大事なのは、見てわかる「花時計」より、感じる「腹時計」ということです。「腹腹時計」になると、少々過激になります。
『数に強くなる』(畑村洋太郎著 岩波新書 2007年刊)
1年以上前に買ったまま、積読列島に埋もれていました。昨日は、久々の20kmランを敢行したので、体力的に疲れてしまって夕方からは軽っこい本を読みたくなり、新書一冊を一気に読破。自分でもまだまだエネルギーがあるなあと自画自賛します。
こんな絶滅種のようなブログを書いていますので、自分でも文科系と勘違いすることがありますが、私は列記とした理科系出身です。社会や政治的なことが好きなので文科系のように思われることもありますが、読む人が読めば、人間の感情次元の興味が少なく、きっと理科系と思うでしょう。
昨日は、年に何冊かしか読まない理科系的本を読みました。その感想は、こんな常識的なことを天下の岩波新書として出版するな!です。
著者の言いたい、「物事を全体として捉え、ザックリと認識するため、桁数で考える」は、昔から目分量とか目算と言って、極めて当たり前のことです。強いていえば、量の変化が、ある点を超えれば質の転化に繋がるとの認識は、著者は意識していないでしょうが、弁証法の臭いがします。
数は、強いとか弱いという次元でなく、慣れているかどうかです。私も、数字に弱いと思っていましたが、今の会社で金庫番のようなことを数年間経験しましたが、まさに慣れです。いつも数字とにらめっこしていれば、数字の意味や間違いに自然と気付くようになりました。
小学生の頃、「零の発見」という題名の岩波新書のことを担任の先生が紹介してくれました。すごく哲学的なないようだったことを覚えています。
『数に強くなる』(畑村洋太郎著 岩波新書 2007年刊)
1年以上前に買ったまま、積読列島に埋もれていました。昨日は、久々の20kmランを敢行したので、体力的に疲れてしまって夕方からは軽っこい本を読みたくなり、新書一冊を一気に読破。自分でもまだまだエネルギーがあるなあと自画自賛します。
こんな絶滅種のようなブログを書いていますので、自分でも文科系と勘違いすることがありますが、私は列記とした理科系出身です。社会や政治的なことが好きなので文科系のように思われることもありますが、読む人が読めば、人間の感情次元の興味が少なく、きっと理科系と思うでしょう。
昨日は、年に何冊かしか読まない理科系的本を読みました。その感想は、こんな常識的なことを天下の岩波新書として出版するな!です。
著者の言いたい、「物事を全体として捉え、ザックリと認識するため、桁数で考える」は、昔から目分量とか目算と言って、極めて当たり前のことです。強いていえば、量の変化が、ある点を超えれば質の転化に繋がるとの認識は、著者は意識していないでしょうが、弁証法の臭いがします。
数は、強いとか弱いという次元でなく、慣れているかどうかです。私も、数字に弱いと思っていましたが、今の会社で金庫番のようなことを数年間経験しましたが、まさに慣れです。いつも数字とにらめっこしていれば、数字の意味や間違いに自然と気付くようになりました。
小学生の頃、「零の発見」という題名の岩波新書のことを担任の先生が紹介してくれました。すごく哲学的なないようだったことを覚えています。
文系さんは資料読みに追われていたためか読書家は少なく、理工系さんに思想、哲学、文藝、古典籍などに精通している者が多かった印象があります。
晴走雨読氏が抜き出した畑村洋太郎のフレーズからは、理工系の専門馬鹿に思えます。
ゼロは、メソポタミア、古代エジプト、バビロニア、マヤ、中国などで、空位の記号として使われていましたが、ゼロの概念を確立(発見、発明?)したのはインド人と云われています。
空、無の観念から数値のゼロに概念を与えたと、想像することが可能です。
「空、無=ゼロ」ときたら、「無限」に飛翔せざるを得ません。
理工系の専門馬鹿には、想像できないだろうな。
確かに文系の友達は、暇なので酒やマージャンというのが多かったです。特に、ヒマ経と呼ばれていた経済学部。
私のように、辺境の地、北海道の端っこ、釧路からでてきた田舎者にとっては、東京など都会から来たスマートなのが、いきなり寺山修司を語ったり、カミュ、サルトル、中原中也、フォイエルバッハ、ルカーチと来られたら、ビックリしてしまったことを覚えています。
専門馬鹿を語るためには、現在の「教養課程」廃止の動きを批判する必要があります。