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「『資本論』の中におけるマルクスの心情」 その11

2014-10-30 20:20:47 | Weblog

 昨年は、改修工事で見ることができなかった平等院鳳凰堂です。11世紀、藤原道長の別荘をその子頼通が寺院に改め創建しました。権力の栄華を象徴的に見ることができます。「こりゃすげーや!」「とてもかなわないな」と思わせるための建物だと思います。この国の現代建築物でこれだけの権力を象徴するようなものはあるでしょうか。アベノハルカス?、スカイツリー?・・「どれも、ちゃっちいな」

 

 「『資本論』の中におけるマルクスの心情」 その11

 引き続き、第二三章「資本制的蓄積の一般法則」において、マルクスは資本の増加(蓄積)が労働者階級に及ぼす影響について分析する。

 (P403)冷血なブルジョア理論家トラシーの言葉を引用する。「貧しい国とは、民衆が安楽に暮らしている国のことであり、豊かな国とは民衆が一般に貧しい国のことである。」マルクスは、逆説的な表現を使いながら、労働者階級は、働けば働くほど、他人(資本家)の富および社会の富は増大するが、彼ら自身は没落すると述べる。

 また、イギリスの工業労働者階級の低賃金層の情況を、(P423)「労働者は妻、子供、家財道具と一緒に路上に投げ出されー市当局が品格を保とうとしている地区に大挙して押し寄せれば、衛生警察によって追い立てられる!」と述べる。

 イギリスの農業プロレタリアートの情況を記す場面では、その比較として日本が持ち出され、(P467)「日本でも、生存の条件であるこの(汚物)循環は、もっと清潔におこなわれている。」と述べる。『資本論』の中で、日本という言葉が使われるのはここだけではないかと思うが、さらに、マルクスが日本の情況についてどこまでわかっていたのかは不明である。

 第二四章「いわゆる原初的資本蓄積」では、資本蓄積の出発点を歴史的に分析する。

 古い封建制度時代の生活保障を奪われてしまった労働者、自身の労働力の売る以外生きることができなくなった労働者について、(P504)「この収奪の歴史は人類の年代記に、血と炎の歴史として書き込まれている。」と述べる。

 (P557)「暴力は、古い社会が新しい社会を孕んでいるときにはいつの場合にもその産婆役である。暴力自身が潜在的な経済的パワーなのである。」ここで言う暴力は、資本の持つ暴力的なパワーという意味であり、資本主義が生まれるに当たって、強引な収奪があったことを述べている。

 そして、有名なフレーズである、(P570)「資本は頭の先から足の先までありとあらゆる毛穴から、血と脂を滴らしながら生まれてきたのである。」とマルクスは結ぶ。

 第二四章「いわゆる原初的資本蓄積」第七節「資本蓄積の歴史的傾向」については、マルクスが資本主義社会に代わる社会のイメージを述べている大いに示唆に富む部分なので、稿を改めたい。

 

 

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