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青島陽子 「ロシア帝国の近代諸改革と西部境界地域」 2022年度北海道大学スラブ・ユーラシア研究センター公開講座『溶解する帝国―ロシア帝国崩壊を境界地域から考える』 第1回(2022.5.9)

2022-06-03 14:38:22 | Weblog

近道を行くより遠回りした方が色んなものが見えてくる。1ヶ月ブログを更新しなかった。ウクライナのことを考えていた。専門家の言説にようやく幅が出てきたが、やはりよくわからない。GW明けから100年ほど前のロシア帝国の崩壊をテーマにした講演(7回)を聞いた。あの地域の深層部にある複雑さを少し理解できた。

 

青島陽子 「ロシア帝国の近代諸改革と西部境界地域」 2022年度北海道大学スラブ・ユーラシア研究センター公開講座『溶解する帝国―ロシア帝国崩壊を境界地域から考える』 第1回(2022.5.9)

【講座全体のねらい】これまでの欧米の歴史学では、ロシア帝国に居住していた多様な民族が専制のもとで抑圧されていて、その圧政に対する抵抗として諸民族のナショナリズムが発展したのだと捉えてきた。だが近年の研究は、帝国ロシアによる多民族社会の統治は比較的柔軟で合理的であった。ロシア帝国の統治システムが周辺の境界地域へ広がり、諸民族との接点が拡大する中で、諸民族との関係において、また諸民族相互間の関係が深まった。では、この深化がどう体制を「溶解」させていったのか。全7回で、西部境界地域、極東、ヴォルガ・ウラル、コーカサス、中央アジア、ユダヤ人、ウクライナに焦点を当てた講演であった。

(僕の感想)一筋縄で理解できない複雑さに満ちた地域である。日常言語、教育使用言語、信仰が多様で、例えば、ロシア人は何を以てロシア人なのか、明確な基準がない。また、ロシア帝国の統治形態も、地域が持っている歴史的な経緯や地理的な性格が異なることから大きく異なり、また時期によって方針が大きくぶれることから国家としての統一的な輪郭がつかめない。大雑把にくくってしまうとロシア及びその境界地域というものは複雑怪奇である。

【第1回】講義ノオト

○ロシア帝国の概要

・1721年の対スウェーデン戦勝でピョートルが初代「皇帝」に就いた。

・19世紀後半、人口1億2600万人、民族的構成を使用言語で分類すると(使用言語で区分するしか方法がない)、大ロシア語(5,600万人、44.3%)、マラロシア語(2,200万人、17.8%、ウクライナ)、白ロシア語(590万人、4.68%、ベラルーシ)以上で全体の2/3を占める。その他ポーランド語(790万人)、ユダヤ(506万人)、ラトヴィア語(144万人)、リトアニア語(121万人)、エストニア語(100万人、西部のみ)・・となり多様性に富む。

・1906年まで議会や憲法からの制限がない皇帝の無制限専制体制であり、その統治の正統性はロマノフ家という外来性(ドイツに求める)に基づいていた。

○ロシア帝国の諸地域

・地域によって統治方式が異なった。大きく分けると、西部境界地域は、ヨーロッパと接しており高い文化度の諸民族が居住していると認識している。東部境界地域の統治は、植民地的性格を持ち、未開を「文明化」しなければならないと捉えていた。

○ロシア帝国の近代化の試みと「専制」

・19世紀半ば、皇帝の専制による「上から」の「大改革」(市民的な統合)を試みた。1864年には地方自治組織(ゼムストヴォ)や住民参加を原則とした司法制度を導入した。

・19世紀最後の四半世紀、政治的引き締め「反改革」に転じた。ゼムストヴォ制度は貴族化し、司法制度では治安判事が廃止された。沿バルト地域などにはロシア語教育の実施を要求した。一方、鉄道、鉄鋼、石炭、石油など工業化が推進され経済的な向上が図られた。

・19世紀末、都市化が進展し大衆(労働者)が登場した。そのため都市化を軽減するための移住政策や労働者対策としての社会政策がすすめられ、「ロシア性」が称揚された。

○20世紀初頭の激変

・日露戦争と1905革命の時期、ゼムストヴォ運動、社会主義運動、学生運動、民族運動が激化し、都市と農村が混乱した。

・1904年12月勅令、1904年末には国家評議会にゼムストヴォ代表を入れた。1905年2月には選出性の立法機関の創設を約束した。また10月17日マニフェストで、人権の不可侵、信仰・言論・集会・結社の自由を宣言し、国家ドゥーマ(代表制)の開設へ向かった。これにより多様な集団が当局の承認を得たと捉えその活動を強化した。また政党は選挙戦の準備へ向かった。

○宗教と言語の寛容(1904年12月勅令)

・宗教的な寛容の方針が示されたことから、リトアニア、西ベラルーシ、ポーランドなどの西部境界地域で、ユニエイトから1905年から06年にかけて21万人がカトリックへ改宗した。

・初等教育と私学では母語教育が許可された。これにより民族的意識が涵養され領域意識が芽生えた。

・個人や社会集団の選択の幅が広がり、それが国家内の権利と結びつき新しい集団の在り方が模索された。

○多民族で国会をつくる

・第一、第二国会では、50%以上が農民・雑階級人、40%以上が非ロシア人であり、多様な民族が集結した。ここでは、民族の同権、自治権、言語・教育・信仰、ユダヤ人差別立法の廃止など民族問題が多く提起された。

だが、

・第三国会、1907年6月3日の「クーデター」選挙法の改正により、「ロシア国家の強化」「精神においてロシア的であるべき」とされ、民族議員は議席数を減らし、大地主は指導的役割を持たされ、ロシア系住民の代表権が強化された。また、ウクライナ・ベラルーシの議員は地域選挙キャンペーンの結果、右傾化した。

○ロシア民族主義、諸民族の民族主義、帝国の政策

・諸民族の区分とその活動を促進することにより、住民を帝国の制度に取り込みながら帝国の近代化が進められ、同時に諸民族のナショナリズムも伸長した。

・しかし、そのバックラッシュとしてロシア民族主義も伸長し、第四国会(1912年11月15日から1917年2月25日)では、議長による「帝国の統一性と不可分性、そこにロシア民族性と正教信仰の優位性」が宣言された。

・10月17日同盟、全ロシア・ナショナリスト同盟などの右派政党が躍進した。

・南西部諸県において、ロシア民族主義、反ユダヤ・反ポーランド主義、反地主、ウクライナ民族主義が複雑化した。

・ロシア民族主義への傾倒や抑制、暴力・無秩序を懸念、地域の協力、民族集団への配慮など、ロシア帝国の官僚は統治の舵取りの困難を極めた。

 

 

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