も終盤になってきましたが、「何も成し得ななかった」と心を痛めたり、後悔したりする必要はないのです。

失意の中におられる友よ、
信仰が失われてしまったかもしれないと思う時でも、神様はぎゅっと手をつかんで離しません。

友よ、いま神様が顧みてくださっています。いま神様が、あふれる愛で満たしてくださっています。だからもう泣かないで……。
友のために祈りつつ。



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弱いときにこそ強い

2018-05-10 17:03:07 | 聖書から
昨日、約一か月ぶりに水曜礼拝に行ってきました。水曜礼拝の後、2か月ぶりに聖書輪読会にも参加しました。
水曜礼拝は、旧約聖書の士師記(ししき)14章15から20節で、『サムソンの妻』というタイトルでした。

聖書物語では、サムソンのことを『今 まで に 生ま れ て き た 人 の 中 でいちばん 力持ち だっ た 人』と紹介しています。
確かにサムソンは怪力で、素手でライオンを倒すほどの力を持つ強い人でした。でも、サムソンは弱い人でもありました。

サムソンの時代、イスラエルとペリシテ人とは反目しあっていました。
イスラエル人のサムソンは、ペリシテ人の娘を気に入って結婚することになり、祝宴が催されました。
祝宴に30人を招待しましたが、招待した人には晴れ着を用意して与えるという習慣があったので、ペリシテ人は、策略をめぐらしてサムソンにそれを求めました。

サムソンは謎かけをして、謎解きに勝ったほうが30人分の晴れ着を用意することにしようと提案しました。
その謎は「食らうものから食べ物が出、強いものから甘いものが出た」です。この意味を解き明かせというのです。これは、サムソンが素手で獅子を倒したのち、獅子の体の中にミツバチの群れと蜜があるのを見つけ、食べたという経験をもとにして作ったなぞなぞでした。

ペリシテ人たちは4日たっても謎が解けないので、サムソンの妻にサムソンをくどいて謎を明かし、知らせるように促します。

サムソンの妻は泣きすがって謎を教えてくださいとサムソンに迫ります。
サムソンは抵抗しましたが、耐えられなくなって7日目に打ち明けてしまいました。

そのことによって、晴れ着も妻もペリシテ人に奪われてしまいました。

サムソンは、強い人だったはずなのにどうしたことでしょう。
絶対に解けない謎を考え出したことは、サムソンの勝利でした。
一方、妻に泣きつかれて、謎を明かしてしまったことは敗北で、サムソンの弱さの表れでした。
こののち、サムソンはまた同じような過ちを犯してしまいます。

サムソンの勝利の秘訣は、自分の力が主によるものだと自覚することです。なぞなぞも主の力が働いたからこそ得られました。アシュケロンでの戦いも自分一人なら勝てなくても、主が共にいてくださったから勝てたのです。
サムソンはティムナの町では敗北しました。妻も取られてしまいました。

人生の中で勝利することもありますが、敗北することもあります。
『敗北で自分の弱さを知り、勝利で主を知る』

イエス様は試練や苦しみを味わってくださいました。イエス様はわたしたちに生きる模範を示してくださいました。
わたしたちは、弱さを覚えますが、神の力のゆえに強くされ、キリストによって勝利を得るのです。


「ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです(Ⅱコリント13:4)」
と聖書に書かれています。

『弱いときにこそ強い』とは神様を抜かして考えると、どういうことなのか分からなくなってしまいます。
わたしはよく病気をします。というか、常に病との戦いがあります。病が優勢になると、じっとして寝ていることしかできなくなります。自分の無力をとことん感じます。

かつては、具合が悪くなると、自分がみじめになっていました。そして、早く癒されたいとあせりました。
でも、最近は、具合が悪くてもあせらなくなりました。この弱くて何もできない時間を与えられたのには意味があるのだと思うからです。

先月の病のときは、末期がんの友にメールを出すという使命を与えられ、背中が痛んでたまらなかったときには、童話の構想が与えられました。収穫は大きかったです。



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お弁当箱食べた?

2018-05-05 20:45:01 | 家族
連休は、息子一家と娘一家が来て、大賑わいでした。
「天気が良いからどこかへ出かけたいね」と、わたしが言うと娘は、「どこも混んでいるし、行くと疲れるでしょ」と、わたしの身体を気遣って言いました。

そういえば、具合悪かったんだ……。病気になったことをもう忘れていました。

「近くでいいからお弁当持って出かけたいなあ」と言うと、「すぐそこの桜川の土手でいいじゃないか」と夫が言って、歩いて5分の桜川に行くことにしました。

なぜ外でお弁当が食べたいかというと、それにはわけがあるのです。
先月4歳のナルクンが、「今日、保育園でピクニックに行ったの。それでお弁当箱食べたの」と何度も言ったからです。
「お弁当箱じゃなくて、お弁当でしょ」と言っても、「お弁当箱食べたの」と言います。
「じゃあ、今度はお弁当を食べようね」と約束していたのです。

ちょうどお昼の12時ごろ、おにぎりを持って出かけました。大人5人、子ども3人で河川敷まで下りていきました。そこには誰もいませんでした。

娘の子どもマークンは、生後10か月になりました。丸々と太ってよく笑います。全く人見知りをしないので、みんなに可愛がられています。

お弁当箱じゃなくて、お弁当を食べてから、ヒックンとナルクンは、パパとビーチボールで遊び、マークンはシートの上で腹ばいになって遊びました。






緑が目に染みるほどきれいでした。


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